高校を卒業して大学生活に入ったとき、「なんて自由なんだ」と思った。自由という時間や行動や責任を初めて感じて、嬉しくてたまらなかった。
受験勉強とは異なり、やりたい学問を好きなだけ勉強できるという喜びでキャンパスに行くのが楽しかったことをよく覚えている。
人間は本来、自由に考え、自由に行動する権利を持っている。社会のルールは、各人の自由と自由が衝突したときに、弱い方の人が痛みを感じたり、我慢を強いられたりしないように作られたものだが、先にあるのは自由であって、ルールではない。
ただし、自由の度合いが大きければ大きいほど、すべての人にとって良いかと言えば、それは必ずしも正しくないといえる。一人一人にとっての最適な「自由の大きさ」は、その人が持っている「自由を使いこなす能力」に対応している。
旅慣れた人なら、旅行先で「1日、自由に過ごしてください」と言われたら、自分で情報を集めて計画を立て、満足できる時間を過ごせるでしょう。
けれども、あまり旅慣れていない人なら、自分で内容を自由に決めるという意味での「自由度」が少なくていいから、失敗しない計画を誰かに決めてもらえたら、と思うでしょう。
怖いのは、自分の能力以上の自由を与えられたとき、その人はそのストレスに疲れて自由を手放していいから他人に物事を決めて欲しい、と投げ出してしまうようなことである。
そうならないために、自由という道具を使いこなす能力を積み重ねて磨いていくことは大切なことです。
マニュアルのない創造的な仕事ほど、この自由さが必要になる。遊びや無駄のない合理性を突き詰めてしまうと、新しい発想やアイデアなどはなかなか浮かばないものである。
決まり切ったルーティーンの仕事に追われると、深く考えることを忘れてしまいがちである。その方が楽だと思う人もいれば、自由さのない苦痛を感じる人もいることでしょう。
毎年、春先の4月は自由度の少ない仕事に追われて変な疲労感が溜まる。自分を律する自由をいつも求めていきたいものだ。