本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

『宮沢賢治とその周辺』の「農業技師」

2016-09-19 08:30:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)の中の節「農業技師」を読んでいた。それは次のようにして始まるものであった
 大正十二年九月に、岩手県農会は新事業として、中経営一戸、小経営二戸、部分的共同経営組合一組合を選定し、農業経営の設計作成からその実施を県農会の技師(大森堅弥)技手(佐藤有三)―何れも賢治の同窓生が指導担当した。賢治が羅須地人協会で行つた稲作指導はその軌を一にするものであつた。例えば賢治の指導を得た安藤新太郎(大田村下坂井)が正条植、一株の本数を少なくする事、品種の従来の亀の尾から陸羽百卅二号に改新すること、肥料設計も自給肥料の増産に、化学肥料を増肥し、油粕、大豆粕の施用を控える事等は同じ指導方針であつた。勿論、馬耕による深耕も之に付随して重要な指導方針であつた。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)278pより>
ついいままでは、当時の賢治の稲作指導は時代を先取りし、彼一人が獅子奮迅の活躍をしたとばかり思っていたが、最近になって、いや賢治だけでなく当時はそういう流れは農会にも産業組合にもあったということを知りつつあったから、あくまでも『賢治だけが、ではなくて賢治も』という見方をせねばならぬのだと思いながらこの川原の編著を読んでいた。
 そして、次に続く同書の
 賢治は肥料設計相談所を花巻下町の間口二間に奥行一間の所(今の額縁屋)をかりて農業相談も受け受講者に岩手県農会の経営改善農家になつた湯口村平賀林一郎もその一人であつた。
 平賀一郎の話によると無料相談だというので、いつも数人が待つていて、自分も半日待つて相談を受けたが、その作業の敏速な事は神業を思はしめたと語つていた。肥料設計は県農会の肥料設計に比して多肥多収のもので化学肥料が多いように感じられ自分には自信が持てずその通りには実施しないといつていた。一農家(例へば平賀に)一週間から二週間かかり切りで、施肥其他一切の設計するのとは到底比較にはならないのではあるが。それで、同年七月十日には「稲作指導」を心配した詩が作られるので、二千枚もの肥料設計書を書いたと云はれる賢治は、その作柄の成否には心配であつたと思はれる。と同時に、当時の農業技術員は、勇敢に「肥料設計」を沢山作るのに驚歎し、危惧の念を抱いていたものだ。賢治の天才と勤勉それに稗貫郡下の土性調査の結果が、之を押し切つたのであろう。…(略)…
 当時亀之尾、大野早生が花巻附近の農家で栽培されていて之に多肥に耐えうる陸羽百三十二号をかえて、従来の農家の少肥に油粕、大豆粕を硫安、石灰窒素、加里肥料に置換する賢治の「肥料設計」はされ作成して貰つた農家に幾分は当惑があつたと云はれている。
 が、賢治の農学校や国民高等学校時代の教え子や協会に出入りする農民には、十分理解し得ただろうし、肥料の三要素、基肥追肥潅排水の方法等の講習に大いに効果があつたと思はれる。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)278pより>
からは、やはり賢治は天才肌でありずば抜けた才能があったのだなと感心しながら読んでいた。それにしても、「当時の農業技術員は、勇敢に「肥料設計」を沢山作るのに驚歎し、危惧の念を抱いていたものだ」というくらいだから、その稲作指導はさぞかしかなりの意気込みでもって行われたことであろう。とかく賢治という人物は謙虚な男と見られがちだと思うが、この稲作指導における良くいえば意気込み、悪く言えば思い込み、あるいは過信はどこから生まれてきたものなのであろうか。一般に、学問よりも経験の方に敬意を払う人が多いと思うが、実経験の乏しい賢治が強引な稲作指導をしたのはなぜなのだろうか。まして、いくら賢治が完璧な「肥料設計」をしたつもりでも、天候によってそれは容易に一転不完全な「肥料設計」になってしまうことは自明なはずだし、実際そのようなことが起こっていたというのに、と訝しみながら読んでいた。
 さらに同書は次のようなことも述べていた。
 …(略)…当時の岩手県の水稲栽培品種の調査指数で賢治が指導した昭和二年では陸羽百三十二号が全県で二三%の普及に及んで頃で(ママ)、賢治が百三十二号を前年から奨励し、肥料設計の対象とし、之を農家に理解せしめるに苦心したものだ。ここに「賢治菩薩」といわれ、経験の豊富な「老農の様な人」とも云はれたのであつた。
 この老農めいた保守主義に革新的社会学者から賢治の農業技師像への批判が当然に出るわけである。
 肥料学専攻で上述の稲作肥料設計を無料奉仕する賢治が、それに種芸的な個別的な日本的な――より東北的な稲作技術だけに専念して、それで農民が上手に救われるだろうか?。大正末期から昭和初期にかけても日本農業技術は一方で、耕種・種芸・施肥等の小農向きの所謂多収穫時代から、筆者が勤めた系統農会は農業簿記を記帳集計させ、農業設計を樹立する企業農業への歩みを指導し始めていた。
 岩手県農会では農業簿記を考案発売し、進取的な農業技師はこの普及指導に努めた。その普及部数は、例年二-三千五百部内外であつたが、新しい事の好きな農業技師・賢治はこの仕事には、筆者が二回ほど話したが反響はなかつた。
 又、この頃、農産物の大都市出荷が緒につき急速に農林省で奨励し、各県農業技師の関心をひいていた。岩手県では「岩手甘藍」が、華々しく東京築地市場や大阪天満市場で人気を博しつつあり、賢治のふるさとの稗貫郡地方も適地であるので、何とか特産物にしようと事もあつたが、「こうふう仕事は私にはむきません」と県農会の大森技師に断つていた。が、チンラン兎はどうかとか、田圃に新潟の様にチューリップの球根を植えましょう。之を大いに奨励してください。私も大いにやりますからと云つて県農会に来たつた。賢治の眼は東京に向いてゐると云はれているが、盛岡にも向いてゐて、岩手県農会には盛岡に来れば殆ど寄り、当時、全国の各道府県農会報が毎月刊行して、賢治は之を二時間位借覧してゐた。
 又、岩手県農会は農業関係の蔵書が相当数あつたものだ。この蔵書を賢治は読んでゐた。この記事につき大森技師とよく論戦してゐた。
<『宮沢賢治とその周辺』(川原仁左エ門編著)280pより>
うむ?〝老農めいた保守主義〟、そして「農業関係の蔵書が相当数あつたものだ。この蔵書を賢治は読んでゐた」という文言を読んだとき、私の頭の中で突如ドミノ倒しが起こった。
    賢治→家の光→犬田卯
という。これらの三つにの間には〝相似性〟があると直感したのだった。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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