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すずりんの日記

動物好き&読書好き集まれ~!

小説「雪の降る光景」第2章5

2006年11月17日 | 小説「雪の降る光景」
 私とボルマンはお互いに顔を見合わせ、相手が自分と同じく呆れ顔なのを確認した。
「総統、・・・いきなり、何を言い出すんですか。」
ボルマンは、これほど不機嫌な総統がジョークなど言わないことはわかってはいたが、ジョークであることを祈ってわざと明るく返事をした。
「私の元に、ハーシェルがあの事件に関係しているといった密告があったのだ。」
総統の足音が止まった。
「ハーシェルはあの爆弾のことを前もって知っていた。だからあの場所にいなかったのだ。そう私に知らせてくれた者がいたのだ。奴は犯人の仲間だ。奴を逮捕しろ!」
総統は、私とボルマンに内緒話をするように顔を近づけてきたが、静かに興奮し始めた総統の声と手振りは段々と大きくなり、歯止めが利かなくなってきていた。
「奴は私を殺そうとしたのだぞ!今すぐ逮捕しろ!もしこの逮捕を阻止しようとする者がいたらそいつも共犯だ!そいつらもまとめて捕らえろ!今すぐにだ!」
総統は、急に狂ったようにそうまくし立てた。
 この一声で、総統が部屋の外で待機させていた2名のゲシュタポが、私とボルマンの指示を待たずに外に走り出し、他の10名ほどの兵士にも総統の言葉を伝えて車で八方に散らばっていった。私とボルマンはそれを止めることもできずに、ただ呆然と突っ立っていた。私は混乱する頭で、「おまえもハーシェルの仲間なのか!」という言葉が総統の口から出ることの無いような、差し障りの無い言葉を必死で探していた。
「総統、・・・我々はこのままここに残り、ハーシェル逮捕の連絡を待ちましょう。」
私はそう言うと総統の返事を待ったが、彼は無言のまま軽く頷き、愛人のエバのいる別室に向かった。
「ハーシェルには悪いことをしてしまったな。」
独り言のようにそうつぶやいた私の言葉を聞いて、ボルマンは私の肩を叩いてこう言った。
「しかし、総統の怒りが彼に向いたおかげで、私が助かった。」
「そうだな。」
私は、ハーシェルを失うよりもボルマンを失う方が、ナチスにとっても私個人にとっても大きな損害になるのだと冷静に結論を出し、届いて欲しくない連絡を待った。


(つづく)

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小説「雪の降る光景」第2章4

2006年11月15日 | 小説「雪の降る光景」
 2月に入って1週間が過ぎた頃、総統の暗殺未遂事件が起こった。ナチスの2人の将校が、総統の乗る予定だった飛行機に時限爆弾を仕掛けたのだ。幸い、ブランデーの瓶の間にセットされたその爆弾は爆発せず、総統に怪我は無かった。が、その2人の将校の名前は、ついにわからず仕舞いだった。
 反ナチに寝返った人間が、ナチ党内にいる。しかも、総統のお膝元ともいえる軍内部の人間だ。私以外のナチ最上層部の数名を全員疑わざるを得ない状況だ。が、今すぐにその2名の犯人が誰かわからなくても、彼らは、作戦が失敗したことで少なからず追い詰められたはずだ。いずれまた、何気無い顔をして総統に近づいて来るだろうが、今は私たちが、彼らのことをすでにマークしていると思わせて、尻尾を出すのを待つとしよう。
 私はこの事件を、毎日当たり前のように目まぐるしく変わる日常の1つとして捉えていたが、総統は、そうは考えていなかった。この事件のあった時一緒にいた私とボルマンに対して、母親に助けを求める子供、まさにそんな様子で、私たち2人以外の全ての者に怯えていた。私とボルマンは、偶然ではあったが、総統の命が狙われたまさにその時その場に居合わせたことで、それまで以上の信頼を総統から受けることとなった。特にボルマンに対して総統は、たった一度きりではあったが、彼を「共産党のスパイ」と罵ったことを深く悔やんでいるようであった。総統はそれを口に出して言うことは無かったが、ボルマンはいち早くその想いを自分の胸に受け止めて、彼なりの満足感に浸っているようだった。
 私やボルマンだけでなく、総統のことを、総統と呼び崇めている全ての者に何らかの衝撃を与えたこの事件で、もう1人、総統との関わりを変えてしまった人物がいた。・・・ハーシェルである。彼は事件発生当時、総統の別荘で、各地に散っているゲシュタポたちに指示を与えていた。彼にとって不幸だったのは、総統がボルマンに対して言った言葉―――「共産党のスパイ」―――を思い出した時、同時にその時その場にいた、総統、ボルマン、私、そしてハーシェルの顔ぶれまで思い出してしまったことである。
「ハーシェルはどうしている。」
数日後、別荘で会った総統は、すでに暗殺に対しての恐怖心は薄れ、はっきりとした口調でそう言った。ボルマンと私を見据えたその顔は、落ち着き払っているようだったが、ゆっくりとした足取りで手を後ろで組みながら部屋を歩き回るのは、明らかに総統が不機嫌になっている証拠だった。
「ハーシェルはあの事件のあった日、どこにいたのだ?」
「彼はあの日は朝から別荘の方で待機をしておりましたが。」
私はあの日、別荘で彼の姿を見かけていた。ボルマンは前日より総統と行動を共にしていて、私だけ別荘から合流したのだ。私は総統の質問の真意を探ろうとしたが、総統の足音がコツコツと響いているだけだった。
「・・・ハーシェルを逮捕しろ。」


(つづく)


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小説「雪の降る光景」第2章3

2006年11月10日 | 小説「雪の降る光景」
 「それでは総統、今日はこれで失礼いたします。何かあったら何でも私に申し付けてください。」
ハーシェルはそう言うと、総統とボルマンに軽く頭を下げて、私の前を横切った。
「俺はいつでもおまえの顔を思い浮かべながら人を殺してきた。」
私の前で立ち止まり、こう捨てゼリフを吐くと、彼はドアの前で私たちに向かってもう一度頭を下げて部屋を出て行った。

 この時の、この数十分間の再会が、私と彼の運命を歪めてしまったのかもしれない。いや、それは、私と彼がそれぞれ互いが絡み合うことの無い運命を背負っていたら、の話だ。私と彼が、私と彼の運命が、最初からこのような再会を果たすことを決定していたのだとしたら・・・。私と彼はこうやって、今までもそしてこれからも、―――前世でも、そして来世でも、―――避けることのできない運命に飲み込まれて、何か目に見えない動きに作用され続けるのだろう。互いに影響を受け合いながら死んでいき、そして互いにその影響を受けた生命のままで生まれてくるのだ。互いに姿形は変わっても、そして、相手から受けた影響というものが何か知ることは無くても、生まれ変わった私の前には必ず彼がいる。そしてまた、互いに憎み合い、惹かれ合い、影響を与え合いながら死んでいくのだ。・・・儚い。なんと儚いのだ。それは決して、「雪」というような美しすぎるものには似ても似つかないものかもしれない。だが、私とハーシェルの、まさしく不可思議としか言いようのない「縁」を思うと、雪の美しさに目を奪われた時のように、哀しくなってくるのだ。
 「あの夢」を見た日の朝ふっとよぎった不安―――「今の生活が崩れてしまうのだろうか。」という疑問―――は、あの時すでに形を持ち始めていたのだ。その証拠に、あの夢を見たのはあの時以来一度も無いのに、あの夢が、あの雪が、あの少女が、そしてあの涙が、あの日から私の心を強く捉えて放さないのだ。私は、自分があの日から徐々に、涙を、人間としての感情を、取り戻しかけているように感じていた。「人間」である私に、私は会ってみたい気もしたが、それは同時に、ナチスとしての私の命を奪うことになる。・・・そう。私はナチスであり、ナチスは「人間」ではないのだ。1人の人間として私は、彼と私が向かうべき破滅を予感していたが、ナチスとしての私は、それを認めるわけにはいかなかった。


(つづく)


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小説「雪の降る光景」第2章2

2006年11月07日 | 小説「雪の降る光景」
 「いいか、あの敗北を再び味わうことは許されないんだぞ!」
「はい、総統、それはわかっております。しかし、これ以上ロシアに深入りすることは危険です。」
今日は総統の狂気がボルマンに向かっているようだ。この、総統の気分をどう持ち直すかでその日の私の仕事が決まるのだ。
「ボルマン、だからおまえは能無しだと言ってるんだ!我が最強の陸軍がたった一度の敗退で怖じ気づくとでも思っているのか!もし軍が覇気を無くし、再び敗北に走るようなことがあったとしたら、それは軍隊が弱体化したからではない。ボルマン、おまえが私への忠誠を忘れた証だ!」
「総統、そ、それはあまりにも・・・。」
「黙れ!この共産党のスパイめ!」
総統と一緒に部屋に近づいて来るボルマンの足音が止まり、一瞬、2人の会話も途切れた。
「総統!今の言葉は・・・。」
「総統、今の言葉を取り消してください。」
 私は、立ち止まったままのボルマンをそこに残してまっすぐに部屋に入ろうとした総統を制した。私たち3人は、部屋の前の廊下でしばし次に言う言葉を捜していたが、その間を待っていたかのように部屋の中の長身の男が、私たちの方へ近づいて叫んだ。
「ハイル・ヒットラー!」
中に人がいることに気づいていなかった総統とボルマンは、飛び上がらんほどに驚き、目を見開いてその男を見上げた。
「総統、お久しぶりです。」
「おぉ!ハーシェル・マイラー君じゃないか!ポーランドへ行って以来だが、元気でやっとるかね。」
「えぇ。」
総統は自らハーシェルに歩み寄り、彼の手を取った。
「長官のヒムラーも、さぞ心強いだろうな。」
「光栄です。」
ハーシェルは総統に向かって深く一礼をし、総統が中に入れるように脇に退いた。総統はそのハーシェルの態度を満面の笑顔で見つめながら大股で部屋に入って行った。総統が、まるで今まで何も無かったかのように態度を変えて中に入って行ったのを見て、私とボルマンは少し呆気に取られていたが、中にいた男があのハーシェルだとわかり、ボルマンは私にウインクをして総統の後を追った。私は最後に部屋に入りドアを閉めると、我がドイツの誇るべきゲシュタポの形ばかりの紹介を受けるべく、ボルマンの横に並んだ。
「今ドイツ国内には、私を陥れようとする勢力がいると聞く。ナチス党内にもスパイがいるかもしれない。そのような、ドイツの発展を阻もうとする反逆者の計画にいち早く対処するように、私が直接ヒムラーに、腕の立つゲシュタポの帰国を命じたのだ。」
ボルマンも、私ほどではないがハーシェルとは以前からの知り合いであるため、総統の言葉を待たずに、ハーシェルに握手を求めた。
「覚えていると思うが、ボルマンだ。今、ナチスの党首をさせてもらっている。そして・・・。」
「彼が何者なのかは、私が一番よく知っていますよ。」
ボルマンの言葉を継いで私も続けて彼と握手をしたが、私よりほんの少し上から私を睨みつけて口を開いた彼に、どことなく昔の面影を感じた私は、総統の片腕となるべき有能な1人のゲシュタポがいつまでも個人的な憎しみを持ち続けている愚かさに気づかずに大人になった彼を見上げて、微笑みかけた。
「私もだ。しかし、随分長い間、君のことは忘れていたよ。」
 握手を交わした後のハーシェルの顔つきが、この時一瞬変わったのを、私は見逃さなかった。彼が、精神的に子供の頃の面影を強く残しているのは、今ではもう明らかだった。彼は私が危惧していた通り、他人を殺すのに、些細な、それも個人的な感情しか必要としないような人間に成長したのだ。いや、成長したのではない。成長することなく大人になったのだ。

(つづく)

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小説「雪の降る光景」第2章1

2006年10月31日 | 小説「雪の降る光景」
 ロシアの地で孤立状態にあるドイツ第6軍司令官の、フリードリヒ・パウルス陸軍元帥以下、ドイツ軍20個師団とルーマニア軍2個師団を救うため、12月12日、マンシュタイン将軍が南西部から攻撃を加えた。彼の部隊はスターリングラードへ30マイルの地点まで進出した。参謀本部は総統に、パウルスが包囲網を突破し解放軍と合流するのを認めるよう求めたが、総統は、11月にロシア軍が進攻してきた際の撤退と同様、これを許さなかった。案の定マンシュタインの陣営は、ドン川のずっと上流にいたロシア軍にイタリア軍の戦線を突破され、危険な状態に陥った。救出部隊はパウルスたちの運命を天に任せて、止むを得ず撤退し、ロシア軍に包囲された20万のドイツ将兵は、既に絶滅に瀕してしまっていた。
 年の明けた1943年1月8日、ロシア軍の指揮官はパウルスに、名誉ある降伏のための条件を提出した。回答の期限は、24時間だった。しかし総統は、またしてもパウルスに、「持ちこたえよ。」とだけ命じたのである。最後通告の期限が切れてから1日後に、ロシアの多数の大砲は砲撃を開始し、あっと言う間にドイツ陣営は半分になってしまった。さらにロシア軍が包囲網を狭めて行ったために、残された少ないドイツ軍は、2つに分断された。
 1月24日、ロシアは新たな条件の提示を行い、改めて降伏を促したが、総統は無線でこうパウルスに命じたのである。
「降伏は許さぬ。我が軍は最後の1兵まで現地点を死守せよ。西欧世界の救済のために!」
総統が我が国の政権を獲得した10周年にあたる1月30日、パウルスはこう返事を送った。
「最後の壊滅は、24時間以内に迫った。」
そして、その後まもなく、彼はわずか数十人の生存者と共に、降伏した。

 総統はこのことを、「ドイツ陸軍がこれまでに初めて受けた最大の敗北」と呼び、5日間喪に服すようにドイツ国内に命じたが、今や戦争の嵐がドイツに向きを転じたのは誰の目にも明らかだった。ドイツ国内で喪に服したあの5日間が、それを暗示していたのだ。スターリングラードでの敗北が、その後必ず訪れるであろう運命を予言し、私たちに黒服を着せたのだった。総統は今まで、一度も敵対国の実像を正確に把握したことは無かった。外国を一度も訪問したことが無く、ドイツ語しか話せない彼が、イギリス人、フランス人、アメリカ人、ロシア人などの精神構造を理解するという方が無理な話だった。
 総統は、ルーズベルト大統領の謙虚さを、自国がヨーロッパの抗争に巻き込まれることに対する気の弱さと評価し、スターリン率いるロシア軍の強大さをひどく低く評価していた。総統の目には、ルーズベルトは哀れな不具者、チャーチルは救いようの無い飲んだくれ、スターリンは殺し屋、山賊、としか映っていなかった。また、我がドイツ軍は、一突きでロシアを屈伏できるし、イギリスを容易く侵略でき、フランス軍は無力に等しいと言い放ち、アメリカはヨーロッパの戦争には絶対に加わらないと信じて疑わなかった。
 彼が政権の座に就いた当初は、万事が思い通りに進んでいた。ラインランド進駐、チェコスロバキア占領、さらにはオーストリアの併合も、民主主義国家に阻まれることは無かった。彼は血を流すこと無く各地を征服し、勝利を次々に治めていった。さらにその後、ベルギーを占領し、わずか2~3週間のうちにフランスを制圧した。彼の出足は申し分の無いものだった。・・・が、しかし、その後戦争の風向きは変わったのだ。

「カルタゴは、3度戦争を行なった。1回目の戦争の後も同国は強大だった。2回目の戦争後も、まだ住むことはできた。しかし、3回目の戦争によって、消滅した。」
そう言ったのは、ドイツの作家、ベルトルト・ブレヒトであった。快楽主義に埋もれている彼に、私は好意を持ってはいなかったが、彼が言ったこの言葉に、私は好感を持っていた。・・・この言葉通りの運命を、我がドイツがたどることは無いと、誰が断言できるだろう。

 私はいつものように、午前9時に総統の別荘に着き、エバ・ブラウンと少し言葉を交わして部屋のドアを開けた。そこには、総統もボルマンもいなかった。しかし、どこかで見たことのある、懐かしい、そしてわずかに殺気立った1人の男が、窓の方を向いて立っていた。彼はしばらくして、ドアの開く音を聞いて振り向いたが、私は彼が振り向く前に、彼が何者なのかがわかっていた。私にとっては、忘れようにも忘れることのできない、唯一の人間であった。
 彼がこちらに視線を向け、私たちは互いの姿を眺め合ってはいたが、互いに、言葉をかけることも目を合わせることも無かった。いや、あまりにも再会が突然であったので、そうすることを忘れてしまっていたのだろう。私が、ドアのノブをつかんだまま中に入ることさえ思い出せずにいると、玄関から、こちらに向かって来る話し声が聞こえてきた。

(つづく)


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小説「雪の降る光景」小休止4

2006年10月16日 | 小説「雪の降る光景」
さ、第1章、終わりましたね~。
最近、小説を載せた日のアクセス数が、
普段の倍近くになっていることが多く、
少しずつ、みなさんに読んでいただいているようなのがとてもうれしいです。

先日、出版社に違う小説の原稿を送って、担当の方に読んでいただきました。
とっても良い感じの感想を持っていただいたのですが、
私の方の感触は、・・・う~ん。どこまでが営業かなぁ、といった感じで、
とりあえずは実際の本の出版、ということでなく、
また改めて、他のコンテストにも挑戦したい、という思いを伝えました。
でも近々、札幌で出版に関してのセミナーが行われる、とのことで、
ちょっと行ってみようと思っています。

今、短編と長編を1編ずつ、コンテストに応募してみようと考えています。

で、その長編の応募予定の作品が、この「雪の降る光景」です。

応募するまでに、手直ししつつ、
ここにも載せていきます。
応募までに、結末まで行けるかわかりませんが、
次から第2章が始まりますので、
また読んでみてください


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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~終

2006年10月15日 | 小説「雪の降る光景」
 「ねぇ、兄さん、兄さんはどう思う?」
「どう思うって?」
「チャップリンよ。チャップリンの、『独裁者』、どう、感動的じゃない?」
私の仕事を、ナチ党の事務員だと信じて疑わないアネットは、無邪気に言った。
「あぁ、確かにな。」
「彼の訴えている人道主義に、心を打たれるでしょう?」
「あぁ、確かにな。」
「もう兄さんたら!他に言うことは無いの?」
クラウスは、徐々にアネットの口調が刺々しくなってきたのを感じ取り、急に黙々とパンをちぎって口に入れ始めた。
「確かに、彼が作り出す作品が訴えることは、もっともなことかもしれない。しかし、だから何だと言うんだ?」
「兄さんは、たくさんの人が訳も無く逮捕されたり殺されたりしている今の戦争に、何も感じないの?」
「“訳も無く逮捕されたり殺されたりしている”んじゃない。彼らは、ユダヤという、生まれながらにこうなる理由がある。彼らに対して、我々がいちいち何かを感じてやる理由が無いんだ。・・・私はな、おまえたち2人が結婚して幸福になってさえくれれば、他には何もいらないよ。」
アネットとクラウスは、互いに顔を見合わせ、同じように顔を真っ赤にしてうつむいた。
「それに・・・」
私は、冷めてしまったスープに泳がしていたスプーンを置き、席を立つ用意をした。
「1人の人間を殺した者は犯罪者としての扱いを受けるが、100万人人間を殺した者は、英雄として世に受け入れられるものなんだよ。・・・いずれ、おまえたちが愛するチャーリー(チャップリン)も、全世界から追放しなければな。」

 私は、自分のベッドに横たわりながら、ヤヌスという、奇形の双頭神をふと思い出し、その、互いに反対の方向を向く2つの頭にそれぞれ、チャップリンと総統の面影を重ね合わせた。彼らは似ている。しかし、全く似ていない。少なくとも私にとって彼らは、善と悪といった次元での存在ではない。ただ、出来が良いか悪いか、それだけなのだ。出来が良い方も悪い方も、そう違いがあるわけではない。アドルフ・ヒトラーという人間に対して、親の―――それもどちらかというと母性に近い―――愛情というものを、私が抱いているとしたら、もう片方にチャールズ・チャップリンの頭を持つその存在自体を、私がいとおしく感じているのは間違いない。とすれば、私は彼を追放する気など無いということか・・・。
 目を閉じると、自分のそんな思いも全て、事実として受け入れられるような気がする。しかし、ナチスの私にとっては、その事実があまりにも夢うつつのように思えてならないのだ。このことは、この戦争が終わったとき、初めてゆっくりと噛み締めることができるだろう。

 私は、自分が足を踏み入れてしまった運命に、かすかな不安を覚えたが、その不安が、何に基づいたものなのか答えを出すことができないまま、いつしか眠りに就いた。


(第1章Ⅱ・終わり、第2章へつづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~7

2006年10月13日 | 小説「雪の降る光景」
 アネットが、無造作に、両手に持ったスープの皿をテーブルに置いた。
「さぁ、兄さん、そんな暗い顔をしないで!元気を出してちょうだい!クラウスも、さぁ遠慮しないで!」
クラウスの家はうちの隣で、父親の代からパン屋を営んでいた。私たちとクラウスの父親同士が幼馴染みで、私たちの両親が、アネットがようやく立って歩けるようになった頃に病気で相次いで亡くなった時から、毎日食事時になるとクラウスの両親が家に誘ってくれていた。その後、クラウスの両親が第1次大戦の戦火に巻き込まれ、クラウスをかばって母親が亡くなり、その際に負った重傷が元で半年後に父親が亡くなった。すると今度は、今までの恩返しにうちの食卓にクラウスを誘うようになったのだ。根っから明るいクラウスの存在は、今までずっと私たち兄妹の支えだったし、クラウスもそう感じているだろう。アネットとクラウスが将来結婚してくれることは、私にとって、この上ない喜びだった。
 アネットは毎日クラウスが焼いてくれるパンの入った籠をテーブルの中央に置き、自分の席に着いた。
「お待ちどうさま!さ、いただきましょう。」
アネットの、この“お待ちどうさま”が私たちのいただきますの合図だった。
クラウスは、その言葉が終わらないうちに、大柄な彼らしく、一口で入りきらないほどのパンの塊を、スープに豪快に浸した。
「うん、これはうまい!アネット、君は料理の天才だよ!」


 ―――私は、総統が狂気の頂点に昇りつめることを望んでいる。私は、総統がユダヤを殺すことを望んでいる。私は、総統が1000年帝国を作り上げることを望んでいる。・・・私は、彼がいとおしいのだ。


 「・・・こうして、オスタリッチの首都に着いた床屋は、今、併合を宣言すべく壇上に立った。そしてマイクに向かってこう言ったのだ!『私は皇帝になりたくない。誰も支配したくない。ユダヤ人も、黒人も。・・・人生は、楽しく自由であるべきだが、貪欲が人間の心を毒し、世界中に憎しみの垣根を作ってしまった。・・・ハンナ!見上げてごらん。雲が切れて、太陽が差し込んできているよ。暗い世界から抜け出し、私たちは光明の世界にいるんだ。ハンナ!お聞き・・・。』」
「『独裁者』かね?」
「えぇ、ラストのチャーリーのセリフですよ。・・・どうだい、アネット?」
「いつ聞いても感動的だわ!あぁ、一度でいいからチャーリーの凛々しい姿を見てみたいものだわ。」
クラウスは、うっとりした顔のアネットをたしなめるように言った。
「それは無理な話だよ、アネット。だってそうだろう?彼の姿を見、彼の言葉を聞いた人間は涙を流して、彼の“人間主義”に賛同せずにはいられなくなるんだ。そうすれば、独裁政治を正当化しようとしている政治家は、生きてはいられなくなるんだからね。」
私は、19世紀にフランス人が愛して止まなかった、あの、“ギロチン”が、今ここに無くて良かった、と思った。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~6

2006年10月11日 | 小説「雪の降る光景」
 私は午後の実験の報告書にサインをし、デスクの上に、白衣と一緒にその書類を放り投げて、今日の任務を終えた。
まっすぐ家に帰ると、妹のアネットが、お帰りなさい、と叫んだ。
「お邪魔していますよ。」
妹の婚約者であるパン屋のクラウスが夕食に招かれて、使い古したテーブルに着いていた。妹は、奥のキッチンに立って、黙々と料理を作っていた。クラウスは、我々と同じドイツ人でありながら、我々ナチスのやり方に反感を持っている。彼は、ナチスとしての私を憎み、私は、反ナチ分子としての彼を憎んでいる。そんな彼を、どうしてよりによって妹の恋人として認めているかと言えば・・・、簡単なことだ。私は彼を反ナチとして見た事は無いし、彼もまた、私をナチスの一員として見た事が無いのだ。もし、私と彼が、ナチスと反ナチとしての関係であったなら、その間に立つ妹はどうなってしまうだろう。私は妹を愛している。そして、クラウスも。彼らは、ナチスとして、ではなく、1人の人間としての、私の最後の砦といっていいだろう。
「総統は、お元気ですか?」
クラウスは、皮肉たっぷりに言った。
「あぁ、相変わらずだよ。」
私はそうつぶやくと、クラウスと向かい合ってテーブルに着いた。

 アネットとクラウスが、私が人として生きていくための最後の砦なら、アドルフ・ヒトラーという人間も、私がナチスとして生きていくために必要不可欠な存在かもしれない。私にとって彼の存在は、“手の付けられないわがままな子供”のようなものなのではないかと思う。ただ、普通の子供と違うのは、彼のわがままを、狂気が支配しているということだ。そう。彼は狂っている。しかし、それが何だというのだ。正気を失っている彼の下で働いている私たちが、はたして彼を、彼が狂っているということを、非難することができるのだろうか。所詮、正しい者の下では狂った者はやっていけないし、狂った者の下では正しい者はやってはいけないのだ。私は彼の敵に回ることはできないし、彼を見殺しにすることもできない。・・・彼が死ぬ時、自分も死ぬ。それは、我がドイツの支配者とその部下としての感情ではない。例えば、知恵遅れでわがままに育った子供を守るために他人への迷惑をも黙認してしまう母親の愛情のようなものだ。「君とエバは、唯一この世の中で、アドルフ・ヒトラーを、アドルフ・ヒトラーとして見ている。つまり、血のつながった父と母のようなものだと言っているんだよ。」―――何の深い意味も無くそう言ってのけたボルマンの屈託の無い笑顔が、一瞬、脳裏をかすめた。
 アドルフ・ヒトラーに、本当の意味で親としての愛情を注いでいるのが、彼の産みの親ではなくこの私だとしたら、・・・それが事実なら、私が彼に注ぐ愛情と全く同じものを、この私に対して注いでくれているのは、はたして誰なのだろうか。いや、“誰なのか”というよりも、“存在するのか”と問うた方が良いかもしれない。私を包み込んでくれるもの、そのようなものがこの世にあるのだろうか。人でなくても良い。犬でも、猫でも、馬でも、山でも、海でも、雲でも、雪でも。・・・そう。何も語らずとも、ただ、真っ白な雪が、私の、頭や肩や手のひらに降り注ぐ・・・。ただ、それだけで、良いのだ。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~5

2006年10月09日 | 小説「雪の降る光景」
 「イギリスの御方には、少し刺激が強すぎましたかな?」
「私はイギリス陸軍第5編隊の、ディック・アンダーソン少佐だ。我がイギリス軍には、敵軍の中にあって怯える者など1人もいない!」
「・・・私たちにとってあなたは、ただの実験材料に過ぎません。あなたが何という名であろうと知ったことではありませんよ。あえて言うなら、あなたの名前は、“サンプルナンバー725”といったところですよ。」
「・・・サンプル・・・。」
私は、充分に彼に自分の今の立場を噛み締めさせるための間を与え、言葉を続けた。
「そう。それも、ただのサンプルではない。困ったことに、軍人は気が弱く、虚栄心が強い。また、軍隊という温室の中で育ち、その上あなたは、少佐などという肩書きまで持っている。
「イギリス軍隊は温室ではない!」
イギリス兵士は、拳を怒りで震わせていた。
「あなたたち軍人が、日頃どのような訓練を受け、健全で強靭な肉体を作り上げているかは知らないが、いざ敵に捕まると、軍人は必ず、自分の肩書きを以って死から逃れようとする。自分の率いていた部隊を敵地へと導いた、自分の作戦の失敗に対する償いを棚に上げてね。」
「我々はそんな腰抜けではない!」
私は、一瞬彼から視線を外し、改めて諭すように彼を見上げた。
「いいえ。あなたの隣でたった今死んだ老人のように、肩書きも富も無い、名も無い人間こそ、ただ純粋に、自分の運命を呪って厳然と死に臨むのです。」
「それ以上の侮辱は許さんぞ!」
「それならあなたに身を以って見せていただくしかありませんな。これ以上生きて恥をさらすよりも、自分は、死して我が過ちを償う、と。」
今までの強気な態度が、一気に影を潜めた。いや、影を潜めた今見せたあの蒼白な顔つきこそが、彼の本当の姿なのだ。もう、彼は大丈夫だろう。
「そうでなければ、愛すべきイギリスの名を汚すことにもなります。」
 彼は、目の前のロープを凝視し、ごくっと唾を飲んだ。彼が返事をせず、ゆっくりと両手を上げて、自らの力でロープをつかんだので、私は黙ってそれを見ていた。そして、私が少し長い瞬きをした時、彼は、その言葉通り、死を以って祖国イギリスへの償いを終えた。高い鉄骨の上にあったはずの彼の足が、私の目の前で、力無く揺れていた。
「実験が・・・終了、しました。」
足場の上で、力を振り絞ってサンプルナンバー725のロープを解いていた入所3ヶ月の若者は、そうつぶやくと、そのまま気を失った。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~4

2006年10月07日 | 小説「雪の降る光景」
 サンプルと同じ部屋にいた1人が、私たちのいる部屋に入って来て、こう言った。
「用意が整いました。」
私が軽くうなづくと、それを見て、1人が右手を上げ、ガラス越しに隣の部屋にいる仲間に合図を送った。
 ユダヤ人の老人は、横に立っている研究員に軽く背中を押されて、あっけなくロープの輪の中に顔を収めてしまった。そして、前に押されるまま、一歩一歩力無く足をずらしていった。老人の動きが、ほんの少しためらいを感じたように見えたちょうどその時、彼の足は宙を歩き、彼の首はロープの摩擦でギリッと音を立てた。この瞬間、この事実から目を背けたのは、サンプルの横に突っ立っていた、入所3ケ月目の若者だけであった。私を始め、私の横に一列に並んでデータを取っていた5人の部下は、顔を背けるどころか、ペンを持つ指先以外は、ぴくりとも動かさなかった。誰も声を立てず、誰も途中で止めようとはしなかった。サンプルの足が台を探り、ばたつき、そしてヒクヒクと小刻みに震えを来した。ロープの輪は次第に首に食い込み、ギシギシという音に混じって、ヒュウヒュウという、ロープで潰された気管からわずかに漏れる呼吸音が聞こえる時には、既にサンプルの顔は死の恐怖を迎える気力も無く、一種の放心状態になっていた。爪先に、その台の感触を感じて老人は最後の力を振り絞ったが、無駄であった。とうとう力尽き、老人は何の物音も発しなくなった。
「7秒です。」
誰かがそう言った。さっきまで息をしていた人間が首を吊ってから呼吸が停止するまでの長い7秒間を、ずっと目を背け、吐き気を催しながら耐えてきた若い研究員は、静かにロープを緩め、遺体を床に降ろした。
 そしてその7秒間が、長く両目に焼き付いて離れないもう1人の人物は、気丈に、その震えを最小限に食い止めているようだった。部下が足場を伝って、すこし離れたそのイギリス兵士の横に立った時、若者の目は正気を失いかけていた。
「私が中に入ろう。」
私は、万が一、このサンプルがこの場から逃げようとした場合、それを食い止めるのに、吐き気を催し膝をがくがくさせている若者1人だけでは困難だと判断し、隣の部屋に入った。高い場所から私を見下ろしている部下に、無理をするな、黙って立っていろと目で合図を送り、今閉めたドアの側を離れて、彼が落ちるべき場所に向かってゆっくりと歩きながら、私は彼を見上げた。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~3

2006年10月05日 | 小説「雪の降る光景」
 実験室に入ると、4人の研究員が白衣に身を包み、大きなガラスで仕切られている隣の部屋に目を向けていた。その視線がこちらに向いたのを確かめると、私は白衣のボタンを1つ1つ穴に通しながら、後ろ手にドアを閉めた。
 「今日も半日出勤ですか、所長。」
ここでの勤務歴が一番長い、私より1つ年上の、彼らのリーダー役の研究員が手元のメモに何か書き足しながら、そう言った。
「まぁ、そう言うなよ。これでも、午前の報告書には目を通しておいたんだ。」
私に対して彼がそう言うのは嫌味でも何でもなく、挨拶代わりだった。その証拠に、私がいつどんな時間帯にここに来ても、彼の一言目は同じだった。
「今、2人でサンプルの用意をしています。」
「これは何の実験だ?」
「首吊り、です。」
私は隣の部屋とこちらを仕切っているガラスの前に立った。2体のサンプルが、目隠しをされて3メートル程の鉄筋の足場の上に立っていた。その足場の、さらに高い場所から、頭がすっぽり入る程度のロープが吊り下げられ、それぞれの顔の前にゆらゆらと動いていた。1人のサンプルの落下予定地点では、1人の研究員が小さな台を置いていた。
「首が絞まった状態が同じでも、体が完全に宙吊りになり全体重が作用する場合と、足が台に着いて全体重が作用しない場合の相違点を調べるのです。」
去年学校を卒業したばかりの新米が、私の横に立ち、まるでビールに合う料理の調理法を説明するように、にこやかに言った。
「1体はユダヤ系だな。もう1体は、イギリス人か?」
「えぇ、軍の捕虜です。今回は、人種は関係ありません。体重のみを考えて選びました。」
なるほど。確かに、骨格は違うが両方とも同じくらい痩せこけている。上半身裸の2体のうち、足場の下に小さな台を置かれたユダヤ系の老人の方は、さすがにここでの生活が長かったせいか、ノイローゼ状態のようだった。彼なら、ガラス越しに見える私の姿を自分の息子と錯覚し、私の方へ手を差し伸べようとして足を滑らせ、自ら首を吊ることも可能だろう。もう一方のイギリス軍人の方はというと、隆々たる筋肉が、厳しい軍隊での生活を物語っているようだった。その軍隊での訓練の1つとして、全身を鍛え上げるだけでなく、今のような状況に置かれた時の適切な行動も、当然教えられてきたのだろう。「あくまでも生き延びる手段を見出せ。もし、その可能性を見出せなければ、自らの手で死を選ぶしかない」・・・彼の上官は彼に、そのように教えたはずだ。敵の生体実験とはいえ、教えの通りに自ら命を絶てる手段が、自分の目の前にあるのだ。彼は、サンプルとして自分が選ばれた時から、自分の首がロープの輪にかかる瞬間のことだけを考えてきたに違いない。私の部下が、彼らの両手を自由にさせ、目隠しを取ってしまったのも、そのようなことを考えに入れていたからなのかもしれない。


(つづく)

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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~2

2006年10月02日 | 小説「雪の降る光景」
 私はイスに腰掛ける前に、午前中に行われた実験の報告書が無造作に置いてあるデスクに上着を置き、その書類を手に取った。

「サンプルNO.710 25歳 男
溺死に至る各器官の変化。
水温15~20℃。サンプルはプール内で遊泳中、溺死。
解剖結果は、次の通りである(図、写真は別紙に添付)。

溺れて水を飲んだ際、鼻の奥から鼓膜の裏側に通ずる耳管にも水が入り込むと、毛細管のような耳管に水の栓ができ、続けて水を嚥下すると、耳管の栓がピストン運動を起こし、鼓室やこれに通ずる乳様蜂巣に、陰圧、陽圧が繰り返し生ずる。そのために、乳様蜂巣内の被膜や毛細血管が、圧の急変で破綻し、耳の奥で中耳や内耳を取り囲む錐体の中に出血が起き、錐体の中心にある三半規管が、錐体内うっ血や出血のために機能を低下させる。その結果、平衡感覚が失われてめまいを起こし、泳ぎのうまい人間でも溺れてしまう。
耳管は、子供のときは真っ直ぐであるが、成長するにつれて、少しねじれを生じて完成することから、子供は大人より耳管に水が入りやすい。つまり、あらゆる水難事故において、単に体力の差だけでなく、耳管の構造により、子供は大人より溺れやすい、ということがわかる。

なお、実験後、遺体は衛生的に、かつ速やかに処理した。


                          以上。   」


 私は、1ページ目を読み終えると、余白にサインをした。いつもながらよくできた報告書だな、私はそう思った。このサンプルが、新しく死体処理に使用する予定の穴に水を満たした後、なぜ急に溺死したのか、容易に見当がつく。このサンプルが100%この実験の意図に沿って溺死するために、立ち会った部下は、水に浸かった弱ったユダヤ人に向かって、威嚇発砲でもしたのだろう。この、いつ見ても自然を装った実験方法の描写と、それとは逆に、あくまでも正確で断定的な結果報告。・・・全く、いつ見ても、よくできている。
 私はデスクの上の時計をちらっと見て、いまだに折り目も消えていない真っ白のままの白衣に手を伸ばした。午後12時45分。あと15分ほどで、午後の実験が始まる。


(つづく)


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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅱ~1

2006年09月29日 | 小説「雪の降る光景」
私の収容所所長としてのイスは、アウシュヴィッツにあるのだが、私はこのイスに腰掛けたことはほとんど無かった。今年の1月に、総統が、1100万人のユダヤ人の殺害を決定してから、国内外にある収容所を、1人で駆けずり回らなければならなかったのだ。
 あの日、ロンメル氏が陸軍元帥に任命されてからというもの、アフリカのイギリス軍は、深刻な状況に追い込まれていた。我がドイツ軍はいまや、「砂漠のキツネ」と恐れられているということだ。だが、それに引き換え、ロシアは相変わらずだった。それどころか、総統が陸軍総司令部の最高指揮官に納まってから、ますます「ロシアは今にも崩れ去る」という戯言だけが、彼の中で増殖していった。ロシアにいるパウルス陸軍元帥は、8月のスターリングラード攻防戦の後、「11月10日までにスターリングラードを占領する」と宣言した。しかし、12月に入ろうとする今日まで、一度たりとも、スターリングラードを我がドイツ軍が手にしたことは無かった。11月19日にロシア軍が進攻してきた時、パウルス氏は、敵の包囲を防ぐため、やむを得ず撤退しようとしたが、総裁はそれを認めなかった。総統はまたしても、自分の首を自分の手で絞めようとしたのだった。
 その数日後、ロシア軍は、北と南の両方からドイツ軍を包囲した。総統は、パウルス氏に空から物資を供給することを約束した。―――しかし、包囲された部隊に、毎日750tもの物資を供給することなど、全くの夢物語であった。一体どこから、物資を運ぶ飛行機が飛んで来るというのだろうか。―――考えたくもないことだが、降伏は時間の問題なのだ。私は、収容所所長としての仕事に追われているのではなく、ただでさえ厳しい情勢の中で、総統の秘書として、彼の御機嫌を取ることに没頭していた。が、今日は久々に、アウシュヴィッツに顔を出すことにした。アウシュヴィッツでは、1日に2件の生体実験を行っている。私がそこに立ち会わなくても、実験は毎回違う内容のものが行われ、データがまとめられる。私はそのデータに目を通し、1ヶ月に数回、衛生管理や死体の処理などに立ち会うために収容所を訪れる。今日は、その日なのだ。

 私が午前中、いつものように総統に会いに行き、その後で収容所に向かったため、死体の処理は既に完了していた。彼らの骨は農業用の肥料に加工され、歯から取った金冠や金の指輪、貴金属類は溶かして鋳金として正規の市場で売り、その売り上げは、ナチス親衛隊の口座に預金されるのである。



(つづく)



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小説「改・雪の降る光景」第1章Ⅰ~8

2006年09月26日 | 小説「雪の降る光景」
 ハーシェルの横顔が、後悔の表情から、一度見たあの“今にも泣き出しそうな”顔つきに、みるみる変わっていった。私はまるで恋人にでも話しかけるように、彼の耳元に優しく囁いた。
「俺は、前から考えていたんだ。学校を出たら、ナチスの高官か医者になって、“体内からどのくらい血液を失うと人が死ぬか”、生体実験をしてみたい、ってな。ちょうど良かった。おまえの体でやってみるか。マウスなんかより正確なデータが出るだろうからな。」
「ばっ、ばかな。そんなこと、・・・本当にできると思ってるのか。」
そう返事を返すことが、彼にとって精一杯の抵抗であった。
「・・・できないと、思っているのか?」
そう言いながら、私は彼のポケットにいつも入っているナイフを取り出した。そう、あの時のナイフだ。
「このナイフは、一度、人の血を吸っている。おまえのような腰抜けの手には負えないよ。ケガするだけだ。」
彼の顔の前を、ナイフの刃先に反射した光がちらちらと動いた。
「こいつは、俺の血だけでは物足りないらしい。・・・ハーシェル、恨むんなら俺でなく、血の味を覚えたナイフをいつまでも手元に置いていた自分を恨めよ。」
 しかし、あの時から10年以上の月日が経った今、改めて思い返してみて言い切れるのは、私はこの日、彼らと出くわしてからこの瞬間まで一瞬たりとも、彼を本当に殺してしまおうと思ってはいなかった。そこまでする必要が無かったから、・・・というよりも、そこまでする価値の無い奴を相手にしていたからだ。つまり彼は、私のハッタリを以ってすれば、簡単に落とせる人間だったのである。当時は、彼も私もまだ子供だった。本当に彼を殺そうという考えが、子供のケンカには、端から必要無いものだったということもあったのだろう。しかしだ、今、右左の分別も分かる年になったゲシュタポが、私に何かしらの理由で戦いを仕掛けてきた場合、どちらが勝つか、つまり別の言い方をすれば、どちらが死ぬか、ということを真っ先に念頭に置かなければならないだろう。

 「頚動脈血管が、外傷により一部損傷した場合、人が死に至るまで、どの程度の時間を要するか。おれが知りたいのは、そういうことだ。なんでも、今あるデータだと、10秒ほどらしいがな。」
もちろん、これもデタラメである。
「じゅっ、10秒っ・・・。」
「そうだ。その10秒の間に、眠るように楽に死ねるんだ。」
「やっ、やめろっ。やめてくれっ。俺が悪かった。お願いだ!助けてくれ!」
「手遅れだ。」
私は静かにそういうと、彼の返事を待たずに行動に移った。冷たいナイフの先端を、彼の首筋に強く擦り付けた。そして素早く、そのナイフを彼の首から引き離した。
「ほーら、どんどん血が出てきたぞ。首が熱くなってきただろう。」
私は、血が噴き出している右手の傷口を彼の首筋に当て、その血が彼の首から溢れ出ているかのように暗示をかけた。
「おまえは、あと10秒の命だ。」
 彼は、顔面蒼白になって今にも気を失いそうだった。
「・・・9、8、7、・・・。」
首を絞める私の腕にしがみついていた彼の指が、ゆっくりと離れていく。
「・・・6、5、4、3、・・・。」
彼の体が、だんだん冷たくなってきた。
「・・・2、1!」
ガクン!と、急に彼の膝がバランスを崩した。彼は完全に気を失い、だらりと私に寄り掛かった。
「ハーシェル!」
「死ぬんじゃないぞ!!」
彼の仲間が、今まで何も手を出せなかった自分の勇気の無さを棚に上げて、今になって急に声を発した。
「今ごろ叫んでも遅いんだよ。」
ハーシェルの体を静かに横に倒し、私は、気を失っているだけの彼に向かって、胸で十字を切った。
「ハーシェル!」
私が早まったことをするはずがないと信じていた私の友人たちまでもが、私の手にしているナイフが血だらけなのを見て、心配そうに彼の名前を呼んでいた。

 ハーシェルが生きていることを彼らが知ったのは、私たちが既にその場から立ち去ってからのことだった。その後ハーシェルは、またもや激怒し、ナチスの教官に一切を打ち明けたのだそうだ。自分がどれほどまでに私によって自尊心を傷つけられたかを切々と訴え、私に罰を与えてください、と頼んだらしい。その結果、私は、“寮の食事一回抜き”の罰を食らったが、逆にその冷淡さを買われて、卒業を待たずに、着実に総統の部下としての階段を登っていた、将来のナチス党党首のボルマンと一緒に、ヘス副総統の部下となることができたのだった。彼は、というと、その、気の弱さを克服するようにと、注意を受け、かなりの間、ナチス失格の汚名を着せられていたという。
 彼とはその後、会うことは無かった。学校を卒業してからの数年の間、私たちは、ヘス副総統、ヒムラー長官という、総統の片腕とも言われる2人の幹部の配下に就き、ナチスとしての教育を徹底的に受けてきた。そのおかげで私は、自分個人の感情で人を本気で憎むということを忘れ去ることができたのである。つまり、彼によって、新たに私の感情がかき乱されるようなことが無い限り、私にとって彼は、「二度も私にケガを負わせた、憎き級友」ではなく、「ナチスを守るために忠実に仕事をこなす、ドイツが誇るべきゲシュタポ」なのだ。

 ハーシェルが死んだ時、自分はもしかしたら、涙を流すかもしれない。―――ふと私はそう思った。何の根拠も無く、である。彼の中に、何か因縁じみたものを感じているのかもしれない。私にとっては、彼の存在が、「人生の転機」なのだという気もする。もし、本当にそうであれば、彼が死んだ時、その時に私の人生も、ある意味で終わりに向かうと言える。私と彼の生命は、そうやって、今までずっと何かで因縁づけられた生と死を繰り返してきたのだろうか。そして、これからも。・・・私も彼も、何とちっぽけな、何と儚い、何と無力な存在なのだろう。・・・まるで、降っては融け、融けては降り積む雪の結晶のような。・・・そう。全ては真実なのだ。あの、夢に出てきた女の子が私であるということも、その夢から覚めた時、私が涙を流していたということも。そして、たぶん、・・・ハーシェルが死ぬ時、私は涙を流すかもしれないということも。


 「私の話を聞いているのかね?」
急に私は、ヒトラー総統を目の前にしている一人のナチスとしての自分を取り戻した。
「私は何も、暇を持て余して今日の式典の様子をいちいち君たちに話してやっている訳ではない。私の側近だったヘスに代わって、君たちに早く私の片腕となって欲しい。そのために、こうやってわざわざ時間を・・・。」
「総統、失礼いたしました。今日は少し、体の調子が良くないもので・・・。」
「そんな言い訳が通じると思っているのか!だいたい、君は最近少し・・・。」
「総統、次の御予定が入っておりますが。」
・・・助かった。ボルマンが、総統に気づかれないように、私に小さく目配せをした。彼も私も、総統の癇癪には、ほとほと閉口していたのだ。総統は、まるで何事も無かったかのように、次の予定の場所に向かう準備のために、自分でドアを開け、足早に出て行った。
「雪か・・・。」
私が、肩を落としてこう言うと、ホッとして総統の後を追おうとしていたボルマンが、しばし、動きを止めてこう言った。
「雪?なんだ?次の実験にでも使う気なのか?」
私は、また、ブランデーが欲しくなった。しかし、グラスどころか、手には何も持っていなかった。私は、彼は悪気があって言ったのではないのだ、と思い直した。
「まぁね。」
私は、自分の心を隠すかのように、ボルマンと一緒にこの部屋を出た。


(第1章Ⅱへつづく)

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