では次は、卯と賢治の芸術論における相似性をここでは少し考えてみたい。
犬田の「農民文芸」
さて、賢治が下根子桜に住んでいた頃の犬田は大正15年には『土に生まれて』を、昭和3年には『土にあえぐ』をともに平凡社から、そして『土にひそむ』を昭和4年に不二屋書房から相次いで出版している。
そして、安藤義道氏によれば、
下根子桜時代の賢治の「農民芸術」
さて犬田がこのように旺盛な「農民文芸」運動を実践していた、つまり『農民文芸十六講』を書き上げ、いわば〝「土」三部作〟も次々に上梓し、『家の光』誌上にも論考などを発表していた頃に、賢治は何を考え、何をどうしようとしていたか。それは次のような新聞報道からも窺うことができる。
(1) 大正15年4月1日付『岩手日報』の記事
これらの新聞報道からは例えば、賢治は
よって、賢治と卯の芸術に関する思想、おのずから芸術論とは結構相似ている点があると言えるだろう(もちろんこのことは、一方が他方から直接的な影響を受けたからというわけではなくて、この当時の時代の流れの中に二人とも生きていたという、いわゆる同時性による点も多かったのであろうが)。
両者の芸術論や思想面での相似性
というわけで今までのことを総合的に判断すれば、大雑把な話ではあるが、この当時の犬田の「農民文芸」論と賢治の「農民芸術」論とは相通ずるところが少なからずあると言えるだろう。
さらにまた『農民芸術概論綱要』の、例えばその中の「農民芸術の興隆」については
ちょうどこれは、良一(すなわち犬田卯)が特に、
なお、先に触れたように犬田卯は次第に「反マルクス…」の傾向を強めていったということだが、安藤義道氏は犬田卯のことを次のように
したがって、犬田と賢治は政治的思想面でも似たようなところがあったと考えられる。なぜならば、羅須地人協会員の伊藤与蔵は次のような証言
したがって、大正末期・昭和初期当時(「羅須地人協会時代」)の犬田卯の「農民文芸」と宮澤賢治の「農民芸術」のそれぞれの理論にはやはり強い相似性があったと言えるのではなかろうか。そして、それに伴って、二人は政治的思想面でも同様な相似性があったと言えるのではなかろうか。
<*1:投稿者註> ここに書かれている事柄からだけでは「何故われらの芸術がいま起らねばならないか」に対する回答を、読み手が苦労せずに論理的に導くことができる内容には残念ながらなっていないように私からは見えるのだが。
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犬田の「農民文芸」
さて、賢治が下根子桜に住んでいた頃の犬田は大正15年には『土に生まれて』を、昭和3年には『土にあえぐ』をともに平凡社から、そして『土にひそむ』を昭和4年に不二屋書房から相次いで出版している。
そして、安藤義道氏によれば、
この三つの作品はいわば犬田卯の「土」三部作といえる。主人公はいずれも良一であるが、恐らく犬田卯をモデル化した農村青年であろう。というのは、良一をして農村生活を批判させ、農村・農民の覚醒のための芸術論を語らせているからである。
『土に生まれて』の良一はいう。「さうだ。自分の仕事を芸術化する事によってそれを生きたものとするより自分のこれからの生活はないのだ。自分の生活の芸術化、そこにのみ、現代のやうな組織の社会では本当の生活がある。社会のためにその庇護の下に、奴隷的の生活をするのでなく、社会の上に立って、そして新しく生活を創造して行く。それが芸術の時代だ。芸術家の仕事だ。芸術のみがすべてのものから自由である。自分はあらゆる過去を放棄し、脱却して、そこへ行かなくてはならない」…(投稿者略)…
そのためには「粗衣粗食、泥と汗、茅屋と貧窮――さうしたことは敢て苦とするに足りない。ただ自由でありたい。支配を受けたくない。あらゆる人間に対して平等であり、他に犯されず、他を侵さず、他を扶け、他に扶けられ、相共に自然より賦与せられているところのものを残りなく発揮したい」(『土にひそむ』)とも良一にいわせている。
『土に生まれて』の良一はいう。「さうだ。自分の仕事を芸術化する事によってそれを生きたものとするより自分のこれからの生活はないのだ。自分の生活の芸術化、そこにのみ、現代のやうな組織の社会では本当の生活がある。社会のためにその庇護の下に、奴隷的の生活をするのでなく、社会の上に立って、そして新しく生活を創造して行く。それが芸術の時代だ。芸術家の仕事だ。芸術のみがすべてのものから自由である。自分はあらゆる過去を放棄し、脱却して、そこへ行かなくてはならない」…(投稿者略)…
そのためには「粗衣粗食、泥と汗、茅屋と貧窮――さうしたことは敢て苦とするに足りない。ただ自由でありたい。支配を受けたくない。あらゆる人間に対して平等であり、他に犯されず、他を侵さず、他を扶け、他に扶けられ、相共に自然より賦与せられているところのものを残りなく発揮したい」(『土にひそむ』)とも良一にいわせている。
<『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)17p~より>
ということだが、ここで良一をして言わしめている犬田卯のいわば「農民文芸」の思想と、賢治が下根子桜でやろうと構想していたこととの間には相通ずるところが少なからずあることを私は直感した。そこで次は、その直感が裏付けられるか否かを当時の新聞報道を基に一度調べてみたい。下根子桜時代の賢治の「農民芸術」
さて犬田がこのように旺盛な「農民文芸」運動を実践していた、つまり『農民文芸十六講』を書き上げ、いわば〝「土」三部作〟も次々に上梓し、『家の光』誌上にも論考などを発表していた頃に、賢治は何を考え、何をどうしようとしていたか。それは次のような新聞報道からも窺うことができる。
(1) 大正15年4月1日付『岩手日報』の記事
賢治が下根子桜に移り住む際に岩手日報の取材に
(2) 昭和2年2月1日付『岩手日報』の記事 現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです
<「新しき農村の建設」(大正15年4月1日付『岩手日報』)の記事より)>
と賢治は答えていた。 そして、明けて2月1日付『岩手日報』は次のように
農村文化の創造に努む
花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
花巻の青年有志が 地人協會を組織し 自然生活に立返る
花巻川口町の町會議員であり且つ同町の素封家の宮澤政次郎氏長男賢治氏は今度花巻在住の青年三十餘名と共に羅須地人協會を組織しあらたなる農村文化の創造に努力することになつた地人協會の趣旨は現代の悪弊と見るべき都會文化のに對抗し農民の一大復興運動を起こすのは主眼で、同志をして田園生活の愉快を一層味はしめ原始人の自然生活たち返らうといふのであるこれがため毎年収穫時には彼等同志が場所と日時を定め耕作に依って得た収穫物を互ひに持ち寄り有無相通する所謂物々交換の制度を取り更に農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行くにあるといふのである、目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが、これと同時に協会員全部でオーケストラーを組織し、毎月二三回づゝ慰安デーを催す計画で羅須地人協会の創設は確かに我が農村文化の発達上大なる期待がかけられ、識者間の注目を惹いてゐる(写真。宮澤氏、氏は盛中を経て高農を卒業し昨年三月まで花巻農學校で教鞭を取つてゐた人)
<昭和2年2月1日付『岩手日報』より>
と、報道していた。これらの新聞報道からは例えば、賢治は
・生活即ち藝術の生がいを送りたいものです
・あらたなる農村文化の創造に努力する
・田園生活の愉快を一層味はしめ
・農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行く
と構想していたことがわかるから、これらは先の犬田卯のいわば「農民文芸」の思想の中の、・あらたなる農村文化の創造に努力する
・田園生活の愉快を一層味はしめ
・農民劇農民音楽を創設して協会員は家族団らんの生活を続け行く
・自分の仕事を芸術化する事によってそれを生きたものとする
・自分の生活の芸術化、そこにのみ、現代のやうな組織の社会では本当の生活がある。
・新しく生活を創造して行く。それが芸術の時代だ
とかなり通底している。・自分の生活の芸術化、そこにのみ、現代のやうな組織の社会では本当の生活がある。
・新しく生活を創造して行く。それが芸術の時代だ
よって、賢治と卯の芸術に関する思想、おのずから芸術論とは結構相似ている点があると言えるだろう(もちろんこのことは、一方が他方から直接的な影響を受けたからというわけではなくて、この当時の時代の流れの中に二人とも生きていたという、いわゆる同時性による点も多かったのであろうが)。
両者の芸術論や思想面での相似性
というわけで今までのことを総合的に判断すれば、大雑把な話ではあるが、この当時の犬田の「農民文芸」論と賢治の「農民芸術」論とは相通ずるところが少なからずあると言えるだろう。
さらにまた『農民芸術概論綱要』の、例えばその中の「農民芸術の興隆」については
……何故われらの芸術がいま起らねばならないか……
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
われらに購ふべき力もなく 又さるものを必要とせぬ
いまやわれらは新たに正しき道を行き われらの美をば創らねばならぬ
芸術をもてあの灰色の労働を燃せ
ここにはわれら不断の潔く楽しい創造がある
都人よ 来ってわれらに交れ 世界よ 他意なきわれらを容れよ
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)10pより>
ということだから<*1>、賢治とすれば、芸術の興隆が必要欠くべからざる喫緊の課題であると認識していたということになろう。ちょうどこれは、良一(すなわち犬田卯)が特に、
芸術のみがすべてのものから自由である。自分はあらゆる過去を放棄し、脱却して、そこへ行かなくてはならない
と声を大にして訴えていることとも通底していると私は感じた。ただし、だからといって「犬田卯は決して芸術至上主義者ではなかった」という前掲書の中(19p)の安藤氏の指摘にも留意せねばならぬが、少なくとも二人の間には芸術論上においても強い相似性があると私は確信できた。なお、先に触れたように犬田卯は次第に「反マルクス…」の傾向を強めていったということだが、安藤義道氏は犬田卯のことを次のように
彼は自他共に認める重農主義者であり、農民主義者であった。従って最も階級意識にめざめたプロレタリアートを前衛としてのプロレタリア革命によって社会変革をはかろうとするマルクス主義には真っ向から反対していた。
<『犬田卯の思想と文学』(安藤義道著、筑波書林)21pより>
とも指摘している。したがって、犬田と賢治は政治的思想面でも似たようなところがあったと考えられる。なぜならば、羅須地人協会員の伊藤与蔵は次のような証言
「革命が起きたら、私はブルジョアの味方です」こう先生ははっきりと言われたことがあります。先生はいつも「私は革命という手段は好きではない」とも言っていました。又、「私は小ブルジョアの出身です」とも言っていました。「私はいまこうしてみんなと同じように働き、みんなの味方です。けれども万が一、革命が起こったならば、私はブルジョアに味方するようになります」と言われました。
<『賢治とモリスの環境芸術』(大内秀明著、時潮社)40pより>
をしているから、この与蔵の証言に従うならば、賢治はどちらかというと「反マルクス」の立場にいたし、プチブル(小ブルジョア)に属していると思っていたということになりそうだからである。あるいはまた、『農民芸術概論綱要』で述べている事柄は結構重農主義・農民主義的色彩が強いと私は感ずるからである。したがって、大正末期・昭和初期当時(「羅須地人協会時代」)の犬田卯の「農民文芸」と宮澤賢治の「農民芸術」のそれぞれの理論にはやはり強い相似性があったと言えるのではなかろうか。そして、それに伴って、二人は政治的思想面でも同様な相似性があったと言えるのではなかろうか。
<*1:投稿者註> ここに書かれている事柄からだけでは「何故われらの芸術がいま起らねばならないか」に対する回答を、読み手が苦労せずに論理的に導くことができる内容には残念ながらなっていないように私からは見えるのだが。
続きへ。
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☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』 ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』 ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』
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