本当の賢治を渉猟(鈴木 守著作集等)

宮澤賢治は聖人・君子化されすぎている。そこで私は地元の利を活かして、本当の賢治を取り戻そうと渉猟してきた。

農民文芸運動における「農民劇」

2016-09-29 09:00:00 | 『賢治、家の光、卯の相似性』
 では今回は、農民文芸運動における「農民劇」に関して少し調べたみたい。先にも引用した佐伯研二編の『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』の中では次のようなことも述べられている。
 佐伯の「農民文芸会」に於ける実質的な活動期間は、大正十四年から昭和三年六月までの間である。この間、機関誌『農民』『地上楽園』『女性文化』『家の光』『野菊』等に詩、評論を寄せ、大正十五年七月二十五日には、白鳥省吾、犬田卯と共に東北への宣伝を兼ね来盛。六日町の「仏教会館」にて啄木会主催の講演会を開催している。この講演会は、花巻、釜石でも開催の予定であったが、主催者側の不手際と、白鳥省吾の急用で実現されなかったとある。佐伯は、その四日後の同月二十九日から、外山牧場にて一ヶ月ほど過ごして同月十月刊行の『農民文芸十六講』の「農民詩・民謡」を執筆する。
 また、この頃各地で、農村文化の向上を目指しその一環として、農民演劇が盛んになり、昭和二年四月十五日には、多摩川河畔で上演された「農民劇」を中村星湖等と共に観劇している。この様子の紹介文を、岩手日報に寄稿。同年五月の春には、農民文芸会主催の「公開講演と農民劇」を読売新聞社講堂に於いて開催しこれに参加。同三年二月六日、牛込の産業組合中央会事務所に於いて開かれた「農民文芸座談会<家の光座談会>」には、白鳥省吾、中村星湖、有元英夫、古瀬傳蔵、徳水清治、中村直弌、田尻久子等と共に出席し、農民文学について懇談している。この座談会には、他に野口雨情、犬田卯が出席予定であったが、急用のため欠席したとある。
           <『佐伯郁郎と昭和初期の詩人たち』(佐伯研二編、盛岡市立図書館)12pより>
 ちなみに、これが
【佐伯郁郎が所有していた『農民文芸十六講』】(『人首文庫』所蔵、平成28年9月28日撮影)

である。
 この頃、佐伯郁郎は女子高等学院教授だったはずだからおそらく夏休み中であり、その休みを使って外山牧場で『農民文芸十六講』のための原稿を書いていたのであろう。そして『農民文芸十六講』は同年の10月には発刊されているわけだから犬田卯が「早くも原稿は二ヵ月を要せずにしてまとまり」と『日本農民文学史』』(小田切秀雄編・犬田卯著、農文協)で証言しているとおり、佐伯郁郎も電光石火で原稿を書き上げたのであろうことが容易に推察される。まさしく犬田卯の言うとおり佐伯郁郎は「仕事がしたくてうずうずしている新人」の一人だったのだろう。なお、佐伯研二氏の「農村文化の向上を目指しその一環として、農民演劇が盛んになり」という指摘にも留意しておきたい。

 さて、先ほど登場してきた佐伯郁郎が中村星湖と一緒に観劇した〝多摩川河畔で上演された「農民劇」〟についてだが、それこそ前掲の「農民文芸座談会」でもそれについて話題になっており、次のようなことなどが話されている。
 例えば、白鳥省吾の「この間玉川に行つてご覧になりました時どういふ風の御感想でしたか」という問いに対して、中村星湖は次のように答えている。
 簡単には申し上げられませんがたゞあそこの芝居は農民劇といふても御承知の通り俳優になる人は農民ばかりでなく商賣人も居り色々でありますから、純然たる農村劇農民劇といへないと思ひます。指導者達は一生懸命指導して居ります今に自分のものになり段々よくなるろ思つて居ります。斯ういふ企ては方々にあるのです。随分徳川時代から古い歴史を持つて二百年も續いてゐるといふのがありますが、たいてい中頃衰微したものが多いやうです。どういふ關係か知りませんが大正十一年頃から流行して方々に起こつて来ました。
          <『家の光(昭和三年三月号)』(不二出版〔復刻版〕)より>
 そして、これに対して中村直弌が「縣でいひますとどこでしょう」と問うと、その実例として
   ・中村星湖は 山梨県の富士の裾野の
   ・白鳥省吾が 信州は佐久郡平根村の
   ・中村直弌は 山口県の郷里の
「農民劇」の隆盛をそれぞれ挙げて語っている。
 これらのことからは、先ほどの佐伯研二氏の指摘同様、大正11年頃以降日本のあちこちで「農民劇」が盛んになっていたということが読み取れる。さらには、その「農民劇」の取り組みは実際に成果をもたらしているということなどを中村星湖は次のように語っている。
 種々な記録等で農民劇の起こりを調べて見まするにその起こりは大抵同じであります、つまり若い人達がつまらない実に忙しくて働いていても金も取れない不満だその不満を癒さうといふのが根本です自分達の生活の生きがいあるものにしたいあれもしたらいゝだらうこれもしたらと最初寄合いをして知識階級の人達が相談し、先づ第一に生活の苦労を忘れる方法、生活を楽しむことから考へた末、芝居が出来るかまたまあやつたことがないがやつて見ようといふことになる。背景はどうする絵心のあるものは背景を描く、音楽の出来るものは音楽を受け持つそれから女の人達は衣装方にばつて衣装を作るなるべく金をかけないやうにして段々にやつて行く中に結構出来る初めは五人七人位の集まりであつたのが段々に組織的になり、余り金をかけずに家業にも差支ない程度において芸術的に自己を表現して行くといふことになり、家業の邪魔になるところでなしに、生き甲斐が出て来るからよく働くようになる、家の親達も初めはの真似なんかして怪しからぬと心配してゐたのが、却て以前より真面目に仕事をするやうになつたと大変喜ぶ、こういふ例は溝ノ口でもよく聞きました道楽者でとても箸にも棒にもかゝらなかつたものが、青年団に芝居を立てゝ貰つてから大変真面目に仕事も精を出してやり大きな声ではいはれないが悪所通ひも随分やつたけれども、今はそういふ悪いところに行かなくなつたと親達が喜んで居るそうだす。
 あるいはまた
 外の芸術では個人的の技倆によつて上下がありますがこれはそういふことはなく各個人の得意の仕事をやる背景の出来るものは背景を受持つといふ風にしてやる、そして一人で芝居は出来ません一つの芝居に少なくとも四五人十人の人が必要でそれは表に立つもの背景を書くものも、照明もあるし、衣装方といふ風にして種々と必要で集団的の聨合芸術といはれるのでありま、従つて自分達の共同の仕事といふ観念が段々強くなり共同といふ精神が養はれ、俺はよい役をやりたいまたはくだらない役では厭だ等といふことはなしに仕事によつては縁の下の力持ちのやうなものでも背景の裏の方で働くやうな役目の人も決して不平をいはずに気持ちよくやるらしいそういふ風にして集団的の芸術といふものは他にはありません
           <ともに『家の光(昭和三年三月号)』(不二出版〔復刻版〕)より>
 ということは、農村の若者達が「農民劇」に取り組むことを通じて「芸術的に自己を表現して行くといふことになり、家業の邪魔になるところでなしに、生き甲斐が出て来るからよく働く」ようになったり、若者達に「共同といふ精神が養はれ」たりするようになったと、中村星湖は語っていることになる。この〝共同といふ精神〟については『家の光』が創刊された趣旨が「共同精神」の涵養にあったはずだから、まさしくそれが「農民劇」に取り組むことによって達成できるということになる。「農民劇」はそれだけ実効的な実践であるという確信が、『家の光』にも、「産業組合」にも、そして「農民文芸会」にもあったということなのであろう。
 それは、この「農民文芸座談会」は〝文芸〟と銘打ってはあるものの、この座談会の内容が載っている『家の光(昭和三年三月号)』を見てみるとその座談の内容の約半分は実は「農民劇」に関することであることからも窺える。中村星湖を始めとするこの座談会の参加メンバーがいかに「農民劇」を重視していたかということがわかる。そしてもちろんこの想いは犬田卯も同じであったであろう。この座談会に参加を予定していたとい犬田卯だったがたまたま急用でそれができなかったということだから、この座談会に出ておれば犬田卯も中村星湖同様熱弁を振るっていたであろう。そのことは『家の光(昭和3年1月号)』の〝新年特別大附録農村劇 「伸び行く麥」〟を見てみるだけでも容易に察することができる。そこには、「農民劇」に取り組んだことがない人達でも、この大附録を読み込めばそれが容易に上演できるようになるはずだという犬田卯の至れり尽くせりの配慮があり、そこからは「農民劇」にかける犬田卯の熱意が伝わるものになっているからである。

 一方これは、以前『昭和戦前・戦中期の農村生活』において触れたように、その著者板垣邦子氏が次のように指摘
 農村の経済的不振、青年男女の都会集中、小作争議の頻発にみられる農村良風俗の荒廃を憂うという立場から、『家の光』は農村文化の建設を提唱する。その趣旨は、農村が独自の立場を堅持し、なおかつ現代文明を摂取して農村にふさわしい文化を建設し、生活の豊かさをとりもどさねばならないというものである。退廃に堕した都会文化への憧憬を捨て、健全な農村文化を築くべきであるという。
していたことに対応していて、「農民劇」に熱心に取り組んだことによってその地域へは、『家の光』の提唱したこの趣旨に沿ったような成果が着々ともたらされていったということになろう。当時の「農民劇」は、多くの農民、それもとりわけ若い農民を巻き込んだ農民文芸運動であったということであろう。中村星湖が指摘するように、「農民劇」以外の農民文芸の場合であれば個々人の適性・技量の違いによって誰にでも容易にできるというわけにはいかないが、「農民劇」であればそれぞれの持ち味を生かしながら協力し合うことによって〝集団的の聨合芸術〟が実現でき、農村にふさわしい文化を建設して生活の豊かさを感じられるようになったということになろう。
 したがって、「農民劇」は当時多くの農民、それも若い農民を巻き込んだ実り多い代表的な農民文芸運動となったということであり、それが故に当時日本のあちこちの農村で広く「農民劇」が上演されたという見方ができると思う。これが農民文芸運動における「農民劇」の位置づけということになるのではなかろうかと私は考えている。
 そしてもちろん、この「農民劇」については賢治もかなり重視していたことが昭和2年2月1日付岩手日報の報道からもわかる。それも、彼の場合には『目下農民劇第一回の試演として今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく夫々準備を進めてゐるが』と、この頃すでにその上演の準備を着々と進めていると取材に答えていたからである。また、この「農民劇」については同年3月8日に始めて賢治の許を訪れた松田甚次郎に対して賢治は
 そんなことでは私の同志ではない。これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る言葉はこの二つだ――
   小作人たれ
   農村劇をやれ
           <『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)より>
というように故里の鳥越に戻ったならば「農民劇(農村劇)」に取り組めと迫り、熱く語って〝訓へ〟たと言えるからである。実際この〝訓へ〟は鳥越に戻った松田甚次郎をして数々の農民劇を上演せしめたことは周知のとおりである。
 なお、かくのごとく『家の光』や「農民文芸会」が位置づけていたのと同様に「農民劇」を重視していたと思われる賢治だったが、彼が目論んでいた〝農民劇『ポランの廣場』六幕物〟がその秋(昭和2年の秋)に上演されたという事実はなかったようである。そしてそれ以降も。そういえば、かつての宮澤賢治年譜を見てみれば、
 昭和二年
  △ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す
<『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)より>
であったから、「今秋『ポランの廣場』六幕物を上演すべく」と当初は思っていた賢治だったが、その秋になると上京していて忙かったから上演できなかったのかもしれない。

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《鈴木 守著作案内》
◇ この度、拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』(定価 500円、税込)が出来しました。
 本書は『宮沢賢治イーハトーブ館』にて販売しております。
 あるいは、次の方法でもご購入いただけます。
 まず、葉書か電話にて下記にその旨をご連絡していただければ最初に本書を郵送いたします。到着後、その代金として500円、送料180円、計680円分の郵便切手をお送り下さい。
       〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木 守    電話 0198-24-9813
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)

 なお、既刊『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』、『宮澤賢治と高瀬露』につきましても同様ですが、こちらの場合はそれぞれ1,000円分(送料込)の郵便切手をお送り下さい。
 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

◇ 拙ブログ〝検証「羅須地人協会時代」〟において、各書の中身そのままで掲載をしています。


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