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すずりんの日記

動物好き&読書好き集まれ~!

小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~7

2006年09月23日 | 小説「雪の降る光景」
 彼らは散々暴行した挙句、はぁはぁと息を切らせながら、もう一度私を押さえつけ、傷口が開いてしまって真っ赤に染まっている右腕の裾をまくった。そして、私の右腕を地面に叩きつけた。
「どうだ。謝る気になったか?」
ハーシェルは、ポケットからタバコを取り出し、ライターでその1本に火をつけて大きく煙を吐き出した。
「震えた声で凄まれても、別に何も感じないがな。謝る気になったか、だって?まさか。」
地面とキスをしそうな口で、私は微笑んでみせた。彼はタバコをプカプカ吹かしていて、何も言わなかった。しかし、肩がかすかに怒りで震えているのがわかった。
「わからなければこうしてやる!」
彼はいきなり、私の右手の傷口を踏みつけ、思い切り体重をかけてきた。ぐっ!と私の口から音が漏れると、彼は、いかにも嬉しそうに、ゆっくりとしゃがみ込んだ。そして、くわえているタバコを、私の右の手首の辺りで揉み消した。
 手首の皮膚が、ジュッと音を立てて強張った。右の肩から指先一本一本までが、痛みを他に発散させないように筋肉を固くしていた。私は、顔を半分地面に押し付けたまま、開いた傷口の痛みが次第に麻痺してくれるのを待っていた。まるで意識を無くしたように、静かに待っていた。それが、ハーシェルに、勘違いをさせてしまったらしい。彼は、こう言った。
「こいつはもうおしまいだ。・・・いいか、おまえらがこいつの仲間でなかったらこのまま帰してやるところだが、あいにく俺は、こいつの仲間まで何もしないで帰してしまうほどお人好しじゃないんだよ!」
 彼のその言葉が、友人たちへ危害を加えようとする合図であることを私が感じ取った時、既に彼らは、私の仲間に暴力を振るっていた。
「やめろ!やめてくれ!やめないと・・・、やめないと・・・。」
やめないと、君たちが痛い目に遭うんだぞ。私の仲間は、そう必死で警告しているのに、バカな奴らだ。私はそう思いながら、ふつふつと沸き起こってくる怒りに、身を起こしかけていた。
 右手の傷は、完全に麻痺し、痛みは全く無くなっていた。私は起き上がる時、無意識のうちに右手を支えに使っていた。私は幼い頃から、痛覚と感情を精神力でコントロールすることができた。よって、怒りで痛みを消すことなど、なんてことはなかった。私と数人の仲間はそれを知っていたが、ハーシェルたちは、かわいそうに、それを知らないのだ。
 今、ハーシェルたちは誰一人として私に注目していなかった。私はもう気を失っていると誰もが思っていたので、私の友人たちへの暴行に全力を尽くしていたのだ。ハーシェルは、自分がボスであることを内外ともに知らしめるかのように、唯一人、拳を振り回している自分の仲間と殴られている私の友人を遠回しに見つめていた。その彼さえもが、私が倒れていた場所に背を向けているせいで、私が背後から彼に近づいて行くのに全然気づいた素振りを見せなかった。
 私は、彼の後頭部に息がかかるほどの距離まで近づき、不意に左腕を彼の首に巻きつけた。一瞬彼は、驚いて声を出せずにいたが、私がギリギリと腕に力を増していくと、私の腕と首の隙間に指を滑り込ませようともがきながら、こう叫んだ。
「くっ、苦しい!やめろー!」
私は、その叫びを待っていたのだ。そして、その思惑通り、彼の仲間たちはびっくりして拳や蹴りを止めた。彼らはこちらに目をやり、呆然としていた。彼らのうち数人は、目を見開き、怯え、私の方に殴りかかろうとした2人の仲間を制止させていた。きっと、この間私がケガをした時、ハーシェルと一緒にいて一部始終を見ていた連中なのだろう。彼らが今日も仲間に加わっていたことは、ハーシェルたちにとっても、私にとっても、都合が良かった。彼らが私の恐さを知っているなら、ハーシェルたちは大事な仲間にケガをさせないで済むし、私は、この間以上に本気にならなくても相手に敗北を認めさせることができる。
「知らなかったのなら覚えておけ。俺たちにケンカを売るなら、俺を一発で殺るか、自分も同じ目に遭う覚悟が必要だってことをな。」
私は、左腕の力を抜くこと無くこう言ったが、彼らはその言葉を聞く前に、既に後悔をし始めていた。特にハーシェルには、耳元から聞こえてきた私の言葉が、私はおまえを殺すことなんか何とも思ってないんだぞ、というふうに聞こえたに違いない。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~6

2006年09月20日 | 小説「雪の降る光景」
 私は、ハーシェルから何か情報を得ようとする時、普段見せない笑顔を彼に向けるだけで良いのだ。そうすれば彼は、それを私に邪魔される前に行動に移さなければいけないと思い込み、焦って、必ず失敗する。そうして私は、その情報を手に入れるどころか、それを元に、彼が考えた間抜けな計画を失敗に終わらせることさえできるのだ。
 私の姿の無い異国では、さぞ伸び伸びと仕事に励んでいることだろうが、私がボルマンから聞く前に手に入れた情報によれば、彼の上司であるゲシュタポのヒムラー長官が、かつての私のように、彼のその性格を一手に握り、彼に殺しの訓練を行う時、こう耳打ちしたのだそうだ。
「いいか、おまえが目の前の相手を殺らなければ、その相手はおまえを殺し、こう言うだろう。『ゲシュタポのハーシェルという奴は、ドイツ国内では有能でヒトラーにかわいがられていると噂されていたらしいが、敵を目の前にして、震えて銃の引き金も引けないなんて、とんだ腰抜けだ。おれは可笑しくて腹を抱えて笑った。奴の死体は、収容所行き間違いなしだ。』とな。」
ハーシェルは、その時ヒムラー長官が見せた含み笑いを見て、私のことを思い出したのだろう。それからというもの、彼の名は、内外ともに恐れられるようになったという。

 私はその後、そこに居合わせたクラスメートたちに、今起こった出来事を一切外に漏らさないように堅く口止めをしてから、早退した。校内の医務室に行っても、傷口を縫うことまでできないし、こんな大きなケガをした理由を問われて、いちいち答えるのも面倒だ。私は学校を退けたその足で、軍の病院に立ち寄り、10針縫ってもらった。
 
 その後、抜糸をしてしばらく経ったある日、私は、ハーシェルとその仲間たちから待ち伏せをされた。私はその時一緒だった4人の友人たちに、先に帰るように言ったが、ハーシェルの仲間たちの方が、はるかに人数が多く、素早く囲まれてしまった。私は、巻き添えを食わせてしまった友人たちに対して、ハーシェルが何も危害を加えていないのを確かめて、彼の言葉を待っていた。
「この間はよくも恥をかかせてくれたな!」
私は、彼らが何を言い出しても決して反抗しないように、と、友人たちに目配せをして、こう言った。
「おまえらも運が良かったな。あの時、もしケガをしていたのがおれじゃなく、後ろにいたクラスメートだったら、恥をかいただけじゃあ済まなかったろうな。」
「半殺しの目にでも遭わしてくれたってのか?」
「いいや。完全におまえの息の根を止めてたよ。」
「なっ、なにぃ!」
脇で私の腕を押さえ込んでいた2人の男が一層強く腕を捻り、私の両肩が、ギシッと音を立てた。その音を聞いて、ハーシェルがさらにこう言った。
「おまえが土下座しておれに謝って、この前のことは誰にも口外しないと誓うなら、このまま帰してやる。」
「そのセリフ、そのまま返してやるよ。」
彼は何も言い返せず、歯をギリギリ言わせていた。そして、こう言うしかなかった。
「やってしまえ!」
私は一斉に、数人の男に殴られ、そして蹴られた。
 私の友人たちは、他の誰よりも私の隠れた残忍性を知っていた。今ここにいる者の中で、散々な目に遭わされている方が“ヘビ”で、殴る蹴るの暴行を働いている方が“カエル”であるということを、他の誰よりも正しく認識していたのだ。友人たちは、ハーシェルたちが恐くて手が出せなかったのではなかった。手を出して、ハーシェルの仲間が友人の腕の一本でもつかもうものなら、その男の方が、私に酷い目に遭わされてしまう、ということを知っていたのだ。
 私は、ひたすら暴行を受けた。友人が誰一人として乱暴な扱いをされていないということを確かめた上で、だ。


(つづく)
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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~5

2006年09月18日 | 小説「雪の降る光景」
 友人たちは、ただじっとうずくまっている私を医務室に連れて行こうとしたが、私が1人で立ち上がると、自分たちの声が聞き入れられたと思って、ほっとしていた。ところが私は、友人たちの期待を裏切り、医務室のある方向に背を向けて、教室の中で互いに責任のなすり合いをしているハーシェルたちの方へ歩き出した。
 ナイフが刺さったままの右手から、ドクドクと、血が止めどなく流れ出すのがわかる。彼らは、ナイフを投げたのが自分ではないことを主張し合って騒いでいたが、私が、床に滴り落ちる血に見向きもせず、ただ自分たちを睨んで真っ直ぐに歩いて来るに従って、声を静め、次第に恐怖におののいていった。私は、この怒りを、より効果的に相手にぶつけるためのこの演技に、浸り切っていた。
彼らの集団の前まで来た時、私は右手を差し出し、彼らによく見えるように、目の前で、真っ赤に染まったナイフを左手で抜き取った。彼らの集団から悲鳴が漏れたが、それを無視し、私は血でぬるぬるしたその柄を左手に持ち、それに注目するように促した。
「このナイフを投げたのは、誰だ?」
その集団は、1人残らず、答える言葉を失っていた。
「この右手のようになりたくなければ、さっさと出て来い。」
私が声を押し殺してこう言うと、無言のまま彼らの視線が、集団の中の一番気の小さそうな奴に向けられた。・・・かわいそうに。彼が生贄になったのか。私はうっすらとそう思いながら、次のセリフを口にした。
「君のナイフか。偶然そこで拾ったんだ。返すよ。」
 そう言って私は、ナイフを彼に手渡すしぐさをした。そして、彼が手を差し出すのをにこやかに待っていた。彼がビクビクしながら、ゆっくりと、左の腕を動かした。私は、小刻みに震える彼のその手にしっかりとナイフを握らせるために、真ん中にぱっくりと穴の開いた自分の右手で彼の手首をつかみ、その手のひらにナイフを置いた。傷口の熱と血の感触を、彼の手首は、確かに感じていた。
「ありがとう、は?」
彼の、恐怖に見開いた眼に、私は優しく笑顔で応えた。
「・・・あ、ありがと、う・・・・・・。」
「どういたしまして。」
私は彼の手を離し、視線を彼から集団へと移した。彼らは全員、自分たちの元に戻ったナイフを凝視していたが、私が自分たちの方に顔を向けたのを感じると、もうこれ以上バカな真似をしないでくれ、と哀願するような素振りをした。
「このナイフの持ち主は、誰だ?」
彼らは、私が、自分たちが普段から行っている脅しの手段でビクつくような相手ではないことを、今ではもう充分認識していたので、今度は、素直に、その持ち主の方を見た。ハーシェルだった。私は、これまで以上に、にこやかな表情でこう言った。
「クラスメートに傷を負わせたくらいでそんなにびびるようじゃあ、この右手も、君に罪を償わせる甲斐が無いじゃないか。帰ってママにでも、震える足をさすってもらったらどうだ?」
 私は、自然に笑みが込み上げてきて、口元が歪んでくるのを感じていた。ハーシェルが今にも泣き出しそうな顔をしているのを見て、自分の演技があまりにもうまく演出されたのが嬉しかったのだ。私は、その余韻に浸りながら、完全に打ちひしがれたハーシェルたちを残し、満足気に、その場を去った。

 私たちと彼らしかいないこの場で、彼らが私1人をひざまずかせられなかったということは、彼ら―――特にクラス1の人気者のハーシェル―――としては、相当なダメージであった。「あらゆる情報をどこからともなく手に入れ、それを決して他人に漏らさない」「何もかも見透かしている」という私に対してのイメージが、彼の被害妄想に拍車を掛けているらしい。私がチラッとハーシェルに微笑みかけただけで、彼は、今自分が、どの女の子をどんなふうに騙してものにしようとしているか、どの人間を、ゲシュタポに告げ口をして失脚させようとしているか、全てを私に読まれて、もうおしまいだ・・・と思ってしまうのだ。しかし、彼にとっての本当の悲劇は、その妄想を自分の取り巻きに、打ち明けられずにいることである。

 しかし、私は、知っているのだ。


(つづく)
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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~4

2006年09月14日 | 小説「雪の降る光景」
 「ハーシェルとは、うまくいってるのか?」
「せっかくのブランデーがまずくなる。」
私がそう言うと、ボルマンはもう何も言わなかった。
 
アドルフ・ヒトラー学校で私と同期だった、彼、ハーシェルは、自分の弱い臆病な心がみんなの目を引かないように、体中に、「正義」や「博愛」や「良心」という誇大広告を貼り付けていた。しかし、私だけは、本当の彼を知っていた。自己顕示欲が強く小賢しい、自分が上にのし上っていくために利用できる人間には媚を売り、利用価値の無い邪魔になる人間は、自分の鬱憤の捌け口とする。その彼の本当の姿が、将来彼自身を破滅に導くことになろうとは、この時誰も想像していなかったに違いない。
 彼は、彼自身でさえ今後の影響力を量ることのできない、その自分の本性を知っている私を煙たがり、学生の時に2度、私の体に傷を負わせた。それも、仲間を大勢巻き込んで、だ。卒業して、互いに違う部署でナチスとして働くようになってからは、顔を合わせることも滅多に無い(彼が私を避けているのだ)が、被害妄想の激しい性格からして、次に会った時、いきなりナイフで私を一刺しにしても決して不思議ではないだろう。
 私はこれから先、彼と会わずに生きていけるならどんなに幸福だろう。と、思う反面、あのような、精神的に脆い性格の青年が、どんな大人に成長したか、見てみたい気もしていた。

 「彼は今、ゲシュタポとして、ポーランドで優秀な成績を修めているそうだな。」
ボルマンが、私の忠告を無視して再び口を開いた。私は、グラスに入ったブランデーを一気に飲み干し、ジッと彼を見つめた。
「おいおい、ちょっと待ってくれ。別に君を怒らせたくて言ってるんじゃあないんだよ。」
「じゃあ、どういうつもりだ、ボルマン?」
「・・・近々、彼が帰国するんだよ。」
「なんだって?本当か、それは。」
「本当だとも。きっと正式に、総統から御話があるだろうがな。・・・どうだ、言ってもらって良かっただろう?」
「あぁ、ボルマン、感謝するよ。」
 私は、その後ずっと、ハーシェルのことを考えていた。式典から帰って来た総統が、私とボルマンの前を行ったり来たりしながら、何かブツブツ言っていたが、まるっきり上の空だった。

今から十数年前、アドルフ・ヒトラー学校への入学の年、私はハーシェルとクラスメートの1人として初めて出会った。彼は偽の正義感と清潔感で日に日に取り巻きを増やし、あっと言う間にクラスのリーダーシップを取るようになり、それは教官も公認するほどになった。一方私は、クラスの人気者のハーシェルや、ハーシェルの傍でおこぼれをちょうだいすることに何の興味も無かったので、私と同様、口数の少ない地味なクラスメートと、たまに好きな本や共感する思想について語ったりといった、実に目立たない学生生活を送っていた。
そんなある日、たぶん、先生に怒られたか、友達と口喧嘩したか、妹に朝食をぶん取られたかのどれかだったと思うが、私は朝からとても機嫌が悪かった。登校して2、3人のクラスメートと一緒に、教室に入って来るところだった。その時ハーシェルは、教室の中で、彼の取り巻きと一緒にある遊びをしていた。ドアに同心円をいくつも描いて的を作り、ナイフを投げて点数を競うのだ。私はそのドアを開け、ナイフが、自分の顔めがけて飛んで来るのを見た。
 その瞬間、私は、とっさにナイフを避けて、そしてその飛んで来たものを手で受けていた。その刃物は私の右手の甲まで突き抜け、柄が手のひらの手前で止まっていた。私の右手からは血が噴き出し、木目模様の柄が、真っ赤に染まっていた。―――私はうずくまっていた。しかし、痛みは感じなかった。“ここで鬱憤を晴らしてやろう”という名案が浮かび、必死に薄笑みをこらえていたからである。


(つづく)
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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~3

2006年09月11日 | 小説「雪の降る光景」
 私とボルマンは、並んで、主に密談に使われる、こじんまりした部屋に入って行った。私が、自分より10歳以上年上の彼に敬意を表してドアを開け、ボルマンに先に入るよう合図をすると、彼は、自分より10歳以上年下であっても総統の側近としては同期である私に対して申し訳無さそうに、軽く頭を下げて部屋に入った。彼はソファーに座らずに、窓際に立って、私がドアを閉めるのを待った。そして外の風景から目をそらし、私の方に向き直って、口を開いた。
「秘書の仕事の方はどうだね?」
「なぁに。秘書と言ってもただの付き人のようなものさ。ナチスの動きは君が把握しているし、私生活の秘書は、エバがやってくれているしね。」
「私は常々思っていたんだが、総統とエバが一緒なのを見ると恋人同士のように見えるが、君と彼女を見ていると、まるで夫婦のように見えるよ。」
私は驚きと共に呆れた顔でボルマンを見た。
「おいおい。ヒムラー長官に捕まるぞ。」
「そういう意味じゃないよ。我々はアドルフ・ヒトラーを、ドイツの最高責任者として見ているが、君とエバは、唯一この世の中で、アドルフ・ヒトラーを、アドルフ・ヒトラーとして見ている。つまり、血のつながった父と母のようなものだと言っているんだよ。」
「・・・狂人の父親か。では、この戦争で我々が負けたら、私は間違いなく死刑だな。」
「それは私だって同じだ。・・・しかし、私たちは死ぬわけにはいかないのだ。」

 ボルマンは、ちらっと窓の外を見た。そして、こう言った。
「・・・で、今日は何だね?」
「あぁ、実は、ワルシャワゲットーのことなんだが。」
そう言って、私もボルマンに釣られて視線を窓の方に移した。外では、小鳥がさえずり、木々の枝が微風に揺れている。ここはなんて平和なんだろう。
「ゲットーはなるべく早く壊すつもりだ。」
「中にいるユダヤ人は?」
「昨年は40万人いたユダヤ人が、今は20万弱に減った。最終的には、ゲットーを壊した時点で残りの者を逮捕し、収容所へ送る。」
「その予定の日時と人数は?」
「いつになるかは、わからない。が、我々はここから、約3万の輸送しか見積もっていない。だから、ゲットー内が3万になるのを待つか、もしくは、・・・万が一、何か問題が起こって、それ以前にゲットーを破壊することになれば、ゲットー内で彼らを処理しても良いことにしている。・・・と、まぁ、こんなところだ。」
私はボルマンのその言葉に理解を示し頷いたが、どうしてもこの窓の外の平和と、自分たちの現実の会話が結びつけられずにいた。
「何か、不満でも?」
「いや、ただ、実験に間に合わずに死んでいくのが惜しいのだ。どうせ、死んで皮を剥ぎ取られ、油を搾り取られるのなら、黙って死ぬよりも、実験の成果を残して死んでもらいたいものだよ。」
「材料ごとき、そんなにけちって使わなくても良いさ。足りなくなったら、またどこかから連れて来ればいいんだ。殺人部隊のナチス親衛隊ならユダヤ人どころか、カトリック教徒、チェコスロバキア人、ポーランド人、ロシア人、・・・とにかく被支配人種であれば、なんでもありだからな。」
「ゲシュタポのヒムラーに頼めば、親衛隊を総動員してどこかの国の大統領だって国王だって調達してくれるだろうな。」
「そういうことだ。」
 彼はそう言うと、グラスにブランデーを注ぎ、1つを私に手渡し、もう1つを、自分の目の高さで窓から射し込んでいる日の光に透かして、にっこりと笑った。


(つづく)
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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~2

2006年09月08日 | 小説「雪の降る光景」
 戦争は、終わりに近づいている。それは確かだ。しかし、勝利は、確かなものではなくなってきている。敵は、イギリス、ロシア、そしてアメリカ。この3国こそが、我々が今まで占領したどの国々よりも強大であり、恐怖なのだ。我々、ナチスの幹部たちは今、この3国への進出と、千年帝国を夢見て現実離れしがちな、わがままな総統のことで、頭がいっぱいなのだ。
 昨年5月に、有能な副総統を失ってからは、なおのことだった。彼、ルドルフ・ヘスがイギリスへ飛んだことが、はたして総統の意志だったのか、それとも彼自身の意志だったのかは、誰も知らない。しかし、私個人の意見を言わせてもらえば、彼の行動は、返って我々の首を絞める結果となった。私ならあんなバカな真似はしない。彼が、「偽の友好のため」に飛んだのではなく、「ナチを裏切り、その罪から逃れ、イギリスの牢獄に“安楽の地”を求めた(つまり、亡命だ)」のならまだ話はわかる。だが、なぜよりによって・・・。まぁ、いい。どっちにしろ、彼がイギリスで捕らえられたおかげで、私が収容所所長の後釜につくことができたのだから。

 私は、総統が正午を過ぎないと帰らないのを承知で、いつも通り、9時ちょうどに彼の邸のドアを叩いた。愛人のエバ・ブラウンが、ドアを開け、私を中に入れた。
 

 「相変わらず時間には正確ね。でも総統はまだ帰って来ていないわよ。」
彼女は、世慣れしていない街の少女のようでも、ナチ幹部の夫人の座に満足し切った醜いブタのようでもなかった。ただの強い女―――自分の愛した男が普通の労働者なら、こんな鎧を身にまとう必要も無いのだが―――そんな印象を人々に与えた。
 親しい仕事仲間に対しての笑みをエバに投げかけ、私は頷いた。
「でも、総統がお帰りになる前に、マルチン・ボルマンに会っておきたいのです。」
「あら、そうだったの。新しいナチスの党首になったボルマンさんに、何か改めて聞きたいことでも?」
「収容所の実験材料の在庫が残り少ないものでね。」
「それで相談に?」
「えぇ。」

 ボルマンが、私の後ろで慌しくドアを開けた。
「やぁ、遅れてすまないね。朝っぱらから子供たちがうるさくってね。なんせ10人もいるもんだから。」
真面目な上に子煩悩な彼は、そう一気に話し終えた。全く、彼がナチスの党首をしているなんて、信じられない。彼がナチの制服を着ている理由は、ただ、自分が主人と崇めている人物が、たまたま帝国の総統になってしまったからだ。彼の尊敬する人物が、たまたま共産党員であったなら、彼は、何の躊躇も無く赤旗を掲げていただろう。そして家庭に戻れば、10人の子供と1人の妻を(そして1人の愛人をも)極めて民主主義的に扱う。それでいて、この落差を全く不自然に感じていないのだ。
「ボルマンさんに、ヘスさんの後任としての手解きをしてもらったら、今度は私が、総統の秘書としての特訓をしてあげるわ。」
そう言い残し、彼女は、広い庭を一望できる一番大きな部屋―――ここが、総統と彼女の2人のリビングなのである。―――に入って行った。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~1

2006年09月04日 | 小説「雪の降る光景」
 雪が、・・・降っている。一面の銀世界の中、私がこっちを向いて笑っている。私は確かに、膝まで雪に埋まったその女の子に視線を向けているのに、その女の子が私であることを、知っている。確か、私は男であったはずだが・・・。
 楽しそうに、心から笑っている。時々、彼女(私)は、しんしんと降る雪を、愛しそうに見つめたり、両手を広げて天を仰いだりしている。まるで運命の絆で結ばれた1人の男から、愛撫を受けているような感じさえしてくる。それでいて、少しもいやらしくなく、何か、物悲しく、切ない。・・・あぁ、そうだ。まさしく彼女は私であり、私は彼女なのだ。彼女の魅せられた顔つきが、哀しいほど輝いている。・・・あぁ、私が永く忘れていた何か、何かが私に涙を思い起こさせる。何か、熱い、熱い、哀しい・・・。


 目が覚めた時、私は、涙を流していた。一体なぜ、自分が涙を流しているのか、なぜこんなにも、胸がいっぱいになっているのかがわからずに、私はしばらく、放心状態でベッドに横たわっていた。時計の針が6時ちょうどを指している。
「兄さん!起きてちょうだい!」
毎日毎日正確に時を告げる妹の声が、今日も階下から聞こえてきた。私は、何の躊躇も無く涙を拭い、何の感情も無くベッドから起き上がった。そして、制服に着替えると、小さな丸い鏡の前に立った。私は、そこに映っているのが昨日と同じ自分―――無表情で、冷静沈着、氷のようだと噂されている1人の男―――であることに一種の安心感を覚えた。
そして、ゆっくりとつぶやいた。

「ハイル・ヒットラー。」

今日は、エルウィン・ロンメル将軍の、陸軍元帥任命の式典が行われる日なのである。

 
 軽く朝食を取り、私は家を出た。そして、ロンメル氏の式典に参加している総統の「安楽の地」、ベルヒテスガーデンへと向かった。
 毎日が、このように判で押したような生活であった。何の喜びも、楽しさも、嬉しさもいらない。そんな、感情を一切必要としない生活を、私は不満に思うどころか、この生活が壊れないように、とさえ思っている。今日もそんな、何の変哲も無い日々の中の1日だった。しかし、何かが違っていた。・・・雪。そして、その中で笑っている自分。その夢を見て、涙する自分。―――ふっと不安が遮る。「今の生活が崩れてしまうのだろうか。」―――しかし、その不安は、いつしかナチスの心の中で、氷となって閉ざされてしまった。

 あの日、ポーランド軍の制服を着たS.S.(ナチス親衛隊)の隊員が、ドイツ領内のグライヴィツにある放送局を襲撃した。
「ポーランド軍の、この一連の国境侵犯は、ポーランドがもはやドイツの国境を尊重する意思の無い証である。この狂気の沙汰に決着をつけるために、私は、この瞬間から、武力には武力を以って対処するしかない。」
総統が、そう言い放って、でっちあげの「報復」の火花を切ったあの日、1939年9月1日、侵略の口実を得たドイツ軍は、一斉にポーランドへ流れ込んだ。2日後、イギリス、フランスが、我がドイツに宣戦布告をし、第二次世界大戦が始まった。その後、今日まで、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク等のヨーロッパ諸国(なんとあのフランスまでも!)を侵略していった。
 しかし、総統は、イギリスに勝つことができなかった。それどころか、私たちが止めるのも聞かずに、
「イギリスに止めを刺すのは片手でもできる。」
と言って、ロシアに目を向けたのだ。私たちは、聞き分けの無い子供をあやすように、彼に、ロシアの冬期決戦は危険であることを諭した。彼は案の定、それを聞かず、ロシアの内陸部に足を伸ばして行った。それが、ドイツ軍を厳しい寒さで封じ込めてしまおうとする敵の作戦だとも知らずに・・・。そのうちに、太平洋側では、日本が真珠湾を攻撃し、アメリカまでが公的に戦争に加わり始めた。あの、第一次大戦の悪夢である二面戦争が現実になったのだ。


(つづく)
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小説「雪の降る光景」小休止3

2006年05月01日 | 小説「雪の降る光景」
ようやく、小説「雪の降る光景」第1章が終わりました。

以前ここに書いた通り、
次の、第2章の前に、第1章を手直ししたいと思います。

先日、改めて、第1章を読み直し、
いただいた感想や指摘を読んでみました。

う~ん、やっぱり、
前後の繋ぎや、後に出てくる文章との絡みなどを考えると、
難しいですね~。

まぁ、焦らずにやろ。

良いものを作るんだから、
簡単にいかないのは当たり前だしね。

自分の力が及ばないせいで、うまく皆さんの望む作品に仕上がらない、というのと、
どうせ自分の力が及ばないからそれ以上の努力をしない、というのは違いますからね。

期待しないで、待っていてやってください

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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~終

2006年04月25日 | 小説「雪の降る光景」
 「ねぇ、兄さん、兄さんはどう思う?」
「どう思うって?」
「チャップリンよ。チャップリンの、『独裁者』、どう、感動的じゃない?」
私の仕事を、ナチ党の事務員だと信じて疑わないアネットは、無邪気に言った。
「あぁ、確かにな。」
「彼の訴えている人道主義に、心を打たれるでしょう?」
「あぁ、確かにな。」
「もう兄さんたら!他に言うことは無いの?」
クラウスは、徐々にアネットの口調が刺々しくなってきたのを感じ取り、急に黙々とパンをちぎって口に入れ始めた。
「確かに、彼が作り出す作品が訴えることは、もっともなことかもしれない。しかし、だから何だと言うんだ?」
「兄さんは、たくさんの人が訳も無く逮捕されたり殺されたりしている今のドイツに、何も感じないの?」
「“訳も無く逮捕されたり殺されたりしている”んじゃない。彼らは、ユダヤという、生まれながらにこうなる理由がある。彼らに対して、我々がいちいち何かを感じてやる理由が無いんだ。・・・私はな、おまえたち2人が結婚して幸福になってさえくれれば、他には何もいらないよ。」
アネットとクラウスは、互いに顔を見合わせ、同じように顔を真っ赤にしてうつむいた。
「それに・・・」
私は、冷めてしまったスープに泳がしていたスプーンを置き、席を立つ用意をした。
「1人の人間を殺した者は犯罪者としての扱いを受けるが、100万人人間を殺した者は、英雄として世に受け入れられるものなんだよ。・・・いずれ、おまえたちが愛するチャーリー(チャップリン)も、全世界から追放しなければな。」

 私は、自分のベッドに横たわりながら、ヤヌスという、奇形の双頭神をふと思い出し、その、互いに反対の方向を向く2つの頭にそれぞれ、チャップリンと総統の面影を重ね合わせた。彼らは似ている。しかし、全く似ていない。少なくとも私にとって彼らは、善と悪といった次元での存在ではない。ただ、出来が良いか悪いか、それだけなのだ。出来が良い方も悪い方も、そう違いがあるわけではない。アドルフ・ヒトラーという人間に対して、親の―――それもどちらかというと母性に近い―――愛情というものを、私が抱いているとしたら、もう片方にチャールズ・チャップリンの頭を持つその存在自体を、私がいとおしく感じているのは間違いない。とすれば、私は彼を追放する気など無いということか・・・。
 目を閉じると、自分のそんな思いも全て、事実として受け入れられるような気がする。しかし、ナチスの私にとっては、その事実があまりにも夢うつつのように思えてならないのだ。このことは、この戦争が終わったとき、初めてゆっくりと噛み締めることができるだろう。

 私は、自分が足を踏み入れてしまった運命に、かすかな不安を覚えたが、その不安が、何に基づいたものなのか答えを出すことができないまま、いつしか眠りに就いた。



(第1章Ⅱ・終)
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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~7

2006年04月22日 | 小説「雪の降る光景」
 アネットが、無造作に、両手に持ったスープの皿をテーブルに置いた。
「お待ちどうさま!さぁ、兄さんも、そんな暗い顔をしないで!元気を出してちょうだい!クラウス、さぁ遠慮しないで!」
クラウスは、その言葉が終わらないうちに、大柄な彼らしく、一口で入りきらないほどのパンの塊を、スープに豪快に浸した。
「うん、これはうまい!アネット、君は料理の天才だよ!」


 ―――私は、総統が狂気の頂点に昇りつめることを望んでいる。私は、総統がユダヤを殺すことを望んでいる。私は、総統が1000年帝国を作り上げることを望んでいる。・・・私は、彼がいとおしいのだ。


 「・・・こうして、オスタリッチの首都に着いた床屋は、今、併合を宣言すべく壇上に立った。そしてマイクに向かってこう言ったのだ!『私は皇帝になりたくない。誰も支配したくない。ユダヤ人も、黒人も。・・・人生は、楽しく自由であるべきだが、貪欲が人間の心を毒し、世界中に憎しみの垣根を作ってしまった。・・・ハンナ!見上げてごらん。雲が切れて、太陽が差し込んできているよ。暗い世界から抜け出し、私たちは光明の世界にいるんだ。ハンナ!お聞き・・・。』」
「『独裁者』かね?」
「えぇ、ラストのチャーリーのセリフですよ。・・・どうだい、アネット?」
「いつ聞いても感動的だわ!あぁ、一度でいいからチャーリーの凛々しい姿を見てみたいものだわ。」
クラウスは、うっとりした顔のアネットをたしなめるように言った。
「それは無理な話だよ、アネット。だってそうだろう?彼の姿を見、彼の言葉を聞いた人間は涙を流して、彼の“人間主義”に賛同せずにはいられなくなるんだ。そうすれば、独裁政治を正当化しようとしている政治家は、生きてはいられなくなるんだからね。」
私は、19世紀にフランス人が愛して止まなかった、あの、“ギロチン”が、今ここに無くて良かった、と思った。


(つづく)
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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~6

2006年04月18日 | 小説「雪の降る光景」
 私は午後の実験の報告書にサインをし、デスクの上に、白衣と一緒にその書類を放り投げて、今日の任務を終えた。
まっすぐ家に帰ると、妹のアネットが、お帰りなさい、と叫んだ。
「お邪魔していますよ。」
妹の婚約者であるパン屋のクラウスが夕食に招かれて、使い古したテーブルに着いていた。妹は、奥のキッチンに立って、黙々と料理を作っていた。クラウスは、我々と同じドイツ人でありながら、我々ナチスのやり方に反感を持っている。彼は、ナチスとしての私を憎み、私は、反ナチ分子としての彼を憎んでいる。そんな彼を、どうしてよりによって妹の恋人として認めているかと言えば・・・、簡単なことだ。私は彼を反ナチとして見た事は無いし、彼もまた、私をナチスの一員として見た事が無いのだ。もし、私と彼が、ナチスと反ナチとしての関係であったなら、その間に立つ妹はどうなってしまうだろう。私は妹を愛している。そして、クラウスも。彼らは、ナチスとして、ではなく、1人の人間としての、私の最後の砦といっていいだろう。
「総統は、お元気ですか?」
クラウスは、皮肉たっぷりに言った。
「あぁ、相変わらずだよ。」
私はそうつぶやくと、クラウスと向かい合ってテーブルに着いた。
 

 アネットとクラウスが、私が人として生きていくための最後の砦なら、アドルフ・ヒトラーという人間も、私がナチスとして生きていくために必要不可欠な存在かもしれない。私にとって彼の存在は、“手の付けられないわがままな子供”のようなものなのではないかと思う。ただ、普通の子供と違うのは、彼のわがままを、狂気が支配しているということだ。そう。彼は狂っている。しかし、それが何だというのだ。正気を失っている彼の下で働いている私たちが、はたして彼を、彼が狂っているということを、非難することができるのだろうか。所詮、正しい者の下では狂った者はやっていけないし、狂った者の下では正しい者はやってはいけないのだ。私は彼の敵に回ることはできないし、彼を見殺しにすることもできない。・・・彼が死ぬ時、自分も死ぬ。それは、我がドイツの支配者とその部下としての感情ではない。例えば、知恵遅れでわがままに育った子供を守るために他人への迷惑をも黙認してしまう母親の愛情のようなものだ。「君とエバは、唯一この世の中で、アドルフ・ヒトラーを、アドルフ・ヒトラーとして見ている。つまり、血のつながった父と母のようなものだと言っているんだよ。」―――何の深い意味も無くそう言ってのけたボルマンの屈託の無い笑顔が、一瞬、脳裏をかすめた。
 アドルフ・ヒトラーに、本当の意味で親としての愛情を注いでいるのが、彼の産みの親ではなくこの私だとしたら、・・・それが事実なら、私が彼に注ぐ愛情と全く同じものを、この私に対して注いでくれているのは、はたして誰なのだろうか。いや、“誰なのか”というよりも、“存在するのか”と問うた方が良いかもしれない。私を包み込んでくれるもの、そのようなものがこの世にあるのだろうか。人でなくても良い。犬でも、猫でも、馬でも、山でも、海でも、雲でも、雪でも。・・・そう。何も語らずとも、ただ、真っ白な雪が、私の、頭や肩や手のひらに降り注ぐ・・・。ただ、それだけで、良いのだ。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~5

2006年04月14日 | 小説「雪の降る光景」
 「イギリスの御方には、少し刺激が強すぎましたかな?」
「私はイギリス陸軍第5編隊の、ディック・アンダーソン少佐だ。我がイギリス軍には、敵軍の中にあって怯える者など1人もいない!」
「・・・私たちにとってあなたは、ただの実験材料に過ぎません。あなたが何という名であろうと知ったことではありませんよ。あえて言うなら、あなたの名前は、“サンプルナンバー725”といったところですよ。」
「・・・サンプル・・・。」
私は、充分に彼に自分の今の立場を噛み締めさせるための間を与え、言葉を続けた。
「そう。それも、ただのサンプルではない。困ったことに、あなたは気が弱く、虚栄心が強い。また、軍隊という温室の中で育ち、その上、少佐などという肩書きまで持っている。
「イギリス軍隊は温室ではない!」
「あなたたち軍人が、日頃どのような訓練を受け、健全で強靭な肉体を作り上げているかは知らないが、いざ敵に捕まると、軍人は必ず、自分の肩書きを以って死から逃れようとする。自分の率いていた部隊を敵地へと導いた、自分の作戦の失敗に対する償いを棚に上げてね。」
「我々はそんな腰抜けではない!」
私は、一瞬彼から視線を外し、改めて諭すように彼を見上げた。
「いいえ。あなたの隣でたった今死んだ老人のように、肩書きも富も無い、名も無い人間こそ、ただ純粋に、自分の運命を呪って厳然と死に臨むのです。」
「それ以上の侮辱は許さんぞ!」
「それならあなたに身を以って見せていただくしかありませんな。これ以上生きて恥をさらすよりも、自分は、死して我が過ちを償う、と。」
今までの強気な態度が、一気に影を潜めた。いや、影を潜めた今、見せたあの蒼白な顔つきこそが、彼の本当の姿なのだ。もう、彼は大丈夫だ。
「そうでなければ、愛すべきイギリスの名を汚すことにもなります。」
 彼は、目の前のロープを凝視し、ごくっと唾を飲んだ。彼が返事をせず、ゆっくりと両手を上げて、自らの力でロープをつかんだので、私は黙ってそれを見ていた。そして、私が少し長い瞬きをした時、彼は、その言葉通り、死を以って祖国イギリスへの償いを終えた。高い鉄骨の上にあったはずの彼の足が、私の目の前で、力無く揺れていた。
「実験が・・・終了、しました。」
足場の上で、力を振り絞ってサンプルナンバー725のロープを解いていた入所3ヶ月の若者は、そうつぶやくと、そのまま気を失った。



(つづく)
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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~4

2006年04月09日 | 小説「雪の降る光景」
 サンプルと同じ部屋にいた1人が、私たちのいる部屋に入って来て、こう言った。
「用意が整いました。」
私が軽くうなづくと、それを見て、1人がガラス越しに、隣の部屋にいる仲間に合図を送った。
 ユダヤ人の老人は、横に立っている研究員に軽く背中を押されて、あっけなくロープの輪の中に顔を収めてしまった。そして、前に押されるまま、一歩一歩力無く足をずらしていった。老人の動きが、ほんの少しためらいを感じたように見えたちょうどその時、彼の足は宙を歩き、彼の首はロープの摩擦でギリッと音を立てた。この瞬間、この事実から目を背けたのは、サンプルの横に突っ立っていた、入所3ケ月目の若者だけであった。私を始め、私の横に一列に並んでデータを取っていた5人の部下は、顔を背けるどころか、ペンを持つ指先以外は、ぴくりとも動かさなかった。誰も声を立てず、誰も途中で止めようとはしなかった。サンプルの足が台を探り、ばたつき、そしてヒクヒクと小刻みに震えを来した。ロープの輪は次第に首に食い込み、ギシギシという音に混じって、ヒュウヒュウという、ロープで潰された気管からわずかに漏れる呼吸音が聞こえる時には、既にサンプルの顔は死の恐怖を迎える気力も無く、一種の放心状態になっていた。爪先に、その台の感触を感じて老人は最後の力を振り絞ったが、無駄であった。とうとう力尽き、老人は何の物音も発しなくなった。
「7秒です。」
誰かがそう言った。首を吊ってから呼吸が停止するまでの長い7秒間を、ずっと目を背け、吐き気を催しながら耐えてきた若い研究員は、静かにロープを緩め、遺体を床に降ろした。
 そしてもう1人―――その7秒間が、長く両目に焼き付いて離れないもう1人の人物―――は、気丈に、その震えを最小限に食い止めているようだった。部下が足場を伝って、すこし離れたそのイギリス兵士の横に立った時、若者の目は正気を失いかけていた。
「私が中に入ろう。」
私は、万が一、このサンプルがこの場から逃げようとした場合、それを食い止めるのに、吐き気を催し膝をがくがくさせている若者1人だけでは困難だと判断し、隣の部屋に入った。高い場所から私を見下ろしている部下に、無理をするな、黙って立っていろと目で合図を送り、今閉めたドアの側を離れて、彼が落ちるべき場所に向かってゆっくりと歩きながら、私は彼を見上げた。


(つづく)
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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~3

2006年04月03日 | 小説「雪の降る光景」
 実験室に入ると、4人の研究員が白衣に身を包み、大きなガラスで仕切られている隣の部屋に目を向けていた。その視線がこちらに向いたのを確かめると、私は白衣のボタンを1つ1つ穴に通しながら、後ろ手にドアを閉めた。
 「今日も半日出勤ですか、所長。」
両手をポケットに突っ込んだまま、1人がそう言った。
「まぁ、そう言うなよ。これでも、午前の報告書には目を通しておいたんだ。」
「今、2人でサンプルの用意をしています。」
「これは何の実験だ?」
「首吊り、です。」
私は隣の部屋とこちらを仕切っているガラスの前に立った。2体のサンプルが、目隠しをされて3メートル程の鉄筋の足場の上に立っていた。その足場の、さらに高い場所から、頭がすっぽり入る程度のロープが吊り下げられ、それぞれの顔の前にゆらゆらと動いていた。1人のサンプルの落下予定地点では、1人の研究員が小さな台を置いていた。
「首が絞まった状態が同じでも、体が完全に宙吊りになり全体重が作用する場合と、足が台に着いて全体重が作用しない場合の相違点を調べるのです。」
「1体はユダヤ系だな。もう1体は、イギリス人か?」
「えぇ、軍の捕虜です。今回は、人種は関係ありません。体重のみを考えて選びました。」
なるほど。確かに、骨格は違うが両方とも同じくらい痩せこけている。上半身裸の2体のうち、足場の下に小さな台を置かれたユダヤ人の方は、さすがにここでの生活が長かったせいか、ノイローゼ状態のようだった。彼なら、ガラス越しに見える私の姿を自分の息子と錯覚し、私の方へ手を差し伸べようとして足を滑らせ、自ら首を吊ることも可能だろう。もう一方のイギリス軍人の方はというと、厳しい軍隊での生活が体中からにじみ出ているようだった。その軍隊での訓練の1つとして、今のような状況に置かれた時の適切な行動も、当然教えられてきたのだろう。「あくまでも生き延びる手段を見出せ。もし、その可能性を見出せなければ、自らの手で死を選ぶしかない」・・・彼の上官は彼に、そのように教えたはずだ。敵の生体実験とはいえ、教えの通りに自ら命を絶てる手段が、自分の目の前にあるのだ。彼は、サンプルとして自分が選ばれた時から、自分の首がロープの輪にかかる瞬間のことだけを考えてきたに違いない。私の部下が、彼らの両手を自由にさせ、目隠しを取ってしまったのも、そのようなことを考えに入れていたからなのかもしれない。


(つづく)
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小説「雪の降る光景」第1章Ⅱ~2

2006年03月28日 | 小説「雪の降る光景」
 私はイスに腰掛ける前に、午前中に行われた実験の報告書が無造作に置いてあるデスクに上着を置き、その書類を手に取った。

「サンプルNO.710 25歳 男
溺死に至る各器官の変化。

水温15~20℃。サンプルはプール内で遊泳中、溺死。
解剖結果は、次の通りである(図、写真は別紙に添付)。

溺れて水を飲んだ際、鼻の奥から鼓膜の裏側に通ずる耳管にも水が入り込むと、毛細管のような耳管に水の栓ができ、続けて水を嚥下すると、耳管の栓がピストン運動を起こし、鼓室やこれに通ずる乳様蜂巣に、陰圧、陽圧が繰り返し生ずる。そのために、乳様蜂巣内の被膜や毛細血管が、圧の急変で破綻し、耳の奥で中耳や内耳を取り囲む錐体の中に出血が起き、錐体の中心にある三半規管が、錐体内うっ血や出血のために機能を低下させる。その結果、平衡感覚が失われてめまいを起こし、泳ぎのうまい人間でも溺れてしまう。
耳管は、子供のときは真っ直ぐであるが、成長するにつれて、少しねじれを生じて完成することから、子供は大人より耳管に水が入りやすい。つまり、あらゆる水難事故において、単に体力の差だけでなく、耳管の構造により、子供は大人より溺れやすい、ということがわかる。

なお、実験後、遺体は衛生的に、かつ速やかに処理した。


                                  以上。   」

 私は、1ページ目を読み終えると、余白にサインをした。いつもながらよくできた報告書だな、私はそう思った。このサンプルが、新しく死体処理に使用する予定の穴に水を満たした後、なぜ急に溺死したのか、大体見当はつく。このサンプルが100%この実験の意図に沿って溺死するために、立ち会った部下は、水に浸かった弱ったユダヤ人に向かって、威嚇発砲でもしたのだろう。この、いつ見ても自然を装った実験方法の描写と、それとは逆に、あくまでも正確で断定的な結果報告。・・・全く、いつ見ても、よくできている。
 私はデスクの上の時計をちらっと見て、いまだに真っ白のままの白衣に手を伸ばした。午後12時45分。あと15分ほどで、午後の実験が始まる。


(つづく)
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