本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『野良に叫ぶ』出版前後の渋谷定輔

2016-10-04 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 さて、『野良に叫ぶ』を出版した渋谷定輔はその前後どうしていたのだろうか。松永伍一は次のように紹介している。
 そのころかれは「家族制度を呪詛し、長男という囚人にひとしい束縛を呪いながら、百姓をやらねばならず、そこで村の小作人を扇動し、県下屈指の有名な三年間無耕作の大小作争議を巻き起こした。その間、私は日本農民組合に加盟したけれど、インテリゲンチュアの中央委員の衒学的優越感に憤激し、しばらくして脱退、第二農民同盟を組織した。ところが私が未成年ということで解散を命ぜられた。大正十四年十二月中西伊之助、下中弥三郎、石川三四郎らと自由連合的組合主義の旗の下に農民自治会を組織す。
<『野良に叫ぶ 渋谷定輔詩集』(渋谷定輔著、勁草社)210pより>
『野良に叫ぶ』出版以前
 この紹介について以下に少しずつ補足してみたい。
 まずは、「家族制度を呪詛し、長男という囚人にひとしい束縛を呪いながら、百姓をやらねばならず」についてだが、これは渋谷定輔が17歳の9月に家出したことに関わることなのだそうだ。『農民哀史』所収の「渋谷定輔年譜」によれば、渋谷は家出をしてみたものの、浅草公園前で発見されて捕まり、廃嫡してからならまた上京してもいいと言われて一端帰宅した。ところが母に泣きつかれてとうとう再度の上京を諦めた際の嘆きと決意が
 「極度に家族制度を呪詛し、長男という、囚人にひとしい束縛を呪いながらも、金もうけの考えを抛って、又百姓をやりながら学問しようと思った
ということになるようだ。
 次に「小作人を扇動し、県下屈指の有名な三年間無耕作の大小作争議を巻き起こした」についてだが、これに従えば、渋谷は未成年にも関わらず何とこの小作争議を巻き起こしていたことになる。調べてみると、この小作争議はいわゆる「南畑小作争議」と言われているようで『農民哀史』所収の「渋谷定輔年譜」によれば
 大正11年(渋谷定輔17歳)
12月 不作のため自村の小作人の不平が高まる。学問できないのも小作料が高いためであると考え、小作人同志語らって、小作料軽減運動を起こす。小作人組合に加盟する小作人、三〇〇余人、地主(三町歩~四町歩、一六人、四三町歩一人)(ママ)一反一石一斗から二斗引かせようとする要求を地主側が拒否したため、争議に発展。
 大正12年(〃18歳)
1月 前年来の争議激化。
3月 従来親しんできた短歌の形式にあきたらなくなり、日記に鬱憤を記し始める。それが、のちに世に出る、詩集『野良に叫ぶ』である。
4月 村内地主との交渉は解決したが、不在大地主西川武十郎の四十余町歩は解決せず、荒蕪に帰する。
 大正13年(〃19歳)
2月 改めて小作人組合主催として、日農関東同盟から三宅正一、浅沼稲次郎、平野学、河野密らを興禅寺に招き、演説会を開催。きびしい干渉を受けつつも聴衆五百余人に達し成功、不在地主の「西武」に大きな驚異を与える。
4月 争議。小作料永久二割引き要求と、荒蕪田開拓料反金五円~七円を地主から支給させることで勝利解決。
<『農民哀史』(渋谷定輔著、勁草書房)より>
ということである。<*1>
 同じく前掲年譜によれば、気になるところを抜き出すと
 大正13年
2月 日農組合青年部組織準備会に加盟。
5月 日本農民運動を不満とし、第二農民同盟を組織し、農民青年運動に着手。
10月 まだ未成年のゆえを以て第二農民同盟解散を命ぜられる。
 大正14年(〃20歳)
9月 室伏高信『文明の没落』を読む。吉江喬松『農人と文芸』を読む。
11月 入営が本ぎまりとなる。白鳥省吾『詩に徹する道』を読む。
12月 室伏高信から『日本論』を送られる。
 大正15年(〃21歳)
1月 「南畑農民自治会」成立。上京、農民自治会の委員会に出席。入営。「即日帰郷」の命令に驚く。
5月 上京。農民自治委員会出席。中西とともに第一部(連絡・宣伝・組織)の常務責任者となる。室伏高信・奥むめお・田島ひでの諸氏を訪問。
7月 渋谷定輔『野良に叫ぶ』刊。
<『農民哀史』(渋谷定輔著、勁草書房)より>
というもの等があり、渋谷も室伏の本を読んでおり、さらには室伏から本を送られたり、何と直接会ったりしていたのだった。やはり室伏は当時一世を風靡していたということがこのことからも窺えそうだ。そしてこの7月1日に渋谷の処女詩集『野良に叫ぶ』が発刊された。

『野良に叫ぶ』出版以降
 大正15年7月1日に発刊された『野良に叫ぶ』は評判を呼び、7月の下旬に入ると「各方面から『野良に叫ぶ』の礼状や感想が舞い込」んだという。一方で渋谷はこの頃、「農民自治会」運動にも懸命になっていたという(『農民哀史』(渋谷定輔著、勁草書房)所収の年譜より)。
 そこで次に、「農民自治会」等を通して『野良に叫ぶ』が出版されて以降の渋谷と犬田卯について少し調べてみたい。この「農民自治会」について渋谷定輔は『大地に刻む』において次のように述べている。
 農民自治会は大正十四(一九二五)年十、十一月にわたり、発起人下中弥三郎、石川三四郎、中西伊之助、渋谷定輔らによって、創立趣意書、標語、綱領、規約の草案が作成された。…(略)…大正十四年十二月一日午後六時、東京神田錦町三の三、平凡社に前記四名のほか、竹内愛国(国衛)、大西伍一、川合仁、高橋友次郎らが参集、創立委員会を開催。…(略)…形式的な創立大会は行わず、向こう一年後に全国会議を開くこととし、直ちに、宣伝組織活動が開始された。
この発起人の最初にその名がある下中弥三郎とは、例の『大百科事典』を出版した平凡社の創設者であるが、この「農民自治会」はその下中や渋谷等が立ち上げた組織であるという。ちなみにこの「農民自治会」の〔標語〕は
一、農民自治の精神に基づき、農民生活の向上を期す。
一、協同扶助の精神を以て、友愛の実を挙げんことを期す。
一、都会文化を否定し、農村文化を高調す。
というものだ、とある。この〔標語〕を知ってみると、犬田卯などは諸手をあげて賛同しそうだし、実際後に加わっていることがわかる。それは、昭和2年3月下旬に開かれた「農民自治会」の「第一回全国委員会」のメンバーの中に
 〔全国連合委員〕(東京)下中弥三郎…犬田卯…
というように委員の一人として犬田卯の名が見えるからである。
 ところがこの「農民自治会」は
 第一回全国委員会後、組織は急速に拡大し北海道より沖縄に至る三十数府県に単位自治会の創立されたもの六三、準備中のもの百余ヶ所。…(略)…とくに昭和三(一九二八)年非政党同盟の実践活動を通じ、従来の農民自治運動の自己批判が行われた。その結果、農民自治会のもつ、自主・自治・自律という農民自身の主体性を基礎に、全農民組織の統一戦線を実現すべきであるという強い主張となった。…(略)…他方、農民自治会を思想グループとして組織したところは、講演会や研究会が行われたが、農民大衆の現実の経済的政治的要求とは遊離し、もっぱら農自思想文化の啓蒙的少数グループに終始していた。したがってこの二つの傾向は必然的に、農民自治会として、その運動方針の上に明確な対立を生じた。
 この状況の中で、全国連合の在京委員の一部の重農主義思想グループは、農民文芸会の機関誌『農民』と『農民自治』との合併を行い『農民自治』は昭和三(一九二八)年八月五日号の第十八号を以て終刊となった。
<いずれも『大地に刻む 渋谷定輔評論集』(渋谷定輔著、新人物往来社)より>
ということだから、渋谷と犬田卯はある期間一緒に活動したものの、次第に渋谷の方は統一運動の推進に専心するようになり、犬田卯の方は少数グループに属しながら農民の啓蒙に努めていたということになるようだ。なお、『農民自治』とは「農民自治会」の機関誌のことである。
 やがてこの対立は抜き差しならなくなって昭和3年に「農民自治会」は分裂、安藤義道氏によれば、
 革新派の中西伊之助、渋谷定輔、延原政行、竹内愛国等は経済闘争としての農民運動に入って行くし、犬田卯、鑓田研一ら保守派は農民自治会を解消して新たに「全国農民芸術連盟」を組織して思想文学運動を継続して行くことになる。
『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)41pより
ということである。
 そして、経済闘争としての農民運動(小作料軽減運動等)に没頭していった渋谷定輔は「昭和三年ころから約十五年間に治安維持法や出版法違反やその他で十数回投獄され、国家権力に抵抗する姿勢を崩すことなく戦後ふたたび詩筆をとりもどした」(「農民詩史における『野良に叫ぶ』の位置」(『野良に叫ぶ 渋谷定輔詩集』、勁草書房)より)」、と松永伍一は語っている。

<*1:註> これでは少しわかりにくいのでさらに補足してみる。
 『大地に刻む』(渋谷定輔著、勁草書房)の「南畑小作争議の私の経験」の中でこの小作争議に関して詳述しているので見てみると、その疑問が解けそうだ。以下のようなことなどがそこには書かれていたからだ。
 再度の上京(家出)を諦めた定輔は友達に、『どうも今のままでは百姓に希望が持てない。何をしても駄目だから、一番早いのは、この高い小作料を少なくすることしかないのじゃないか』と話したところ、賛成だという。そしてその話を身近な人々に話したところそれがどんどん拡がって大きな声になったいった。
 そもそも当時「南畑」村は「東大久保」「上南畑」「南畑新田」「下南畑」からなっていて、最初この小作争議は「東大久保」から起こったという。そしてこの動きはその後上南畑へ伝播してゆき、大正11年12月に東大久保と上南畑の両地区では、村内地主との交渉の末、一反当たり一石一斗という小作料の中から五升ないし一斗を引くという条件で話がついた。その後「南畑新田」「下南畑」も立ち上がり、南畑全村に拡がった。明けて大正12年4月、南畑村内地主は小作人の要求を条件付きで容れ、小作料を一斗七升五合引きで合意した。
 問題はその〝条件付き〟である〟。それは、南畑村に四十余町もの小作地を有する不在大地主西川武十郎もこの小作料引き下げに同意すること、という〝条件付き〟であった。ところがこの不在大地主はびた一文も軽減しないと突っぱねたので、土地返還運動が起こった。つまり、この不在地主の四十余町歩の土地を全部返還して作付けを止めてしまったのでそれらは不耕作となり、〝荒蕪に帰する〟ことになった。
 そしてこの返還は翌年大正13年度も継続することが決定されたので、急遽この大地主「西武」も態度を軟化させ、「小作料永久二割引き要求と、荒蕪田開拓料反金五円~七円を地主から支給させることで」決着した。


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《鈴木 守著作案内》
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 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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