本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

「農民詩人」坂本遼

2016-10-07 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 さて、ここでもう一度前掲の心平の証言「二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがある」を確認したい。これを素直に解釈すれば私には、
 もともといた「農民詩人」坂本遼に加えて、この度新たに二人の「農民詩人」猪狩満直、三野混沌が同人となったからこれで計3人の「農民詩人」が『銅鑼』同人の中にいることになる。そこで、賢治自身はもう作品を発表する必要はなくなったと考えた。
と解釈できる。とすれば、逆に、賢治自身はそれまでは「農民詩」の類のものを『銅鑼』に寄せていたという認識をしていた、という可能性もある。
 しかし、賢治は〝一般には「農民詩」と思われる〟ような詩をそれまでに『銅鑼』には一つも発表していないことは先に確認したばかりだ。たしかに『銅鑼』に寄稿した「心象スケッチ 農事 三篇」は、タイトルからすればそのようなタイプの詩と思われがちだが、これらの詩の内容はそのようなものでないことは読んでみれば実は直ぐ判る<*1>。
 したがって、「百姓詩人」(=「農民詩人」)が同人の中に3人もいることになったからもう安心だ、「農民詩」は彼等「百姓詩人」達に任せて自分は『銅鑼』からは手を引こうと思ったが故の決断だったということではまずなかったであろう。
 ということは、賢治は「百姓詩人」が同人として増えることを嫌ったのだろうか。「農民詩」や「農民詩人」達とはある程度距離を保っていたいとか、彼等との接触をできれば忌避したいとかと思いつめていたのでもあろうか。それにしても、なぜ賢治は『銅鑼』への発表をある時期からぷっつりと取り止めたのか理解に苦しむところである。賢治の心の内を知りたいものだ。

 しかし残念ながらそのようなことを窺い知ることができるような資料を私は見つけることはできなかった。がしかし、森荘已池がどのように「農民詩」や「農民詩人」のことを受け止めていたかならばある程度わかる新聞記事があるのでそれを見てみたい。同じく森三沙氏の論考「昭和二十年までの賢治評価」の中でそのことが次のように語られている。 
 「友へ送る―彼の詩業に就いて」(上)森佐一 この記事は「銅鑼」同人の坂本遼の詩集『たんぽぽ』の批評である。素朴な「百姓詩人」である坂本の詩「春」「たんぽぽ」「おかん腹をおさえてくれ」を読み涙がこぼれてきてどうしようもなく、「かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもって読んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び宮沢賢治の『春と修羅』の中の「無声慟哭」とである。これらには一味通じた、虚無的な無限の淋しさがある。ことに坂本の詩は素朴である。姿が幼いので心に触れるのである。」(昭和二年十月十三日「岩手日報」文藝)
<『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、ブッキング)186p~より>
ということは、この記事によれば、森は「農民詩人」坂本を極めて高く買っていて、その詩を激賞していたことがわかる。
 ならば、これだけ森が感涙したというその詩はどのようなものであったのだろうか。まさしくそれらの詩が昭和2年10月13日付『岩手日報』文芸欄に載っていた森の記事の中にあったのでその記事<*2>を以下に引用させて貰う。
 「友へ送る―彼の詩集に就いて―(上)」 森 佐一
 『銅鑼』詩人坂本遼詩集『たんぽぽ』を紹介しよう。
 彼は土から、もくもくと踊り出た詩人である。坂本遼は兵庫縣の田舎にゐる。かれはまづしい百姓詩人である。口に筆に農民詩人を自称しながら、文學青年をあつめて東京にゐて、雑誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ。
 作品を紹介しよう、『たんぽぽ』の中から
▲『春』と題する作品▼
 みつちやんと
 やつちやんは
 蓮花田のなかで
 まるまるをした。

 何といふ素朴さであらう。幼い童児等が二人でまるまるをしたのである。春が、にこにこと笑つてその可愛いゝしぐさをみて居たのである。
 この詩の中に、私は『神』になつた坂本を感ずる。
▲『たんぽぽ』▼
 おらは肺が弱いので
 空氣のんで
 たんぽぽの冠毛をふくのや

 冠毛は寒さうに首をちぢめて
 仲よしさうに手つないで
 春といつしよに
 うれしさうにいつてしまうのや

 淋しい。限りなく淋しい姿ではないか…(略)…
▲『おかん腹おさえてくれ』▼
 もつと下
 もうちよつと下
 うん
 そこそこ
 そこが痛い
 腸が動いた。

 『おかん』はやはり方言で『お母さん』の意味である…(投稿者略)…
 かつて私は山村暮鳥の詩集『雲』をみて涙を流したことがある。涙をもつて讀んだ詩集は、坂本の『たんぽぽ』と暮鳥の『雲』及び、宮沢賢治詩集『春と修羅』の中の、無声慟哭とである。これらには一味通じた、虚無的な、無限の淋しさがある。殊に坂本のは、素朴である。姿が幼いので心に触れるのである。
<昭和2年10月13日付『岩手日報』より>
 たしかに森荘已池が言うように、坂本のこれらの詩は素朴でほのぼのとしているし、淋しさがあり、慈愛があり、饒舌ではないのに胸を打つ。
 また、この坂本の詩集『たんぽぽ』については草野心平もべた褒めであったようだ。

 そして、翌日の昭和2年10月14日付『岩手日報』には引き続いて、森荘已池の「友へ送る―彼の詩集に就いて―(下)」が掲載されていて、そこには詩集『たんぽぽ』に関してまた次のようなことなどが述べられていた。
▼『お鶴の死とおれの中に』▲
 お鶴はおかんとおらの心の中には生きとるけんど
 夜おそうまでおかんの肩をひねる
 ちつちやい手は消えてしもうた
 おら六十のおかんを養ふため働きにゆく

とある。草野と二人で、近衛舘のかたびしした二階の部屋で、私は、この詩を見て鼻がつまつた。
  …(投稿者略)…
 序文を草野が書いてゐる。
 『彼は地上に天國をひきずらうとする一つの真摯な魂である』
 『彼は旗をもたない無口な反逆者無口な仕事士である。あまりにも横溢する愛のために彼は大聲を出せない。彼の目の中に入るものはことごとく愛に還元されて苦しいのだ世界に普遍する人間性の中心、(たんぽぽ)はその縮図である』
  …(投稿者略)…
 『日本の農民階級がシャルル、ルイ、フヰリップの作品を晝休みのなぐさめの一つにするやうになると思ふのは果たして間違つたのん気な獨断だらうか。
  …(投稿者略)…
 原理充雄の跋文がある。その一節…(投稿者略)…
 『僕は坂本遼の鋼鐵のやうな意志と、その強靱な意欲の健康を常に信じている。
 『坂本の詩に就いて批評は至極無益なものゝやうに思はれる。彼は世間に向かつてとじこもりながら?い作品をとり上げた。しかしながら彼の作品を価値づけるのは、すばらしい意志のみではない。あふれこぼるゝ質ぼくと苦しみの深い内部、これはすでに坂本自身ではないか』
<昭和2年10月14日付『岩手日報』より>
と。
 この記事によれば森はこの詩にもまた鼻を詰まらせたことになる訳だが、おそらくそこに居合わせた草野心平も同様であったであろう。だからこそ、草野は前掲のようなべた褒めの序文を書いていたのではなかろうか。また、原理充雄のこの跋文からも、坂本遼が高く評価されていたことが窺える。したがって、当時坂本の「農民詩」は森、草野、原理等の心を鷲づかみにするほどの詩人であったということになろう。
 ただしこの新聞記事の最後には
▲詩集『たんぽゝ』發行所東京市外杉並町字成宗三四、銅羅社、定價一圓
<昭和2年10月14日付『岩手日報』より>
と書かれていて、この詩集『たんぽぽ』が『銅鑼社』から出版されていたことを知ってしまうと、身内の褒め言葉ということで、話半分で受けとめねばならぬだろうとは思うが。
 なお興味深いのはこの序文の中に〝シャルル、ルイ、フヰリップ〟が登場していることである。この人物とは他でもない例のシャルル・ルイ・フィリップその人であり、当時フィリップは小牧近江や農民文芸会員等の一部の人に知られていただけではなくて、草野心平も良く知っていたということになるわけだし、このような書き方を序文でしているということは一般大衆にもフィリップの名はある程度知れ渡っていたということになろう。

<*1:投稿者註> ちなみに、『銅鑼』第5号に載った「心象スケッチ 農事 三篇」だが、実際には「休息」と「丘陵地」の二篇であり、次のようなものだからである。
          休息
   そのきらびやかな空間の
   上部にはきんぽうげが咲き
    (上等の butter-cupですが
     牛酪よりは硫黄と蜜とです)
   下にはつめくさや芹がある
   ぶりき細工のとんぼが飛び
   雨はぱちぱち鳴つてゐる
    (よしきりはなく なく
     それにぐみの木だつてあるのだ)
   からだを草に投げだせば
   雲には白いとこも黒いとこもあつて
   みんなぎらぎら湧いてゐる
   帽子をとつて投げつければ黒いきのこしやつぽ
   ふんぞりかへればあたまはどての向ふに行く
   あくびをすれば
   そらにも悪魔がでて来てひかる
    このかれくさはやはらかだ
    もう極上のクツシヨンだ
   雲はみんなむしられて
   青ぞらは巨きな網の目になつた
   それが底びかりする鉱物板だ
    よしきりはひつきりなしにやり
    ひでりはパチパチ降つてくる……
              <『校本宮澤賢治全集第二巻』(筑摩書房)32p~>
          丘陵地
   きみのところはこの丘陵地のつゞきだろう
   やつぱりこんな安山集塊岩だらう
   そすると松やこならの生え方なぞもこの式で
   田などもやつぱり段になつたりしてるんだなあ
   いつころ行けばいゝかなあ
   ぼくの都合は
   まあ
   四月の十日ころまでだ
   木を植える場処や何かも決めるから
   ドイツ唐檜とバンクス松とやまならし
    やまならしにもすてきにひかるやつがある
   白樺は林のへりと憩みの草地に植えるとして
   あとは杏の蒼白い花を咲かせたり
   さう云ふうにしてきれいにこさえとかないと
   なかなかいいお嫁さんなど行かないよ
   雪が降り出したもんだから
   きみはストウブのやうに赤くなってるねえ
      ……水がごろごろ鳴ってゐる……
   おや 犬が吠え出したぞ
   さう云っちや失敬だが
   まづ犬の中のカルゾーだな
   喇叭のやうないゝ声だ
      ……ひのきのなかの
        あつちのうちからもこつちのうちからも
        こどもらが叫びだしたのは
        犬をけしかけてゐるのだらうか
        それともおれたちを気の毒がつて
        とめやうとしてゐるのだらうか……
   ははあ きみは日本犬ですね
     黄いろな耳がちよきんと立つて
     積藁の上にねそべつてゐる
     顔には茶いろな縞もある
   どうしてぼくはこの犬を
   こんなにばかにするのだらう
   やつぱりしやうが合はないのだな
      ……どうだ雲が地平線にすれすれで
        そこに一条 白金環さへできてゐる……
              <『校本宮澤賢治全集第三巻』(筑摩書房)282p~>
 どうも、坂本等の「農民詩」のような切実さも厳しさもそこには感じられず、まさに松永が主張するとおり、「あくまでも農民への同感者・同伴者のもの以外ではなく、そのように、レンズを対象よりはるか上に置」いていたように私にも見える。
<*2:投稿者註> なおこの記事の中で森荘已池は、
 口に筆に農民詩人を自称しながら、文學青年をあつめて東京にゐて、雑誌の編輯なんかばかりしてゐる奴等とは違ふ
と「自称農民詩人」を非難している。一方で、例の大正15年7月25日の〝面会謝絶事件〟の際に、森荘已池は賢治に対して白鳥省吾等には会う必要がないと言った(『私の賢治散歩』(菊池忠二著)114pより)ということだし、この事件の直前の『岩手日報』の報道では「大衆詩派詩人」白鳥省吾のことを「農民詩人」と紹介しているから、森荘已池は白鳥省吾のことも「自称農民詩人」とみなして、揶揄・反発していた可能性がある。あるいは森荘已池はこの事件の際に白鳥省吾と一緒に来た佐伯郁郎のこともこの「自称農民詩人」の一人と見ていたのかもしれない。そして、昭和2年の10月でも森荘已池は相変わらずそう思っていて佐伯郁郎等に反発していた可能性も否定しきれなくなった。

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