私より少し下の世代(53歳)のマンガ家に井上雄彦という稀有なマンガ家がいる。彼はあまり知られていないが、鹿児島出身で熊本大学を中退して単身マンガ家目指して裸一貫で上京してきた。
小中は剣道に打ち込み、高校からバスケットボールに3年間打ち込んだという。ほんとうは東京芸大で絵画をやりたかったみたいだ。
そんな彼が20代半ばに『スラムダンク』という当時としてはそれまで成功した事のないバスケ漫画で大ブレイクして一世を風靡することになる。もう30年くらい前の話である。
その後も彼は意欲的に『バカボンド』(宮本武蔵を題材)、『リアル』(車椅子バスケを題材)と大ヒット作品を生み出す。彼のマンガ家としての大成功は凄いのだが、ライフワークとしていくつか面白い取り組みをしてることに妙に感心する部分がある。
その中で、スラムダンク奨学金なるものを開設した。アメリカのプレップスクール(大学に入るための準備スクール)にかかる学費、向こうでの生活費全てを返還なしで与える奨学金である。
将来、プロのバスケットボール選手目指す若者を育成、援助したいと名乗りを挙げた。もうすでに何人もの高卒者がこのスラダン奨学金を受けて渡米している。日本に帰国後、トップリーグや現行のBリーグで活躍する選手もいる。
バスケ漫画で億万長者となり、その一部でも今後の日本バスケ界に貢献したいと、バスケットボールに恩返しする試みを実践してくれている。
こういう練習をすれば必ず上手くなる、ということを教える側はきっぱりと断言できるし、教わる側はその言葉を信じることができる。
なぜそういうことができるかというと、身体運用の場合は「うまくいった」ときの快感というものが強烈な身体記憶として、教える側にも教わる側にも個人的経験として共有されるからである。
「できた!」というときには、その達成がもたらす身体的快感が記憶される。その種の快感をそれまで経験したことがない人は、それを求めて熱狂的に練習するようになる。
スラダンの主人公「桜木花道」は、高校からバスケを始めた初心者である。一つ一つまさに「できた」という成功体験と身体的快感が狂気的な練習へと向かっていく。
運動も勉強も集中的な鍛錬や修行によって、それがもたらすブレイクスルーを可能にするのは、ある段階、段階で経験した強烈な快感の記憶である。
身体運用を動機づけるのが、「私の身体にはこんな動きができる潜在能力があったのか!」という発見の快感であるのと同様に、知性の運用を動機づけるのは、「私の脳にはこんなことを思考できる潜在能力があったのか!」という発見の快感である。
身体的な達成感を獲得する方法については多くの経験的データとそれに基づく適切な指導方法が存在するけれども、「脳が加速するときの快感」、「思考にアクセルがかかる感じ」については、書かれたものも語られたものもほとんど存在しない。
スラムダンクには、桜木花道だけではなくその周りの登場人物が更生して組織的にブレイクスルーしてゆく様が素晴らしい感動を呼ぶ。たまたまバスケットボールという競技を通じてであったが、部活動のみならずあらゆる組織で模範となる要素をたくさん含んでいた。
もう続編はない。青春の瞬きする時間だからあのような強烈な快感とブレイクスルーが達成できたのだと思う。