さてそれでは次に、「詩ノート」には留め置かれずに『春と修羅 第三集』に所収されたものの中には〔わたくしどもは〕や〔芽をだしたために〕のような類の詩はあるのだろうか。するとすぐに思い付くのが次の詩だ。
一〇三九 〔うすく濁った浅葱の水が〕 一九二七、四、一八、
うすく濁った浅葱の水が
けむりのなかをながれてゐる
早池峰は四月にはいってから
二度雪が . . . 本文を読む
それからもう一つあった。
件の「ライスカレー事件」が起こったのがほぼ昭和2年5月の始めであることが確からしいということを踏まえて、その後また「詩ノート」を読み返していたならばちょうどその頃に詠んだのであろう次のような、少し屈折した心理を詠んだ詩〔芽をだしたために〕があったからである。
一〇五九 〔芽をだしたために〕 一九二七、五、九、
芽をだしたために
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では何故私が「その前の5月にもう始まっていたかもしれない」と思ったのかというと、まずは一つは、例の「カレーライス事件」が起こったのが昭和2年の5月であったという蓋然性が高いからである。
たまたま『賢治研究6号』を見ていたならば、そこには高橋慶舟という人の「賢治先生のお家でありしこと」が載っていて、次のようなことなどがそこで述べられていた。
雪消えた五月初めのころ宝閑小学校の女の先生の勧誘で先 . . . 本文を読む
さて、天沢氏が「物語性・虚構性の強いものが主として捨てられたようである」と推測している中の一つ「〔わたくしどもは〕」の詩は、もちろん虚構はあるものの、かなりの部分が露をイメージして詠んだ詩であったのではなかろうかと私には思えるのであった。
それではこの〔わたくしどもは〕ような詩は、「詩ノート」の中に他にあるのだろうかと思ってざっと通読してみたが、顕わに「キリスト教との関連が深いもの」も含めて、 . . . 本文を読む
ところで、上田哲は論文「「宮沢賢治伝」の再検証(二) ― にされた高瀬露―」の中で、高瀬露の同僚の菊池映一氏の次のような証言を紹介している。
露さんは、「賢治先生をはじめて訪ねたのは、大正十五年の秋頃で昭和二年の夏まで色々お教えをいただきました。その後は、先生のお仕事の妨げになっては、と遠慮するようにしました。」と彼女自身から聞きました。
そこでこの菊池氏の証言に . . . 本文を読む
というわけで安易には還元できないけれども、逆に全てが還元できないというわけでもないので、そのことに留意しながらでは再び〔わたくしどもは〕
一〇七一 〔わたくしどもは〕 一九二七、六、一、
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになった . . . 本文を読む
ここで少し話は変わるが、天沢氏は同解説で次のようなことも主張されていた。
「〔あすこの田はねえ〕」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」の三篇は、農民の献身者としての生き甲斐やよろこびが明るくうたいあげられているように見える。しかし、「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終 . . . 本文を読む
では次に、肝心の〔わたくしどもは〕を改めて眺めてみたい。
一〇七一 〔わたくしどもは〕 一九二七、六、一、
わたくしどもは
ちゃうど一年いっしょに暮しました
その女はやさしく蒼白く
その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした
いっしょになったその夏のある朝
わたくしは町はづれの橋で
村の娘が持って来た花が . . . 本文を読む
たまたま『新編 宮澤賢治詩集』の解説を読んでいたならば、「詩ノート」に関して、
便宜的に「詩ノート」と名づけられ保存されたこれらの詩は、番号・日付からわかるように、「第三集」の先駆形をある段階で整理・筆録されたものだが、それらは「第三集」の詩稿用紙に書き写される際に大きくかたちを変えたものや、書き写されずにここに留め置かれたものが少なくない。「基督再臨」のようにキリスト教との関連が深いもの、「 . . . 本文を読む