天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

聖心聖月 6月は聖心の月 第11日~第20日(聖心のお悲しみ編)全30日

2015-06-11 06:00:13 | 聖心聖月 6月は聖心の月
第11日 聖心のお悲しみ その1

イエズスは、三位一体の天主の第一格であられる、聖なる御父にお別れを告げて、
楽しみ、喜び、幸福に満たされた天国を去り、
憂愁と災禍に満ちた涙の谷(この世)にお下りになりました。
このことは、聖心のお悲しみのはじまりでした。


三位一体の天主の第二格であられる聖なる御子は
天国におられ、天国は、幸福と喜びと楽しみに充ちあふれていました。
三等九品の(すべての階級の)諸天使は、燃え立つばかりの熱愛をもって三位一体の天主に奉仕し、
美しい音をかきならして、天主の御徳を讃美して歌うのでした。
このような幸福なる国を去って、この世に降られたことは、
まるで、太陽が前を去って、暗黒の淵に沈むような感じがいたしました。

三位一体の天主である聖なる御子が
この世にいらっしゃったとき、
少数の善人が、善業と徳行とをもって
聖心をおなぐさめ申し上げました。

その他の人々は、もっぱら虚栄を求めて、むなしい楽しみにふけっていました。
善をいやがり、悪を好み、悪魔は勢いづいて好き放題していました。

このような有様ですから、聖心は、大いにお悲しみになりました。

わたしたちは、わたしたちの救霊のため、栄誉と幸福とを棄てて、
この世に降ってくださった三位一体の天主である聖なる御子に深く感謝し、
三位一体の天主である聖なる御子イエズスに倣い、
自分のすべてを天主に献げないわけにはまいりません。

特に、自分の智慧、意志、記憶の3つをを犠牲として、
聖心に献げないわけにはまいりません。

これらをを献げた以上は、
悪事あるいはこの世のむなしい事のために自分の智慧を働かせてはなりません。
自分の智慧は、ただ、天国と天国の義を求めるためだけに使い、
聖なる御心のお好みになることを好むように自分の意志を使い、
天主の光栄と救霊とに必要な事物に留まるためにだけ、自分の記憶を使わないわけにはまいりません。


主よ、
わたしたちが、もし、
主の聖なる御心にかなうのなら、
主の御光栄のためには、どんな悪人の社会にも進み入って、
彼等の救霊のため、困難辛苦をも辞さないことを、お誓い申し上げます。

第12日 聖心のお悲しみ その2

イエズスが、イエルザレムの聖殿に奉献されたとき、
シメオン聖人が
わが主の御苦難を予言しました。
そのとき、苦痛の剣が聖母の御心を刺し貫きました。
このことは、2つ目の、聖心のお悲しみでした。

聖母マリアは、おさなごイエズスを抱いて、聖殿に到着し、
おさなごイエズス天主に献げなさいました。
そのとき、シメオン聖人はイエズスを抱き、予言して言いました。

「ああ、この、おさなごは、いさかいをを受ける標号に立てられるでしょう。
 そして、まさに、剣が、あなたの心を刺し貫くでしょう。」
このことをお聞きになって、
聖母マリアは、するどい剣で刺し貫かれるよりも
強い苦痛を御心に感じられました。

わが主イエズスも、聖母のこの苦痛をごらんになって、
聖心に聖母と同じき苦痛を感じられました。

それは、イエズスの聖心は聖母の御心と固く一致して、ほんのわずかの時にも
離れることがないからです。

だから、イエズスの聖心は聖母の御心のうちを、明らかにご存知です。
よって、シメオンの予言によって聖母が御心に傷を受けられたとき、
イエズスもまた、聖心に傷をお受けになったのです。
この傷は、十字架上において、
槍で刺されなさった後でも、癒えることはありませんでした。

わたしたちは毎朝、聖母に向って、
聖母が聖なる御子イエズスを聖殿にお献げになったように、
わたしたちのもっている一切のものをも、
聖なる御子の聖心に献げ申し上げることを祈らなければなりません。
聖心は聖母の清浄な御手によって、
献げられたわたしたちを、イエズスの聖心の内に納めてくださいます。
そして、聖なる御こころにかなわない、一切の汚れを、
イエズスの聖心から立ちのぼる火焔をもって焼き尽してくださいます。
憂い、苦しみ、辛いこと、困難にあう人は、
聖心の内へ入るのがよいのです。
必ず大いなる安らぎを得ることでしょう。

父母の悲しみとは、父母の子の悲しみでもあります。
子の悲しみとは、子の父母の悲しみでもあります。
わたしは、今、イエズスのの聖心と、
聖母の御心との御悲しみを見て、
私の心において、深くこのことを悲しみ申し上げます。
この悲しみは、すべて、わたしの罪がもたらしたものなのです。

主よ、
お願いですから、
わたしの心を改めさせて下さい。
再び罪を犯して、主の聖心と聖母の御心とを、
悲しませ奉ることがありませんように。
また、わたしたちを、憂い、苦しみ、辛いこと、困難にあうとき、
どうか、お慰めをくださいますように。

13日 聖心のお悲しみ その3

悪王ヘロデは、イエズスを殺そうと謀ったので、
わが主は、その難を避けるため、故郷をお去りになりました。
このことは、3つめの聖心のお悲しみでした。


ある人が知人を訪問したとします。
知人の門前において、面会を謝絶されるより不快なことはないでしょう。
イエズスは、万民に天国における幸福を授けようとして、
この世にいらっしゃいました。
でも、忘恩の民はイエズスを歓迎しませんでした。。
御誕生後まだ数日もたっていないのにもかからわらず、
わが主に、故郷を去らせてしまったのです。


聖マリアと聖ヨゼフとは、天使の御告によって、
わが主を殺そうとする
悪王ヘロデの悪だくみをお知りになりました。
そこで、急いで聖なる御子を抱いて
エジプトへ避け、難を逃れました。

このとき、イエズスは父母の悲しみをごらんになり、
深く聖心に御苦痛をお感じになりました。

また、イエズスは人を愛し、いたるところで恩恵を施しになったにもかかわらず、
ある場所では、イエズスは悪魔つきだと言われ、
ある場所では、サマリア人と言われ、
ある場所では謀反人だ、神を穢す者だと訴えられるなど、
いたるところで冷遇虐待を受け、
深くイエズスの聖心は、御苦痛をお感じになりました。

あの、聖ヨハネによる福音書にも、
「イエズスはご自分の領分にいらっしゃったのに、ご自分の領民は、イエズスを受け入れなかった」
と書かれています。

イエズスは慈愛の父、哀憐の主です。
だからすべて、貧困に苦しむ者は
イエズスの御救助を願うべきです。
必ず富ませてくださるでしょう。
処置判断に苦しむ者は、イエズスに御意見を仰ぐべきです。
必ずイエズスは、知識を照してくださるでしょう。
恐怖のうちにある者は、イエズスに御援助を求めるべきです。
必ず勇気を与えてくださるでしょう。

主よ
お願いですから、
わたしたちが、どんな冷遇虐待を受けても
聖心に倣って、
柔和謙遜をもって、冷遇虐待に耐えさせてくださいますように。

14日 聖心のお悲しみ その4

イエズスが世に出て、福音を宣べ伝えなさると、
ファリサイ派や律法学者が、イエズスを妨害しました。
これは、4つめの聖心のお悲しみでした。

イエズスは柔和、謙遜、忍耐を旨としておられました。
だから御自分の身の上にかかる恥辱、軽蔑、呵責などは
甘受されていました。
でも、人を救う行動を妨害されたことは、聖心が我慢できないことでした。

そこで、ファリサイ派や律法学者等は、モーゼの律法を保護するとの口実の下に、
イエズスに種々の悪名を付けて、イエズスの宣教を妨害しました。

そのため、わが主の熱心な御行動も、
多くの人の為には、無駄になってしまいました。
このことをご覧になって、
聖心は大いに悲しまれました。

また、将来においても、
イエズスご自身がお立てになった教会が、
悪人の迫害を受けて、
忠実なる使徒、つまり、かよわき羊が
猛悪な悪いオオカミに襲われ、苦しめられることを
ご覧に成りました。
そして、聖心は大いに御苦痛を感じられました。

また、その中でも特に、
一度その身をイエズスにささげ、
生涯イエズスに奉仕することを誓った者の中にも、
主に背いて聖なるみおしえを妨害する者があることを
ご覧になって深くお悲しみになりました。

イエズスはある日、
聖女マルガリタ マリア アラコックに御出現になり
イエズスの傷ついた聖心を、聖女に示しておっしゃいました。

「これは、私が最も愛するわたしの民が私に負わせた傷である。
私の特別の愛を受けた者の中にも、
財産をむさぼり、欲にふけり、傲慢で
天主のみこころに逆らうものがある。
私が、義なる怒りを発し、その者たちを罰することは
私の心にとって、大きな苦痛である。」


主よ、
お願いですから、
司教司祭に忍耐と勇気とを与えてください。
罪悪に打勝ち、自分に委託された霊魂を守護して、
その霊魂をを救わさせてくださいますように。

15日 聖心のお悲しみ その5

ユダヤ国の滅亡。
このことは、聖心の5つ目のお悲しみでした。

人の心に生じる悲しみの原因は、種々数多くあるので、一つに絞れませんが、
ある悲しみは、信仰上のことから生じるのです。
また、ある悲しみは、愛国心より生じるのです。
イエズスは万民を愛しされましたが、
特にイエズスの本国を愛して、その民の救霊と栄えとをお望みになりました。

でも、その民は頑固であって、
わが主の愛を退け、わが主の教訓を軽んじ、わが主の広い恩をないがしろにしたので、
ついに天罰をこうむり、
天主の選民は、最もいやしい民族となり、
天下に流浪し、
荘厳美麗の聖殿、堅牢不落の城郭もすべて灰燼となってしまいました。

イエズスはこれをご覧になって、
聖心に深い御苦痛を感じ給ひておっしゃいました。

「エルサレムよエルサレムよ、
 予言者を殺し、かつ、エルサレムへ遣わされた者を石で打ち殺す者よ、
 メンドリが、ヒナを翼の下に集めるように、
 わたしは、何度エルサレムのこどもたちを集めようと望んだことであろう。
 でも、エルサレムは受け入れなかった。
 見なさい、おまえの家は廃墟となってしまうだろう。」と。


ある日、イエズスは聖女マルガリタ、マリアに御出現されました。
イエズスの全身は傷だらけで、血まみれでした。
聖心も悲しみに沈んでおられるご様子でした。
聖女も深くこのことに感じいり、
悲しみに耐えきれなくて、言葉をも出すこともできず、ただ、イエズスの御足の下に伏していました。
その時にわが主は聖女マルガリタ、マリアにおっしゃいました。

「これらは、すべて、私の愛する私の国民が、私に負わせた傷なのだ。
 わたしが、特に恩恵を施そうとして、選んだ民が、わたしに対してこのようにしたのだ。
 かれらが、もしも悔い改めなかったならば、
 わたしは義の怒りを発して、かれらを罰しないわけにはいかない。」と。

わたしたちは、
わが主の愛国心に倣って、わが国を愛します。
主よ、お願いですから、
聖心に献じられている、この日本を顧みてください。
日本を憐れんでください。
日本の国民の心のモヤモヤを速やかに取り去ってください。そして、
まことの神を認め、
正しくまことの神に奉仕することができるように至らせてください

16日 聖心のお悲しみ その6

イエズスは、
弟子の一人である、忘恩無情のユダによって、
敵の手に売られました。
このことは、聖心の6つめのお悲しみでした。


イエズスは、聖体御制定の宴において、
弟子11人が、わが主イエズスに対する熱愛によって、
イエズスの聖心に大きなお喜びをお感じになりました。

それに引き換え、
謀反人ユダは、わが主を敵に売ろうと謀りました。
こういう、大罪の身でもって、至聖なる聖体を受けたので、
わが主は、毒矢で聖心を刺されたように感じなさいました。

忘恩無情のユダは悪い心で聖体を拝領しました。
つまり、涜聖の罪があるにもかかわらず、

あつかましくも、イエズスを抱き、接吻して言いました。
「我師よ、安かれ。」
(訳注:ユダのこの言葉で、イエズスは敵の手に渡り、十字架上で亡くなることになります)

わが主は前もって、聖体をもって、ユダの不潔な心中に下られ、
このとき、また、ユダの穢れた接吻の霊を受けられました。
聖心は、深い苦痛を感じられました。

後の世においても、大罪を犯しながら、最も聖なる聖体を拝領する者もまた、
皆、この御苦痛を聖心に加える者なのです。

ある日、聖女マルガリタ、マリアが聖体拝領の覚悟をして、
祈祷に心をこらしていたとき、
イエズスが聖女マルガリタ、マリア アラコックに出現なさっておっしゃいました。
「あなたは、
 不適切な聖体拝領者が、私の心に、
 どれほど苦痛を感じさせているかを、よく考えなければならない。」

聖女はこの聖なるみことばを聞いて、恐れと悲しみとに堪えきれなくなって、
涙を流して、慎んで申し上げました。
「わたしも、また、この罪を犯して、
 聖心に御苦痛を加えたることが何度もあったことでしょう。
 私は深く私の罪を悔やみ、私の罪を償うため、わたしの生命をも全く主に献げ奉る。
 主よ、お願いですから、
 主の御旨のままに、この、婢女をお使いください。」

イエズスは、再び、聖女マルガリタ、マリア、アラコックにおっしゃいました。

「あなたは、彼等忘恩者にかわって、
 深い熱愛と敬虔とをもって、聖体を拝領し、
 彼等忘恩者にかわって、深い熱愛と敬虔とをもって聖体を拝領し、
 彼等がわが聖体に対して犯した罪を償ってほしい。」

主よ、
お願いですから、
わたしたちに、謙遜、熱愛を尽くして聖体を拝領させてください。
そして、悪人が聖体に対して犯した不敬涜聖の罪を償わせてください。
わたしたちに、聖心のお悲しみを慰めさせてください。

聖心聖月 6月は聖心の月 はじめに~第1日~第10日(聖心のお喜び編)全30日

2015-06-07 20:27:00 | 聖心聖月 6月は聖心の月
聖心聖月 6月は聖心の月 

はじめに

慎んで考えますと、私たちの主イエズスキリストが万民の救霊のため、行って下さったすべてのことがら、数えきれない奇跡、秘跡の制定、そのなかでも、御聖体の秘跡、ゲッセマニの園の中での憂い、十字架上での死の苦しみといったようなことは、すべて、聖心の慈愛から出たものです。

ですから、私たちの主イエズスキリストを愛し、敬いたい者は、主イエズスキリストの聖心をも愛し、敬うといったことをしないわけにはまいりません。

ですから、聖なる公教会の初代教会の時代にあっても、既に聖心の信心が行われていたのです。

その後、17世紀になって、私たちの主イエズスキリストは、聖マルガリタ マリア アラコックに御出現になりました。
そして、聖心を愛し、敬う信心が、世界各国の至るところで盛んに行われるようになりました。
その結果、聖心の信心の恩恵に浴する者も多くなりました。

われわれのような信徒は、吾が主イエズスキリストの聖なるみおしえを受け、聖心を愛し、敬う信心を行うことによって、世の中の人が、特に聖体の秘跡のうちに在します吾が主イエズスキリストに加える不敬忘恩の罪をお詫びしないわけにはまいりません。

この本は、もともと、わたしの著作ではありません。また、誰の手により書かれたのかも、わかりません。ただ、十数年にわたって、私の教会において、聖心の聖月中の読物として備えられている一つの写本なのです。

今、これを訂正し、増補して印刷いたします。わたくしは、もともと文章が不得意で、文章が稚拙ですので、見るに堪えない部分がございましたたら、その責はわたくしにございます。読者の方々が、この本から、本文の趣旨を少しでも汲み取っていただいて、聖心を敬い愛する信心のために役に立つということがあれば、わたくしは、たいへんうれしく思います。
1910年5月 著者 永田 辰之助

大阪司教儒利誉准
天主降生一千九百十年六月於大阪

もくじ
緒言
1日 聖心の御歓喜(其一)
2日 同     (其ニ)      
3日 同     (其三)
4日 同     (其四)
5日 同     (其五)
6日 同     (其六)
7日 同     (其七)
8日 同     (其八)
9日 同     (其九)
10日 同    (其十)
11日 聖心の御悲哀 (其一)
12日 同      (其ニ)
13日 同      (其三)
14日 同      (其四)
15日 同      (其五)
16日 同      (其六)
17日 同      (其七)
18日 同      (其八)
19日 同      (其九)
20日 同      (其十)
21日 聖心の御光栄 (其一)
22日 同      (其ニ)
23日 同      (其三)
24日 同      (其四)
25日 同      (其五)
26日 同      (其六)
27日 同      (其七)
28日 同      (其八)
29日 同      (其九)
30日 同      (其十)

耶蘇の聖心に向ひ奉つる祈祷
耶蘇の聖心に我身及一切の所有物を捧ぐる祈祷
耶蘇聖心の連祷
耶蘇聖心に身を捧げ奉つる祈祷



『聖心聖月 6月は聖心の月』

1日 イエズスの聖心のお喜び その1

イエズスが、聖母の御胎内にお宿りになるとすぐに、愛のはたらきをなさいました。
これは、聖心のお喜びでした。
三位一体の天主の第二位である御子が、この世に降られて、人となられたとき、
すでに人の心を持っておられました。
そして、この、人としての心は、愛の為に造られたものでしたから、
聖母の御胎内にお宿りになった始めの瞬間から、
既に愛の炎に燃え立っておられたのでした。

吾が主は、この熱い愛を、初穂として聖父に奉献されました。
このことは、聖心の多いなるお喜びでした。
聖心の愛は、こんこんと湧き出る泉のように、絶えることとなく流れて、
枯渇することなく永遠に至るのです。
また、聖心の愛の活動は、御やどりの初めから、御死去に至るまで、
全く絶えることがありませんでした。
御死去のため、しばらく停止しましたが、御復活に至って、
前にも増して増加し、栄えました。
このように、聖心は御やどりの初めの瞬間に、
あらかじめ、このことをご覧になって、限りないお喜びをお感じになりました。

聖マルガリタ マリア アラコックは言いました。
信者は、毎朝、目が覚めるとき、必ず、自分が天主の御前にいることを考え、
天主の御足下に自分を置き、自分の心と自分の身とを全く天主に奉献し、
イエズスの聖心のきよらかな慈愛の炎の中に、いけにえとして、
焼き尽くされることを願うべきです。

至聖なるイエズスの聖心、
お願いですから
私たちの心を
あなたにならわせてください。
そして、わたしたちが
毎朝目が覚めるときの
愛の初穂を
天主に捧げさせて下さい。


イエズスの聖心のお喜び その2

イエズスは、イエズスの聖なる御心が、
聖寵に充ち満ちているのをご覧になりました。
このことは、聖なる御心のお喜びでした。

イエズスの聖心も、他の被造物と同様に、
天主に造られたものでしたが、ただ、イエズスの聖なる御心は、
聖寵の宝蔵であると定められています。
ですから、
聖父が、イエズスの聖なる御心に注入される聖寵は、
絶え間なく、まるで瀧のように流れ込んでおり、枯渇することがありません。

聖心はこのことをご覧になって、
たいへんにお喜びになり、
絶え間なく、聖なるおん父にこのことを感謝なさいます。
その感謝の念は、深く聖心に刻み込まれており、死に至っても、消滅しませんでした。
また、聖なるおん父が、万民に聖寵を施しなさるたびごとに、
聖心は、万民にかわって、そのことを聖なるおん父に感謝なさるのです。
このようにして、人々に、聖なるおん父が、万善の源であることをお知らせになるのです。

聖マルガリタ マリア アラコックは、
人々のうち、
天主の聖寵に背き、聖寵をないがしろにする者があるのを見るごとに、
深く悲しみました。
また、自分のことを反省して、言いました。
「聖寵をないがしろにする罪は、重大です。
 でも、私(聖マルガリタ マリア アラコック)も、
 何度もこの罪に陥りました。
 ですから、私(聖マルガリタ マリア アラコック)は、
 終わりなき懲罰を受けるのが当然なのです。
 主よ、お願いですから、
 御あわれみを私にそそぎ、
 私を赦してください」

聖マルガリタ マリア アラコックは、
常にこのような考えを抱いており、
聖寵に背く罪が大きいことをわきまえており、
この罪を免れ、この罪の償いをさせてくださいと祈っていました。

わたしたちは、
至聖なる聖心に倣って、
山のように高く、海のように深い恩恵、
特に、洗礼により、天主の愛する子となった恩恵、
天国の相続者となった恩恵を
深く、感謝いたします。



3日
イエズスの聖心のお喜び その3

イエズスは、聖母マリアの御心が、自分の聖なる御心に、生き写しであることを
ご覧になりました。
このことは、イエズスの聖なる御心のお喜びでした。

旧約聖書の創世記に出てくる、人祖アダムは、
天主から創造されたとき、自分に似た補助者が居ないことを愁いました。
でも、第二のアダムである主イエズスは、この愁いをお感じになりませんでした。
なぜなら、イエズスの御母である聖マリアの御心は、
柔和、謙遜、潔白、その他一切の諸々の徳に充満ちており、
全く、まがいものは混じっていませんでした。
聖マリアの御心は、主イエズスの肖像でありました。

主イエズスの聖心が、ご関心おありのことは、聖母の御心もご関心をお持ちでした。
主イエズスの聖心がお望みになることは、聖母の御心もお望みになりました。
主イエズスと聖母マリアとは、相互いに一致協和して、
永遠に相互いが離れることがありません。
そのことは、主イエズスの聖心における、際限のないお喜びです。
また、聖母の御心においても、極まりないお喜びです。
主イエズスと聖母の相互いの愉快は、実に名状することができません。

主イエズスは、聖女マルガリタ マリア アラコックに仰せになりました。

「私は、あなた(聖女マルガリタ マリア アラコック)の心を、
 慈愛と憐れみで満たす。
 諸々の徳に富ませる。
 そして、私の心のようにならせようと望む。
 だから、あなたを
 尊い私の母、聖母マリアに委託したのだ。
 あなたは、私の母、聖母マリアの教訓を守り、聖母マリアの指導に従い、
 はかないこの世の虚栄と、はかない楽しみを断ちなさい。
 そして、専ら完徳を修める為、力を尽くすべきである。」

私は、日々、聖母マリアの御心の御徳に倣い、聖母の教訓を守り、
聖母の指導に従って、私の心を神聖にし、
私の心に、イエズスの聖なる御心を歓迎申し上げます。



4日 
聖心のお喜び その4

主イエズスは、成長なさるとともに、
御家庭において、
むつまじい、親子の情が増してくるのをご覧になりました。
このことは、聖心のお喜びでした。

一般的に、
幼児は、慈悲深い父母の側で養育されることが、一番楽しいのです。

イエズスは、最も慈悲深い父母、聖マリアと聖ヨゼフに養育されて成長なさいました。
ですから、イエズスは、どれほど楽しかったでしょうか。
世間において、これほど楽しい家庭に成長した者があるでしょうか。
イエズスは、聖なる三位一体の第二位として、
聖父と聖霊と共にむつまじくいらっしゃいました。
天から隆って、人となられてからは、ナザレトの村において、
聖マリア聖ヨゼフと共に、最も楽しい家庭で成長なさいました。
イエズスの聖心の楽しみは、どれほどであったことでしょうか。
その当時、この、隠れた聖なる家庭がどれほど楽しかったかは、
誰も知る者がありませんでした。
このことを知ることができたのは、ただ、天使だけでした。


聖母マリアは、
しばしば、聖マルガリタ マリアに出現なさいました。

ある日のことでした。
聖母は、聖マルガリタ マリアに出現し、
聖マルガリタ マリアをなぐさめておっしゃいました。

「わたしの娘よ、
 あなたの歩む道は、長くて、苦しいでしょう。
 でも、あなたは、つとめて励まなければなりません。
 たとえ、あなたが十字架に釘付けにされたとしても
 茨に刺し貫かれても、
 むち打たれても、
 恐れてはいけません。
 私は、あなたを保護し、決して放棄しないでしょう。」

主イエズスよ、
あなたは、最も清浄な白百合花の中に生い立ちなさいました。
この、清浄潔白は、主イエズスの聖心が最も好み給う所だからです。
わたしたちも、また、聖心に倣い、
汚穢を避け、不浄を忌み、
ただ、清浄潔白な者とだけ、付き合おうと決心いたします。



5日
聖心のお喜び その5

イエズスは、公生活に入ると、
公然と世に出て、福音を宣べ、万民を救う聖務をはじめられました。
このことは、聖心のお喜びでした。

一般的に、人というものは、年齢、境遇、地位を重ねるに従って、
楽しみが変化していくものです。

イエズスも、幼い頃は、ナザレトの村におられました。
そして、静穏な家庭で隠かな生活を営まれていたときには、
主イエズスの楽しみは、ただ、質朴、単純な、こどもとしての楽しみだけでした。

でも、壮年に達し、公然と世に出て、民に福音を宣べ伝えられるようになってから、
楽しみとなさったのは、たいへん高尚遠大なことでした。
すなわち、自分が救世主であることを顧みて、救世の任務を果たすことに
楽しみを感じておられました。

ですから、楽しい家庭を去り、親しい親とも別れ、
世に出て教えを説き、救霊の道を宣べ伝えられました。
死に瀕する霊魂を救い、その霊魂を聖父に捧げ、
それでもって、聖父の使命を全うされたのでした。
イエズスは、聖父から授かった、この任務をはじめるにあたって、
イエズスの聖心に大いなるお喜びを感じておられました。

だいたい、救霊という聖なる職務に従事する者は、
最も幸福な者であって、
このような者たちは、心に神聖な喜びを味わうことができるのです。

聖女マルガリタ マリアは言いました。

「あなたがたは、イエズスの聖心を
 自分の心に受け奉り、
 聖心の泉から湧き出る清い水で、霊魂の園を潤して、
 あなたの心の中でしおれてしまっている、
 徳の栄えの花を、活き活きとさせねばなりません。
 太陽である聖心から発する光で、心も闇を照らし迷いの霧を散らし、
 冷えた心を温め、
 自分の心を、イエズスの聖なる聖心が愉快に遊んでくださる園と
 しなければなりません。」 

主よ、
お願いですから、
わたしたちに、他人の霊魂を善道に導くことができるようにしてください
異教人、異端者を、カトリックに立ち帰らせることに、
力を尽くさせてください。
そして、かつて、イエズスの聖心に感じられたお喜びを、
私たちにも感じさせてください。



6日 聖心のお喜び その6

イエズスは、ご自分の弟子らが熱心で、
師である主慕う心がおおいにあることを
ご覧になりました。
このことは、聖心のお喜びでした。

イエズスは、弟子をお選びになるとすぐに、
彼らは直ちに召し出しに応じました。
生活の資本となる船と網とを棄て、
愛する父母にも離れ、
妻子にも別れて、
完全に、主イエズスに従いました。

このことをご覧になった、聖心の御喜びは、どれほどであったことでしょうか。

そもそも、
わたしたちの主イエズスが、弟子等をお選びになったのは、
弟子等を主の親しい友とし、
そして、救世の業を補助させるためでした。
そして、弟子等に、主イエズスが大事にしておられる、
信徒を委託なさるためでした。
また、その弟子等のうちから特に12人を選んで、
その12人に使徒の称号を与え、
そして、使徒等でもって聖なる公教会の堅固な礎となさいました。

私たちの主の聖心は、
使徒及び弟子らによって、
救世の事業が世の終わりに至るまで継続することをご覧になり、
大いなる御歓喜をお感じになりました。

イエズスは、ある日、聖女マルガリタ、マリアに出現し、
聖女に聖心を示して、おっしゃいました。

「私は、すべての人を愛している、また、特にあなた(聖女マルガリタ、マリア)を愛している。
 この愛の熱は激しく、ほのおを中に隠しておくことができない。
 わたしは、あなた(聖女)を遣って、このことをすべての人に示す。
 私の心の宝蔵を開き、その宝をもって、あなた(聖女)すべての人々を
 豊かにしよう。
 この宝とは、すべての人を滅亡の淵から救出する聖寵である。
 私が、このような大きな事業を為すために、
 特に、あなた(聖女)のような知恵の浅いものを選んだのは、
 人を救うという大きな事業は、
 ただ、わたしの能力によってのみ成就するということを、
 知らせるためである。」

こうおっしゃって、イエズスの聖心を、聖女の心の上に置かれました。
すると、聖女の心は、激しく熱して、
かまどの中で焼き尽くされたような感じがしました。


イエズスの聖心、
私たちは今、主イエズスが使徒をお選びになったときのお喜びを追想いたします。
そして、その後継者である司教司祭を尊敬し、その正しい教導きに従い、
善業を行い、徳を修めることに、全力を尽くすことを決心いたします。




7日


聖心のお喜び その7

イエズスは、罪人が悔改することと
聖人が忠実であることをご覧になりました。
このことは、聖心のお喜びでした。

イエズスは使徒を選んで聖なる公教会の基礎を定められました。
そして、彼等の教導と統治とにより、救霊の大業は世の終わりに至るまで継続することを
ご覧になり、お喜びになりました。
でも、これは、未来に属するお喜びでした。

しかし、あの聖マリア マグダレナや、ヤコブの井戸の側にいたサマリア婦人や、
その他多くの罪人が改心するのをご覧になったときのお喜びは、
現在のお喜びであって、主は、特にお喜びになったのでした。

これらの人々以外にも、多くの霊魂が主イエズスに忠実であり、
怠慢なく徳に進みました。
たとえば、あの聖フランシスコ ザビエルや、聖女テレジアのような聖人を
目前にご覧になったときのイエズスの聖心のお喜びは、実に
極まりないものでした。


聖女マルガリタ マリア アラコックは、次のように言いました。
「わたしたちが、もし、聖マリア マグダレナの徳に倣いたいと思うならば、
 まず、罪深い生活を改め、聖寵の域に進み、
 身を棄て、天主を求め、自分への愛を捨て去って、
 天主への愛に生きなければなりません。
 聖マリア マグダレナは、悔い改めの剣で、それまでの罪の綱を断ち切り、
 聖なる御おしえの海に舟を浮かべ、
 徳の順風に乗じて天の港に向かったのです。
 私たちも、聖女に倣って聖なるみおしえの海に霊魂の舟を浮かべたら、
 主イエズスの聖心は、必ずわたしたちの水先案内人となってくださいます」


主イエズスよ、
お願いですから、
聖寵をもって、罪人を正しい道にたちかえらせてください。
聖なるみおしえが、益々さかんになるようにしてください。
御旨が天において行われているように、この世でも行われますように。
私は、心を尽くし、力を尽くし、
言葉と行いとをもって、
他人を善の道へと導き、
そして、
主の聖心をお喜ばせしようと決心いたします。

8日

イエズスの聖心のお喜び その8

イエズスは数多くの奇跡を行われました。
このことは聖心のお喜びでした。

イエズスはどこに行かれても、いたるところの人々に恩恵を施されました。
病者を癒し、
死者をよみがえらせ、
すこしばかりのパンでもって、多くの飢えた者を満腹にされたなど、
数えきれないほどでした。

これら数多の奇蹟は、わたしたちの主イエズスの全能の力によって出たもの
というよりはむしろ、わたしたちの主イエズスの全善によって出たものと言うべきです。

だから、あの、38年間も疾病に苦しめる者を癒されたとき、
その者は自分のベッドを担いで家に帰ることができましたし、

未亡人の一人息子を復活させて母にお渡しになりましたし、

また、ラザルを生き返らせて、マリアとマルタとにお渡しになったときは、
イエズスは聖心に大なるお喜びをを感じなさいました。


このような有形の奇蹟の外に、無形の奇蹟を行われました。
霊魂の疾病を癒し、
罪科でもって死んだ霊魂を復生させて聖寵の生命に入れさせてくださったことについても、
また、イエズスの聖心は、大きなお喜びを感じられました。


聖女マルガリタ、マリアは、ある日、イエズスの訪問を受けました。
そのとき、イエズスは、聖女マルガリタ、マリア、アラコックに告げて言いました。
「人々の敬愛を受けることは、我心の大いなる喜びである。
 我心は、聖なる三位一体の玉座、
 天主の愛の高御座であって、
 天主と人間の中間に立つ仲介者である。
 私を愛し、私に忠誠を尽くす者はすべて、
 決して滅亡に至ることのない聖寵を与えることを約束する。」


主イエズスよ、わたしは聖心に倣い、
他人に対して慈善の事業を行うことを楽しみとし、
そして、それによって、特に他人の霊魂を、
天主に導くことに力を尽すことを決心致します。

9日 聖心のお喜び その9

イエズスは至って聖なる神の糧である聖体をお定めになりました。
このことは、聖心のお喜びでした。

善とは、恩恵を施すという特性があります。
だから、聖人君子たちは、人に恩恵を施して、心の中にたいへん強い喜びを感じたのです。
恩恵を施せば施すほど、喜びも、ますます大きくなりました。

イエズスの聖心は、善のなかの善、すなわち、すべての善の大本源です。
だから、私たちの想像を超えた不思議な方法で、
ただ、恩恵を施すだけに留まらず、
イエズスの御血と御肉をもって、人の心に降り、
所有物とならせてくださいます。

三位一体の聖父が、人を愛する程度とは、愛する御一人子を人に与えてくださったほどでした。
三位一体の聖子が、人を切なく愛してくださいました。それは、自分を人に与えてくださったほどでした。
三位一体の聖霊について、あえてお聞きしますが、
聖霊に超越する賜物があるでしょうか?


聖女マルガリタ マリアは言いました。

わたしは、至聖なるわが主の聖体を拝領して、
固く吾主に結合せられることを望みます。
その為には水による苦痛、火の苦痛をも厭いません。
なぜなら、慈愛の糧であるイエズスの聖霊より優れて
わたしの心に喜びを与えるものはないからです。

主イエズスキリスト、
わたしに、聖女マルガリタ、マリアに倣わせてください。
慎んで、しばしば聖体を拝領して、
固く主イエズスキリストに結合させてください。
そして、永遠に離れないでいてください。

第10日 聖心のお喜び その10
イエズスは使徒ヨハネ及び熱愛深き信者が聖体を拝領するのをご覧になりました。
このことは、聖心のお喜びでした。

イエズスが聖体の秘跡のうちに、
愛する使徒の心の中にお降りになることは
聖心の大いなるお喜びです。
そのうちでも、特に、聖ヨハネのように、潔白であって、熱愛深い者の心の中に
お降りになることは、一層強いお喜びです。

だから、私たちの主が、聖体の秘跡を制定なさったとき、
「私は苦しみを受ける前に、この過越を、あなたがたと共に食すことを、
 心から願っていた」
と、イエズスがおっしゃったことは、
特に、聖ヨハネに向かっておっしゃったのだといっても過言ではありません。

イエズスは、
聖女マルガリタ マリアのように、敬虔で熱心に聖体を拝領する者があるごとに、
大いに主の聖心にお喜びを感じなさるのです。
このように、聖心は、不熱心に10,000,000人が聖体拝領をするよりも、
むしろ、1人が熱心に聖体拝領することのほうが、
遥かに優れてお喜びになるのです。

ある日、聖女マルガリタ マリアは、深く聖体拝領を望んでいました。
イエズスは、聖女マルガリタ マリアに御出現になっておっしゃいました。

「あなたが、本当に熱心かつ敬虔に我が聖体を受けることは、
 私の心の大きな喜びです。
 私が、もし、この秘跡をまだ制定していなかったとしても、
 たとえ、あなた一人の為にでも、この秘跡を制定したことでしょう。」

また、別の日の御出現でおっしゃいました。
「私がこの聖体の秘跡を制定し、
 聖体の秘跡でもって施そうとする諸々の
 恩恵を受けるに足りる者を見るたびに、
 私の心の楽しみは、限りないものになるのだ」

聖女マルガリタ マリアは、この御言葉を聞き、
自分のような賤しいものに、これほどまでに顧みてくださる聖心の御恩の深さに
感動して、ただただ、涙にむせぶばかりでした。

主よ、
お願いですから、
私に、敬虔かつ熱心に、しばしば聖体を拝領させてください。
そして、聖心の聖旨にかない、
聖体によって、得られるすべての聖寵を、
受けとるに値する者となることができますように。



煉獄 フランシスコ=ウィタリ著 はしがき~第1章~第3章(全30章)

2015-06-06 05:16:43 | 煉獄 
はしがき

煉獄の存在及び煉獄の霊魂が祈祷、善業殊にミサ聖祭を以って助けらるるという教義は、公会議に於いて定義されたる公教の信条である。それで信者はこれを固く信ずるとともに煉獄の霊魂を助くること努むべきである。
本書は煉獄の存在の道理、その罰及び死者を助くる務等を略述してこれを無学な子どもや老人田舎人にまでも知らせ併せて古来煉獄の月と称せられる11月中の読み物としたい目的をもって、フランシスコ・ウイタリ Francisco Vitali の原著書 Le mois des ames du Purgatoire 中より小部分を抜き取り編み上げたものである。素より不文、浅学な著者の手になったものであるから、首尾不揃の点の多いは言うまでもないが、読者この書によっていくらか煉獄の霊魂に対する務めを行うに実せらるるところあれば幸甚である。

大正元年11月(1912年11月18日) 著者識

第1章
人は必ず一度死すべしとは、天主が定められ給うたのであるから、人は身の上に死ほど確かなことはない。他のわざわいや不幸はあるいは免れることもできるが、死ばかりは、どうしても免れることができない。死すべき時期が到来したなら、男女を問わず、年齢と身分がどうであるかにかかわらず、悲しんでも嘆いても、すべての者にわかれ、一切の物を捨てて、この世を去らねばなりません。

世界がはじまったときから世の終わりに至るまで、世に生まれ来た者の順次と死に赴くは、ちょうど大河の水が絶えずとうとうと流れてしばらくもとどまらぬような光景である。私たちも、いつしか、この流れに入らなければならぬはずである。それならば、死とは何であろうか。死とは、霊魂が肉身を離れこの世を去って先の世に行くのである。先の世には、天国と地獄と煉獄の3ケ所がある。天国とは、善人が天主の美善美徳を眺めて一心に天主を愛し、天主の寵愛をこうむり完全なる福楽を享けるところである。地獄とは、罪人が天主より棄てられて終わりなく言いつくしがたい苦しみを受けるところである。煉獄とは、小罪あるか、あるいは未だ罪の償いを果たさざる善人の霊魂が罪の償いを果たすまで苦しみを受けるところである。これ聖なるカトリック教会の教えるところで、信仰の箇条である。煉獄の存在は、天国地獄の存在と同じく確実なことである。このことは、信仰上からは言うまでもないが、聖書と道理に照らしても明瞭である。

旧約聖書に、ユダヤ国の大将マカベオが凱旋の後エルサレムの聖殿に黄金を献じて死者の救霊を祈ったことが載せられている。もし、死者の霊魂の行くところが天国と地獄ばかりであるなら、死者のために祈る必要はまったくない。このことは、暗に煉獄の存在を示したものである。また、新約聖書マタイの福音書に
「すべて人の子に対して「冒涜」の言葉を吐く者は許されない。それと、聖霊に対してこれを吐く者は、この世後の世共に許されないであろう。」と記されてある。この、いわゆる後の世とは、地獄をさしたものではない。なぜなら、地獄の罰は永遠で、許されるべきものではない。それで、この世後の世とは疑いなく煉獄を指したものである。またこれを道理の上から考えても、天主は正義な御者でいささかのけがれあるものでも、これをすぐに尊い天国に上げ給うことができない。さりとてまたそのお慈悲の上より考えれば、いささかのけがれしかない者を永遠の地獄に陥れたまうということもできない。このような者を煉獄で清めて後天国に昇らせ給うということは、最も正当なことである。またさらに煉獄の苦しみはどのようなものであるかといえば、歴代の聖人や博士等の教えによると、煉獄の苦しみは地獄の苦しみと同じである。ただ、異なるところは、地獄の苦しみは終わりがなく、煉獄の苦しみには終わりがあるというばかりである。

実話

昔、ある国に、深くセナの聖ベルナルディノに信心していた一人の青年があった。ふとしたことから重い病にかかり、種々の薬石も医者の治療もそのかいなく、ついに死亡した。聖人は彼の平素の信心に報いるために、天主に祈ってこれをよみがえらせた。しかし、この青年をよみがえらせる前に来世の状態を知らせるため、まず彼を地獄に連れてゆかれた。ここにはさかんに立ち上る黒煙と、えんえんと燃え立つ炎の渦が失望に満ち、歯噛みし、虚空をつかんで苦しみ悩む無数の悪人を容赦もなくのみこんでいるその光景の恐ろしいことをとても筆や言葉で述べることができない。これを見ただけでも身の毛がよだち、震いおののくほどであった。次に彼を天国へ導かれた。ここには星のように輝いた、数多の聖人等は、天使等と共に天主の美善美徳を眺め、妙なる快楽を享けらるるその光景は、どのような言葉をもってもこれを形容することができなかった。この世のどんな楽しみもこれに比べることはできなかった。ただ、恍惚として、これを眺めていた。
それから、彼を煉獄に伴われた。ここは、数多の善人の霊魂は、金銀がるつぼの中にあるような耐えがたい苦しみをもって練り清められている、その苦しみも、とてもこの世の苦しみに比較することができなかった。
そして彼らは青年の来たのを見て、その周囲に馳せ集まり、蘇生して世に帰ったならば、自分等の親族や友人に、この苦痛を知らせて、祈祷や善業をもって自分等を救うために力を尽くさせるように願った。
青年は蘇って、彼らの親兄弟や友人にこれを知らせ、霊魂を救うために祈りや善業を行わせた。(イエズス会司祭、フランシスコ・ベアルシオ所記)

祈願

主よ、願わくは、煉獄に苦しむ我らの親族恩人友人、また、私たちに害を加えた者の霊魂にも憐みを下し、彼らに終わりなき楽しみを与えたまえ。

第2章

天主はその全能をもって望みのままに、どんなところにおいても、霊魂をしてその償いのために受けるべき苦痛を凌しめたまうことができるのである。しかし、博士たちの説によると、地球の中心に絶えず怖ろしい火がどんどんと燃えているひとつの場所があって、これを煉獄という。ここに、小罪や償いの残った霊魂が、全く清浄になるまで大いなる苦痛を凌ぐのである。この場所を深い井戸、荒れた海、苦しみの地、暗闇の国などと称し、地獄に最も接近して、ほとんど地獄の一部分とでも言うべき場所である。

神学博士らのおしえによると、煉獄の苦痛も地獄の苦痛も同じである。ただ、異なるところは、一つは有限、一つは無限である。聖アウグスチヌスは、わらを焼く火も金を溶解する火も同じ火であると言い、聖グレゴリオはこれに加えて、この同じ火の中に悪人は罰せられ、善人はきよめられるのである、と言われた。地獄の火は天主に謀反し、わが主イエズス・キリストの御贖いをないがしろにした大罪人を罰するために設けられた火であるから、その恐ろしいことは言うまでもない。煉獄の火もこれと同じとあれば、その火に焼かれる苦痛はどれほどであろう。そして、煉獄に拘留される期限の長短は、罪と残る償いの大小によって定まるもので、天主の正義をもって定められた罰は一厘一毛までも残りなく果たさねばなりません。ですから、罪次第では、幾千年、万年あるいは世界の終わりまでもこの苦しみの場所に拘留させられるかもしれないのである。

天主の御あわれみ深いのも、正義をもってこのような怖ろしい監獄を設けて、常にその門戸が開放されてあるとおもえば、どうして恐れおそれ謹み慎んで罪を避けずにいられるでしょうか。また、このところに償いをする霊魂の苦痛の大いなることを考えるなら、どうしてあわれみをもよおし、同情を寄せ、これを救うために力を尽くさずにいられるでしょうか。

実話

アイルランドの司教マラキアスがある日、弟子たちとともに精神修養の談話中に、話はたまたま死のことに及んで、いつ、また、どこで死ぬことを望むかという問いが皆のあいだにおこった。

司教は、自分が死にたいと思うのは、場所としては、慈善業に最も熱心なクレルオの修道院である。時期としては、11月2日、死者の記念日であると言われた。
その望みはかなえられた。
司教はその後、エウセニオ教皇陛下に謁見のためにローマに赴き、クレルオの修道院に宿泊されたときににわかに重い病がおこり、もはや死期が迫ったことを悟り、左右に侍る信者や修道士らの熱心な祈りのうちに感謝の念に充ち天をあおぎ、
「これは永遠にわがやすみどころなり。われはここに住もう、そは、われ、これを望みたればなり」というダビドの詩篇を唱えながら、やすらかに息たえました。かつて、自分が善業や祈祷をもって、救った多いの善人の霊魂に歓迎され、天の幸福に到達された。その日は、ちょうど、11月2日、死せる信者の記念日であった。

祈願

ああ、全能の御父、われらをして煉獄の霊魂の苦痛の
いとも恐るべきを悟らしめ、今よりあえて罪をおかしてなんじの御心にそむくことなく、かえって、もろもろの善業を行い、もって己の罪を贖い、
また、死せる信者の霊魂を救うことを得せしめたまえ。

第3章  感覚の苦痛

預言者の言葉に、

「天主は火をもって聖人の罪悪を焼き、
 火をもって善人の欠点を補い
 その正義を顕わし給う」

とあります。

また、聖パウロは、コリント人に贈った書簡に、

「人もしその土台(イエズス・キリスト)の上に
 金、銀、宝石、木、草、ワラをもって建築したならば、
 面々の建物現れるであろう
 それは、主の日(審判の日)において明らかにされることになるであろう
 それは、火をもって顕わされ、
 火は、面々の建物がどのようなものであるかを試すであろう」

と言いました。

カトリックの多数の博士たちの説によれば、煉獄の火はこの世の火と同じ物質の火であって、霊魂がその火の中に在って、感覚の苦痛をも凌ぐのである。

すなわち、人がこの世においては身体の器官によって感じるところを、煉獄においては、天主の全能をもって、その器官によってではなく、直接火の苦痛を感じるのである。

煉獄の火は、決して想像や比喩の火ではなく、真実の火である。

この世界のどんなに烈しい火も、煉獄の火に比較するなら、ただ、影にすぎないのである。

ユダのマカベオが、ベアニトの城郭を焼き滅ぼした火も、ナブコドノソルが3少年を殺すために燃やした火も、ペンタポルを焼き尽くした火も煉獄の火に比較しては、ものの数でもない。

煉獄の火は、知恵分別を備えたかのよに、正義と公道に従ってその作用を為し、小罪と言っても同じ重さのものではないから、その中でも一層重い罪に対しては、一層激しく燃え、軽い罪に対しては緩やかに燃え、罰すべきはずのものは一つも残さず公平無私に罰するのである。

聖ベルナルドは、説教の中で、

「死ぬ日に清められていない者は、最も不幸な者である。
 それは、死後、激しい火をもって清めなれなければならない、
 その火の恐ろしいこと、苦しいことは
 到底この世において想像することができない」

と言われた。

だから、私たちはウカウカして罪の償いをすることを怠ったりせず、
小罪、特に、小罪を知りつつ犯したりせず、
未来に恐ろしい罰を残さぬように努めねばなりません。

実話

聖テレジアのパウロという修道女がいました。
ある土曜日に、煉獄の霊魂のために熱心に祈祷をしているうちに、
幻影となって聖マリアが天使をしたがえて煉獄に下り、
数多い霊魂を救いだしておられるのを見た。
救い出された霊魂たちは、さも嬉しそうな有様で、
讃美と喜びの歌を歌いながら天に昇っていた。

煉獄に残留された霊魂たちは、炎々と燃える火の中に苦しみつつ
いかにも悲しそうに泣いている。
その声は、まことにあわれであった。

また、その霊魂たちが同じ火の中に苦しんでいても、
その苦痛の程度が同じではないのをみて、そのことを不思議に思い、
自分の守護の天使にその理由を尋ねた。

天使は、これに答えて、
「およそ、人の未来において、受ける賞罰の大小は、
 この世において行った善悪の大小によるものであるから、
 煉獄の苦痛の代償も、過失の性質とその程度によって定まるのである。
 たとえば、世にあって名聞や虚栄に沈酔していたものは、辱めをもて苦しめられ
 情欲に従っていたものは、勢いの盛んな火によって焼かれるである。
 煉獄は、天主の御憐みの顕われる場所ではない、
 厳しく天主の正義を示し給う所である。
 もし、人が、この厳しい懲罰をのがれようと思ったら、
 努めて罪を避けなければならない」
と言われた。

祈願

主よ、死せる信者の霊魂を憐み、
彼らに終りなき安息を得させてください。
また、主の摂理によって、
私が直面するすべての苦難を甘んじ受けることができるようにしてください。
そして
煉獄の苦しい罰を免れることができるようにしてください。

作業中