アメリカ人は「一度転落したヒーローが奇跡的に復活する」というストーリーが大好きだ。
『レスラー』というミッキーローク主演のプロレス映画もそうだし、シルベスタースタローンの『ロッキー3』もそういう話だった。


ゴルフのタイガーウッズは不倫スキャンダルと交通事故を起こし、その後腰の怪我などの投薬による酩酊で運転マナー違反で逮捕されるなど、どん底まで落ちた。
ところがその何年後か本格的にツアー復帰して5年ぶりの優勝を飾ったら、グリーンでタイガーコールが沸き起こるくらいアメリカのファンは熱狂的に興奮してその健闘を称えた。

一方で、最近の日本では、人が何か大失敗すると奈落の底まで叩き落として、復活なんか絶対に許さない雰囲気がある。いつから日本人はこういう感じになったのだろうか。
卓越したパフォーマンスを実現した人を見て「人間にはこれほどのことができるんだ。すごいなあ」というふうに、人間の可能性について楽観的になれることはとても大切なことだと思う。
でも、日本社会ではそういうふうに際立って抜きん出た人が出てくると、なぜか足を引っ張る、出る杭は打たれる傾向がある。
英国やフランスのように「エリート」を組織的に育成している階層社会では事情が異なる。というのは、そういう国では、エリート集団が国民を代表して、卓越したパフォーマンスを達成して「世界標準」を創出したら、全国民がその恩恵に浴する事ができるという考え方をする。
そうやって階層社会の存在を正当化しているともいえる。でも日本は明らかに違う。日本で「エリート」と言ったら、高い地位について、権力、財力、文化資本を享受して、「いい思いをしている」人たちのことだ。
この人たちは別に日本人を代表して「世界標準」を創出して非エリートたちに余沢や豊かな贈り物を施すことを責務だと思っていない。
新たな世界標準を創り出すことのできる人のことを「天才」と呼ぶのだと私は思う。彼らが人類に豊かな贈り物をしてきて、我々はその恩恵をこうむってきた。
だから、それほど才能のない人たちは、才能のある人たちをやっかんだり、足を引っ張ったりする暇があったら、その人たちがのびやかに才能を発揮できるように支援すべきだと思う。
ハリウッドでは、順風満帆でぐいぐいのし上がった人よりも、一度地獄を見てそこからはい上がってきた人に対して好意的みたいだ。
しかし、日本ではこれに類する話はあまり聞かない。一度栄光の座から転落した人間にはなかなか復活の道が開かれない。
その理由の一つに、最初に多少の下駄を履かせてスターを作ってる環境がある。それほど才能のない人を「すごいすごい」と持ち上げて、内心ではそのうち高転びすると思っている。
そして、実際に転んだときに、その醜態を見て溜飲を下げる。「水に落ちた犬を叩く」というのは日本では娯楽としてかなり定着しているんじゃないだろうか。「出る杭は打たれる」と一対になっている。

