本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『春と修羅 第三集』の所収の詩と『銅鑼』

2016-10-06 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
「羅須地人協会時代」の賢治の詩は「農民詩」?
 さて、「農民詩」について考えているうちに、「農民詩人」渋谷定輔に話が及び、さらには土田杏村等までに関心が至ってしまって大分回り道をしてしまったのだったが、ここに辿り着くまでの道すがら、「羅須地人協会時代」の賢治の詩は「農民詩」であったのではなかろうかということに思い至った。なにしろ詩の鑑賞力の乏しい私だからその見方にあまり自信はないのだが、同時代の賢治が詠んだ詩から成るはずの『春と修羅 第三集』を通読してみると、その中の多くの詩は「農民詩」のように見えるものが少なくない。もちろん、渋谷定輔が詠んだような農民詩と違ってそこには泥の中からの叫びはなく、どちらかというと佐伯郁郎が詠むような「農民詩」というと意味でのそれだが。

 そういえば、心象スケッチ『春と修羅』(第一集)について草野心平が次のようなことを述べ、
 「春と修羅」を通読して先ず第一に感ずることはその透明な色彩と音楽である。語葉の豊富である。その底にしずかで力強い「宮沢賢治」の全貌が横たわっている。
 光と音への異常とも思われる程の鋭い感性によって、彼は山や農場などを彼の心象カメラに映した。
<『宮沢賢治覚書』(草野心平著、講談社)10p~より>
佐藤惣之助が、
 《宮澤君のやうに新しく、宮澤君のやうにオリヂナリテーをもつて、君も詩を成したまへ。》
 そこには天文、地質、植物、化學の術語とアラベスクのやうな新後體の鎖が、盡くることなく廻轉してゐた。
 <『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房)212pより>
と述べていたが、では「羅須地人協会時代」に賢治が詠んだ詩篇『春と修羅 第三集』はどのよう評価されているのだろうか。

 そこには、もはや第一集のような煌びやかかさもテクニカルターム等の豊饒の海もなくなっており、例えば永瀬清子は、
 目に見えるもの、外光的なもの、から、より内面的生活的になり、現実の農村生活の苦渋を浮かべ、その生活に挺身した人の辛苦や共感が主調となっている。
 <『宮澤賢治研究』(草野心平編、筑摩書房)93pより>
と見ている。私は永瀬のようにこんなに適切かつ上手く表現はできないが、言われてみればそのとおりだと思う。
 そして、永瀬のこの論考においてこのこと以上に賛同できそうなのことが、この論考のタイトルが「農民詩としての宮澤さんの作品」となっていることからもある程度察せられるように、永瀬は少なくとも賢治の『春と修羅 第三集』所収の詩は農民詩であるととらえていたことである。ただし、永瀬のこの論考は「農民芸術」についての話がその中心であり、タイトルにもある「農民詩」の方に関する言及があまりないことが残念なのだが。
 一方で、羅須地人協会員の一人である伊藤克已は、「先生と私達―羅須地人協会時代―」で次のようなことを述べている。
 その頃の冬は楽しい集まりの日が多かつた。近村の篤農家や、農学校を卒業して実際家で農業をやつてゐる真面目な人々などが、木炭を担いできたり、餅を背負つてきたりしてお互い先生に迷惑をかけまいと、熱心に遠い雪道を歩いてきたものである。短い期間であつたが、そこで農民講座が開講されたのである。…(略)…或日午後から芸術講座(さう名称づけた訳ではない)を開いた事がある。トルストイやゲーテの芸術定義から始まつて農民芸術や農民詩について語られた。従つて私達はその当時ノートへ羅須地人協会とは書かず、農民芸術学校と書いて自称してゐたものである。
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋版、昭和14年発行)396pより>
したがって、この伊藤の証言に基づけば、賢治は当時「農民詩」についても講義していたと考えられる。
 なお、松永伍一は、「農民詩史における『野良に叫ぶ』の位置という」論考において、賢治もその「農民詩史」の中に位置づけ、
宮沢賢治も「野の師父」「稲作挿話」「倒れかかった稲の間で」「地主」などの秀作を通じて、東北の村を形象化したが、農民それ自身の内部から湧き出てくる自己告白の強烈なエネルギーはやはり欠けているといわねばならない。その視点は、あくまでも農民への同感者・同伴者のもの以外ではなく、そのように、レンズを対象よりはるか上に置くことがかれらにとっては対象に愛をそそぐことを意味していた。
<『野良に叫ぶ 渋谷定輔詩集』(渋谷定輔著、勁草書房)204p~より>
と結論づけている。
 よって以上の事柄から、「羅須地人協会時代」に詠んだ賢治の詩篇『春と修羅 第三集』所収の中の多くの詩は「農民詩」のジャンルに入いる、と私がとらえたとしてもあながち全くの的はずれということでもなさそうだ。

「昭和二十年までの賢治評価」より
 たまたま『修羅はよみがえった』を見ていたところ、その中に森 三沙氏の論考「昭和二十年までの賢治評価」があり、その中で次のようなことが述べられていた。
 「對山漫録(上)」森佐一 詩誌及詩集 「銅鑼高村光太郎、宮沢賢治、高橋新吉、佐藤八郎、小野十三郎、岡本潤、土方定一、緒方亀之助、赤木健介、坂本遼、手塚武、草野心平、萩原恭二郎等、詩壇の中堅となるべき連中を同人に持ってゐながら時々謄写版ですらなければならないほどの貧乏詩誌であるが、最近百姓詩人猪狩満直、三野混沌を同人に加え昭和三年度から毎月発行のことにした。」(昭和三年三月二八日「岩手日報」文藝)草野心平によると、二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがあると述べている。確かに賢治は「銅鑼」第四号~第十三号まで作品を寄稿したが、第十四号から第十六号までは寄稿していない。
<『修羅はよみがえった』((財)宮沢賢治記念会、ブッキング)185p~より>
 そうだったのか。すると、草野心平が述べていたという、
 二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがある
がもし歴史的事実であったとするならば、ちょっとこのままにはしてはおけないと思った。
 早速私は岩手県立図書館に出掛けて行き、昭和三年三月二八日付『岩手日報』のマイクロフィルムを見せて貰った。するとたしかに、「銅鑼高村光太郎、宮沢賢治…(略)…坂本遼…(略)…最近北海道の百姓詩人猪狩満直、福島の百姓詩人三野混沌新たにを同人に加え昭和三年度から毎月発行のことにした」と書かれてあった。ただし残念ながら心平の証言、「二人の農民詩人が参加したことで、賢治は「銅鑼」に作品を寄せる必要がなくなったという書簡を寄せたことがある」という部分に関しては同紙に載っていなかった。したがって、この部分が何を出典として書かれているのかは現時点では確認できずにいるが、この森三沙氏の論考に従えば、賢治は「農民詩人」に対してかなり強い意識があったということが言えるだろう。この論考からだけでは、それが好意的なものだったのかとか対抗的なものだったのかなどということは私には判らないが。

 そこで、『新校本年譜』(筑摩書房)を元にして賢治の『銅鑼』への発表を調べてみると以下のようになっている。
・大正14年
 9月8日 第4号 「心象スケッチ 負景二篇」(「―命令―」「未来圏からの影」)
10月27日 第5号 「心象スケッチ 農事 三篇」(「休息」「丘陵地」)
・大正15年
 1月1日 第6号 「心象スケッチ」(「昇羃銀盤」「秋と負債」)
 8月1日 第7号 「心象スケッチ」(「風と反感」「「ジヤズ」夏のはなしです」)
10月1日? 第8号 「ワルツ第CZ号列車」
12月1日 第9号 「永訣の朝」
・昭和2年
 2月21日 第10号 「冬と銀河ステーション」
 9月1日 第12号 「イーハトーヴォの氷霧」
・昭和3年 
 2月1日 第13号 「氷質の冗談」
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
 そして、聞くところによると『銅鑼』は16号、昭和3年6月で終刊になったという。したがって森三沙氏が言うとおり、賢治は第14号~第16号へは寄稿していないことが確認できた。『銅鑼』の同人に加わった第4号からはほぼ毎号発表していた賢治だったが、第14号以降の『銅鑼』には確かに賢治は作品を寄せていなかったのだ。何か釈然としないものがそこにはある。

なぜ賢治は『銅鑼』への発表を止めたのか
 ところで、当時の『銅鑼』にはどのような人達が参加していたのであろうか。昭和3年3月28日付『岩手日報』の「文藝」の記事によれば、
  ・高村光太郎
  ・宮沢賢治
  ・高橋新吉
  ・佐藤八郎
  ・小野十三郎
  ・岡本潤
  ・土方定一
  ・緒方亀之助
  ・赤木健介
  ・坂本遼=「農民詩人」
  ・手塚武
  ・草・野心平
  ・萩原恭二郎
  ・猪狩満直=「農民詩人」
  ・三野混沌=「農民詩人」
の少なくとも15人ほどが参加していたことがわかる。そして、この中に少なくとも3人の「農民詩人」がいたことになる。
 さて次に、『新校本年譜』(筑摩書房)を元にして賢治の『銅鑼』への発表作品は『春と修羅』のどれに収められているかということを調べてみると以下のようになる。
・大正14年
 9月8日 第4号
  「―命令―」=『春と修羅 第二集』
  「未来圏からの影」=『春と修羅 第二集』
10月27日 第5号
  「休息」=『春と修羅 第二集』
  「丘陵地」=『春と修羅 第二集』
・大正15年
 1月1日 第6号
  「昇羃銀盤」=『春と修羅 第二集』
  「秋と負債」=『春と修羅 第二集』
 8月1日 第7号
  「風と反感」=『春と修羅 第二集』
  「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅 第二集』
10月1日? 第8号
  「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅 第二集』
12月1日 第9号
  「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
・昭和2年
 2月21日 第10号 
  「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
 9月1日 第12号
  「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年 
 2月1日 第13号
  「氷質の冗談」=『春と修羅 第二集』
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)』(筑摩書房)より>
 したがって、賢治が『銅鑼』に寄せた作品は『春と修羅』(第一集)か『春と修羅 第二集』の所収からであり、『春と修羅 第三集』に収められているものは『銅鑼』へは何一つ発表していないこととなり、私からすればこれはとても意外なことだった。もちろんそれは、このことからは、「羅須地人協会時代」に賢治が詠んだ詩は一切『銅鑼』には発表されていなかったということが導かれるからである。そしてなおかつ、これらの賢治の『銅鑼』発表作品を通読してみると、いわゆる「農民詩」なるものは何一つないということを私は感じだ。
 それにしても、同時代、あれだけ数多くの詩を精力的に詠んでいた昭和2年の春と夏、彼は一体何を考えていたんのだろうか? そして、なぜ賢治は、『春と修羅 第三集』所収の多くの詩の中のどの一篇も『銅鑼』には発表しようとしなかったのだろうか、あらためてとても不思議に思えてならない。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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