あまりにも観たくて、仕事の合間に観に行ってしまった。
おもしろかった。笑って泣いた。めちゃくちゃ好きだ。すべての人がわかる映画ではないと思うけれど。
桐島が、最後まで一度も登場しないという設定は、名作「ゴドーを待ちながら」のオマージュらしい。
「タランティーノの映画で何が好き?」というセリフも出てくるが、同じシーンを別視点で何度もくりかえす手法などは
タランティーノの『レザボア・ドックス』をなぞっている。(さらにそのレザボアはキューブリックへのオマージュらしい)
たぶん映画マニアなら、もっと気づくところがいろいろあるんだろう。
ゾンビ映画はよく知らないのでそのへんのくだりはわからなかったが、
クライマックスで映画部の神木龍之介が叫ぶ「ロメロだよ!それくらい観とけ!」
というセリフは、しびれるほどにかっこよかった。
桐島とはいったいなんなのか。
バレー部のエースであり、学校のスター。
その友人や彼女の様子を見る限り、相当なイケメンでリーダー的存在に違いない。
その高校は、どこの高校にもあるであろう見えない階級が存在し、
上位は、桐島をはじめとするイケてる男女や運動部。
最下層は、神木隆之介演じるオタク高校生・前田などが所属する映画部。
映画部員によるセリフ「大丈夫。あいつ(吹奏楽部ブチョー沢島亜矢)は同じ文化部だ」「あいつ、映画部より吹奏楽部の方が絶対エラいと思ってるよな!」
からすると、吹奏楽部はその中間あたり?と思われる。
彼らは桐島が部活をやめるという、ただそれだけのニュースにかき乱され、
連絡の途絶えた桐島を、イライラしながらも待っている。
中森明夫氏が、「桐島とはキリスト」説を展開しているが、
なるほど、ゴドー=GOD(神)という説があることを考えると、それは当然行き着く解釈かもしれない。
高校生たちは、桐島が戻ってくるのを、祈るように待っている。
では部活とは何か?
進路決定を控えた高校生にとって、じつは「いま向き合うべき夢の象徴」なのだと思う。
野球部の先輩に「試合だけでも来て」と熱望されながら、幽霊部員で桐島と遊んでばかりいる宏樹。
学校一の美女であり、桐島の彼女である梨紗。梨紗の友人で宏樹とつきあう沙奈。
彼女のいる宏樹に恋してしまったせいで吹奏楽部の練習に集中できずにいる亜矢。
本当は部活が大好きだということを仲間の沙奈たちに言えず、もんもんとした思いを抱えるバトミントン部の美果。
桐島と同じポジションでありながら桐島を尊敬し、補欠に甘んじているバレー部員・風助。
彼らはみんな桐島がいなくなったことによって、イケてると思っていた学園生活が、じつは空虚なものだったと気づいてしまう。
あるいは自分自身の実力の限界に気づいてしまう。
いや気づきたくない一心で、桐島を執拗に何度も何度も求めるのだろう。
クライマックスの屋上シーンでは、帰宅部のリア充女子も、桐島を取り巻いていたイケメン男子も、
ちゃちな映画を撮っている映画部のオタクたちに負けそうになる。
いや一瞬負けそうになるだけで、実際には負けないのだけれど、
少なくとも前田の8ミリビデオを通した主観のなかでは、彼らはリアルなゾンビたちに見事に食らわれてしまう。
それは前田が、自分の安っぽい部活映画と、憧れのロメロ(夢)がつながる瞬間を見たシーンでもある。
そしてラストシーンで、宏樹はその前田と話して、誰よりもいろんなものを持っているように見える自分が、
じつは何も持っていないことに絶望する。(と、思われるような泣き顔になる)
途中、ちょっとムダなセリフやおもしろいだけのエピソードが多いようにも思えたが、
すべてが布石だったことがここでわかってゾクゾクした。
大人になるとわかってくるけど、中学・高校時代のカーストなんて、
その先の人生では、容易にひっくり返ってしまう。
この映画は、まだ狭い世界にいながらも、そのことに少し気づいてしまう高校生たちの心の動きを描いているのかもしれない。
少なくとも映画部オタク男子たちは、学校中にバカにされてはいるのだけれど、
誰よりも部活に夢中になっていて、桐島(=神)の「救い」など、全く必要としていないのだった。
余談だけど、この映画の広告が数日前新聞に出ていて、
「ハリウッドよ、これが日本映画だ。」
というコピーがついていた。
これは上演中のヒーロー映画『アベンジャーズ』が
「日本よ、これが映画だ。」というコピーで展開していることに対するパロディで、
ユーモア効いてるなあ。と思っていたが、実際見てみたら、まさにあのコピーを言うのにふさわしい映画だった。
あれは「テルマエロマエ」でも「ヘルタースケルター」でもなく、「桐島」だからこそ言えたコピーだったと思う。
わりと人気でたので、少し上映期間も延長しそう。
らしいです。