《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
では、折伏とは何か。理崎氏は、 智学の『本化摂折論』は、経典や日蓮遺文を縦横に引用して日蓮教学を追究したもので、賢治はこれを書き写している。「摂折」とは摂受と折伏、「折伏」とは誤った宗教を断固批判して正法に帰伏させること、「摂受」徒は相手を一応認めて穏やかに法を説くことをいう。重悪には折伏、軽悪には摂受と『勝鬘経』は説いている。ゆえに、悪世の末法は折伏に限る、日蓮の本意はあくまでも折伏で摂受ではないと、智学は断じている。…(投稿者略)…
「日蓮世を恐れて之を言はずんば仏敵と為らんか」
「法華経の敵を見ながら置てせめずんば師檀ともに無間地獄に疑ひなかるべし」
こうした遺文を賢治は書き写している。
〈59p~〉「日蓮世を恐れて之を言はずんば仏敵と為らんか」
「法華経の敵を見ながら置てせめずんば師檀ともに無間地獄に疑ひなかるべし」
こうした遺文を賢治は書き写している。
と教えてくれている。
そして、
この時の賢治は単に仏教研究がしたかったのではない、これからの生き方を真剣に模索して、法華経の信仰とは何を実践するものなのか、を追究していたのである。
〈61p~〉と理崎氏は断じていた。
つい私などは、年老いたせいでだろうか、基本的にはそれこそ「摂受」と思っている。しかしそれではだめなのであって、例えば、
ことに対しても「摂受」ではなくて「折伏」せねばならないのだろうか。しかし、私にはそこまではどうも徹底できそうにない(ということは、言い換えれば、これはその人の性格にも拘わってくることではなかろうか? ということはないか、論理の飛躍か)。
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なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
・「聖女の如き高瀬露」
・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。
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