「素朴な感覚」を重視してそれを強化するために科学や医学や数学を持ち出そうという態度でいる人にとって、「素朴な感覚」とは違う結果説明がされることはどう映るのだろうか。想像してもわからない。逆に科学や医学や数学の限界を意識せず重視している人に、現実がどう映っているのかもわからない。
そこそこ批判精神を持つ人は、素朴な感覚重視派と科学の限界無意識派の両方から、結論を出さず曖昧な態度を取ると非難されている気がする。わからないことをわからないと言明することが大抵見下されている。これに耐えられないと、批判精神を持ち続けることは辛い。人の意見に染まりたくなるだろう。
これは、玉虫色の表現や曖昧な態度が生き延び暮らす知恵だという文化をもつとか、Yes、Noをはっきりする態度が知恵だという文化だというものとは違う。曖昧な態度もYes、Noをはっきりするのもコミュニケーションの問題だ。言質を取られないように志向しているが、内面がどうであるかは別。
私はその読解力がかなり低いので、他人の内面をよく理解できない。表面に出ている言動から、本当に素朴感覚派なのか科学無限界派なのか批判精神を持っているのか区別できていない。わからないことをわからないと言明する人が、実際はどう考えているのかも。難しい。
私は儒教批判を継続している。単純な否定ではない。物事の一面を示すものであるとは思うが、賛成できないことが多くある。「論語」を初めとする儒教関連書籍・言説への関心が低い訳ではなく、機会がある毎に読み考える様にしている。何故そのような言説をするのか。またその言説が必要とされたのか。
関心はあるが、まだ手を出していない分野は多い。宗教関連はすべてそうだ。一応、聖書と古事記とクルアーンはきちんと読んでみたい。子供向けとか普及用ではないもので。(普及用は持って居るが、それですら全部は読めていない。)
荘子と老子は大学生の時に岩波文庫で一通り読んだが、それ以降は読み直していない。その後の道教への変質についてもよく知らない。
仏教関連も多すぎて全貌がよく判っていない。やはり岩波文庫を中心に多く集めて拾い読みした程度。予備知識が必要に感じるとなかなか前に進めない。宗教的な天才達の思索の成果を、ごろ寝をしながら読む文庫本で理解できるとは思わないが、物語としても長編であるのは厳しい。
一つの文書を読むだけでも、概観のそのまた一部である入門カタログを求め、子供向け普及用のものから得た知識に頼ってしまうことになる。だからこそ自分なりの解釈であって誤解や誤読も含めた評価をしているという自覚をしている。「論語」に対しても同じだ。
「論語」の一文一文は、多義的な解釈ができる。まあ「テキスト論」を知ると自然なことだが。しかし、その多義的解釈ができる文を集めた「論語」には、特定の思想的方向性が見えてくる。”集合の共通部分”みたいなものだ。私が見たのは「乱れを無くすために模範秩序で固定しよう」だ。
論語の主張は「乱れを無くすために模範秩序で固定しよう」と見るのは、①乱れを無くすというのは誰の目的か②どこのどれを模範にするのか③固定とはどういうことか、がすんなり読めるからだ。そしてその具体的な方法が「学問」であるということも。ただし「学問」は②に結びつくものに限る。【文字コード調整済】
私が儒教に対して賛成できないことが多くあると言うのは、「乱れを無くすために模範秩序で固定しよう」という時代や状況による変化・変容を認めるわけにはいかないというイメージからだ。模範にすべき固定存在に近づけるようにすることが学問であって、それを超える行為は秩序を乱すから許されないと。
もう一度確認すると「論語」のテキストは多義的である。だから一文一文から別の解釈を拾い集めて、私とは違う論語のイメージを持つことは自然だし可能だし自由だ。
「乱れを無くすために模範秩序で固定しよう」という時代や状況による変化・変容を認めるわけにはいかないというイメージについて、何故そのような言説をするのか、またその言説が必要とされたのかとセットで考えている。時代や状況に応じてでは何故だめと思われたのかと。ここに拘っている。
(時代や状況に応じて「模範」にすべきものが変わることは、受け入れがたい人が多いのだろうと察している。”付いていけない”という悲鳴は出るだろうなあ。)
では老子や荘子はどうかというと、私には「人間の都合の良い秩序で管理しようとせず、在るがままの性質に従え。目に見える現象に囚われるな。」といういうイメージ。自然と起きる小さな乱れを無くそうと管理すれば返って大きな乱れを生み出すだけだと、人の知恵や工夫への懐疑がある。
私は「人の知恵や工夫への懐疑」はあった方が良いと思うし、在るがままの性質を押さえつけ都合の良い秩序で管理しようとして失敗しているのが今の社会だと思う。しかし「自然と起きる小さな乱れ」を許容出来ない社会から、急に変わることは「大きな乱れ」になるという警戒が強い。
論語にある「乱れを無くすために模範秩序で固定しよう」と老荘の「人間の都合の良い秩序で管理しようとせず、在るがままの性質に従え。目に見える現象に囚われるな。」は対立する概念ではない。朱子学では、在るがままの性質だと説明できる秩序を模範秩序の性質としたようだ。
中国では仏教、儒教、老荘思想、神仙思想、土着宗教がそれぞれに影響し合って複雑な考え方が生まれたし、日本に伝わってからも日本の宗教・思想と影響し合ったようだから、それぞれ固有の概念は何かを区別することが難しいし、またその必要がどのくらいあるのかもよく判らない。
私の解釈は私の読書履歴と知識履歴(誤解や誤読も含め)にかなり依存しているので、実際の歴史的な順序とは違う影響にある。それは自覚している。これを正しい解釈だとか間違った解釈という評価をしたくないし、されたくない。ここまでを良く理解した人とは色々議論したい。
@juangotoh マショウHPに第17話までは載っているようですが。それ以降は追加されてないですね。
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