本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「自由大学運動」の実践家土田杏村

2016-10-03 08:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
「自由大学運動」
 さて、これで少しだけ土田杏村のことがわかった。特に、宮澤賢治にも優るとも劣らないと思われそうな土田の博覧強記ぶりは群を抜いているということを知った。まさしく土田杏村は〝知の巨人〟であったのだろう。が、かといって彼は知識だけが豊富な単なる評論家に過ぎなかったのかというとそうでもないようだ。というのは、
 土田杏村は、文明批評家としての総合的見地から、文化学の大系化を目ざしていました、そして満身の生命力を集中して四十四年の長からざる生涯を終わっています。ことに「大学はいかにあるべきか」が切実に問われているこんにち、杏村が大正期に実践した「自由大学運動」は、今日から見ても極めて貴重な経験であると思います。
 それは日本の人民自身の立場に立つ自主的な労働大学構想なのです。つまり学生は家や職場で労働に従事しながら、高度の大学教育を受ける学生と教師の自主的な教育組織の具体的実行運動でありました。これが当時の教育界に画期的な衝撃を与えたのも当然のことでしょう。〝杏村によって始まり、杏村とともに終わった〟とまでいわれる「自由大学運動」一つあげてみても、三十六年前に亡くなられた杏村が、いまこそ正当な評価を要求すべき時点ではないかと思われます。
<『大地に刻む』(渋谷定輔著、新人物往来社)35pより>
と渋谷定輔が述べているからだ。土田は「自由大学運動」の実践家だったというのだ。それも、〝杏村によって始まり、杏村とともに終わった〟とまで言われている訳だから、彼はその運動の提唱者、主催者でもあったということになろう。
 この「自由大学」については、ブログ『三鷹の一日』の〝自由大学運動90周年記念集会〟の中で次のように述べられている。
自由大学運動は、1920年代から30年代にかけて、長野県をはじめ新潟県・群馬県など全国各地で展開された、地域民衆の自己教育運動として知られています。この自由大学運動の出発点となった上田自由大学は、長野県上田・小県地域で創造的に生きようとしていた金井正・山越脩蔵・猪坂直一という3人の青年たちと、新しい文化運動の実現に意欲を示していた在野の哲学者である土田杏村との人間的な交流の中からつくりだされたものでした。
自由大学の講座の開講時期は、農村青年の時間的な余裕を考慮していわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月までとし、聴講料は1講座3円程度を負担し、人文科学系の講座を中心に、1講座平均5日間、1日平均3時間の講義を行いました。講師には、哲学概論の土田杏村、文学論のタカクラ・テル、法律哲学の恒藤恭、哲学史の出隆、社会学の新明正道、政治学の今中次麿など、学問の分野でも新しい機運を代表する人々が招かれました。聴講者は、1講座あたり40名で、比較的富裕な中農層の農村青年と小学校の教員が多かったのですが、なかには少数ながら芸妓や女教師など女性の参加も見られました。自由大学では、聴講者と講師と学問への情熱でむすばれていました。
ここにも青年に対して理解のある土田の姿があり、彼等のために尽力する彼の姿が目に浮かぶ。

賢治の実践は孤立していなかった
 さて、同大学の講座開講時期は「農村青年の時間的な余裕を考慮していわゆる農閑期、だいたい10月から翌年3月」であり、聴講者は「比較的富裕な中農層の農村青年と小学校の教員が多かった」ということであり、それは賢治の羅須地人協会における農民講座の開催時期や、比較的富裕な中農層の農村青年が多かったという参加者という点で相通じている。地理的には極めて離れてい賢治と杏村だったが、ともにたまたま結核に罹っていた二人が当時実践していたことは結構同じようなことであったということになりそうである。
 実際その一端は、「土田杏村年譜」からも窺える。例えば、
 大正十年 
    二月 二十二日、長野県へ旅行。上田の哲学会で講義。二十八日帰宅。
 大正十一年
 二月 十三日夜行にて東上。長野県上田へ行く。自由大学での講義。その中頃流感にかかり発熱甚だし。咽喉をおかされ発語不可能となる。二十日病気のまま帰宅。
 十月 十三日朝の汽車で信州へ行く。十四日より十七日まで上田にて自由大学の第二年度の講義。
<『土田杏村全集 ⅩⅤ』所収「土田杏村年譜」より>
というように。賢治と同様結核を煩っている病躯を押して、わざわざ遠くまで出かけて行って「自由大学」の講義をしていた実践家・土田杏村にちょっと感激し、敬服する。一方では、渋谷定輔のような自分より約15歳も年下の小作農家の一青年と平等に付き合い、その人の処女詩集出版の労を買って出るという謙虚で誠実な杏村の人柄に惹かれるとともに。
 とまれ、下根子桜で農民のために尽力しようとしていた賢治の活動は花巻で孤立していたという訳ではなく、当時は同じような考え方に基づいて活動していた土田がおり、多分他の場所にもこの二人と似たような実践をしていた人が少なからず居たということなのだろう。

信濃自由大学の設立
 では次は、『土田杏村全集 ⅩⅣ』所収の「我国に於ける自由大学運動に就いて」というタイトルの随筆について少し触れてみたい。それは以下のようにして始まるものであった。
    
 この運動は、やつとその緒口についた許りで、実績としては何一つ報告すべきものを持つてゐません。私はせめてその成績を一年だけでも挙げて見て、その上で社会に報告しようと思つてゐたのであります。併し時勢はもうさうして躊躇してゐることを許しません。他方でも同様の計画をやりたいから、輪郭だけでも報告せよと命ぜられます。そこで本号を借りて、計画の大体だけを報告することに致しました。…(略)…
 自由大学は一個の大学拡張運動である。併しそれは夏期になつてあちこちで開かれている短期講習会などとはまるで性質が違ふ。これはこれとして、従来全く日本にはなかつた新しい教育様式を始めたことになつて来たのです。
 そういえば菊池忠二氏によれば、大正十四年に
 県教育委員会の夏期自由大学が、盛岡(八月十九日~二十一日)と水沢(八月二十二日~二十四日)で三日ずつ開かれ、桑木巌翼博士が「近世哲学思想」「現代の哲学」、永井潜博士が「科学思想の発達」「生理学概論」をそれぞれ講演している。
<『私の賢治散歩(上巻)』(菊池忠二著)254pより>
ということであり、当時岩手でも「自由大学」という名の講座が夏期に開講されていたのであった。ただし土田杏村達が始めたものはそれとは似て非なるものだということのようだが。
 続けて、土田は次のようにその運動の発生の経緯を語ってる。
    
 大正九年の秋、私は長野県小県郡神川村――山形鼎が農民美術の経営をしてゐられた村――を中心としての青年達に招かれて哲学の講習に参りました。村の青年達が哲学の講習会を開く。非常に喫驚したのである、が行つて見ると成るほどと思つた。それの計画を立てた、中心になつてゐる二人の青年は、家業に熱心なのは言ふまでもないが、その忙しい家業のひまひまによく読書をしてゐる。羨ましいほどの読書をしてゐる。…(略)…
 これ以後、この講義を一つの連続的の講義にするといふことを皆んなで決議いたしました。…(略)…本年の春私は又上田市へ出かけて、高等女学校を会場と致し、又五日間の講義を続けました。…(略)…聴講生は前年以上の多数で、大変の成功であり、発起人の人達も大悦びといふ訳でした。
 この時に小県哲学会といふものが生まれました。一地方で哲学会が生まれるといふのは大したものだと思ひます。
 そういえば、山形鼎とは以前少し触れた〝民衆美術運動〟で登場してきた人物であり、小松隆二氏が「望月に遅れて農民美術運動に着手した同郷の山本鼎は、その旺盛な活動とともに全国的にも著名であるが、その評価に比すれば、望月に対する評価はまだ無に等しい」<『大正自由人物語』(小松隆二著、岩波書店)127p~より>と評していた人物だった。多分このような素地が当地にはあったからそこに〝小県哲学会〟が開かれ、さらに〝自由大学〟が開かれたのであろう。
 土田は続けて次のように述べている。
    
 信濃自由大学はかうした準備運動のあつたあとで静かに計画せれました。そして今年の九月から来年の四月まで、それの第一学年が開始せられることになりました。設立の趣意書を転載すると次の如きものです。
   信濃自由大学趣意書
設立の趣旨
 学問の中央集権的傾向を打破し、地方一般の民衆がその産業に従事しつつ、自由に大学教育を受くる機会を得んがために、総合長期の講座を開き、主として文化学的研究を為し、何人にも公開することを目的と致しますが、従来の夏期講習等に於ける如く断片短期的の研究となることなく統一連続的の研究に努め、且つ開講時以外に於ける自学自習の指導にも関与することを努めます。
この土田杏村の随筆は『文化運動』の大正11年1月号に載っていたものだというから「信濃自由大学」はその前年大正10年に設立されたということになろう(昭和3年には「上田自由大学」と改称)。
 私からすれば、特に目を引いたのがその聴講生の資格であり、
 講義を理解し得る各自の自信に信頼して、聴講生の資格に一切の制限を置かず、且つ男たると女たるとを問ひません。単に申込を以て聴講生の資格を得ます。
というものであった。まさしく「自由大学」の名にある〝自由〟にふさわしい対応であると思う。
 なお、開講の時期については次のことを考慮したと土田杏村は註釈していた。
 開講の時期は、その土地の事情によつていろいろと変りませう。これは長野県の養蚕の事情を顧慮し、他の農閑期を利用した積もりです。
<いずれも『土田杏村全集 ⅩⅣ』(土田杏村著、第一書房)301p~より>
思慮深い人だ、杏村は。
 一方では、一般の大学と比べれば開講期間が短いから、普通の大学なら一年をかけて行うような講座でさえも短期間、1週間ほどで終わらせてしまったものもあったと聞くが、この点でも羅須地人協会で賢治が行った講義に似ていたようだ。因みに賢治の講座について伊藤忠一は「化学なんか一年もかかるものは五時間ぐらいですませたいお気持ちであったようだ」と証言している(『宮沢賢治―地人への道』(佐藤成編著)280pより) 

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