本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

賢治と卯の相似性(農民劇)

2016-10-05 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 では、犬田卯と宮澤賢治二人の相似性をここで考え直してみたい。まずは農民劇に関してである。

賢治の農民劇
 さて、そもそも農民劇に関して賢治はどんなことを考え、関連してどのようなことが言われていたか。
1.平來作の証言より
 『宮沢賢治物語』の中には平來作からの聞き書き「農民劇」が載っており、
 何かの折に、
 「花巻言葉で、菩提樹の皮の蓑着て、舞台さ、がさがさ出はつてしやべつたらば、ずい分東京の人だち、おがしがるべな。ホッホッホッ、こいずあうまぐえぐなあ。」
 と、宮沢先生が言つたことがあります。また、
 「村の小学校をめぐつて、しばいをやつて歩こうか」
 などとも言いました。農民劇をやるようになつてから、女学校の先生を連れてきて、ダンスを習わせられました。
 それはポランの広場の、山猫が踊るところで…(投稿者略)…
 農民劇については、先生はなみなみならぬ関心を持たれ、できるならば農民劇団を組織したいと考えておられたようです。したがつて、上記のような言葉がたまたま先生の口からほとばしり出るわけです。
 田園劇には、フアンタジー「ポランの広場」や夢幻劇「種山ヶ原の夜」や、コミツクオペレツト「飢餓陣営」「植物医師」などで、その他未完成のものが沢山あつて、先生は常に推敲しておられたようでした。
<『宮沢賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)209p~より>
ということなどが紹介されている。
 はたして、当時賢治が花巻農学校で指導していた演劇を賢治自身が〝農民劇〟と呼んでいたかどうかは私には定かでないが、少なくとも教え子の平來作達はそう呼んでいたということであろう。ただし、それらが〝農民劇〟と称するにさわしいとは私には思えず、『校本全集』に載っている例えば「種山ヶ原の夜」はどちらかというと〝田園劇〟であり、まして「ポランの広場 第二幕」についてはその中に〝農夫の演説〟があるにしても、〝田園劇〟というジャンルにも入らないのではなかろうかと私は思っているのだが。

2.賢治自身の語る農民劇
 では一方、教え子ではなくて賢治自身は自分が取り組んでいた演劇を〝農民劇〟ととらえていたかどうか。
 (1) 『昭和2年2月1日付岩手日報』では 
 その一端を知ることができるのがまずは例の『昭和2年2月1日付岩手日報』の報道の中の
 …(投稿者略)…同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが…(投稿者略)…
<『昭和2年2月1日付岩手日報』より>
ではなかろうか。
 この報道に従えば、下根子桜時代に賢治は〝農民劇〟なるものに取り組もうとしていたということであり、具体的には昭和2年の秋には「『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐる」と意気込みを込めて取材に答えていたということであろう。当然、賢治が考えていた劇は〝農民劇〟であるという認識を彼自身もしていたということもほぼ間違いなかろう(もちろん、このように賢治が認識していた〝農民劇〟が犬田卯等らから見ればはたして〝農民劇〟であると見なされるか否かはさておき)。ただし、残念ながら実際にはこの六幕物が上演されたということはなかったと聞く。
 (2) 松田甚次郎に対しては
 そして、〝賢治と農民劇〟といえば忘れてならないのが昭和2年3月8日に賢治の許を訪れた松田甚次郎のことであろう。松田甚次郎は『土に叫ぶ』で次のように記しているからである。
 明石村を慰問した日のお別れの夕食に握り飯をほゝ張りながら、野菜スープを戴き、いゝレコードを聽き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さつた。この訓えこそ、私には終世の信條として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構へで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答へたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ──
  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」
と、力強く言はれたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農会でもない。実に小農、小作人であつて将来ともこの形態は変らない。不在地主は無くなつても、土地が国有になつても、この原理は日本の農業としては不変の農組織である。社会の文化が進んで行くに従つて、小作人が段々覚醒する。そして地位も向上する。素質も洗練される。従つて土地制度も、農業政策も、その中心が小作人に向かって来ることが、我国の歴史と現有の社会動向からして、立証できる。…(投稿者略)…真人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として真に生くるには、先づ真の小作人たることだ。小作人となって粗衣粗食、過労と更に加わる社会的経済的圧迫を経験することが出来たら、必ず人間の真面目が顕現される。黙って十年間、誰が何と言はうと、実行し続けてくれ。そして十年後に、宮澤が言った事が真理かどうかを批判してくれ。今はこの宮澤を信じて、実行してくれ」と、懇々と説諭して下さつた。私共は先覚の師、宮澤先生をたゞたゞ信じ切つた。
<『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)2p~より>
 そして甚次郎はこの賢治の〝訓へ〟を忠実に守り、実践した。彼は故里新庄に帰って本当に小作人となり、そこで何度となく〝農村劇(=農民劇)〟の脚本を書き上げ、仲間の農民等と一緒に〝農村劇〟を上演したのであった。
 一方、下根子桜を初めて訪れた甚次郎に賢治はかくの如く熱弁を振るい、甚次郎をして農民劇を実践なさしめたということになるのだろうが、当の賢治自身は〝『ポランの廣場』六幕物〟を上演しようと目論んだのではあったが結局それは成らなかったようで、正直私はそこに賢治のダブルスタンダードの違和感を感ずる。さりながら、賢治は新たなる農村文化の創造を目指し、農民の一大復興運動を興し、田園生活の愉快を一層味はしめるために〝農民劇〟は極めて強力な方法論の一つだということは強く意識していたということだけは少なくとも言えるだろう。

犬田卯の農民劇
 下根子桜で暮らしていた頃の賢治が農民劇の上演を目論み、松田甚次郎に『農民劇をやれ』と〝訓へ〟ていた頃、一方の犬田卯は農民劇に対してどのように対応していたかを雑誌『家の光』のを通じて確認してみる。
 当時の『家の光』を見てみると以下のような記事等が載っている。
【1 昭和2年9月号】農民劇と農民映畫 犬田 卯

【2 昭和2年11月号】農民の實演劇に就て 犬田 卯

 また、次のような家の光主催の座談会が行われていて
【3 昭和3年4月号】 ◇農村文學座談會 「家の光座談会 話題 農民文學」

その出席者は白鳥省吾、佐伯郁郎、中村星湖等であったが、当初は犬田卯も出席を予定していたものだった(『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』(佐伯研二編、盛岡市立図書館)より)とのことであり、そこではかなりの時間を割いて農民劇について話し合われている。
 そして中でも極めつけは『家の光』の昭和3年1月号であり、そこには〝◇新年特別大附録〟と銘打って
【4 昭和3年1月号〝農村劇 「伸び行く麥」〟】

というものまでが付いていた。
 そして、その大附録の中身は例えば



<以上いずれも『家の光〔復刻版〕』(不二出版)より>

のようになっており、この附録を基にすれば、思い立った人々にとっては自分達でもなんとか農民劇が実演できそうな内容及び構成になっている。
 これらのことから容易に判断できるのだが、犬田卯は機関誌『農民』等の仕事を切り盛りする一方で、このように『家の光』誌上で農民劇の普及に熱心に取り組んでいたと言えよう。

演劇における犬田と賢治の相似性
 したがって、当時(「羅須地人協会時代」)の賢治と犬田はともに熱心に演劇に取り組んでいたと言える。前者はそれを上演しようと目論んだり、あるいはと松田甚次郎にに演劇に取り組むことを強力に勧めたりしていたし、後者は当時最も農村に普及していたと思われる雑誌『家の光』誌上で演劇に関する論考等を載せてその啓蒙を図ったり、その脚本等を同誌の付録として付けて貰ったりして大いに演劇活動を後押ししたからである。
 よって、賢治と犬田は演劇面で相似性がかなりあったと言えるだろう。それも、同時代のそれであり、両者共にそれぞれの演劇のジャンルは農民劇であったからなおさらに、
    農民劇に関して、犬田卯と宮澤賢治の二人は強い相似性があった。
と言っていいだろう。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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