拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

生死事大

2020年12月06日 | 観自在

  若き日は 明日を夢見る 案山子(かかし)かな その先にある 死は忘れても・・・ 一撮

  30歳の時、坐禅を始め…やがて道場を運営する役を与えられ、開板という木版を朝晩叩いたものだ・・・

  その木版(30x50cm)には『生死事大・無常迅速・光陰可惜・時不待人』と書かれていて、その真ん中あたりを

  木槌で決まったリズムを叩いて早朝と夕方、修行の開始と終了を知らせる合図とする。

  円覚寺の森に木版を叩く音が木霊する・・・その音を私は30年後の『今』味わっているが、その時はリズムを間違わないように

  集中していたから、それどころではなかった。そこで修行を積み重ねていたのに『生死事大』は眼に入らない、案山子であった。

  禅道場入口には『脚下照顧』の木札があって、一般的には『履物を揃えて!』などという解説がなされているが、

  もっと深読みされる言葉であったこともその時はまったく気づかなかった。

  つまりところは『生死事大』に至る・・・それが修行の要点であったのだ。

  これにできるだけ早い時期に気づく人生、それはやっぱり大切なことではないだろうか。

  自分に対して、他人に対して 思いやりのある生き方の如何(いかん)は、詰まるところこの『生死事大』にある。

 

        


 『空』即是『色』

2020年12月06日 | 観自在

  『・・・情報理論の教授が2枚の大きな絵を見せた。一枚は精密に描かれた中世の城とそれを取り巻く自然の様子

  一枚は広々とした空の写真だった。教授はこの2枚の絵に含まれる情報量はどちらが多いかとたずねた。

  正解は後者で、前者の10倍か20倍の情報量があるのだという』・・・これはある小説の一節である。

  この話を読んだ時、私は仏教の『空』について 解釈の Vision が広がる思いがした。

  普通、空の写真と、風景の精密画があれば当然『情報量』は精密画のほうが断然情報量が多いと思うであろう。

  この小説では、正解である『空の写真』には情報量を圧縮することで、複雑な現実を単純なものに見せかけ、

  一見なにもないように見せているのだ・・・と説明していた。

  教授の最初の設問というのは、日本人にとっては真新しいものではない、ことに気づく。

  何故なら、日本文化そのものが真実を表現するために、ドンドン圧縮作業をしてきらからである。

  日本文化のすべてがそうしてきた処を意識して来たところに、日本文化の日本文化たる所以があるようだ。

  その典型的なものが『俳句』に違いない。そしてその原理の中心には釈迦の『非言語コミュニケーション』の『拈華微笑』

  があって、一言も交わさず『微笑み』だけで足りた・・・。

  『 やがて死ぬ けしきも見えず 蝉の声 』芭蕉  この17文字で『死生観』の深遠な所を詠っていてる。

         

  仏教の『空』を情報量で考える視点をこれまで、持たなかったが、『AIの時代』ともなれば、そういう視点も必要か。

  しかし、それ故の『観自在菩薩』の出現であるわけだし、そうなれば『色即是空、空即是色』で情報量は無限でもあり、単純でもある。