拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

写楽斎の独り言-2

2011年06月16日 | 色読是空
 昨日のブロクは力作ではないにしても、眠たいのを我慢して書き上げた "洒落クサイ”文だったのに
 写真を入れたくなって、手を加えているうちに 何故か文章・・・それも肝心な部分が消滅して
 しまい、どうにも悔しいやら、眠たいやら。 あきらめて寝てしまったが、今日また電脳機の
 前に座るとその悔しさがよみがえってきた。

 それにしても 面白いのは 一度書いた文章が消えた場合、二度と同じ文章を書くことが出来ない。
 (ボクの場合だけれど)
 同じことを書こうとする努力が苦痛・・で、さっきとは違うコンテクスト、文脈というより、文流
 というものが明らかに違う気がする。
 ついさっき書いたことなのに、同じように書けない・・・事は、不思議なことだと思う。我々の
 脳はどうなっているのだろうか。

 「脳」で思い出したが、先日「それでも脳はたくらむ」茂木健一郎著 を読み終えた。

 P-21( 脳に蓄積された記憶は長い年月をかけて徐々に編集され、その中で次第に「意味」がたちあがっていく。
     最初から「意味」を与えたり、押し付けたりするのでなく、様々なノイズに満ちた生の体験から、自ずから
     「意味」を見出す編集作業こそが、私たちの脳をほんとうの意味で鍛える。)

     これは確かにそうだ、五十も最後の数になるほど年をとると、それがよくわかってくる。
  例えば、昔撮った写真 ボクが30代の時にニューヨークに行ったときの写真の写脈が今頃になって読めてきた
  ということがあった。2,3年前にまとめた「Good-bye New York 1985」という写真は長い間、どうまとめて
  いいのがぜんぜんわからずに、20年以上放っておいた写真群であったが、これには何かがあると今頃感じ始め
  、その写脈が見えてきた・・・というのも、脳によって徐々に編集され、意味が立ち上がってきたわけだ。
  それにしても ボクの場合は 時間が掛り過ぎるきらいがあるが。