天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

地獄 1章 【3】 マキシム プイサン 

2015-07-26 05:28:19 | 地獄
地獄 1章 【3】 マキシム プイサン 

主イエズスキリストとその使徒とによる地獄についての教訓ーー地獄の存在は聖会の信仰箇条ーー地獄を否定することは、断崖絶壁上の道を行くにあたり目を閉じてその危険を見ないようにするようなものだ

地獄の存在の確信が世界的であり、かつ、地獄は誰も想像し得ないのみならず、なおまた、この2点よりすぐれた確固たる第3の証拠がある。すなわち、天主御みずからが、われわれに地獄の存在を示し給うたことである。

前回引用した旧約聖書の数句には、既に地獄の教義は天主御みずから、大祖、及び預言者に伝え給うたものであることを立証しているが、まったく、地獄の存在は、単に歴史的証拠ばかりでなく、なおわれわれが信じなければならない、誤り得ぬ権威をもって、われわれに道理を教え給うた天主の示し給える証拠がある。

聖主イエズスキリストは、この恐るべき地獄の御託宣を、厳かに確かめ給うた。聖書の中には、地獄のことについて、14回も述べてある。
ただし、これは天主の御言葉であることをよく記憶せねばならぬ。天主はこのように仰せになった。

「天地は過ぎ去る。しかし私の言葉は過ぎ去らない」(聖マタイ福音書24:35)

また、タボル山における不思議は変容の少し後に、聖主はその弟子及び従い来た群衆に向かって、

「もし、あなたの片手が、または片足が、あなたをつまづかせるのであれば、切ってこれを身外に投げ打ちなさい。
 両手、両足があって永遠の火に投げ入れられるよりは、片手あるいは片足で、とこしえのいのちを得ることがまさっているし、これに及ばない。
 もし、あなたの片目があなたをつまづかせるのであれば、えぐってこれを身外に投げ打ちなさい。
 その片目をそなえ持って地獄の火に投げ入れられるよりは、片目でとこしえのいのちを得ることがまさっているし、これに及ばない。」(聖マタイ福音書18:8-9)

と仰せられた。また、聖主は世の終わりにあたって、起こるべき事について仰せられた。

「人の子、まさに天使を遣わして、人を悪に誘いみずから悪を行う者どもをその国より集めてこれをかまどに入れるだろう、、、そこには嘆きと歯がみとがあるだろう。耳があって聞こうとするする者は、これを聞きなさい。(聖マタイ福音書13:41、42、、、11:15)

また、天主の子が最後の審判を預言し給うたとき、その最後の審判において、天主に捨てられた罪人に申し渡す宣告を、まえもって御みずから、われわれに教え給うた。すなわち、

「左にある者について言う。『のろわれたる者よ、我を離れて、永遠の火に入れ。』」(聖マタイ福音書25:41)

実に、この御言葉ほど明白なものがあるだろうか。さて、世界人類あって以来、地獄存在について異説を唱えたものは未だ聞いたことがない。なおまた、世界最終まで、異説の起こることはないと断言してもよいと思う。

なお、聖教伝播の氏名を受け、伝授した聖教を世界の民に充分説明せよとの使命を受けたイエズスキリストの使徒等は、地獄及びその永遠の火について明らかに語った。いま、そのうちの2、3を示そう。

聖パウロは、テサロニケの教会の信者に、天主の裁判のことについて、天主をしらざる人々、我が主イエズスキリストの福音に従わない人々に報い給う時にあたって、彼らは主の御顔とその能力の光栄とを離れて、焔の中において、終わりなき滅亡の罰を受けるだろうと(テサロニケ後書1:8-9)言った。

聖ペトロは、
「天主が、罪を犯した天使等を赦し給わず、これを地獄の暗闇につなぎ置かれたように、苦しみに委ねようとして審判を待たせておられる」(聖ペトロ後書24)
と言われた。

聖ヨハネも、また、アンチキリスト、及びその偽りの預言者に向かって、地獄及び永遠の火について、
「火、天から降りて、彼らを焼き尽くし、彼らを惑わしたる悪魔は、火と硫黄との池に投げ入れられた」(黙示録20:9)
と言い、

また、暗闇の中で永遠の焔の苦罰を受け、終わりなき罰を受けて地獄に苦しむ悪魔を、われわれに示しながら、地獄について、使徒聖ユダも、
「永遠の火の刑罰を受けて懲罰(みせしめ)とされたのである」(聖ユダ書7)
と語った。

使徒等は、このように、天主の黙示を受けて書いた書簡中に、常に恐るべき天主の裁判のこと、及び悔悛せざる罪人のこうむるべき永遠の苦罰のことを述べた。

今、列記した明らかな教示がある。だから、公教会がわれわれに永遠の苦しみ、および地獄の火のことを、信仰箇条として教えることを、なお、怪しむ必要があるであろうか。少しも疑いを要しない。これによって、地獄を否定しようとし、あるいは地獄を疑う者は、ただそれだけで異教者の行いとなる。

地獄の存在は、公教会の信仰箇条である。
天主は御みずから誤り給うことができない。また、われわれを誤らせることもできないから、われわれは、地獄の存在については、天主と同様に確実に信じる。だから、地獄は存在する。われわれに、地獄の思想を与え給うた聖主は、あたかも救霊のため、危険に際し軽佻浮薄な子どもを保護するため、ときどき彼らに鞭を示す必要を感じる温和にして注意周到なる父のようでおられる。人の性質は、もとより恩賞の期待よりも、刑罰の恐怖が深く感じるものである。だから、地獄を排斥しようとする思想は当然起こるべきことで、これは善人も悪人もともに等しく感じる。人がこの考えに悩まされるということについて、言わねばならないことは、もし、人が断崖絶壁から墜落するかもしれないという危険な場所を通るときに当たって、目を転じてその危険な場所を見ない様にしたら、どうであろうか。
果たして、当を得たものと言えるであろうか。それよりは、むしろ、この世に居るあいだに、死んでから後、地獄に堕ちないように心がけるがよい。また、その砂漠で猟師に追われ、長い追撃に疲れて休息し、その頭を羽翼に隠して、おのれに見えないから危難をのがれることが出来ると思って、そのうちに猟師に追いつかれて殺されるダチョウを真似る人も少なくない。病を隠すは、決して病を治す方法ではない。同様に、地獄のことを退けるは、決して地獄の存在を滅亡させることができない。地獄は、全世界のあらゆる宗教の基礎で、いずれの時代においても、霊魂の不滅、および神の存在と同一の轍のものと見なされた、疑うべからざる真理である。いずれの時代においても、また、世界いずれの国においても、これを信じている。また、これを否定しようとする欲情は盛んであるにもかかわらず、常にこれを教え、教えられるのであって、実にすべての法則及び人類道徳のかなめともなるもので、もし、これがなければ、あのヴォルテールが言ったように、
我々は互いに自己矛盾に陥る。
ゆえに、地獄は存在する。

地獄 1章 【2】 マキシム プイサン 

2015-07-24 20:49:22 | 地獄
1章【2】
地獄は想像されたものではないーー想像することは、到底できないーー地獄の教理は天与の真理ーー良心は地獄のあることを絶えず絶叫するーー公教会反対党の首領哲学家、ヴォルテールの言論とその死ーー地獄を否定した青年の臨終

いずれの時代においても、また、いずれの人民も、地獄の存在を信じたことは、前回述べたところである。これは、各人の心の中における明らかな自然的証拠で、ただこれだけでも、地獄が人の想像したものでないことを証明することができる。

しかし、各方面からこの重大な問題を研究する必要があるから、『果たして地獄が悪を防ぐための手段として想像されたものであるか、どうか』を調べよう。いま、仮にしばらく、世間の人は穏やかに楽しみのうちに生活して、忌憚なく、あらゆる情欲に溺れていると仮定し、ある日、一人の哲学者が来て、「地獄が存在する、もし、汝等が悪を行うならば、天主が汝らを罰すべき永遠の苦しみの場所がある。もし、汝等が行いを改めなければ、無限に焼かれるべき焦熱地獄があるぞ」と言ったならば、その結果はどうであろうか。このような声明は、どんな結果を生じるであろうか。まず、だれもそれを信じる者はあるまい。それのみならず、
「そもそも、おまえは何を教えに来たのか」
と、この地獄発見者、快楽の撹乱者に向かって言うだろう。
「どこからそんな説を聞き出して来たか。どんな証拠があるか。おまえは夢を見ている。不吉な預言者よ、うそつきよ。」
と叫ぶであろう。

およそ、心の腐敗している人は、地獄という思想に対して自然的に反抗心をもっているから、決してこれを信じない。すべての罪人は、できる限り、罰という思想を避け、罪の重いものほど、どんな秘密の罪でも、すべて容赦なく罰せられるべき天の罰、火の罰のありさまを退けようとする。特に、既に仮定した、だれも、かつて、地獄のことを聞いた事のないような社会においては、地獄という思想に対する反抗心は情欲の促すままに激発して、この不吉なる哲学者を信じることを欲しないのみならず、怒ってこの哲学者を排斥し、再び、だれも、そんな考えを起こす者がないように、その哲学者をうち殺してしまうであろう。

しかしながら、これはあり得ないことではあるが、かりに百歩譲って、もし、この不思議な発見に信を置いて、すべての人が前の哲学者の言葉に基づいて、地獄を信じたならば、どのようなことが起こるであろうか。

発見者の氏名、その年代、その生活した国名等が歴史に伝わらずに居るだろうか。でも、そんな事実は、すこしも残っていない。だれか、かつて、人心に最も根底の深い情欲に反するこのような恐ろしい教理の発見者として伝えられたものがあるか。決して無い。

だから、地獄は想像されたものではない。想像することは、到底できない。実際、永遠の苦しみは、理性の了解し得ない教義である。知識は、ただ、天主の御宣託によってこれを知るのみである。

もとより、人の知識以上のことであるから、これを解ることはできない。
ゆえに、人の了解することのできない、また、想像することすらできないことを、どうして発明できるだろうか。
しかし、これは、あたかも人の知識が永遠の地獄を了解することができないから、その知識が信仰の超自然的光に照らされぬときは、地獄という思想に反抗する。

理性は、非理性に反抗するから、したがって不可能ということにも納得し得ない。それでは、どうして理性が地獄を発明することができるだろうか。

地獄の教理は、いわゆる、「天与の教理」である。すなわち、あたかも、淡い光を放つ磨かれざるダイヤモンドのように、われわれの霊魂の奥に刻み付けられた良心の底に輝く天与の光である。だから、天主御みずからが、その光を与え給うたのだから、誰もこれを抜き去ることができない。ただ、人は、このダイヤモンド、その淡い光を覆うことはできる。人は、そのダイヤモンドを見ないようにし、また、一時、これを忘れ得るのみならず、言葉でこれを否定し、また、これが存在していないふりをすることができるが、心の奥底では、堅くこれを信じ、また、良心は絶えずこれを主張する。地獄をあざける宗教反対者は、心の奥に、地獄に対して非常なおそれを抱いている。地獄は、決して存在しないということを自分とわが身に証明したというは、自分自身を欺き、また、他人をも欺くものであって、その希望していうことを、実際にしようとするのである。これは、彼らの真心から出た正しい否定ではなく、むしろ、彼らの心の中における不信心な願いに過ぎない。

なお、これについて、宗教反対の哲学者、ヴォルテールを観察すれば、驚くべき証拠がある。
ヴォルテールは、18世紀に当たって、すべての真理を滅却しようとする恐るべき印象を当時の人に与え、その一生をわが公教会の破壊に尽くすことを誓い、このようにして放埒なる生活を営むがために、天国及び地獄の存在を否定する確信を得ようと欲し、大いに努力したが、ついに、その心の中に抱く疑惑をも恐怖をも除去することができなかった。

それと同様に、宗教反対者のある友人が、地獄の存在を否定できる確信を得たことを誇って、ヴォルテールに手紙を送ったとき、ヴォルテールは友に答えた。
「あなたはわたしよりも一層幸福な者である」と、、、、ヴォルテールはわざと冷笑して「何となれば、わたしは、既に20年来、この問題を研究したが、未だ成功できないのである」と言った。また、ヴォルテールは天主について語ったとき、
「不快きわまる天主を撲滅しよう。このようにして、20年のうちに公教会は滅びるであろう。」このように、不敬極まる言葉を言ったのは1758年2月であったが、その20年後、すなわち、1778年2月、公教会が滅びるところではなく、かえってヴォルテールが失望の極みにあり、無残な最後を遂げた。これは、先に天主に対しての侮辱の報いであった。臨終の際、彼は天主の裁判のことを想い、非常な恐怖心におそわれ、告白するため、司祭を呼ぶことを命じた。すなわち、ヴォルテールの不信仰は、ヴォルテールの放埒な生活を継続するためには好都合であったが、死に対しては何らの価値をも有しないことを示した。しかし、ヴォルテールの友等は、臨終の慰安を彼に与えることを妨げた。

狂気しながら、ヴォルテールはあたかも罪を問われている者のように戦慄し、絶えず狂い叫んで、全く死ぬ前に、既に地獄の苦しみを見た。

「自分は天主からも人からも見放された」と言って、床の上でもがきながら、爪で胸をかきむしり、司祭を呼ぶことを叫んだけれども、ヴォルテールの友人は呼んでくれなかった。臨終が近づいたとき、更に失望極まって、ヴォルテールの霊魂は苦しんだ。
「わたしは、誰かの手が、わたしを天主の裁判に引き立てていく事を感じる」
といって、恐怖に満ちた面持ちで、壁へ向き返って、
「あそこに悪魔がいる。悪魔はわたしを捕えようとしている、、、、悪魔が見える。地獄が見える、早く追ってくれっ」
と叫んで、遂に最後の苦しみのとき、その便器を取って汚物を飲み干し、悲惨な叫び声を発して、血とともに汚物を口鼻から吐き出した中で絶息した。
公教会の反対党の首領哲学者は、このような最後を遂げた。誰か、このような恐ろしい死に様を想像できる者があるだろうか。
ヴォルテールの部屋にいた者は、
「もし、悪魔が死に得たならば、これ以上の死に様はあるまい。
 地獄の存在を拒む者にこのありさまを見せたかった」
と申した。このおそろしい狂乱、恐怖、失望の中におけるヴォルテールの死は、地獄の存在を立証する明らかな証拠ではないか。

なお、今、ひとつ実例を示そう。
二人の青年があった。学校に居るとき、非常に睦まじくつきあい、二人とも同じ信仰をもっていた。後、互いに各自の家に帰ってから、一人は信仰を失い、放埒な者になった。他の一人は依然として熱心な信者であった。それでも、互いにつきあいを続けた。ある日曜日、二人は共に散歩に出かけた。そのとき、熱心な信仰をもっていた青年は、年齢21歳で、ある将軍の副官であった。やがて、この青年は、その友にむかって
「これから他所に行かねばならぬ。約束したところがあるから、失敬する」
と言えば、彼の友人は
「なんだ、君。また教会に行くのか。また、慈善会に行くのか。そんなものは放棄してきたまえ。それより劇場に行くが余程よいではないか。
 時に君、君はどうして僕のようにしないんだ。誰か苦情を言うものがあるものか。君は、まさかその年齢になって、地獄を恐れているものではあるまいな。地獄なんてものは、学校に居て規則を守らせるにはいいさ。しかし、僕は断言する。もし、地獄があるならば、僕は今日死んでも構わない」と言った。それでも、熱心な青年はこのような誘惑には陥らなかった。それから、慈善会に出席した。慈善会から帰って、夜11時頃、床につくと、門口に人の足音が聞こえて、間もなく、一人の召使いがぶるぶる震えながら入って来て、青年士官に言った。
「ある夫人が、(昼間、士官と共に散歩に行った友の母)是非、あなたに宅までおいで願いたいと申しました。令息が劇場から返って来て、異様な病気におかされたのであります」
と言った。よって、士官は急いでその友人の家に駆けつけてみれば、友人は、服をつけたまま、臥床して、口から泡をふき、目は血走って、士官が来たのに気がつくと、すぐに
「君、、、君、、、地獄は存在する。僕は地獄に堕ちる」
と叫んだ。
「けれども君、君は死んだのではない。まだ望みがある。司祭を迎えよう」
と青年士官が言えば、その友人は
「いや、だめだ君、地獄が存在する。だから僕は地獄に堕ちたものがするようにする。」
と言って、彼は腕を噛み切って、士官と彼の母親と二人の姉妹の顔に、血と噛み切った肉塊をを吐きかけて、司祭の来る前に絶息した。
母親は、悲嘆のあまり世を去った。二人の姉妹は、童貞となり、士官も非常に感動して、年金4万円も収入あるを棄てて、修士となって、一生涯を天主に捧げた.
無論、このような例は極少ないが、だからといって、疑う理由がない。
天主は、時として、われわれの訓戒として、このような不敬虔に対して、急劇の応報を顕されることを許し給うこともある。

ここに、地獄は人の想像したものでなく、天主の御啓示によるもので、宗教、及び、人類道徳の基礎であると結論する。
だから、地獄は存在する。ゆえに、われわれは、地獄に堕ちぬよう、つとめなければならぬ。




地獄 緒言 1章 【1】 マキシム プイサン 

2015-07-24 04:52:04 | 地獄
マキシム=プイサン神父著 大正14年

表紙の書は、大阪市東区紀伊国町、高等女学校 聖母女学院を経営せるヌヴェールの愛徳、
また、キリスト教教育修道会の一童貞に特に揮毫して賜ったものである。

地獄 緒言

教皇ピオ第9世の勅語。 地獄の観想より信仰の道に帰順した例

40年前、各地に説教しておられた一人の司祭があった。
この司祭が、ある日、ローマに来られて時の教皇ピオ第9世に拝謁された。
教皇はこの司祭を快く待遇し給い、その聖務について勅言された。

「救霊の真理について説教せよ。
 特に、地獄について教えよ。
 いささかの隠し事もなく、
 明白に、峻厳に、地獄に関する真理を説け。
 哀れな罪人たちに、天主のことを考えさせよ。
 天主の道へ導くには、これにまさる方法はない。」

とおおせられた。

まことに、われわれ人類にとっては、天国の福楽の観念は、我々を善に導くためには、おおいに力あるものであるが、
教皇の勅のように、天主にそむけば、地獄の永遠の苦罰を受けねばならないという観念も、おおいに力があり、
われわれ、人を大罪の底なき淵から避けさせるものである。
地獄に対する恐怖のために、天国に入ることができた霊魂の数は極めて多いことであろう。

時は紀元1837年(元文2年)フランス国士官学校を卒業したばかりの2人の青年少尉が連立って
パリの名所旧跡を訪れた。
少尉等は、王宮の近傍にある聖母被昇天の聖堂に入った。
祈祷をしようともせず、ただ、この美しい聖堂の聖画聖像の数々を巡り眺めた。

告解場の傍を通りかかかったところ、聖体を拝んで居られる白衣を召した一人の年若い司祭を、少尉等の一人が見つけて、
「見よ、あの司祭を。
 誰かを待っているようじゃないか。」
と、その友にささやいた。
「君を待っているのかもしれないよ。」
と、他の一人が嘲笑しながら答えた。
「僕をか。どうして」
「どうしてって、よし、どうだ。君、僕があそこへ行くか行かぬか、賭けをするかい。」
「告解に行くって、君が。これは面白い。あはははは、」
と、肩をゆすって笑った。
「じゃあ、君、何を賭ける?」
と、他の青年士官は、冗談な、しかし決然とした態度で答えた。
「君が告解に言ったら、冷やしたシャンパンを1本つけて、とびきりの御馳走をおごってもいいよ。さあ、行けるなら、あそこの告解場まで言ってみたまえ。」
挑発された青年少尉は、これに応じて、つかつかと司祭の傍に進み、ちょっとささやいたが、やがて、司祭は立ち上がって、告解場に入られた。
この際、何の準備もないこの青年士官は、その友に向かって勝ったぞという目配せをしながら、あたかも、まさに告解をするような風態でひざまづいた。

相手の士官は、
「あつかましい奴だな、あいつは。」
と思いながら、もよりの椅子に腰を下ろして、そのありさまを見ている。
5分過ぎ、待っても、10分過ぎ、待っても、士官は告解場から出て来ない。
そこで、友の士官は少し待ちくたびれて、いったい、あいつは何をしているんだろう。こんな長い間、なにをしゃべっているんだろうと、
いぶかった。

やがて、告解場が開いた。
司祭は興奮した沈痛な容貌で出て来て、青年士官に目礼しながら、小部屋に入られた。
士官はその傍らに立って、火のような赤い顔をして、手持ちぶさたにヒゲをひねっていたが、
これも、その友を手招きして、聖堂の外に出ていった。

友の士官がまず口を開けた。
「どうしたんだい、君は。
 あの司祭と20分以上も話していたよ。僕は君がちょっと入って、すぐ、でてくることだろうと思っていたのに、
 あまりひまどるから、まことの告解をしているのじゃないかと思ったよ。
 僕は、ごちそうをおごらなければならないことになった。今晩がよいかね、君。」
相手の士官は、
「いや、今日はいやだ。またにしよう。僕は用事があるから、これでお別れしよう。」
と不愉快に答えて、握手を交わすや否や、緊張した態度で足早に立ち去った。

とっさに、告解場の格子が開くと間もなく、司祭はこの士官の態度によって、からかいに来たのだということを悟られた。
はたして、この青年は、あつかましくも、司祭に対して、
「わたしは宗教も、告解もあざける者であります」
と明言したのであった。

しかし、司祭は叡智に富んだ人であったから、少しも狼狽することがなかった。
おもむろに、士官の言葉をとらえて、静かに語りだされた。
「そうですか。
 それでは、あなたは真面目に告解をなさる御考えはないのですね。
 どれなら、告解はお止めとして、少し一緒に御話でも致しましょう。
 わたくしは、大層軍人が好きなのです。
 それにあなたは、ゆかいな青年ですから。
 失礼ですが、あなたの階級は何ですか。」
士官は、このとき、これは失礼なことをしたわい、と気がつきはじめたので、
それを紛らわすために努めて丁寧に答えた。

「まだ、少尉です。士官学校を出たばかりです。」
「少尉ですか。そうして、この後、まだ長いこと少尉で居られるのですか。」
「そうですね。2、3年か、4年も、このままでいるでしょう。」
「それから先は。」
「中尉になります。」
「何歳になれば、中尉になれるのですか。」
「運がよければ、28か29で中尉になれるはずなのですがね。」
と士官はほほえみながら答えた。
「その次は」
「それから先は、ちょっと難しいのです。
 大分、長いこと中尉でとまっていて、それから大尉になって少佐になって、中佐になって、その次は大佐になるのです。」
「それでは、大佐になるまでに、齢40か、41、42にもおなりですね。そうしてその次は。」
「その次は、まあ、少将、中将、大将というわけですね。」
「その次は。」
「その次ですか。 
 その次は元帥ですが、私は、とても、そこまでのうぬぼれはありませんね。」
「そうしてあなたは、結婚はなさらないのですか」
「しますとも。左官になったら、するのです。」
「よろしい。
 左官になって、結婚をして、少将、中将、大将と昇進して、うまくいけば元帥にもなって、、、  
 なれないとも限れるものではないのです。しかし、、、
 その次にあなたは何になるつもりですか。」
と、司祭はおごそかに尋ねられた。
「その次ですか、、、、
 その次はと、、、、
 困りましたね、、、、
 私にはわかりません。」
士官は狼狽気味で答えた。
「これは奇異。
 あなたはそれまでは知っているが、それから先は、ご存知ないと見える。
 それでは、それから先のことは、わたくしが知っているから、言って聞かせましょう。」
と、司祭は、一語一語と厳重な口調でもって
「それから先は、あんたに死ということだけが残っているのです。
 死んだ後は、あなたは天主の前に召し出されてその審判を受けねばなりません。
 もし、あなたが今において改めずに、このままこの世を去られるならば、
 あなたは天主の恐ろしい宣告によって地獄の永遠の火に苦しまねばなりますまい。
 元帥の次は、まずこんなものです。」
話の場面が、甚だ面白くない方に向かって来たので、軽卒な青年は逃げ出そうかとしたが、
これを見てとった司祭は、
「ちょっとお待ちなさい。まだ一言申し上げたいことがありますから。」
と、これを制して、さらに言葉を続けられた。
「あなたには名誉というものがありましょう。
 よろしい、わたくしにも名誉があります。
 あなたは、今、甚だしくわたくしの名誉を毀損されました。
 それで、あなたは私のために、名誉を回復してくださらなければなりません。
 それは決して難しいことではないのです。
 今後、一週間、毎晩床につく前に、ひざまずいて次のように大声でとなえることを約束してくだされば、いいのです。
 『僕はいつか死ななければならぬ。
  しかし、僕はこれを嘲笑する。
  死んだならば、僕は審判を受ける。
  しかし、僕はこれを嘲笑する。
  審判の後は地獄におとされる。
  しかし、僕はこれを嘲笑する。
  地獄に堕ちたならば、永遠の火に苦しむ。
  しかし、僕はこれを嘲笑する。』
たったこれだけです。しかし、あなたは、あなたの名誉にかけてこれを唱えることを誓わねばなりませんよ。
また、必ずその誓いを履行せねばなりません。」

少尉は困りきって、この場の失策から逃れ出るために、ついに司祭の言われるままに誓いをたててしまった。
温和な司祭は、もう、あなたの無礼を怒ってはいません。
きれいにゆるして差し上げます。それで、もし、またわたくしに会う御用事でもありましたら、
いつでもお出でなさい。
わたくしは、いつもここにいますから。
しかし、約束したことは決して忘れてはなりませんよ。」
と言い足して、この青年を去らせました。

その日、この青年は一人、夕食の卓についた。少なからず焦れていた。
その夜、床につく前、しばらく躊躇していたが、他人に対する誓いを破るは、身に取って不名誉であると考えたので、
ついに心を決して
「僕は死ななければならぬ、
 僕は裁かれねばならぬ、
 僕は恐らく地獄に行かねばならぬ、、、、」
と唱えはじめた。
しかし、青年は、ついに
「僕はこれを嘲笑する」
と唱える勇気は出なかった。

幾日かそのようにして過ごした。
痛悔の情は、あたかも耳元で鐘をつくように、青年の心を悩ました。
元来、この青年も、大抵の青年と同様に、決して心の底まで、悪に染まった人ではなく、単に軽率な人に過ぎなかった。
見よ、約束の1週間を過ごさずして、青年は、再び、一人で聖母被昇天の聖堂を訪れて、今、一度告告場にひざまづいた。
青年は、痛悔の涙にしめった顔に、、、、喜びの情にみなぎった心を抱いて告解場から出た。

それ以来、青年は、死に至るまで立派なキリスト信者となった。
青年の改善は、実に地獄に関する、まじめな観想と慈悲深い天主の聖寵の賜物とであったと言わねばならない。

この話は単に一例に過ぎない。

地獄の観念が、この青年士官の心のうちに現した、不思議な御業が、われわれの心のうちにも起こらないというはずがあろうか。
地獄について真面目な黙想を試みてください。
著者が今ここに「地獄」という問題を掲げて、読者に見ていただこうとするのは、
読者が、この目的に至るためにほかなりません。

もし、読者が地獄の恐ろしさを感じ、大罪の忌むべきことを悟ったならば、わたしの望むところなのです。
今、実例を挙げて地獄の観念が悪の道に踏み迷っている人々を、善の道に帰すために、どれほど有効であるのかを説明した。
これより、本論に入って、4点から地獄の問題を簡潔に、またできる限り精密に説きあかしたい。

1 地獄は、真に存在するか。
2 地獄とは、どんなものか。
3 地獄は、永遠のものではないのか。
4 地獄に堕ちないために、どのようにすべきか。

これらの問題を解くために、わたしは読者の常識と信仰に訴えたい。
第1章 地獄は本当に存在するのか

地獄の存在は、古今東西いずれの国の人にも、一般的普遍的な一大真理である。
地獄の存在の歴史的証明、、、
地獄に関する信念は情欲から出たものではない、、、
地獄に関する信念の原因は、1、原始時代の天啓。2、善悪の賞罰を欲する人類自然の性情である。、、、逸話実例。

地獄は果たして存在するのか。
そのとおりである。
地獄は疑いもなく存在する。これに対する証拠は、おびただしくある。
しかし、今、そのうち、最も明白なものを一つ挙げよう。

地獄の存在は、いずれの国、いずれの時代の人といえども、疑いをはさまなかった。
すべての国、すべての時代を通じて、誰も疑わない真理、すなわち、いわゆる、常識上の真理である。
一般的真理である。
この一般的普遍的大真理を否定するものは、常識のない者と言わねばならぬ。
なぜならば、世界の人々が、皆、誤っていても、自分だけが正しいと思う人は、愚かな狂人のたぐいに入れなければならないからである。

そもそも、いずれの時代においても、世界のはじめより今日に至るまで、何人も等しく地獄の存在を信じたことは、確かな事実である。
地獄を呼ぶ名称と、地獄を説く形式には、時と所によって、多少の違いはあるが、悪人が、死んだ後に、
火の燃える所に堕ちて恐ろしい罰をこうむり、終わりなき刑を受けるということは、人々が世のはじめから教えられ、
言い伝えられたことである。
これは、少しも疑いのない事実であって、わがキリスト教の大哲学者等が論証し尽くしたことである。
ほとんど、説明の必要のないほど、明らかである。
地獄が在るということについて、古い事を尋ねれば、世界最古の書籍、モーゼの書いた旧約聖書が明らかに教えている。
わたくしは、これを歴史的証明として引用する。
われわれカトリック信者から見れば、この書物は天主のみことばを伝えるもので、従って、その教えるところは、誤謬のないものであると
いうことを忘れてはならぬ。

まず、旧約聖書の民数記略第16章には、
コレ、ダアン、アビロンという3人の聖職者が神を穢し、モーゼに背いたために
「生きながら地獄に堕ち、地、その上に閉じ塞がれた」
と書いてある。
なお、「天主のもとより火出て、彼らと共に背きたるもの250人を焼尽せり」と記してある。
モーゼがこの書を書いたのは、キリスト降世前1600年代のことであるから、今日から、約3600年程昔のことである。

申命記には、天主がモーゼの口を借りて
「我が怒りによりて、火は燃やされ、その熱は地獄の底にとおれり」とおっしゃった。
同じくモーゼの筆によるヨブ記にも、はなはだ富栄えた不信心な者が、天主に対し奉りて
「われわれは天主の律法を好みません。天主につかえたり、祈ったりしても、何の役にも立ちません」
と放言して、たちどころに地獄に堕されたと書いてある。
ヨブは、地獄を「闇の国」と呼んだ。死の影に沈むところとの意味である。秩序なくして、永遠の恐怖のみがある禍と闇の場所という義である。

これは、最も尊重すべき歴史上の証拠であって、人類世界の最古にさかのぼるものである。
キリスト降世1000年前に、ダビドとソロモンは、何人も知っている明白な大真理として、地獄のことを語り、これを証明する必要すらないものと認めた。
ダビドは、「不信心な者は、倒れて地獄に堕ちるだろう」と叫び、なお、「地獄の苦痛」をも説いた。ソロモンも、また、集会の書に、
「罪人の群れは麻くずの束のようだ。彼らの終わりは火の焔なり。地獄なり。暗闇なり。苦痛なり。」と行った。

それから200年の後、キリスト降世800年前に、大預言者イザヤは、
「ああ、ルシフェルよ、汝はどうして天から堕ちたのか。汝は、汝の心のうちに、我は天に上ろう、我は最も高い者に等しいだろう、と言ったのではなかったか。見よ、お前は地獄の深淵にしずめられる」と言った。後に説いたように、この深淵は恐ろしい火の塊の流れているところと解するべきである。

教会も地獄のことをこのように教える。なお、イザヤは、地獄の永遠の火について、
「罪人は恐怖に撃たれる。おまえ達のうちで、誰か火の中、、、永遠の焔の中で住むことができるものがあるだろうか」と語った。

イザヤの後、200年を経て預言者ダニエルは、最後の復活と審判との光景を述べて、
「塵の中に眠りたる群衆は醒めるだろう。ある者は永遠の命に入るがために、あるものは終わりなき恥辱を受けるがために」
と言った。

その他の預言者等も、皆、地獄の存在を語った。
救世主イエズスキリストの先駆者洗者聖ヨハネは、疑いの余地なき真理として、地獄の永遠の火のことをエルサレムの民衆に語り、キリストの来り給うを告げて
「彼の手に箕ありて、その場を清め、麦(すなわち善人)は倉におさめ、カラ(すなわち悪人)は消えざる火にて焼き給うだろう」
と叫んだ。

古代において、ギリシア、ローマの異教人等も、地獄を語り、恐ろしき永遠の罰を信じた。大昔からの伝説や、預言者等、教父等の教えから離れている程度に従って、その形式には多少の差異はあるが、彼らは等しく地獄を信じ、地獄の火と闇とを信じた。

ギリシアの大哲学者、ソクラテスは、
「聖き律法を犯した者は、再び出ることの出来ない地獄に堕ちて、恐ろしき永遠の罰を受けねばならぬ」
と言ったと、その弟子プラトンが伝えている。彼はまた、
「霊魂は現世を離れてから、審判を受けて、もし現世において正しく生活していなかったならば、厳しき罰に服せねばならぬものであるという古来の聖き伝説は、何人も信じなければならぬことである。」と言ったとのことである。アリストテレス、シセロ、また、セネカ等の名高き哲学者も、太古の昔よりこの伝説について語っている。

ホーマーとベルギリウスは、その詩の中にいろいろの色彩を用いて、この伝説を現している。
見よ、
この原始からの大真理は、形こそ変われ、異教者の間にも失わずに伝えられ、悪人は永遠の苦罰を受くべきものと信じられた。

最も懐疑的哲学者すら、なお、地獄に関する一般的信仰の存在を認めぬわけにはいかなかった。
彼らの或る者は、来世における賞罰の教えは太古の昔からあって、およそ我々人類のあらゆる確信の中で最も古いものであると断言している。
太古の歴史を究めるならば、みなさんは、世界の最も古い国民が、堅くこの教えを信じていたということを発見するであろう。
そのとおりである。
アメリカ、アフリカ、オセアニア等、無知蒙昧であった野蛮人ですら、なお、種々なる迷信とともにこの教えの形跡を伝えていることを発見するであろう。
インドやペルシアの異教徒も、また、明らかにこれを伝えている。また、最後に佛教とマホメット教では、地獄の存在をその信条の一つに数えている。

わが公教が、地獄の存在に関する信条を、宗教全体の基礎たるべき大真理として教えることは、今更語る必要もないことであろう。
いわゆる、プロテスタント、自由研究と証する愚かな教義によって、あらゆるものを破壊し去ったプロテスタント、、、すら、ついに地獄には手を
付けることができなかった。
あらつる、真理を打ち倒してはばからなかったルターとカルヴィンとが、彼ら自身にとっては、殊に都合の悪いこの恐ろしき真理を倒そうとしなかったとは、
また、何と言う不思議なことではあるまいか。
伝えられているところによると、
マルチン=ルターは、ある冬の夜、一緒につまづかせた女と共に暖炉のそばにいて語っていたが、戯れに手を延ばして火の中に入れた。
女は、ただちにこれを引き止めた。すると、マルチン=ルターは、
「止めるには及ばないよ。どうせ、地獄の焔は我々を待っているのだ。すこしは火に慣れておくのもよかろう」
と言ったということである。
これは、彼が地獄の存在を信じていたということを語るものではないか。
彼が宗教改革と称するもののため、罰を受けることを免れないと確信していたことを証しするものではないか。

要するに、地獄に関する信仰は、一般的普遍的である。
しからば、この信仰がこのように一般的であり、普遍的であるのは、なにゆえであろうか。昔から十人十色といって、人は性質においても、趣向においても、
風采においても、習慣においても、僻見においても、教育においても、各々ちがった色彩を持っている。しかしながら、この未来の罰に関する信仰のみがこのように一般的であって、いわば十人一色であるとは、そもそもなにゆえであろうか。この教義は、もとより、一宗一派の発明ではない。なぜならば、いずれの宗教にもあるからである。また、これは、人の情欲から生じたものでもない。なぜならば、文明人も、未開人も、野蛮人も、等しくこれを信じるからである。このように論じ詰めていけば、この信仰の原因は結局、2となる。
第一は、原始時代の天啓である。この天啓は、形式や枝葉の点においては、変化はあるが、その骨髄は今日に至るまで、あらゆる国人の間に伝えられた。もっとも、歴史上の証拠が明らかである。このように、歴史的証拠が明瞭であるにもかかわらず、この天啓の存在を否定しようとする人もある。しかし、このような人でも次の第ニの原因を無視することは出来ないであろう。

第ニは、正義の念によりて善の賞せられることを望み、悪の罰せられることを欲する人類自然の性情である。人類の本能は、ややもすれば、不徳に流れる。しかし、正義の念は善の賞せられるべきこと、悪の罰せられるべきことを望む。この本能が、われわれを暗ませることができないのは、このためである。

人類に一般的である地獄の思想は、実にこの2つの原因に基づく。
だから、これが、やがて地獄実在の明らかな確かな証拠となる。
そんなことはない、地獄なんてあるものか、と揚言する傲慢臭い無知な人々は、痴人か狂人に誓いと言わねばなるまい。

1793年(寛政3年)、フランス大革命に際し、一人の司祭が、フランス革命時の不公平な裁判官の前に引き出された。
「おまえは地獄を信じるか」
と裁判官が尋ねた。司祭は即座に
「信じますとも。あなたのような人を見たり、あなたのすることを見たりすると、わたくしはそれを疑うと思っても疑えなくなります。
 わたくしがもし、これまでは信じなかったとしても、これからは信じなくてはならぬことになりましょう。
 あなたのような人間に罰を与えるために、地獄がなくてどうなるのですか」
と答えられた。

二人のプロテスタント牧師が、公教会とその律法を論じ、けなしあっていた。
一人の婦人がこれを聞いて、
「あなたがたは、ミサも、大斎も、告解も、煉獄も、廃してしまって、真に驚くべき改革をなさいました。
 もし、あなたがたが地獄も廃してしまいなさるならば、わたしはあなたがたに従いましょう」
と言ったところが、牧師は互いに顔を見合わせて答える言葉もなかった。
これは、彼らといえども、いやしくも宗教があれば、その基礎として、地獄の教義がなくてはならぬということを否定することができなかったからである。

ここにおいて、著者は断言する。地獄は存在する。
これは、雲のない日の午後の太陽よりも明白なことである。
いままで述べ伝えた話から、当然に流れ出る結論である。

(第1章 完結)