拈華微笑 ネンゲ・ミショウ

我が琴線に触れる 森羅万象を
写・文で日記す。

ボクは撮心家 - 必撮無眼流 

2011年06月25日 | 必撮無眼流
 これまでの五十数年の人生で、途中長いブランクがあったものの、最も長く継続してきた活動は
 ボクにとってそれは写真と言えそうだ。 
 それも、それで喰っていけそうもないと、はなっから勝手に
 自分で決めつけていたので 写真を撮ることを中心にして 仕事も恋愛も旅も して来たような人生
 だったような気がしている。

 それはともかく、これだけ撮道に 打ち込んできたのに 考えてみると一つの技もあみだしていない
 ことに、ハタと気がついた。 垂れ流し状に「撮り流し」に終始して後進の育成などというものを
 全く考えたことなど無く、よく言えば「無心」、分かりやすく言えば「利己」なだけといえる。

 それに 誰かも言っていたが 写真は教えられるものでは無い・・・と。 
 確かに 写真なんか キョウビ誰でも「撮れる」。 カメラさえ持っていれば。
 
 と、ここまで書いてきて ふト、筆一本で引く 一線に 引く人がひくと 他の誰とも違う一線
 がひかれるのは どうしてか・・という問題にいたる。

 それはやはり一線を引く人の 「心の持ち様」が 筆使いに「技」となって表れる結果なのだろう。

 すぐれた写真家というものも そういうものだとしたら 一番大切な要素は 「心」ということになる。
 だとしたら、お釈迦様じゃないのだから 教えられるわけ無いじゃん。・・と云う結果になった。

 その結果を踏まえた上で、 ボクは一枚の自分の写真を見て 知らずに技を編み出していたのに気づき
 それを命名することにした。 名づけて「必撮無眼流」・・・。

 この写真は 「花猫風月」に打ち込んで ある猫を追っていた時、高さおよそ180cmの塀にいた猫が
 非情にも塀の向こう側に飛び降りてしまい 「こんニャンやろー!」と、無意識かつ必死にカメラを持つ
 手首だけを塀の向こうに突き出して 撮った一枚で 心眼だけで撮った ものである。 
 
 それでなくても 50を過ぎてから デジタルになってから 遠視、中間視、近視などがいりくみ
 自分が何をどのように撮っているか・・・ナドという確認は 二の次、三の次の気合で撮るのみの
 「写す」というより気合で 「撮る」という ボクは 必撮の「撮心家」-サッシン・カ-なのである。