本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『賢治昭和二年の上京』(68p~71p)

2016-01-11 08:00:00 | 『昭和二年の上京』
                   《賢治年譜のある大きな瑕疵》








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*****************************なお、以下は本日投稿分のテキスト形式版である。****************************
いろ複雑な事情がありそうだということも、である。
 まさしく「よく直接賢治を知る者が、賢治を美化するといわれるが、そうではなくて、実際に賢治がすばらしかったんです」と賢治を激賞している藤原嘉藤治とすれば、彼は文圃堂版や十字屋書店版『宮澤賢治全集』の編纂等にも携わっている訳だからいろいろなことを知っているが故に、「多くの人が語っている以上に複雑な事実がある」 と取材した読売新聞社の記者に話したということかもしれない。
 一方で、この『いわて人国記91』には次のようなこと
 藤原はいま「宮沢賢治との出会い」と題した回想記を執筆を準備している。改めて事実関係を調査しなおし「賢治と同時代に生きたわたしの責任において」また「遺書」のつもりで、すべてを書き残しておきたいのだという。
<昭和50年9月30日付『岩手日報』より>
も載っていたが、残念なことにこの回想記「宮沢賢治との出会い」が世に出ることはなかったようだ。もしかすると、藤原嘉藤治の没後、奥さんがその遺品を整理する際に焼却してしまったあの中にそれはあったのだろうか。
 いずれ、現在行方不明中と思われる藤原嘉藤治の何冊かの日記や同じく藤治著の『我が年譜』が見つかれば、もう少し「複雑な事実」が明らかになるかもしれないが、現時点で言えることは藤原の結婚に関する「事実」は巷間伝わっているものとは大部異なっている可能性があるということだろう。
2 楽器演奏技能の真実
 少し前から私は、宮澤賢治のオルガンやチェロの演奏技能の本当の実力を知りたいものだと切実に思うようになっていた。かつての私は賢治は相当の実力があったであろうとばかり思っていたのだが、どうやらそういう訳でもなさそうだということに気づき始めていたからだ。
 チェロの腕前に関する証言
 そんな折、『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)を読んでいたならば、著者の横田氏は次のようなことなどをそこに著していた。
(1) そこで、賢治のチェロの腕前が気になっていた板谷さんは話をそちらへ差し向けた。
 校長先生だった沢里は口ひげを生やし、背筋をピンとのばして、「それは、なかなかなものでしたよ」。確かに賢治が何曲か弾いたという話もある。二人は酒杯を重ねていった。賢治はビブラートについてはどうでしたか、と板谷さんが問いかけたのに対しては、「いや、それはちょっと無理だったようです」ということだった。さらに話が進み、沢里はひそめて打ち明けた。「実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…」
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)112pより>
そして
(2) 沢里は賢治を尊敬するあまり、先生を語る資格は自分にはないと思い詰めていた。あれほど目をかけてくれた賢治に都合の悪いことはいわない方がいい、と思っていたのかもしれない。しかし、沢里はその晩年に賢治の弟清六さんの許しを得てから、ありのままの賢治を話すことにしたという心境の変化があった。いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
 親友の藤原嘉藤治にいわせると、賢治はチェロのほかにオルガンもやっていたのだが、「しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりもまだ初歩の段階という感じでした」(『宮沢賢治』第五号の思い出対談、一九八五年)ということになる。
<前掲書116pより>
あるいはまた、
(3) 立教女学院短期大学教授の佐藤泰平さんは、賢治が仲人をした嘉藤治夫人キコさんから、生前こんな話を聞いた。「二人で一緒にチェロを弾いたこともあったですよ。二人共、下手だったね。べーべー、ブーブーって、馬の屁みたいな音だして。あのセロの音は好きでなかったね。私はヴァイオリンの音の方が好きだったから」(『宮沢賢治ハンドブック』)。
<前掲書120pより>
と。そして、同書ではこれに引き続いて阿部孝の語るところの「ぎいん、ぎいん」のエピソード(後述する)を紹介している。
 事実として受け止めれば
 ここまで同書を読み進めて、私は納得せねばならぬのだと覚悟した。今までは、賢治はチェロも、ましてオルガンは相当の腕前であったのであろうとばかり思っていたのだが、実はそうではなかったのだという証言がこれだけあることを知って正直落胆した。しかし、これだけの同じ様な評価をしている証言があるのならば、このような証言の方がその真相であり、それに目を背けてはいけないのだと覚悟した。この著者横田氏自身もチェロの独習経験があるということだからなおさらに。
 そしてもちろん、いみじくも横田氏が続けて同書で語っているように
 いたずらに美化し、祭り上げていくほうが、よほど問題だ。そういう賢治は敬遠されるようになるだけだし、裸の賢治は十分過ぎるほど人を魅きつけてやまない。
<『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社)116pより>
のだから、むやみにやたらに落胆してばかりいる必要もなかろうとも私は思った。
 実際、『宮沢賢治の音楽』や『セロを弾く賢治と嘉藤治』を著している佐藤泰平氏も次のように語っているからである。
■賢治の音楽的能力はどの程度だったのでしょう。
 技術的な面では、歌は得意でも、オルガンやチェロで曲を弾くのは苦手だったと思います。しかし、楽譜通り引くことよりも、音で想像したり、思索したりするほうを大事にしていたようです。音楽の鑑賞力、洞察力といった感覚は抜群で、自作の劇の演出(音楽の指導も含めて)もするなど、総合的な意味での音楽的能力が非常に優れた人でした。
<『宮沢賢治1985第5号』(洋々社4pより)>
 それよりは、この程度が賢治のオルガンのそしてチェロの腕
前だったのであり、それが真相であったと受け止めれば、現在
私が進めている仮説「♣」の検証をさらに押し進めてゆけそう
な気もしてくる。
 というのは、澤里武治は
 後でお聞きするところによると、最初のうちは殆ど弓を弾くことだけ練習されたそうです。それから一本の糸をはじく時、二本の糸にかからぬよう、指は直角に持っていく練習をされたそうです。
 そういうことにだけ幾日も費やされたということで、その猛練習のお話を聞いてゾッとするような思いをしたものです。先生は予定の三ヵ月は滞京されませんでしたが、お疲れのためか病気もされたようで、少し早めに帰郷されました。
と昭和31年2月23日付『岩手日報』連載の「宮澤賢治物語(50)」において証言しているのだが、賢治はチェロをマスターしようと思って上京したのだったがそれがはかばかしくいかなかったということを意味するこの証言と前掲の(1)~(3)の中身は符合することになるからである。
 したがってこれら(1)~(3)からは、意気込んで上京した約3ヶ月の辛くて厳しいチェロの練習だったがその腕前を上げること叶わぬままに賢治は疲れ果て、病気になって花巻に戻ったというのが実態であったであろうということが現実味を帯びてくる。ひいては、賢治のチェロの腕前を証言しているこれら(1)~(3)は仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。                ………………♣
を傍証してると言えそうである。
 賢治のオルガン演奏技能
 さて、昭和48年に井上敏夫氏が藤原嘉藤治と行った「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」の中で次のようなことが語られている。
◎ 宮沢君の音楽は視覚型
井上 音楽的には、宮沢賢治はチェロのほかに何かやってましたか。
藤原 オルガンをやっていました。しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした。だが、音楽を感じることに関してはとっても優れていました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)24pより>
この証言を最初に知った時私は驚きを禁じ得なかった。先に触れたように、賢治のチェロの腕前については最愛の教え子の一人が
 実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…
と証言し、同級生の阿部孝が
 実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いっぱいで
と証言(詳細は後述)しているから、賢治のチェロの演奏技能はほとんど上達しないままであったであろうということは歴史的事実として受け止めねばならぬと覚悟していたのだが、賢治のオルガンの演奏技能までもが
   幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした
という友人藤原嘉藤治の証言を知ったからである。チェロの腕前についてはさておき、少なくともオルガンについては相当の演奏技能を賢治は持っていたとばかり思っていた私だけに、この藤原嘉藤治の証言はかなりのショックだった。
 しかし冷静になって振り返ってみれば、如何に私は巷間伝わっている賢治のイメージをそのまま鵜呑みにして来たのかということを思い知らされることでもあった。そして、私は今までそのことに疑問を持たなかったことに対して多少無念さも残るが、そんなことにこだわっているよもっとプラス思考をしよう。他ならぬ音楽教師で友人の藤原嘉藤治等の証言であるだけに今後は
◇賢治のオルガンの演奏技能はまったく初歩の段階であった。
というのが歴史的事実であったと受け止めざるを得ないようだから、そう捉えれば今まで見えなかったことがきっと見えてくるはずだと。
 そうすれば、例えば大正15年年12月12日付政次郎宛書簡「221」の中には
 いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
とあるが、この解釈も自ずから今までのものとは違ってくる。 以前の私ならこの書簡を読んで素直に
◇おお流石賢治、オルガンの腕前は凄かったんだ。プロの
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《鈴木 守著作案内》
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       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)           ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』      ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京-』     ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』


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