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にゃんこと黒ラブ

猫達と黒ラブラドール、チワックスとの生活、ラーメン探索、日常について語ります

内田樹『結婚、家族について』相互支援ネットワーク

2021-02-25 18:15:00 | 日常

 昨年夏に出版された内田樹の『コモンの再生』について、面白いところがふんだんにあって何度も読み返している。

 以前に、この内田樹の『結婚は安全保障』という考え方に触発されて当ブログ記事にした。その続きとして内田樹の文章が実にわかりやすく面白いので少し長くなりますがそのまま掲載します。


結婚は安全保障上のリスクヘッジです。夫婦が同時に失業するとか、同時に病気になるということは確率的にあまり高くありません。一方が要支援の状態になったときにでも、他方はパートナーを支援できるくらいの経済力と健康がある。どちらかの身にも同じことが起き得るわけですけれど、その時期が「ずれる」なら、短期間に生活が破綻して、ホームレスになるというリスクを回避できる。

 今の日本は残念ながら、社会制度が整備されていません。生活保護制度はあることはありますけれど、受給者に対するバッシングはすさまじいものです。失敗した人間は自己責任で路頭に迷え、弱者に税金を投じるのは無駄だというようなことを広言する人たちがネットどころか政策決定過程にまでひしめいているという「後進国」です。自分で自分を守る手立てを考える必要がある。貯金なんかしても安心できませんよ。国のシステムそのものが破綻しかけているんですから。

 これからの日本社会でリスクヘッジをしようとするなら、とにかくわが身に「もしものこと」があったら、支援してくれる人の頭数を増やしておくこと、それに尽くされます。相互支援のネットワークを構築して、そのメンバーとして積極的に活動すること。それが1番のリスクヘッジです。

 たしかに面倒ですよ。相互支援ネットワークは「もしものとき」に備えての保険ですから、「もしものとき」が来ない限り、ずっと「支援の持ち出し」になるんですからね。出した分だけはきっちり回収したいというような合理的な頭の作りの人には相互支援ネットワークは作れません。

 でも結婚も同じなんですよ。結婚の本質は「成員二人の相互支援ネットワーク」です。だから、わが身に「もしものとき」が来るまではずっと「持ち出し」なんです。
「持ち出し」の様態はさまざまです。収入が多い方の配偶者は「よけいに負担している」と思うし、家事労働が多い方の配偶者は「よけいに負担している」と思う。気づかいの多い方は「よけいな気を使わせられている」と思うし、我慢している方は「よけいな我慢を強いられている」と思っている。

 でもご安心ください。全ての夫婦がそうなんです。例外はありません。「うちの場合は、全部旦那の持ち出しで、私は左うちわなの、ほほほ」なんていう妻はおりませんし、「妻が稼いで、家事をして、オレのエゴをなでてくれて、オレは何もしてないんだよ、ははは」なんていう夫もおりません。

 すべての配偶者は「私の方が持ち出しが多い」と思っています。でもそれでいいんです。そういうものなんです。相互支援ネットワークというのは「まず持ち出し」から始まって、主観的には「ずっと持ち出し」なんです。それが嫌だという人はこのゲームのプレイヤーにはなれません。』












 見返りを少しも期待しない持ち出しか、心と懐に遊びや余裕がないとなかなかそういう風にはいかないとも思う。結婚が安全保障上のリスクヘッジというのも、若いときやミドルエイジまではピンとこないかも。

 歳を重ねて身体のあちこちに不具合が生じると内田の説はよくわかりますよ。



 
 

藤井聡太二冠の高校中退に思う

2021-02-17 19:33:00 | 日常

 卒業式を3月1日に控え、高校3年の1月31日付け退学なんて普通あり得ない。国立大の附属高校だから公立の高校ということになる。

 今の時代、なんてナンセンスな扱いをする高校なのだろうか?頭の硬い融通効かない学校だ。結果論であるが、中学3年早々にプロ棋士になったのだから高校選択を誤ったともいえる。

 羽生善治先生もそうだった。都立富士森高校の3年次、年間対局数が80超えて高校の年間出席日数が足りない(年間授業日数の3/4出席でクリア)と通常の生徒と同じ土俵で審議されて卒業できなくなった。


 羽生先生はその後、19歳で竜王のビッグタイトル取られて、都立上野高校の通信制課程に入学し足りない単位数取得して高校卒業の資格を取られた。

 そもそもプロ棋士になるためには、なってからも学歴は一切関係ないし少しも考慮されない。昭和の大棋士は例外なく高校すら進学しないで師匠に弟子入りしての丁稚奉公的生活が始まったものだ。

 師匠によっては、学校なんか行っていたら将棋の上達や研究に邪魔だとさえ公言する方も沢山いたみたいだ。

 羽生先生は30代でその当時を振り返って、通信制で勉強したこと、高校卒業したことは一つのケジメとして意味があったと振り返っておられる。












 昨年6月から一気に駆け上がるようにビッグタイトルを2つ取られて、片手間にさえ少しも無駄な時間を高校生活に割きたくなかったのでしょう。

 近年、大学卒のトップ棋士がまだ主流ではないが現れてきている。しかし、トップ棋士になるためには、高校や大学は遠回りで無駄な時間(7年間)であることは間違いない。

 藤井二冠の高校中退という選択肢を、極めて賢い選択であったと支持したい。この先、長い人生で将棋以外のことを学ぶ機会や時間はいくらでもつくれます。

 羽生先生、藤井二冠が中退された高校は、大変稀有な人物を卒業生として失った。とんでもない逸材をOBとして失ったことを後悔されることでしょう。




 

朝日杯(早指し将棋タイトル戦)藤井二冠の大逆転ドラマ

2021-02-12 19:28:00 | 日常

 2007年から朝日新聞社主催で始まった将棋のタイトル戦で、八大ビックタイトルの次に位置するプロ棋戦である。優勝賞金は750万円。

 公開対局(観客いる中)で、持ち時間40分だから中盤から終盤戦は、一手1分将棋になる。もつれても2時間くらいで1局の対局が終了する。

 昨日は4人のトーナメント勝ち残った準決勝2局と決勝の1局があった。ライブ配信あったので午前の準決勝「渡辺名人VS藤井二冠」、午後決勝の「藤井二冠VS三浦九段」を固唾を飲んで観た。

 Abema tvのAI評価値(勝敗の優劣)と人間が指す終盤1分将棋の結果があまりにも異なり揺れ動いたから、非常にスリリングで面白い将棋となった。








 藤井二冠は、準決、決勝の2局とも結論から言うと最終盤に大逆転で勝ちをものにした。渡辺名人相手に、AIが99%対1%を示す終盤をひっくり返した。

 渡辺名人はその夜、ブログを更新して1分の秒読みの中で、藤井二冠が難解にした受けから自玉詰みのプレッシャー感じて一通りしかない正解を見つけることは不可能だったと正直に吐露している。

 終盤戦はどんなに複雑な局面でもAIはミス(見逃し)しない。でも手数の多い複雑な局面を一分で正確に指し続けるのは、いくら人間離れしたプロ棋士でも無理なことがあるということ。

 そこに人間らしいドラマが生まれるから面白いと思う。昨日の人間将棋がそれを物語って教えてくれた。

 それにしても、藤井二冠の終盤力が、これまでの人間棋士の中でも抜群にあるということを示してくれた。ほんとうに末恐ろしい棋士になることは間違いない。










 今年度の全棋士の中でも断トツの勝率8割4分近くある。今年度の対局はほとんどトップ棋士と対戦してる中での勝率である。信じられない勝ち方をデビューから4年未だ継続している。

 今年高校卒業で、大学には進学せず将棋に専念すると昨年から公表している。彼にとっては大学は無駄な遠回りであることは間違いない。最善の進路選択一手でこれまたやはり素晴らしい。




 

90年代を駆け抜けたNBA旋風『我が心のMJ』

2021-02-10 19:45:00 | 日常

 学生時代、小学校から大学までバスケットボールに取り組んだ。生まれつき少しばかり背が高かったこと、足が速かったこと、体力があったことなどバスケという競技に向いていたみたいだ。

 昔は高校時代までなら野球、バスケ、サッカーは競技人口が多い男子の3大スポーツだった。大学でも競技としてこれらのスポーツに取り組む学生も今より割合が多かったと思う。

 長い学生生活を経て一応勤め始めた1988-89シーズンからNBAの衛星放送を見られるようになった。パラボナアンテナと受信チューナーを購入して、そのアンテナ📡の方向と角度を調整しながら、砂嵐の画面に受信できたときの感動は今でもよく覚えている。

 今やスマホでデジタル信号を簡単に受信して見られるから、40代前半の人にはこの手の苦労と感激はわからないだろうと思う。










 我が心のバスケヒーローは昔も今もMJこと『マイケルジョーダン』。これほどしなやかでリズム良く空中に長く居られる美しい選手をMJ以外見たことがない。

 80年代後半から大活躍する90年代は、NBA史上で最もハードコンタクト(身体接触が許された)時代だ。88年、89年と東地区でデトロイトピストンズの「バッドボーイズ」にMJのシカゴブルズはさんざん痛めつけられてファイナル(決勝)へ進めなかった。

 MJは個人のスーパープレイからチームとしてのスーパープレイに変貌して90年からの3連覇を果たした。その直後、お父さんが不慮の事故(銃による殺害)から野球へ転向。再びNBAへカムバックしてのまたもや3連覇と、MJの波瀾万丈バスケキャリアは全世界のバスケファンを巻き込んだ嵐のような風となって熱狂的に吹き荒れた。










 私もバスケ経験者としてもれなくMJ教に没入したひとりだった。この10年もよくNBAは観ているので、この頃のNBA選手もよく知っている。アメリカ人以外にもヨーロッパから凄い選手が活躍する時代になった。

 日本からも八村塁や渡邊雄太がまだまだこれから成長してであるが、驚くようなプレイを時折見せてくれている。一昔前の日本人では考えられないレベルまで到達しつつある。

 NBAの中継は、生中継でなくても観たいときに見られる便利な時代になった。また、ワンゲーム120分を総集編で10分から15分くらいのハイライト映像も見られる。

 便利であることは良いことだけれど、昔のVHSビデオテープに録画して擦り切れるほど何度も見るような没頭や興奮はない。手軽に見れて手軽に見なくても済む。

 NBAだけでなく膨大なスポーツ映像が手軽に見られる時代に、90年代のようなコアなファンはいないかも知れない。どちらがよいとかじゃなくて90年代をとても懐かしく回想する思い出である。




「水に落ちた犬を叩く」と「出る杭は打たれる」

2021-02-09 19:29:00 | 日常

 アメリカ人は「一度転落したヒーローが奇跡的に復活する」というストーリーが大好きだ。

 『レスラー』というミッキーローク主演のプロレス映画もそうだし、シルベスタースタローンの『ロッキー3』もそういう話だった。








 ゴルフのタイガーウッズは不倫スキャンダルと交通事故を起こし、その後腰の怪我などの投薬による酩酊で運転マナー違反で逮捕されるなど、どん底まで落ちた。

 ところがその何年後か本格的にツアー復帰して5年ぶりの優勝を飾ったら、グリーンでタイガーコールが沸き起こるくらいアメリカのファンは熱狂的に興奮してその健闘を称えた。






 一方で、最近の日本では、人が何か大失敗すると奈落の底まで叩き落として、復活なんか絶対に許さない雰囲気がある。いつから日本人はこういう感じになったのだろうか。

 卓越したパフォーマンスを実現した人を見て「人間にはこれほどのことができるんだ。すごいなあ」というふうに、人間の可能性について楽観的になれることはとても大切なことだと思う。

 でも、日本社会ではそういうふうに際立って抜きん出た人が出てくると、なぜか足を引っ張る、出る杭は打たれる傾向がある。

 英国やフランスのように「エリート」を組織的に育成している階層社会では事情が異なる。というのは、そういう国では、エリート集団が国民を代表して、卓越したパフォーマンスを達成して「世界標準」を創出したら、全国民がその恩恵に浴する事ができるという考え方をする。

 そうやって階層社会の存在を正当化しているともいえる。でも日本は明らかに違う。日本で「エリート」と言ったら、高い地位について、権力、財力、文化資本を享受して、「いい思いをしている」人たちのことだ。

 この人たちは別に日本人を代表して「世界標準」を創出して非エリートたちに余沢や豊かな贈り物を施すことを責務だと思っていない。

 新たな世界標準を創り出すことのできる人のことを「天才」と呼ぶのだと私は思う。彼らが人類に豊かな贈り物をしてきて、我々はその恩恵をこうむってきた。

 だから、それほど才能のない人たちは、才能のある人たちをやっかんだり、足を引っ張ったりする暇があったら、その人たちがのびやかに才能を発揮できるように支援すべきだと思う。

 ハリウッドでは、順風満帆でぐいぐいのし上がった人よりも、一度地獄を見てそこからはい上がってきた人に対して好意的みたいだ。

 しかし、日本ではこれに類する話はあまり聞かない。一度栄光の座から転落した人間にはなかなか復活の道が開かれない。

 その理由の一つに、最初に多少の下駄を履かせてスターを作ってる環境がある。それほど才能のない人を「すごいすごい」と持ち上げて、内心ではそのうち高転びすると思っている。

 そして、実際に転んだときに、その醜態を見て溜飲を下げる。「水に落ちた犬を叩く」というのは日本では娯楽としてかなり定着しているんじゃないだろうか。「出る杭は打たれる」と一対になっている。