岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

「常不軽菩薩」について

2018-04-13 09:00:00 | 賢治と法華経
《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》

 では今度は〝「常不軽菩薩」について〟という節に入る。まず田口氏は、「雨ニモマケズ手帳」の121p~124pに書かれている文言、
121p
   あるひは瓦石さてはまた
   刀杖もって追われども
   見よその四衆
        に具はれる
   仏性なべて
        拝をなす

122p
   不 軽 菩 薩
123p
   菩薩四の衆を礼すれば
   衆はいかりて罵るや
   この無智の比丘やいづち
             より
   来たりてわれを礼するや

124p
   我にもあらず
         衆ならず
   法界にこそたちまして
   たゞ法界ぞ法界を
   礼すと拝をなし給ふ
            〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)202p~〉
を紹介している。

 そしてその内容についてだが、田口氏は「いうまでもなくこれは「常不軽菩薩品第二十」に登場する「不軽菩薩」を描いたものである」と前置きして、次のように意訳していた。
 この菩薩は、出家している人にも出家していない人にも出会った人々すべてに「あなた方は皆菩薩として修行し仏陀になれる方々ですので心から尊敬します」と告げるのだった。
 人々は突然そういわれたので、浄らかな心を持たない人々は怒り、罵り、悪口を言い、そんなことは信ぜられないと、人々はこの菩薩を棒で叩いたり、石を投げつけたりして迫害したが、この菩薩は棒や石の届かない所まで逃げ去り、「私は、あなた方を軽蔑しません、なぜなら皆さんは仏になる方々だからです」と言ったので「軽蔑せぬ」から「不軽菩薩」という名がつけられたということである。
            〈同205p〉

 そこで実際には同手帳を見てみると、
【121~122p】

【123~124p】

           〈いずれも『校本宮澤賢治全集 資料第五(復元版宮澤賢治手帳)』より〉
というように、なんと一文全体が赤い文字で書かれていた。
 そこで次に同手帳の全頁を捲ってみると、一文全体が赤い文字で書かれた個所は他にはない。一方で赤い文字で書かれているということは、一般的には当該の部分は他の部分より重要な部分である。となれば、この「不軽菩薩」に関する記述内容には賢治のかなり強い想いが込められていると言えそうだ。

 さらに田口氏は、
 不軽菩薩は「デクノボー」であり、「デクノボー」は賢治の理想であり、賢治自身であるという考えが通説である。
            〈同206p〉
と紹介していた。なるほどと私は思いながらも、多少違和感も感ずる。それは、賢治にとって「デクノボー」とはもうちょっと複雑な想い(コンプレックスあるいは悔恨等)が込められているのではなかろうかと思ってしまうからだ。

 実は、賢治が下根子桜に移り住んで約一年が過ぎた頃に次のような詩を詠んでいる。
  一〇三五
     〔えい木偶のぼう〕
                   一九二七、四、十一、
   えい木偶のぼう
   かげらふに足をさらはれ
   桑の枝にひっからまられながら
   しゃちほこばって
   おれの仕事を見てやがる
   黒股引の泥人形め
   川も青いし
   タキスのそらもひかってるんだ
   はやくみんなかげらふに持ってかれてしまへ

            <『校本 宮沢賢治全集 第六巻』(筑摩書房)>
つまり賢治はその当時、「デクノボー(木偶のぼう)」に「怒り、罵り、悪口を言」っていたといえるからだ。賢治がそうされたのではない、賢治が「黒股引の泥人形」に対してそうしたのである。当然この当時の賢治が「デクノボー」になりたいとか、そう呼ばれたいと思っていたわけがない。そしてこの「黒股引の泥人形」とは貧農、恐らく小作人であったであろう。そのような泥人形の「木偶のぼう」に対して賢治が苦々しく思い、石を投げつけたいような衝動にかられていたと言える。とてもとても、この詩〔えい木偶のぼう〕を詠んだ頃の賢治は巷間言われているような賢治像とは真逆であろう<*1>。

 そこで逆に考えられることは、賢治はこの破廉恥がいつまでも心のしこりとなっていて、己を苛んでいたということはなかろうか。そしてその慚愧の念などがこの「デクノボー」には込められているのではなかろうかと私は思ってしまうのである。言い換えれば、「「デクノボー」は賢治の理想であり、賢治自身である」という見方は通説とは言い難く、少なからず修正せねばならないのではなかろうか。かつて貧しい農民と思われる人物に対して「えい木偶のぼう(デクノボー)」と罵ってしまった情けない己こそが、実はその「木偶のぼう」そのものであったという事を覚ったところに、自分はそのような情けない人物なのだということを受け容れようと覚悟したところに、〔雨ニモマケズ〕の一つの意味と価値があるのではなかろうか。
 端的に言ってしまえば、
    不軽菩薩は賢治の理想であっても、賢治にとってのデクノボーは不軽菩薩ではない。
となるのではなかろか。賢治にとっての「デクノボー」にはもうちょっと複雑な想い(慚愧や悔恨等)が込められているのではなかろうかと私には思えるからである。

<*1:投稿者註> 実際、賢治の教え子小原忠は、
 櫻での生活は赤裸々に書き残されているのでそれを見れば一目瞭然で、過労と無収入のためかムキ出しの人間賢治が浮き出されている。
             <『賢治研究13号』(宮沢賢治研究会)5p>
と見ていた。

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