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誠ニ大事之儀御座候間能ク心得候へと内意被申候扨々御心入之儀共別而
忝存候いかにも被仰聞候通得其意申と申候定而右之通之様子
ゆへ但馬守様御屋しきニて奥田孫太夫舅拙者を承及定而
拙者名を被申たる哉尤其刻助五郎ニ誰か左様ニ申たる哉富もう事
も尋申不申候偽ニ而無御座通シ申事ハ勿論兼而覚悟仕居申
事故少も驚申事ニ而ハ無御座候故唯御心入忝と斗礼を申候事
一.或時次之座ニ而何もと咄申候刻何も被申候ハ今度近松勘六家来甚三
郎と申小者事存出候得ハ不便ニ存候と被申候衆いか様之訳ニ而御座
候哉と尋候得ハ勘六ハ代々先祖より近江国之ものニて御座候在所之名被
申候得ハ折節失念仕候右之在所よりより今度江戸へ召連参候甚三郎親は
庄やを仕居申候代々わけあるものニ而御座候今度何も存立申前ニ
在所之状なと調申候而在所ニ差帰シ可申と存右之趣申聞候へハ甚三郎
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申候ハ此間何も様之御様体見申候へハ近キ内ニ思召立事有之と見及
申候私儀今度被召連候刻親共申聞候ハ随分随分能ク御奉公を相勤御為
ニハ身命を捨御奉公を勤候様ニと申聞候事御聞被成候処ニ御用ニ立申
間敷と思召御返シ被成候哉無是非仕合とて腹を切可申体ニ見へ涙を
ながし候故不及力其分ニ而召置申候、其夜も供ニ召連申候然共兼而内蔵助
申付候ハ今度之一巻ハ内匠頭ニ勤居申もの親子兄弟ニても他家へ
勤居申たるもの其外内匠頭ニ対し何のわけなきものハ内蔵助同道
不仕候筈ニ兼而申付置候故其夜も門外迄召連参申候翌朝上
野介殿屋敷より何も仕廻罷出候得ハ右之甚三郎蜜柑之類餅なとふと
ころたもとなとニ入候而御のとかわき可申とて何もへ給さセ扨々目出
たく御仕廻被成候とて悦申候定而今度伯耆守様より私共儀何も様被
召連参候砌も跡先ニなり辻番あたりにもうろたへ其夜も居申たる
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哉と不便ニ存候由被申候我等申候ハ扨ハ左様之志成ル男ニ而御座候哉尊神之
御めぐみニ而後々ハ冥加ニ叶可被申候、御心安被思召候へと申候得ハ
唯今存候へハ勘六名字をゆづり何とそ内蔵助ニ断之申用も有之連衆ニ
加へ不申事残念至極と被申候其後拙者心底ニいかにしても心底不便ニ
存町屋より或夜ニ上野之脇谷中之入口より左へ行申候而長福寺と申
寺之弟子文良と申出家勘六甥之由尋候而参申候尤文良ニ逢申
勘六息災之段も咄きかセ甚三郎事尋候へハ無事ニ十二月廿四日迄
逗留仕在所ニ罷帰候由文良被申候しはらく咄い申座敷を見候得ハ菅
谷半之丞札付居申つづら其外ニも見へ申候何も折々被参宿も被
仕候哉と被尋候其後勘六ニ右之儀咄聞セ候得ハ事之外悦被申候
巳ノ日之夜ル日暮ニ参候而四日過ニ町屋へ帰申候しのばすの弁
才天参り多ク駕ニ而通兼候様有之候事
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一.瀬田又之丞被申候ハ松平壹岐守様御家中ニ草田香庵と申いしや 御座候因幡へへいつ比発足仕候哉承くれ候へと被申候故築地之壹岐守様
御屋敷へ参候而尋候得ハ旧冬在所ニ無恙着被仕候左右も有之由
承候而又之丞ニ申聞候へハ殊之外悦被申候事
一.或時内蔵助へ我等申候ハ此比町人共之咄ニ而承申候於京都萱野
三平と申仁書置なと被仕自害被仕候咄承候由申候得ハ内蔵助
被申候ハそれハ皆共京都ニ居申候時分之儀にて御座候存生ニ而居申候へハ
いかにも今度之一巻ニ加り申志シ之ものと咄被申候其後何もの咄ニて
三平父京都牢人ニて居被申候故三平をてつかたへか養子ニ遣可
奉公をさセ申のと談合仕被申候ニ付三平志ニ叶不申とて書置
被仕内匠頭御一周忌ニ自害仕果被申候由若キ衆なと咄被申候事
一.次之座ニ而何も若キ衆之咄ニ今度矢頭右衛門七と申候而十七才ニ
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罷成候江戸初而ニ而御座候故就中磯貝十郎左衛門別而引廻シ申候右衛門七親ハ於
京都病死仕候果候刻右衛門七ニ親申聞候ハ不及是非今度病死仕候内々
内蔵助と申合置候事有之候間其方事何とそ志をつぎ名代
を仕くれ候へと申候得ハ奉得其意候由談合申今度之連名ニ加り申候母方
之伯父越後国松平大和守様御家中ニ居申候故是ニ母を預置可申とて母子
づれに道中之荒井迄参候處初旅と申若年ニ有之候故女切手持
参仕候事不存荒井申より立帰申候如御存知久々牢人ニ而暮候へハ少之路
銀も右之仕合ニ而なく成申候故何も打寄候而母を赤穂之辺ニ存候もの
有之預遣申候今程ハ定而難儀可被仕と被申候故拙者申候ハ扨も扨も御父
子之御意誠以不浅候儀奉感候天道尊神之御めぐみニ而御母義もゆる
ゆると御暮被成候様成行可申とて涙をながし申候事
一.或時磯貝十郎左衛門被申候ハ傳右衛門殿ハ古キ事を御数寄被成と尋候吉田忠
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左衛門ニ古戦之咄なと御聞被成候得ハ忠左衛門も悦可申候と被申候得共段々藤
兵衛被申候様子ゆへ所望も不仕其上古戦も大形之儀ハ承居申候故
不任心残念ニ存候松平宮内宰相様御代渡辺数馬河井又五郞喧
嘩之咄尋承申候処ニ兼々承候よりハ委細咄被申候刻右之一冊前々より
写置申候故忠左衛門咄ニて御家老荒尾但馬を御老中様別而御感シ
被成候事を書加置申候右但馬被 真源院様御代ニ相模守様被仰請
御能なと有之御馳走之砌但馬も御供ニ被召連候得とて被参候刻
相模守様之御次之座ニ居被申頭巾を着用被仕つつニ居被申候而見物
被仕候様ニと度々 真源院様御出被遊御懇比之様子と同名古文左衛門
御児小姓勤候刻見申候とて咄承及い申候亡父なとも心安書通被仕候隠居
名荒尾龍良とか申たると我等も幼少之時書通覚居申候事
一.何も老人衆へ拙者申候ハ各様御事熊本へ相聞老人共就中悦申越候
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私初としてわかき時分ハ老人ハやくにたたぬと存候最早私も老人ニ成候故か
ひいきニ成申候唯今之旦那親肥後守代ニ福嶋大夫殿ニ城代仕居申候
上月文右衛門と申もの五千石ニ而召抱申候其砌肥後守祖父三斉と申候ハ
八代ニ居申候家老ニ村上河内と申一万石遣申候河内申候ハ三斉被申候ハ
肥後守ハ人ずきニ候間定而能キものニて可有之と被申候河内申候ハ承
申候得ハ老体ニ而年御座なきと申候へハ三斉被申候ハ侍ニ年いるへきか
今日召抱今日用ニ立申侍ニ扨々うつけたる事を申候とて殊之外しか
り被申候由承其時之老人共悦申候而八代ニむき拝ミ申と申伝候由
咄笑申候此咄ハ遠坂関内殿被申候つる事覚い申候志水古伯耆殿御咄之由
一.十郎左衛門又咄ニ原惣右衛門ハ足軽を預居申候常々足軽供召仕候様子気
味能キ事共多ク御座候つる先年内匠頭果候刻も侍葵瓦敷之
諸道具惣右衛門勧ニ而即刻得仕候と咄被申候處ニ惣右衛門被参候何をか
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御咄被成候哉と被申候故右之様子尋候得ハ私ハ前かど側之用人勤居申候
故道具之様子あらまし存い申候第一ハ船をあまた借りよセ道三橋
の下ニ召置候而舟印シそれぞれニ付置諸道具かたづけさセ被申候別ニ
替る事も無御座候つる内匠頭事ニ付其夜早使ニ赤穂へ参候様ニ
大学ニ申付候六日ぶりニ参候由被申候扨も扨もそれハ早キ事ニ御座候
いか様ニ被成候哉と申候へハ惣体 公義之御法度ニ而ハ候へ共内匠頭事ハ代々
伝馬丁問屋共ニ兼而金銀を遣置候故右之通ニ早々参候扨々ち
からもなき早使を仕候と被申候事
一.或時冨森助右衛門被申候ハ私衣類之内ニ白キ小袖之女之着仕たるニ而候袖口
なともせまく御座候ハいな事と被思召事有之御座候老母きる物ニ而
御座候其夜遠方へ参候事之外寒シ候間下着ニ仕度とて借用仕
着仕罷越候と被申候故扨々御尤至極成る思召寄ニ而御座候母之
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衣と書キ申候ほろとよみ申伝も御座候ヘハ御志之段奉感と申候其後寒
気強く候故何も枕もとにたてさセ可申と御小屏風なとの内ニ庭鳥之
子をそたて申所を書たるを見被申候而私へ助右衛門被申候ハ扨々口惜奉存
事御座候ハ最早皆共ハとく果ものが唯今迄存命有之候処此御屏
風之絵を見申与風(ふと)せがれ事存出し申と被申候故拙者申候ハ御尤至極ニ
奉存候ハ貴様もぼんふと思召御心ニ而それ程之事ハ御心ニ而御ゆるし被成候へ
各々様之今度之御仕方古今不双之御忠臣と末々之もの迄奉感
候事ハ此比非番之刻少遠方へ用事有之町屋敷より出駕ニのり
候て参候道すがら私とハ不存今度之四十六人之御衆何も昔之弁
慶忠信ニハましたる人から男ぶり迄何もそろい大男ニ而大ちから就
中大石主税殿と申ハ幼年ニハ有之候へ共大男大ちからニ而其夜も
大長刀ニ而昔之弁慶ニハましたると申候駕かき其日通之日用之
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