東京の888という数字を見てやはりそうか、まだまだ増えそうだなと感じてしまう。政府はある意味傍観者的な立場になってしまった。フリーズしている。
見えない敵と闘い「どうふるまってよいかわからないときに、どうふるまえばよいかをわかる」能力が必要なときである。そのような人が今の政府に残念だがたぶんいない。
私たちが理解できる世界と理解を超えた世界との間には、目に見えない境界線がある。「存在するもの」と「存在しないもの」の間には目に見えない、手で触れることもできない境界線がある。
その境界線を守護するのは、私たちが「人間の世界」で生きてゆくために必須の仕事なのである。誰かが境界線を守らなければならない。
『旧約聖書』のヨブ記においては主がその仕事を担っている。主はこう言う。
『 海がふき出て、体内から流れ出たとき、誰が戸でこれを閉じ込めたか。
(‥‥中略)
わたしはこれをくぎって境を定め、かんぬきと戸を設けて、言った。
「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない。あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と。 』
「存在するもの」に向けて「ここまでは来てもよい。しかし、これ以上はいけない」と宣言する境界線がある。
聖域というのは、そこで完結している場所ではなく、何かとの「境」なのだ。機能的には「かんぬきと戸」なのだ。
「かんぬきと戸」がしっかり機能している場所だと、私たちは「高ぶる波」のすぐ近くまで行くことができる。聖人とは「境を定め、かんぬきと戸をもって高ぶる波をおしとどめる」人のことである。
私たち全員がそのような仕事をしなければならないというわけでない。けれども、ときどき、聖人たちが登場して、「かんぬきと戸」の点検をすることは私たちが人間的秩序のうちで生きてゆくためには必須のことなのである。
福島の原発事故は「恐るべき力」を制御するための「かんぬきと戸」の整備と点検の仕事がほとんど配慮されていなかったことを示した。
そこには会社の収益や、マニュアル通りの業務や、自分の組織内の立場を優先的に配慮する人間たちはいたが、「あなたの高ぶる波はここでとどまれ」と告げる仕事を担う人間はいなかった。
「境を守る」ことを本務とする人間を「戸」の近くに配慮しなければならないという人類学的な「常識」を私たちはだいぶ前に忘れてしまったようだ。
戦争もテロも飢餓も恐慌もない、豊かで安全な生活が半世紀続いただけで、日本人はこの常識を忘れてしまった。私たちの生きているこの狭く、脆い世界は「境を守るもの」たちの無言の、日常的な、献身的な努力によってかろうじて支えられているのだということを忘れかけていると思う。