本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「農民詩人」猪狩満直と三野混沌

2016-10-08 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 先に、「二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがある」という部分に関しては同紙に載っておらず、この証言が何を出典として書かれているのかは現時点では確認できずにいるがと述べた。その後、手を尽くしてそれを探しているものの未だ見つかっていない。そこで取り敢えず、この二人の「農民詩人」のことをここでは少しだけ探ってみたい。
 この二人の「農民詩人」とは、一人は北海道の百姓詩人猪狩満直(みつなお)で、もう一人は福島の百姓詩人三野混沌(みのこんとん)だというから、まずは『土とふるさとの文学全集 14』を見てみた。すると同書には猪狩満直の幾篇かの詩、例えば次のような詩が載っていた。
  告白
僕はいま北海道にいるのだ
北海道の曠野の中の
二間に三間のちっちゃな小屋の中の
荒莚の上に、ねたりおきたり
――どうして君は北海道へ行ったか?
なぜ百姓などやっているのか?
そんなら僕は君達に告白しよう
僕を殺そうとした人間を、人間を殺せなかったからさ
結局は嘘をつくことの出來ない人間だからさ
<『土とふるさとの文学全集 14』(家の光協会)163p>
 それにしても、「僕を殺そうとした人間を、人間を殺せなかったからさ」と物騒なことを告白する猪狩に一体何があったというのだろうか。なお、猪狩はもともとは福島県生まれの人であり、大正14年に開拓農民として北海道に渡ったのだそうだ。この詩はその時に詠んだ一篇であろう。

 一方の三野混沌の詩についても同書には幾篇かが載っていたが、昭和3年3月28日付『岩手日報』の記事(森の「詩誌及詩集」)の中にもあったのでそちらの記事をここに転載させてもらう。
 (『銅鑼』は)草野が自動車の運転手になつたり、みんなからわづかの金を集めたりして出してゐる最も旗色なプロレタリア詩誌である。三野の百姓同志といふ詩である。
なんにも考へていられねえ
どうだ
この惨苦
この飢餓
青ざめやせほそつた
病のそして働かねくてはならねえ
大人――おれだちも片つぱしらばたばた倒れた
しかし無言にだ
やつとのこと
手でものきかす
おれだち
おれだち百姓同志
余りに疲れて物言へやうがない
 …(投稿者略)…
おれだち同志はいつでもここで結ばつてゐた
おれだちはいまぶかつこうだ
だがおれだちのつくつたものはみんなうつくしい
おれだちのつくつたものはみんな働く

 …(投稿者略)…この悲痛な、だが力強さをみよ。本当の意味の農民詩人が生まれたのだ。口に農民を穪へ、農民詩人を氣取り、民謡や雑誌ばかり作つてゐる奴等は死んでしまへ。事情は民謡どころでないせまつてゐるのだ。
<昭和3年3月28日付『岩手日報』より>
 この森の記事で少しだけだが三野混沌のイメージもできた。そして、この三野もまた福島県人であり、小説家吉野せいは混沌の妻なのだそうだ。

 というわけで、この記事からは当時の「農民詩人」に対する森の認識もある程度知ることができた。この三野混沌のような詩人こそが「農民詩人」であると森は言い切っているからである。そして返す刀で、『口に農民を穪へ、農民詩人を氣取り、民謡や雑誌ばかり作つてゐる奴等は死んでしまへ。事情は民謡どころでないせまつてゐるのだ』と、あろうことか「死んでしまへ」とまで言って手きびしく批判しているからである。
 かてて加えて、この非難対象とはこの記事内容から判断してほぼ「農民文芸会」でありその会員達であろうということが直感できる。それも、それは犬田卯ではなくて白鳥省吾や佐伯郁郎のことをであろう。なぜなら、ここで森が言っている「本当の農民詩人」とはまさしく犬田卯が称えたところの『土の芸術』の考え方に沿ったような詩を詠む詩人のことを彷彿とさせるし、一方の白鳥省吾や佐伯郁郎が行っていた「農民文芸運動」にはたしかに森が非難しているようなところがあったからである。おそらく、森のこの非難はその二人、特に佐伯に対するに対する当て擦りだった可能性が高い。というのは、森は「農民詩人を氣取り、民謡」と前置きし「「死んでしまへ」とまでののしっているのだが、まさに佐伯は『家の光(昭和三年四月号)』所収の「農民詩講話」で「農民詩」を論じているような人物であり、はたまた「民謡」については『農民文芸十六講』の第十五講で論じていたからである。
 だから、森が「口に筆に農民詩人を自称しながら、文學青年をあつめて東京にゐて、雑誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ」と非難していたのは、ほぼ白鳥省吾等「農民文芸会」、とりわけ佐伯に対するものという蓋然性が高いことが判ったか。よほど森は腹に据えかねていたのであろうと私には思えてしようがない。したがって、もし私の直感が当たっていれば、例の大正15年7月25日の〝面会謝絶事件〟の際に、森が賢治に対して白鳥省吾等には会う必要がないと言った(『私の賢治散歩』(菊池忠二著)114pより)のも宜なるかなと思うってしまうし、実はこれまではそれは主に犬田に対してであったとばかり思ってきたが、この森のののしり方を知って、どうやら佐伯に対してもであったということを否定できなくなってしまた。

 一方で、森は『銅鑼』のことを最も旗色なプロレタリア詩誌であると称えていたことも先の記事で判った。まさか森荘已池が〝プロレタリア〟という言葉を称賛のために公の記事の中で使うなどということを私は予想だにしていなかったのでちょっと驚きだった。
 ところが、森の「友へ送る―彼の詩集に就いて」の記事が掲載されていた頃といえば、その『岩手日報』のなんと一面に改造社の例の『資本論』全五冊の宣伝がでかでかとまだ載っている時代でもあった。

<昭和2年10月18日付『岩手日報』一面>

 また、例の共人会事件の際に、森荘已池は当初この事件の首領と目されていたのであると森自身が語っていることを後に私は知ったし、そもそもそれ以前に、冷静に考えてみれば森は アナーキズム系の詩誌『銅鑼』の同人だから、実はそれ程不思議なことでもなかった。

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