天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

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心戦 第60章ー第66章 ロレンツォ=スクポリ著

2015-07-29 05:04:32 | 心戦 ロレンツォ=スクポリ著
スクポリ「心戦」第60章 良心の究明について

良心を究明する場合に、3つの事柄を考察しなければならない。
1 今日の罪過
2 その原因
3 これと戦うため、またその反対の徳に達しようとする意向と熱心
がこれである。

1 罪に関しては「罪に傷ついたとき、私どものとるべき道」(第26章)に述べたことを守ればよい。
2 罪の原因に関しては、どこまでもこれを反撃して、その根絶に努力すべきである。
3 これを実行しようとし、徳を獲得しようとする意向に関しては、あなた自身をたのまず、神を信頼して祈り、欠点を憎み、その逆をいく徳行を、あこがれ望み、種々の行為をもって、堅めるようにしなければならない。
すでに獲得した勝利や、行ったわざに対しては、「あやしいものである」とみなすべきである。
こればかりではなく、あなたはこれに関して、あまり考えない方がいいと、私は忠言したい。
このとき、少なくとも虚栄と傲慢のような、なにかの動機が、ひそかに入り込む危険を避けることができないからである。
であるから、なにごとも、、、それがいかなる種類のものであろうとも、、、自分のした善業は、神のご仁慈にゆだねてしまい、むしろあなたの思念を、今後果たすために残されている事柄に導くがよい。
それから当日、神があなたに与え給うた賜物と恵みに対して感謝すべきであるが、それにはまず、神を万善の源と認め、このように多くの可視的、かつ、さらに無数の見えない敵から救い給い、善念を起こさせ、徳を行う機会を与え給い、そのた、あなたのまだ知らない数多くの恩恵をこうむったことを感謝せよ。


スクポリ「心戦」第61章 死ぬまで反撃を加えて、この心戦を続けなければならない

心戦に重要な条件はいろいろあるが、そのうちの第一のものは堅忍である。
これをもって、常に私どもの欲情と戦うように注意しなければならない。欲情は現世において、あたかも年中発芽する悪い草のようなものであって、絶対に死滅しないからである。
この心戦は生命とともにでなければ、終わらないものであるから、私どもの絶対にのがれられないものである。それで戦いたくないという人は、捕虜になるか、さもなければ死ぬよりほかはない。
そればかりではない。私どもの敵は、絶えず私どもを憎悪するから、平和や休戦など全く望むことができないのである。さらに、かれらは友好を求めて来る者を、いっそう苛酷に滅ぼすのが常である。
しかし、かれらの勢力や数に恐れをなしてはならない。なぜならば、負けたくないものばかりが、この戦いで敗北しえないからである。実に、神たる総司令官の手中に、敵軍の運命は握られているのである。私どもは、この神の栄光のために、戦わなければならない。神はあなたの敗北を許し給わず、むしろあなたのために武器をとって立ち給う。もし、あなたさえ神と一致し、おおしく戦い、信頼を自分自身に置かず、神の全能と全善とにおくならば、いかなる敵よりも強いものとして、あなたい勝利の冠を給うであろう。
しかし、神がたとえ、いますぐあなたに勝利の冠を与えたまわないとしても、決して失望してはならない。あなたさえ、もし、忠実に捨て身になって戦えば、神はあなたの遭遇するいかなる逆運をも、また、勝利が遠ざかるように見えたり、敗北をきたすように見えることでも、、、それがどんな種類のものであろうとも、、、あなたの利益に転換させ給うであろうということを、確証するであろうから。そしてこれは、あなたにとっても勇ましく戦うよう鼓舞してくれる真理なのである。
読者よ、あなたのために世に打ち勝ち、身を犠牲に供し給うた天の総司令官に従って歩みなさい。鋭意この戦いに熱中し、あなたの敵を全滅させるために努力しなさい。わずか一人の敵でも生き残らせるならば、剣を眼中に入れたと同じく、また、槍を横腹に突き刺されたようになるであろう。
したがって、あなたの光栄ある勝利の道を、妨害することになるであろう。


スクポリ「心戦」第62章 臨終に際して、襲撃してくる敵に対抗する準備方法
人が世にある間は、絶えまない戦闘に臨んでいるのではあるが、重要なそして最後の勝負を決する戦いは、まさに生から死に移ろうとする臨終の際である。
ゆえに、この瞬間に倒れるものは、もはや起き上がる道はない。
であるから正しく準備するために、あなたのなすべき道は、あなたに与えられた現在の瞬間に勇ましく戦うことである。
なぜならば、生前よく戦ったものは、すでによく習慣づけられているために、臨終に際しても容易に勝利を得るからである。
さらにまた、しばしば死ということについて真剣に考えるがよい。
こうすれば死がくるとき、これを恐れること少なく、あなたの心は何者にも妨げられずに自由となり、戦うに充分準備が整っている。
世人はこれを考えることを避ける。
その理由は、浮き世の享楽が妨げられることを恐れるからである。すなわち、かれらの立脚点からいって、また愛着している点からいって、いつかこれから離れなければならないということが、非常な苦痛と感じるからである。このようにしてかれらのよこしまな愛着は、決して薄らがない。むしろますます、強力となる。それがために現世と深く愛するものとに別れを告げるとき、言語に絶した苦痛をおぼえる。しかもその苦痛は、愉楽の長短の期間に応じて深刻さをきわめるのである。
なお、この大切な準備をいっそう完全にするために、ときどきあなたが、ひとりで、誰一人助けてくれる人もなく、いま現に死の苦しみに置かれていると想像するがよい。そして、次の瞬間に来る事柄、、、すなわち、そのとき苦しむであろう境遇、、、を思い浮かべよ。
そして、次章で私の与える方法によく目を通し、これをあなたの臨終の苦しみに際して、いっそうよく役立たせるがよい。
ただの一度しか行えない決闘には、前によく練習しておく必要がある。それによって、とりかえしのつかない過誤を決しておかさないようにするのである。


スクポリ「心戦」第63章 臨終の際にこうむる敵の襲撃について 信仰の誘惑、及びこれを防御する方法
臨終の際、私どもの敵が、普通、私どもを襲うもっとも重要な、かつもっとも危険な誘惑が4つある。
1 信仰を誘惑すること
2 失望させること
3 虚栄をいだかせること
4 悪魔が光の天使に偽装して、種々な迷いを起こさせること
これである。
第一の襲撃。
もし、悪魔が偽りの論証を掲げて、あなたを誘いはじめるとき、即座にあなたは知識より意志に逃避して、次のように言いなさい。
「サタン退け!虚偽の父よ!私は聞く耳をもたない。カトリック教会の教えるところを信じるだけで結構である」
こうして、たとえそれが信仰問題についての思念であっても、できるだけこれに気をとめてはならない。いかにそれが味方らしく見えても、これを悪魔があなたと紛争関係を結ぶ誘因であると解すべきである。
しかし、このような観念から思念を撤回しようとしても、間にあわない場合には、悪魔がいかなる理由をもちだしても、また聖書の句を引用してきても、毅然たる態度で一歩もこれにゆずってはならない。なぜならば、たとえあなたによく、かつ明々白々の事柄にみえても、提示される文句全部が、聖書の章句の主要部を切り取った断片であるか、あるいは悪用か、あるいは曲解かのいずれかであるからである。
悪賢いヘビ(悪魔)が、もしカトリック教会は何を信じるのかと尋ねても、決して答えてはいけない。かえって悪魔の欺瞞と、悪魔がいかに、ことばじりをとらえようとするかを考え、胸に信仰をいっそういきいきと燃やすほうがよい。もし悪魔に侮辱を加えて激怒させようと思うならば、カトリック教会は真理を信じるのであると答えればよい。もしまた、その真理とは何であるかと、悪魔が反問するならば、
「その真理とは、カトリック教会の信じるところのものだ」
と答えてやればよい。
とにかく、あなたの心を常に十字架に釘づけられたキリストに向け、こういうべきである。

「わが神、わがつくり主、わが救い主よ、
 すみやかにわたしを助けたまえ。
 わたしから離れないでください。
 わたしを、主の聖なるカトリック教会の信仰の真理からはずれさせないでください。
 わたしは、主の聖寵によって、この教会に誕生したのですから、主の光栄のために、わたしの現世の生命を終わらせてください。」



スクポリ「心戦」第64章 失望の誘惑とその対抗方法
第2の襲撃。悪魔は失望によって、全く私どもを打ち倒そうと努力する。私どもの罪を思い出させて恐怖を起こさせ、もって失望のふちに投げ込むのである。
このような危険に際しては、次の原則を確実なものとして堅く持つべきである。
罪の追憶も、(その結果、謙遜と、天主にそむいたことの悲嘆と、天主の仁慈への信頼とを起こさせるものである限り)それは天主の聖寵から出たものであって、あなたの救霊に役立つのだということ。
しかし、この罪の追憶が、もし、不安、懐疑を生じさせ、意気を沈ませ、地獄の苦罰を受けなければならないとか、もうたすかる時間も、見込みもないであろう、というような確信をあなたに起こさせるとかして、これを真実らしく示すならば、そのとき、この中に陰険な悪魔の作用があると認識すべきであろう。それで、あのいっそうへりくだって、天主に信頼せよ。このようにしてはじめて敵の武器をもって敵にうち勝ち、かつ天主に光栄を帰すことになるであろう。
罪を追憶するごとに、必ず天主に背いたという理由で悲しめ。ただ主イエズスキリストの御受難の功徳を信頼して悲しみ、罪の赦しを祈り求めなければならない。
さらになお、あなたに言っておく。たとえ天主が「もはや、おまえは、天主に属する小羊ではない」とおっしゃるように思えても、それがために決して天主への信頼を忘れてはならない。むしろ、へりくだって、いうべきであろう。

「わが天主よ、わたしの罪のためにわたしを棄てられるのは当然のことです。
 しかしわたしは、主のあわれみのゆえに、必ずわたしを許してくださるという、さらに大いなる信頼をもっているのです。
 ですから、このみすぼらしい、主に造られた人間を救ってくださることをお願い申し上げます。
 わたしはもとより、悪のために地獄に罰せられるべきものなのです。
 しかし、わたしは、主の御血の価(あたい)をもって、あがなわれたものなのです。
 ああ、わたしの救い主よ、主の栄光のためにも、わたしは、わたしが救われることを欲します。
 主の限りない御仁慈によりたのみ、御手にわたしのすべてを委ねます。
 主だけが、わたしの主でいらっしゃるのですから、み旨のままにわたしをはからってください。
 たとえ、主はわたしを殺されたとしても、わたしの生きた信仰は、主にとどまることを望んでやまないのです。」
と。


スクポリ「心戦」第65章 虚栄心の誘惑について
第3の襲撃は、虚栄及び自負心からくる。この点に対してあなたは絶対に譲歩してはならない。どんなぐあいに将来それがなるであろうとも、決してあなた自身に、あるいはあなたの業に誇りを求めてはならない。あなたの喜悦することは、ただ神のみ、神の御慈悲、イエズスキリストの御生涯と御苦難のみである。

臨終の最後の一息まで、あなた自身をますますさげすめ。そして、あなたのした善業を想起するとしても、神こそすべての創始者であると、承諾せよ。神の御助けを願うのもよいが、どれほど多く、大きな戦いに勝利を得たとしても、それを鼻にかけて願うのはよくない。

いつもうやうやしくおそれかしこみ、あなたの神がその翼のかげにあなたを収容し給わなかったとしたならば、あなたの配慮のことごとくが徒労に帰したであろうと、真剣に告白しなければならない。この御保護こそ、あなたが唯一に希望すべきものなのである。

この訓戒を守るならば、あなたは敵に負けるようなことは決してない。このようにして、あなたは天のエルサレム(天国)に嬉々として、凱旋する道を開くべきである。




第66章 臨終の瞬間に襲われる迷いと偽現について
がんこに妨害する敵(悪魔)は、私どもを幻惑し、光明の天使に変容して襲ってくる。
このとき、はっきり自分が無力であることを認識し、動かず、大胆に言ってのけなさい。

「不吉なやつ!
 暗黒界に引き返せ!
 私は出現を受けるに足りない身である。
 私の望みはただ一つ、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、諸聖人のとりなしをもって、わが主イエズスのあわれみを得ること、
 これだけである」

たとえ、あなたには、ほとんど明らかなしるしとして天から来たらしく見えても、力の及ぶ限りこれを拒絶し、追い払いなさい。
この拒絶が天主に背くことになりはしないかと心配する必要はない。
なんとなれば、みずから資格なきものとして、へりくだる基礎をもっているからである。
これがもし、天主から出現したものであったならば、その後もますます明白な出現となってくるのであるから、
あなたにとって、結局なにも損害をこうむることなしに済むことになるでしょう。
それから、人間に聖寵を与える天主は、謙遜の行為に対して、決して聖寵を取り上げなさることはないのである。
臨終の際に悪魔どもが私どもに対抗して、とる武器はたいていこのようなものである。
このほか、悪魔は各個人の弱点をよく知り抜いているから、各自独自の性癖に応じて誘惑する。
それで、私どもの霊魂の決戦の時が接近する前に、すでに欲情をいっそう抑制して身を守り、よく武装し、勇敢に闘わなければならない。
こうしてこそ、何ごとをも為し遂げる時間がもはや切れた臨終の瞬間に、たやすく勝利を得るに至るのである。

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