岩手の野づら

『みちのくの山野草』から引っ越し

賢治の国柱会入会

2018-03-26 10:00:00 | 賢治と法華経
《『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)の表紙》

 では次は「宮沢賢治の国柱会入会」という節に入る。
 先の〝◎法華経との遭遇〟により、賢治が法華経に出会った経緯等については知ったが、ここではその後国柱会へ入会するまでの法華経とのかかわりについておおよそ次のような事柄等が述べられている。
 盛岡高等農林時代だが、潮田豊の思いでによると、「大正五年の早春毎朝北寮から力強く読経の声が流れた。室長さんは、宮沢さんが法華経をあげているのだといわれた。」
 また、中嶋信もにたようなことを追想している。
 大正七年になると父への折伏をはじめた様子が書簡から読み取れる(書簡46、48)。
 友人への折伏も試みていて、「漢和対照 妙法蓮華経」を送った成瀬金太郎(書簡55)、そして「執拗なまでに帰正入信をすすめた」という保阪嘉内(書簡50、59、74、75、76、166、177、178、181)
 さらには、大正9年12月信仰益々篤く、花巻町内を唱題しながら寒修行<*1>をして歩き町民を一層驚かせたのである。
 かくて年が明けて1月には、住み込みで国柱会の活動をしようと家出、上京することになるのである。
            〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)60p~〉

 ということであれば、とりわけ一つの疑問が湧いてくる。大正7年といえば、賢治はもう22歳のはずだが、その彼が父を折伏せんとして父子の諍いが絶えなかったというからである。具体的には、次の節〝◎家出上京〟の冒頭でに次のようなことなどが述べられているから、その冒頭を見てみると、
 賢治の妹シゲの『人生とか宗教について、つきつめて激しく論じ合うのでした。兄さんは「お父さんの信仰する真宗は、全く無気力師のものです」と難じました』証言を紹介し、国柱会に入会してことで、父との宗教上の問題について論争を始めたと。
 田中智学は、青年時代に…(投稿者略)…摂受主義教学に反抗して、「折伏」こそ日蓮宗の心髄であると宗門を脱して独立し「蓮華会」を創設したのである。由来国柱会の真髄は、「折伏」である。賢治が国柱会員として、父親を説得し日蓮宗に改宗させようと試みたことは理の当然であり、…(投稿者略)…
            〈『宮沢賢治と法華経について』(田口昭典著、でくのぼう出版)68p~〉
という。さりながら、「当然の理」と言われても、私のような者からすればそこまでもして父を熱心に改宗させようとしていたということはほぼ理解不能だし、従前抱いていた私の賢治像からはほど遠い。逆にいえば、そのような賢治もまた賢治の特性の一つであったいうことにもなるのだろうか。

 なお周知のように、少なくとも当時の賢治の父に対する折伏は叶わなかったし、そのほかのことも上手くいかなかったようだから、これがやがて上京出家へと繋がったということが引き続き述べられているのだが、それは次回へ。

<*1:投稿者註> 佐藤隆房によれば大正10年1月頃、
 あちこちの店の大戸が閉められ初(ママ)めた十時頃の往來に、上町の西の方からリンリンと透る美しい聲で「……法蓮華經、南妙法蓮華經、南妙……」とお題目が流れて來ます。だんだん近くなるとその聲は、聞く人の身體がひきしまるやうな、悲壯と思はれる熱烈な信者の聲です。帽子も被らず、絣の着物にマントを着、合掌をして過ぎて行きます。
 或る店の前を過ぎる時、店の人々は驚いた顔して申しました。
 「あれは賢治さんだな。」
 「本當に賢治さんだ。」
 その時、恰度その店に來てゐた賢治さんのお父さんは、その話を聞いてびつくりしました。
 「あの馬鹿が。あの馬鹿が。」といひながら急いで店前に出て來ましたが、その時は賢治さんは最早ずうつと向ふの方へ行つてをりました。
           〈『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)38p~〉
というような賢治の寒行があったという。
 あるいは、鈴木操六(花巻農学校大正12年3月卒)は、
 冬の夜、公園下にある親類の病院へ用事で出かけての帰りだったんですが、御田屋町に差しかかると、和尚さんが一人、すげがさをかぶり、うちわ太鼓を持って軒下でお経を上げていた。低い声で読経し、合掌し、軒から軒へと回っていた。これが宮沢先生だったんです。当時の街の人はだれでも知っていたが、実際にそういう宮沢先生を見たものは少ないと思う。八時か九時でしたか。雪の降る夜で、私はご苦労だなあと思った覚えがあります。街の人たちは変人だと言い、私ら先生を尊敬している生徒たちは立派だと思う――そのころ、宮沢先生に対する評価はこの二つに分かれていたと思います。先生は知人や友人の家でお経を上げたいたのでした。
           〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社 盛岡支局)104p〉
と証言している。これも寒修行のことだと思うが、何年頃の事だったのだろうか。農学校教諭の時代だったのであろうか。

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