にゃんこと黒ラブ

猫達と黒ラブラドール、チワックスとの生活、ラーメン探索、日常について語ります

自己実現とはー生きがいとは何か(再掲載)

2021-05-12 18:31:00 | 日常

 もう1年半前に書いた記事。2019年12月、昔の記事をたまに見ると自分で書いておきながらハッとすることがある。

 『みんなが自己利益を最大限に求める生き方や青い鳥を探しにいくようなロマンティックでイノベーティブな生き方をしていたら、あとの始末は誰がするのだろう。
 日常的でパッとしないけれど、誰かがやらないといけない「雪かき仕事」のようなものを社会を維持するためには絶対に必要なのである。
「雪かき仕事」をする人は朝早く起き出して、近所のみんなが知らないうちに、雪をすくって道端に寄せておくだけ。起き出した人々がその道を歩いているときには雪かきをした人はもう姿を消している。
 だから、誰がそれをしたか、みんなは知らないし、当然感謝される機会もない。でも、この人が雪かきをしておかなかったら雪は凍りついて、そこを歩く人は転んで怪我をするかもしれない。そういう仕事をきちんとやる人が社会の要所要所にいないと、世の中は回っていかない。



 この頃の若い人がよく言う「クリエイティブで、やりがいのある仕事」というのは、要するに、やっている当人に大きな達成感と満足感を与える仕事ということだ。
 でも、「雪かき仕事」は、当人にどんな利益をもたらすかではなくて、周りの人たちのどんな不利益を抑止するかを基準になされるものである。だから、自己利益を基準に採る人には、その重要性が理解できない。
「青い鳥」を探しに行く人たちには、どうもこの「雪かき仕事」に対する敬意がいささか欠けているのではという気がする。
 もちろん、みんな雪かき仕事をしろと言っているわけではなく、自分の成功を求める生き方と、周りの人にささやかな贈り物をすることを大切にする生き方、これはどちらも社会とっては必要だということ。
 両方のタイプの人が按配よくいないと社会はたちゆかない。今の社会やメディアでは、自己利益の最大化を求める生き方が良いという言説で溢れている。若者たちも自己実現をそういう仕事に求めている。



 そうだ、前回の続きで「自己実現」を精神科医の小林司は『「生きがい」とは何かー自己実現への道』(NHKブックス)で次のように定義している。

『自己実現ということばを、なりたい職業に就職できたという意味にとって「小さい頃から自分はスチュワーデスになりたいと思っていて、大学を出てスチュワーデスになった。これで自己実現をした」というふうに、ジャーナリズムでは誤って使うことが多い。しかし、本当の意味はそうではない。「自己実現」というのは、「自分自身になる過程」であり、「その人独自の心理学的特徴や自分の可能性を十分に伸ばす過程」である。

 これは、ドングリにたとえると分かり易い。ドングリを土に埋めると芽が出て、育って大木になるのは、ドングリの中に、もともとカシの大木になるという素質、運命が含まれているから、太陽の光や水などのいろいろな条件に恵まれると大木に育つのである。それは、いわばドングリの自己実現であり、その可能性を含んでいたものを伸ばすことができたのだ、

 すべての生物体は、一生涯を通じて、ただ一つの欲求を持っている。それは自分自身の潜在力を実現したいという欲求である。しかし、自己の本性を実現するという人間の仕事は、ドングリや犬よりはるかに難しい。

 人間というのは、個人個人が全部異なった可能性を含んでおり、その各自の可能性をのばす過程を自己実現と呼ぶのだ。人間はたえず育っていくものである。育つというと20歳ぐらいまでの身体の発育を連想する人が多いし、それから先は退化の一途だと勘違いされているが、それは体だけのことであって、人間の精神は死ぬまで育ち続けるのである。

 人間の心は、育っていく能力を秘めているのだ。死ぬまで伸び続ける自分の素質、可能性を十分に開花させる過程が自己実現なのである。』



 思いつきで書かれた文章ではないだろう。「自己実現」は、成果や結果ではなく、「過程」であるという。そうであるとすれば、常に一歩を踏み出すこと、それが自己実現なのである。仕事で良い結果が出たとか出ないとか、受験の合否の結果は、自己実現に関係ない。だから、毎日、今日もリンゴの木を植えるのである。



 精神科医「小林司」さんのこの名著は残念ながら既に廃版になっている。図書館でないで見られない。

 死ぬまで伸び続ける自分の素質か、可能性を追い続ける過程が自己実現という小林先生の言葉に改めて勇気付けられた。