『詩と詩人』より
懸案だった例の出典であろうものがなんとか見つかった。それは草野心平の『詩と詩人』の中にあり、以下のようなものだった。
・『修羅はよみがえった』の場合
・『詩と詩人』の場合
当時の賢治の心の内
ただし、私の言語感覚からいえばこの①と②とでは賢治の心の内はかなり違うものとなる。そこで、賢治がなぜ『銅鑼』へ詩の発表を取り止めるようになったのか、これらの2つを比較しながら賢治の心の内を少し忖度してみたい。
まず、もし①がその際の賢治の心の内であったならば、二人の農民詩人の『銅鑼』への同人加入が原因で発表を取り止めることにしたということはそこから解るが、その直接の理由はそこからは読み取れない。まして、賢治が自分のことを「農民詩人」もしくは「農民詩人」に近似してると認識していたかどうかはなおさら読み取りにくい。
ところが、②の方がその折の賢治の心の内であったとすれば、「坂本遼や三野混沌などの優れた農民詩人が同人に加わったのだから私の役目はもう終わった。これからは彼等にその役割を任せることにして、自分はそこからは手を引いてもいいと思っている」というのが当時の賢治の心の内である、と私には読み取れる。
このことは逆に言えば、②が歴史的事実であるとするならば、賢治自身は当時自分のことをずばり「農民詩人」とは思っていなかったとしても、少なくとも賢治自身は自分のことを「農民詩人」に近似していると思っていたことが肯えると思う。そして、「羅須地人協会時代」に詠んでいた詩は「農民詩」かそれに近いものだということも。
一方で、当時は白鳥省吾を始めとする「民衆詩派」(ただし世間は白鳥省吾を農民詩人と見ていた節もある)が大活躍していた時代であるが、犬田卯等が取り組んだ「農民文芸運動」の一環として佐伯郁郎が先頭に立って「農民詩」を啓蒙したり、渋谷定輔は農民詩集『野良に叫ぶ』を世に出して反響を巻き起こしていた時代でもある。
そしてその流れは『銅鑼』にも押し寄せて来ていて、坂本遼や三野混沌そして狩野満直などの農民詩人が同人に加わり、『銅鑼』誌上にも彼らは優れた農民詩を発表して活躍していた時代でもあったはずだ。
とりわけ、坂本の『たんぽぽ』が銅鑼社から出版されてなおかつ草野や森からの評価もすこぶる高かったこと、次いで『銅鑼』には三野混沌等も同人として加わったわけだが、その三野混沌の「農民詩」に対する森の評価もやはり高いことなど、これらのことを賢治はつまびらかに知っていたであろう。それゆえ、賢治も実は心中穏やかでなかったかもしれない。一方では、「羅須地人協会」の活動の方もいろいろと問題を抱えているという不安と共に。
なぜ「農民詩」を『銅鑼』に発表しなかったのか
先程私は、
それゆえ、当時(「羅須地人協会時代」)の賢治は
客観的に見て『春と修羅 第三集』は農民詩集である。
と言い切ってもいいのではなかろうかと思えてくる。
ついては以下に少し「思考実験」をしてみる。
よってこの実験の結果、私の現時点での判断は以下のようなものである。
つまるところ、犬田と賢治の間には当初それぞれ強い相似性はあってどんどんその間の距離は近づいて行ったのだが、如何せん背反しているところもあり、特に心情的な面でのそれが犬田と賢治の相似性が合同性まで止揚されることを阻み、二人は遂に交わることはなく、特に賢治の無力感と矜恃が二人の間の距離を次第に引き離していった、かの如くに私には見える。当初は、いずれ交わるだろうと私には見えた二人だったが、結局は交わることもなく、あたかも同じ双曲線上の2曲線をそれぞれを別々に歩き、近づきやがて離れていったと言えそうだ。そしてもしかすると、そのターニングポイントがあの面会応諾ドタキャン事件だったかもしれない。
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懸案だった例の出典であろうものがなんとか見つかった。それは草野心平の『詩と詩人』の中にあり、以下のようなものだった。
坂本遼の「たんぽぽ」
詩集『たんぽぽ』は昭和二年九月に刊行された。著者は坂本遼、装幀は浅野孟府で赤い日本紙の表紙にマッチの棒が一本描いてある。いまはもう古本屋などでも殆んど手に入らない。発行部数がすくなかつたせゐもあるが、それよりもこの詩集は、一度手に入れると離したくない魅力をもつてゐらからだ。…(投稿者略)…
「坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」
宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
詩集『たんぽぽ』は昭和二年九月に刊行された。著者は坂本遼、装幀は浅野孟府で赤い日本紙の表紙にマッチの棒が一本描いてある。いまはもう古本屋などでも殆んど手に入らない。発行部数がすくなかつたせゐもあるが、それよりもこの詩集は、一度手に入れると離したくない魅力をもつてゐらからだ。…(投稿者略)…
「坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」
宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
<『詩と詩人』(草野心平著、和光社)212pより>
したがって、・『修羅はよみがえった』の場合
二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという……①
に当たる部分が、・『詩と詩人』の場合
坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます……②
となっているから①と②では文言は違っているが内容はほぼ同じなので、おそらく『修羅はよみがえった』所収の「昭和二十年までの賢治評価」における①の出典もこの『詩と詩人』であると判断しても間違いなさそうである。当時の賢治の心の内
ただし、私の言語感覚からいえばこの①と②とでは賢治の心の内はかなり違うものとなる。そこで、賢治がなぜ『銅鑼』へ詩の発表を取り止めるようになったのか、これらの2つを比較しながら賢治の心の内を少し忖度してみたい。
まず、もし①がその際の賢治の心の内であったならば、二人の農民詩人の『銅鑼』への同人加入が原因で発表を取り止めることにしたということはそこから解るが、その直接の理由はそこからは読み取れない。まして、賢治が自分のことを「農民詩人」もしくは「農民詩人」に近似してると認識していたかどうかはなおさら読み取りにくい。
ところが、②の方がその折の賢治の心の内であったとすれば、「坂本遼や三野混沌などの優れた農民詩人が同人に加わったのだから私の役目はもう終わった。これからは彼等にその役割を任せることにして、自分はそこからは手を引いてもいいと思っている」というのが当時の賢治の心の内である、と私には読み取れる。
このことは逆に言えば、②が歴史的事実であるとするならば、賢治自身は当時自分のことをずばり「農民詩人」とは思っていなかったとしても、少なくとも賢治自身は自分のことを「農民詩人」に近似していると思っていたことが肯えると思う。そして、「羅須地人協会時代」に詠んでいた詩は「農民詩」かそれに近いものだということも。
一方で、当時は白鳥省吾を始めとする「民衆詩派」(ただし世間は白鳥省吾を農民詩人と見ていた節もある)が大活躍していた時代であるが、犬田卯等が取り組んだ「農民文芸運動」の一環として佐伯郁郎が先頭に立って「農民詩」を啓蒙したり、渋谷定輔は農民詩集『野良に叫ぶ』を世に出して反響を巻き起こしていた時代でもある。
そしてその流れは『銅鑼』にも押し寄せて来ていて、坂本遼や三野混沌そして狩野満直などの農民詩人が同人に加わり、『銅鑼』誌上にも彼らは優れた農民詩を発表して活躍していた時代でもあったはずだ。
とりわけ、坂本の『たんぽぽ』が銅鑼社から出版されてなおかつ草野や森からの評価もすこぶる高かったこと、次いで『銅鑼』には三野混沌等も同人として加わったわけだが、その三野混沌の「農民詩」に対する森の評価もやはり高いことなど、これらのことを賢治はつまびらかに知っていたであろう。それゆえ、賢治も実は心中穏やかでなかったかもしれない。一方では、「羅須地人協会」の活動の方もいろいろと問題を抱えているという不安と共に。
なぜ「農民詩」を『銅鑼』に発表しなかったのか
先程私は、
賢治自身は当時自分のことをずばり「農民詩人」とは思っていなかったとしても、少なくとも賢治自身は自分のことを「農民詩人」に近似していると思っていたことが肯えると思う。そして、「羅須地人協会時代」に詠んでいた詩は「農民詩」かそれに近いものだということも。
と述べた。それゆえ、当時(「羅須地人協会時代」)の賢治は
『春と修羅 第三集』が農民詩集と見られることを賢治は否定していなかったであろう。
と言えるだろうというのが現時点での私の判断である。そこで私には、客観的に見て『春と修羅 第三集』は農民詩集である。
と言い切ってもいいのではなかろうかと思えてくる。
ついては以下に少し「思考実験」をしてみる。
当時賢治は次のように思い悩んでいた。
そういえば、森は次のようなことを証言している。
それにしても、どうして賢治は詩誌『銅鑼』に「羅須地人協会時代」に詠んだ詩(私か見れば「農民詩」)を一切発表しなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが、「羅須地人協会時代」にしばし賢治と一緒に暮らした千葉恭の次の証言である。
したがって『新校本年譜』に
大正15年 六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
とはあるものの、賢治自身は実はその頃は「農民芸術概論綱要」まだ完成にはほど遠い思っていたのではなかろうか。
それゆえにこそ、昭和3年12月21日付高橋慶吾宛て書簡(245)の中で
そしてそれも、実はこの書簡の中の〝農業生産の増殖……に全力を挙げ居り〟という内容は昭和3年にはふさわしくなく、昭和2年以前のものではなかろうかという疑問を私は持っている。なぜならば、昭和3年8月以降は不本意ながら賢治は下根子桜から退却して豊沢町の実家で病臥していたはずで、その年の12月にこのような内容の書簡を書くことは不自然であるからである。
そこで、この書簡が書かれたその時期は大正15年か昭和2年のものと考えられないだろうか。そしてなおかつ、大正15年の12月21日頃は滞京中であるから大正15年というよりは、昭和2年の方がふさわしいのではなかろうか。例えばかつての『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋版、77p)にそうあったようにこの高橋慶吾宛の書簡は昭和2年のものであるという見方も捨てがたい。つまるところ、『農民芸術概論綱要』は大正15年6月時点では未だ完成していないと賢治は思っていた可能性がある、ということを捨て去る訳にはいかないのではなかろうかと思うのである。(実験終了)
「羅須地人協会時代」に詠んで来た『春と修羅 第三集』所収の詩稿群に対してはかなり自信があるのだが、銅鑼社は坂本の詩集を発刊したのに、私(賢治)の詩集も同じく銅鑼社から発刊しようといったような働きかけはない。そこへもってきて狩野や三野などの優れた農民詩人がさらに『銅鑼』同人に加わり、詩誌『銅鑼』へ優れた「農民詩」を発表している。さりとて、自分は詩誌『銅鑼』に「羅須地人協会時代」に詠んだ詩を発表する決心が未だにつかぬ。もはや『銅鑼』における自分の居場所はなくなりつつあるのかもしれない。こうなってしまった以上、そろそろ『銅鑼』へ自分の詩を発表するのを取り止める潮時かもしれない。
と。賢治は一抹の淋しさと苛立ちを抱きながらそう決意した。そういえば、森は次のようなことを証言している。
『春と修羅』第二集は「謄写版」でつくると、賢治はほかの人にも私にもたのしそうに語った。草野心平が、謄写版で『銅鑼』を発行していたが、賢治はそれを見て、詩集も手造りでできると思いついて、謄写版一式を買いももとめたものであった。ところが、その謄写版製の『春と修羅』第二集は、いつまでたってもできる筈はなかった。きれいな原稿用紙を何種類か作っただけの新しいままで、賢治はこれも労農党支部へ寄贈してしまっていたのである。それを贈るとき、紙に包んだ二十円がいっしょに入っていた。賢治は「これをタスにしてけろ」といってそっと置いていったのだという。「タスにしてくれ」は「役立ててくれ」という花巻弁である。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)368p~より>
奇しくも、賢治が『銅鑼』に最後の詩を発表したのが昭和3年2月1日第13号であったはずだが、筑摩の『新校本年譜』によれば謄写版一式を労農党稗貫支部に寄付したのもこの頃(昭和3年の2月初旬)となっている。賢治は『春と修羅 第三集』どころか『春と修羅 第二集』さえもガリ版刷りで発行することなく、謄写版一式を寄付してしまった。それにしても、どうして賢治は詩誌『銅鑼』に「羅須地人協会時代」に詠んだ詩(私か見れば「農民詩」)を一切発表しなかったのだろうか。そのヒントを与えてくれそうなのが、「羅須地人協会時代」にしばし賢治と一緒に暮らした千葉恭の次の証言である。
賢治が何度も繰り返して言つたことは『われわれが言つたことをみんなが偉いと思つてくれても自分自身が偉いと思うまで発表してはならない。われわれが言つたことを決して言つてはならんぞ』ということでありました。
賢治にもある目的があり、それを完成した暁においてみんなに発表していきたい気持ちがあつたようでした。しかも人にほめられて生きて行く人間であつてはならないと言つておりました。
賢治にもある目的があり、それを完成した暁においてみんなに発表していきたい気持ちがあつたようでした。しかも人にほめられて生きて行く人間であつてはならないと言つておりました。
<『羅須地人協会時代の賢治』(イーハトーヴォ復刊2、宮沢賢治の会)より>
おそらくこの賢治の完全癖がその発表を妨げたのではなかろうか。つまり、賢治は自分としては当時詠んでいた「農民詩」に相当する詩稿群がまだ完成された域に達していないと判断していたのではなかろうか。このことは、死の床にあった賢治が封印した詩稿群の中に『春と修羅 第三集』所収のものが多いということからも裏付けされそうだ。ひいては『農民芸術概論綱要』もまだまだ未完だということも。したがって『新校本年譜』に
大正15年 六月 このころ「農民芸術概論綱要」を書く。
とはあるものの、賢治自身は実はその頃は「農民芸術概論綱要」まだ完成にはほど遠い思っていたのではなかろうか。
それゆえにこそ、昭和3年12月21日付高橋慶吾宛て書簡(245)の中で
当分の小生には農業生産の増殖と甚分外乍ら新なる時代の芸術の方向の探索に全力を挙げ居り
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)261pより>
としたためていたのではなかろうか。そしてそれも、実はこの書簡の中の〝農業生産の増殖……に全力を挙げ居り〟という内容は昭和3年にはふさわしくなく、昭和2年以前のものではなかろうかという疑問を私は持っている。なぜならば、昭和3年8月以降は不本意ながら賢治は下根子桜から退却して豊沢町の実家で病臥していたはずで、その年の12月にこのような内容の書簡を書くことは不自然であるからである。
そこで、この書簡が書かれたその時期は大正15年か昭和2年のものと考えられないだろうか。そしてなおかつ、大正15年の12月21日頃は滞京中であるから大正15年というよりは、昭和2年の方がふさわしいのではなかろうか。例えばかつての『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋版、77p)にそうあったようにこの高橋慶吾宛の書簡は昭和2年のものであるという見方も捨てがたい。つまるところ、『農民芸術概論綱要』は大正15年6月時点では未だ完成していないと賢治は思っていた可能性がある、ということを捨て去る訳にはいかないのではなかろうかと思うのである。(実験終了)
よってこの実験の結果、私の現時点での判断は以下のようなものである。
「羅須地人協会時代」の賢治が『春と修羅 第三集』所収の詩稿のどの一つも『銅鑼』に発表しなかった理由は、当時芸術論『農民芸術概論綱要』は未だ不完全であり、この芸術論に基づいて詠むべきと決めていた『春と修羅 第三集』所収の詩稿も自ずからまだ未完と思わざるを得ず、そのような未完のものを発表することは完全癖の賢治にはできなかったからである。
あるいはその上に、坂本遼等の「農民詩」が大々的に世間から受け容れられているというのに、自分の詩は一向に世間が認めてくらないという無力感と苛立ち、そしてそこから生ずる矜恃も賢治にはあったのかもしれない。
あるいはその上に、坂本遼等の「農民詩」が大々的に世間から受け容れられているというのに、自分の詩は一向に世間が認めてくらないという無力感と苛立ち、そしてそこから生ずる矜恃も賢治にはあったのかもしれない。
つまるところ、犬田と賢治の間には当初それぞれ強い相似性はあってどんどんその間の距離は近づいて行ったのだが、如何せん背反しているところもあり、特に心情的な面でのそれが犬田と賢治の相似性が合同性まで止揚されることを阻み、二人は遂に交わることはなく、特に賢治の無力感と矜恃が二人の間の距離を次第に引き離していった、かの如くに私には見える。当初は、いずれ交わるだろうと私には見えた二人だったが、結局は交わることもなく、あたかも同じ双曲線上の2曲線をそれぞれを別々に歩き、近づきやがて離れていったと言えそうだ。そしてもしかすると、そのターニングポイントがあの面会応諾ドタキャン事件だったかもしれない。
続きへ。
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《鈴木 守著作案内》
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☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。
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