大相撲

大相撲についての想い

伝説の名横綱 双葉山 六十九連勝全記録

2007-01-31 08:55:15 | Weblog
当時珍しい学生相撲出身の笠置山、十七回対戦して一度も双葉山に勝った事がなかった。次の対戦では、自分のポリシーに反してでも立合い変化で勝ってやろうと考えた。
その前日、ある友人が郷里からやってきたが、この友人が見ている取組で笠置山が負けたことがないため、きっと変化技で自分は勝つのだろうと思ったらしい。
当日がやってきて笠置山は一点の迷いもなく土俵にあがった(この辺は変化をするときも一徹するあたりが最近の力士と違っている)。学生相撲出身で理詰めの相撲をとる(今の学生相撲出身力士の中でさほど知的に見えない力士もいるが)笠置山の頭の中には、自分の技でどう双葉山が応ずるかも全てシミュレーションができている。

さて、仕切りに入る。身体も良く動く。ふと双葉山を見ると、淡々とした仕切りをしておりこちらの企みなど一向に考えていないようだ。

仕切りが続くうちに笠置山の中で気持ちの変化が生ずる。変化する際の動きとかいったことが頭の中から消えて、仕切りそのものに没入していく。そしてそれが「法悦にひたるとでも」言えるような澄んだ浄化された気持ちになっていき、仕切りをすることがすべてといったような無我の境地に達していた。

立合い。笠置山はいつもどおり真っ向からの立合いでぶつかっていく。そして敗れる。

しかし、本人はすがすがしさでいっぱいである。気持ちのいい相撲がとれた、それを友人に見てもらってよかったという思いだ。「双葉関の仕切りに引き込まれた」と。

笠置山は「双葉関に勝ったらその場で引退しよう」とすら思ってその後も相撲を取る。一度も奇襲はやらないしやろうとも思わない。そしてそのまま一度も勝てずに両者の対戦履歴は終わる。

この本の著者は「土俵人格は仕切りにこそ発揮される」とこのエピソードを総括している。

朝青龍-琴光喜の対戦への安易なanalogyはやめておこう。