天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

聖母の生涯 1-39

2015-01-06 06:34:54 | 聖母の生涯
1 
今から約二千年前のこと、パレスチナと呼ばれている地方に、幸せな夫婦が住んでおりました。この夫婦こそは、これから生まれてくる愛らしい少女の両親でした。
たとえ、生まれでる赤ん坊がひょっとして皺だらけだったり、鼻がとても大きかったりしても、人々は少しも憎まずに可愛がることでしょう。しかし、この幸せな夫婦から生まれ出た赤ん坊は、今まで誰も見たこともないほど稀な、抜きん出た愛らしさでした。聖伝によりますと、この赤ん坊の母はアンナ、父はヨアキムと呼ばれておりました。この女の子は、ヨアキムとアンナにとって、はじめての子でしたから、この幸せな夫婦の喜びは、どんなに大きかったことでしょう。


幸せな夫婦は、この赤ん坊をミリアム(マリア)と名付けました。
その名は、そのころのパレスチナでごく普通に名付けられた名前で、ミリアムと名付けられた子はたくさんおりました。
自分の始めて生んだ子を産着で包み、育てるようになったアンナの喜びは非常に大きなものでした。
けれども、彼女は自分の子がどんなにすばらしい運命の星をいただいているかを、少しも知らなかったのです。
アンナは、子マリアが救世主の母として永遠より選ばれているなどとは、夢にも思わなかったのでした。
また、アンナは、この子が他の子と違った子なのにも、気がつきませんでした。
マリアに御宿りになるという、世にも稀な運命のために、
天主が、原罪の汚れをまぬがれさせたもうたことを、母アンナは果たして知ることが出来たでしょうか。
この特別な御摂理を、「無原罪の御宿り」といっております。


マリアは、女のうちで最も潔い女でした。
すべての人を救うためにマリアからお生まれになろうとしていらっしゃった天主は、その前に既にマリアをお救いになっていたのです。
しかし、幼いマリアは、その美しさ、そのやさしさだけが、他の子と違ったものに見えるだけでした。
マリアは非常におとなしい子でしたので、マリアを見た人々は、皆、感嘆の声をあげておりました。
マリアは、まだゆりかごにいることからほほえみをたたえておりました。
それは、唇だけに表れていたわけではなく、その微笑は、特に美しくつぶらな眼に優しく浮かんでいたのです。
大人達は、この優しく雅な顔の前で、感動しきっていたものでした。
その眼は潔い喜びに充ちあふれ、豊かに柔らかく、なごやかな光を放っていたのです。
マリアは、だんだん歩みを覚えだしました。母アンナの福や、父ヨアキムの指をつかんで、よちよち歩きはじめます。
少したって、自分だけで歩けるようになったとき、マリアの眼はどんなに楽しげに微笑を眼にたたえたことでしょうか。


そのうちに、マリアは発音するのを覚えました。
それは、日がたつにつれ、言葉になりました。小さい言葉にもなりました。
こうして、彼女はだんだん生長していきました。
まだ愛らしい赤ん坊でしかなかったマリアは、人々を感心させるほどの柔和な、そして美しい少女になっていったのです。
よくよく注意して探しても、少女マリアには、小さな欠点も見当たりませんでした。
家の中では父母に、外であるいは井戸の付近では人々に、いつも丁寧で親切なマリアでした。
こうしたマリアの行いは、人々が今までにたった一度も接したことのなかったものでした。
それが成長すると同時に、ますますめだって見えてまいりました。
このマリアに較べると、あなたは、友達をからかったり、争いをしたり、妬んだりすることが度々あるのを、あなたは御身よくご存知のことでしょう。


町の少女たちは、一緒に学んでおりました。
マリアは決して争わず、妬まず、友達への愛をやぶりません。
それどころか、かえって他の人を喜ばそうと努め、友達の迷惑になるようなことは一切避けておりました。
自分の持ち物を友達に貸してあげたりしていましたし、いつも友達を助けるための用意をととのえておきました。
マリアのこのような行いは、自然に大人たちの眼につきました。
大人達は首をふりふり、感心しておうささやきあうのでした。
「あなたは、この子をどう御思いです?天主さまは、たしかにこの子に、他の子とは違った愛の眼を御注ぎになっていらっっしゃるに違いありませんね」
そばにいる友達は、そのようには考えてもみなかったのですが、マリアを尊敬に近い気持ちて愛しておりました。
友達は、おのおの、「私もマリアのようになりますように」と望んでいたのです。
コメント


マリアは、幼いころ、父母に連れられて、エルサレムに生き、神殿にささげられたといわれています。
それは、司祭と聖なる婦人たちに教育されるためでした。
カトリック教会では、この記念を毎年11月21日に「童貞聖マリア御奉献」の名の下に行います。
確かに今に至るまで伝えられているのは、マリアが、この世での一生を、天主と人々にあふれるような愛を注いだことです。
では、マリアはなぜ人々をそのように愛したのでしょうか?
それは、簡単です。
人々を愛さなければ、天主をお愛しすることも決してできるものではないのですから。


マリアは、それほど深く深く天主をお愛ししておりましたから、
ある日のこと、こう思い立ちました。
「私のすべてを天主さまにお捧げしましょう。」
そこで、人目につく儀式で誓わず、自分の心の中で誓いをたてました。
そのとき、彼女の年は12歳だったことでしょう。なぜなら、ユダヤ人の女が有効な誓いをたてるには、
12歳になっていなくてはなりませんでしたから。
熱心な願いによって天主にすべてをお捧げしましたので、後に母となる権利すらも、マリアは棄ててしまったのでした。
彼女はそれに、ダヴィド家の分家でした。救世主はダヴィド家から生まれる、
と言われておりましたから、彼女は救世主となる希望さえも、謙遜にも棄てて顧みなかったのでした。



マリアは、非常に謙遜な女でしたから、救世主の母になろうなどとは、決して考えてもみようとしませんでした。
彼女の心を一杯にしていたのは、力をつくして潔い犠牲の生活を送ることだけでした。
けれども、マリアも、許婚者(いいなづけ)を選ばなければならない年齢になっていました。
ユダヤの娘は、自分で選ぶのではなくて、自分の両親の定めによって夫を選び、結婚しておりました。
しかし、天主は、マリアの場合、ヨゼフを夫に選ぶようにお導きになりました。
聖ルカ福音史家によりますと、ヨゼフもダヴィドの分家でした。
けれども、彼もマリアと同じように、貧しい生活を送っている子孫でした。
この王的世嗣(おうてきよつぎ)は、ただの大工でした。


ヨゼフとマリアは婚約いたしました。
マリアは、自分のすべてを天主にお捧げする誓いをしたことを、ヨゼフに打ち明けました。
ヨゼフは非常に謙遜な若者でしたし、恐らく個人的にマリアと同じ考えをもっていたのでしょう。
彼は、マリアの誓いをよく理解しました。
そして、こんなにも美しく気高い処女の保護者になることを、幸いと思うのでした。
二人は互いに聖い生活を送りましょう、と約束しあいました。
待ちこがれている救世主が早く来てくださるように、自分のすべての仕事や苦労艱難を、
祈りの献物として天主にお捧げすることを約束したのでした。


10
天主に心を上げながら、マリアは刺繍や家の手伝いをしておりました。
ところが、突然、部屋がふしぎな光で照らされました。
「何が起こったのかしら」とマリアが思うよりもさきに、マリアの前には天使がすっくと立っていました。
天主の使者として、この世の歴史の唯一の使命を果たそうとしていた大天使聖ガブリエルです。
ガブリエルは言いました。
「めでたし聖寵みちみてる者よ、主御身とともにまします。」
マリアは天使を見て、おどろきのあまり、あわてて声も出せませんでしたが、胸の中で、
この言葉がどんな意味を持っているかを考えました。

11
大天使ガブリエルは続けて言いました。
「恐れるな、マリアよ、汝は天主の御前に恩寵を得た。見よ、汝はみごもって子を生むであろう。
 その名をイエズスと名付けよ。彼は偉大で、いと高き御者の子と称えられるであろう。
 また、主なる天主は、父ダヴィドの王座を彼に与え、その国は終わりがないであろう。」
謹んで聞いていたマリアは、心をすっかり安らかにしました。
けれども、同時にマリアはためらいました。
天主の母となることを告げられはしましたが、母になる権利を棄てて天主にお仕えする誓いをしたことを、
マリアは忘れはしなかったからであります。

12
けれども、マリアは、天主が全能にましまし、お望みになることは何でもおできになることを、よく知っていたのです。
ですから、つつましくへりくだって、マリアは尋ねました。
「どうしてそのようなことがあるのでしょう。」
天使は、彼女の賢いのと謙遜なのに感心し、聖霊がどういうふうにマリアの潔白を汚さずに行うのかを、よく説きました。
「聖霊が汝にのぞみ、至高者の能力の陰が汝を覆うであろう。故に生まれるべき子は聖なるもので、天主の子と称えられるであろう。」

13
すると、マリアは、いつも天主のために行きていた処女でしたから、謙遜にみちみちて答えました。
「わたしは主の婢女です。あなたの言葉の通り、私に行われますように」
その言葉が終わった瞬間、奇跡は行われました。
ユダヤ人たちが、長い間待ちあこがれていた救世主イエズスが、不思議にも9ヶ月後に嬰児として生まれるべく
聖母マリアの胎内に宿ったのです。
マリアは胸に手をあわせて天主を礼拝し、大天使ガブリエルはつつしんでマリアのもとから去ってゆくのでした。

14
パレスチナのある町で行われた訪問は、非常に意味の深いものでありました。
それは、マリアへのお告げです。
マリアが、天使に答えた承諾は、全人類の運命を決定したのであります。
マリアが、もしも「いいえ」と言ったならば、何が起こったでしょうか。考えてみる必要もないことです。
けれども、彼女は「はい」と答えました。私たちは、自分の罪、愚かさなどにもかかわらずに、天主の子となれるようになりました。
なぜならば、マリアの御子であると同時に、天主の御独子でもあるイエズスは、
私たちを御救いになり、兄弟姉妹としてわたしたちを
おあつかいになりたいと望んでいらっしゃるからです。

15
私たちは、ナザレトの若く美しい処女に、ふかく感謝しなければなりません。
ナザレトの若く美しい処女は、少しの間も自分のことを考えませんでした。
ひろく大きな心をもっていたナザレトの若く美しい処女は、自分には多くの悲しみとなるであろう使命を、
快く受けて下さったのですから。
大天使ガブリエルに、
「はい、仰せのままに」
と答えてから、この聖い童貞は、救世主の御母となりました。
それと同時に、聖い童貞は、私たちの母ともなるべきでした。
マリアは、それも心の底から喜んで受けたのでした。
ですから、渡したいtも、マリアの子供なのであります。
マリアに向かって、わたしたちが「お母さま」と言うとき、私たちの喜びはどんなに大きいことでしょうか。

16
大天使ガブリエルは、マリアにもう一つの輝かしいたよりを告げました。
「汝の親族エリザベトも、一子を産むであろう。」
エリザベトも、その夫ザカリアも、年をとっていて、子供がないのを、長く悲しみ続けておりました。
この老夫婦には、一つも希望がありませんでした。
けれども、ごらんなさい。エリザベトは、母になろうとしていたのです。
大天使ガブリエルは言いました。
「天主にはおできにならないことはない。」
ヘブロンのザカリア家は、喜びがどんなに充ちあふれていたことでしょうか。
従姉妹エリザベトを、深く深く愛していたマリアも、それを非常に喜びました。
大天使ガブリエルが去ったのち、マリアは直ちにエリザベトを訪れようと決心しました。

17
マリアは、この同じ喜びを、二人で一緒に喜びあおうと思い、エリザベトを訪れようと望んだのです。
子供が生まれれば、家の中の仕事は増えるものです。
マリアは、そこで、従姉妹エリザベトを助けようと思いたち、直ちに行くことにしました。
従姉妹の住んでいる町へ、マリアは急いでたちました。ヘブロンは、ナザレトから非常に遠いところにありました。
けれども、若いマリアは、歩くのが好きでした。
そして、マリアは、自分の身体の中に、救世主がお宿りになっていることも知っておりました。
旅をしながら、マリアは、早くエリザベトの手助けをしたい、と思いながら、絶えず感謝の歌を口ずさんでおりました。

18
マリアは、身体の中に宿っていたもうイエズスに、この世の美しい自然を捧げます。
マリアは、自分の喜びの証人として、花や鳥、木や山を選ぶのでした。
そして、今通って行く村や町で出会うすべての人々を、天主にお捧げするのでした。
救世の大事業を完成させるため、マリアは自分の力をすべて注いでお捧げします。
そのような旅ですから、道は短く感じられました。
しかし、マリアは、一分さえも自分のために使おうとはしなかったのでした。
私たちも、天主の御母のよい模範にならって、行いや、遊びなどのすべてを犠牲と祈りとにすることができるのです。

19
ごらんなさい。マリアは従姉妹の家の前につきました。
マリアは、エリザベトに早く逢おうと急ぎました。そして、エリザベトに逢ったマリアは、さぞていねいにこう言ったことでしょう。
「いかがですか?」
エリザベトは、若い従姉妹の言葉に答える代わりに、こう言いました。
「あなたは、すべての女の中に祝せられております。」
そして、彼女は、マリアに、あなたは天使の言葉を信じたから幸いです、と告げました。
エリザベトが、どうしてナザレトで起こった出来事を知っていたのでしょうか?
いぶかるマリアに、エリザベトは説明しました。
「あなたが私に挨拶をなさったとき、私の胎内の子が喜び踊ったからです。」

20
エリザベトは、へりくだりながら、言葉をつづけました。
「どうして私のような者が、我が主の御母の御訪問をかたじけなくしたのでしょうか。」
マリアは、このとき、もう自分の喜びを抑えることができませんでした。
マリアは、大天使ガブリエルのお告げがあったのち、自分の秘密を守りとおしてきました。
けれども、天主の不思議な御業がエリザベトに働き、それをあらわしたので、マリアも心の底から天主を讃美しました。
その日、マリアが歌った讃歌は、私たちも何度も歌ったでしょう。 
それは、マニフィカトであります。
我が魂は主をあがめまつる。
わが精神はわが救い主なる天主によりて喜びにたえず、、、

21
そは、天主はその召使いのいやしきを顧みたまえばなり。
見よ、今から後、よろず世の人は、私を幸いな者と呼ぶであろう。
大いなることを我がためになしたまえばなり。聖なるかな、その御名。

22
「その御名は聖」どんなに尊敬の思いをこめてマリアはこの言葉をとなえたことでしょうか。
まことに、天主は聖そのものにまします。
この聖(天主)は、天主の御母となる処女マリアの胎内に御宿りに来たまうのであります。
「そのあわれみは、いよいよ、かしこみおそれる者にのぞむ」
マリアは、いつも天主の善意をよく理解しています。そして、並々ならぬ生涯の使命を天主からお受けしようとしているのであります。
マリアは、すべての人々が、天主を信じ、天主を愛し、天主をうやまうことだけを望んでいるのでありましょう。
「彼は御腕の能力を現したまい
 己が心の念に高ぶる者を打散らしたまえり
 権勢ある者を位より下し
 小さき者を高めたまえり」

23
マリアは、小さくいやしい身分の処女ではありました。
が、キリストの母となるために、すべての女の中から選ばれたのであります。
「彼は飢えたる者を善き物にて飽かせ
 富める者を空しく帰したまえり」
天主は常にこのようになしたまうのであります。
また、これからも、このようになしたまうでありましょう。

24
その讃歌は、マリアの霊魂からあふれるようにほとばしり出たのであります。
そのすべての言葉が、歌いことほぐのであります。
王なる天主は偉大な御方、私はいやしく貧しい者、とマリアは歌い讃えるのです。
その讃歌には、2つの思いがあります。
天主の偉大さと愛。
自分になしたもうたことへの感謝。
この2つです。
私たちも、それぞれ、歌いことほがなければならない讃歌があります。
聖母マリアにならって、私たちも同じ讃歌を歌えるような生活をするよう努めましょう。

25
マリアは、じっと黙っておりました。
エリザベトは、感激した眼付きで、愛情深く、マリアをしばし見つめておりました。
マリアは、つつましく仕事にとりかかるのでした。
エリザベトの台所で働くマリアは、数週間というものは、すべての点でエリザベトを助けました。
間もなく、小さなヨハネが誕生いたしました。
ヨハネを抱いたマリアの頭をかすめたものは、もうじき自分もイエズスの母となって、救世主をお抱きできることでした。
こうして、エリザベトの家で、マリアは母としての修業をするのでありました。
その従姉妹が、もうマリアの助けがなくともよいようになったとき、マリアはナザレトへ帰って行きました。
彼女は、喜びに充たされて家に帰りました。それは、天主の御旨を行ったからであります。

26
マリアはこの小さな家の中で、どんなに静けさを楽しんだことでしょうか。
せっせと家事を手伝いながら、心はいつも天主に一致していたのです。
こうしたことは、仕事のためには、少しのさわりもありませんでした。
マリアは、決して、仕事を止めて手を合わせ、天主に祈っていたのではありません。
マリアは、天主の御旨をよく知っておりましたから、自分の行った事を、祈りに代えたのであります。
天主にお仕えするためには、長々とお祈りをとなえる必要はありません。
自分のあらゆることを、愛のもとに果たし、天主にお捧げするならば、それは一番美しい祈りであります。
ヨゼフは、マリアがいつも定まった時間にきちんと物事をかたづけるのを、見ておりました。
ですから、マリアが辛抱強くなかったり、根気をなくしたりしたのを、ヨゼフは一度も見たことがありませんでした。

27
夢の中に、イエズスの奇蹟的な御降誕を知らせる天使が現れましたので、ヨゼフははっきり事実を知りました。
それからというものは、ヨゼフがマリアに感じる尊敬の心は、ますます大きくなっていきました。
時がたつにつれて、彼女を愛する心はましていったのです。
彼は、この美しく気高い使命のために自分が選ばれたことを、しみじみと感謝するのでありました。
マリアが、これから生まれたもうイエズスのための産着をこしらえようと麻を織っておりますと、
一方ヨゼフは、これまたイエズスのためのゆりかごを作るのに一番よい材木を探しておりました。
そのごく平凡な家の中は、どんなに甘美な喜びがみちあふれていたことでしょう。
ぜいたくの限りをつくした宮殿に住む王様でさえ、果たしてこの貧しい2人の喜びを味わっていたでしょうか。

28
秋がやってまいりました。
もう、御降誕が近づいてまいります。
その頃、ローマ帝国は、パレスチナ地方を領地にしていました。
時の皇帝チェザーレ アウグストは、ローマ帝国の領土の人口を調べることにいたしました。
それは、今でいう人口調査と同じものです。
それによりますと、人々は、自分の本籍にそれぞれ名を届けなければなりませんでした。
ヨゼフは、ダヴィドの子孫で、ダヴィドの町はベトレヘムでした。
それで、ヨゼフは自分の名を届けるために、ベトレヘムまで行かなければなりませんでした。
彼は、マリアも一緒に連れて行きました。
もう、御降誕は間近に迫ってきました。
それで、ヨゼフは、イエズスが小さなナザレトから遠ざかって生まれるように定められていることを知りました。

29
二人は旅立ちました。
ヨゼフはロバを一匹買い求めました。
なぜなら、旅は非常に長く、マリアにとっては余りに大きな疲労になるからでした。
マリアは、この幼きイエズスのために必要なものを、すっかり整えました。
このかなりつらい旅にもかかわらず、二人は決して気分を悪くいたしませんでした。
彼ら2人は、天主がお許しになることはすべてが善いものなのを認めていたからでありました。
また、2人が驚嘆したのは、預言者が預言したとおりに、救い主がベトレヘムで生まれるようになさった御摂理でした。
旅立つときに、ヨゼフは、愛をこめて一心に作ったゆりかごを持って行けないので、
惜しそうにそのゆりかごを眺めていたことでしょう。

30
マリアとヨゼフは、時々、大きな声で祈ったり、詩篇を歌ったりいたしました。
往く道いは、主の創り給うた美しい自然があり、彼らは主の偉大さにあらためて礼拝するのでした。
また、マリアの心のすぐそばに、もう嬰児の形をとっている主を礼拝するのでありました。
世もふけると宿屋に泊まり、明ければ早くから起き出て、その日一日を首位捧げ、再び旅を続けるのでした。
こうして2人は、それから数日の後、遠く矩形の家の並ぶベトレヘムを見ました。
マリアは、御子イエズスの御降誕が、いよいよ近づいたのを知りました。
ヨゼフは、部屋を探して歩きました。が、その心配は無駄でした。どこからも断られてしまいました。
聖書に書いてあるように、宿るところがなかったのです。
けれども、マリアの非常に疲れたようすは、人々にはよく判るはずでした。

31
それなのに、誰一人、この旅人のために手をさしのべる人がいないのです。
この2人は貧乏だしお金だって沢山もってもいないだろう。
それならお金も絞りとれまい、と宿屋の人々は考え、戸を閉めてしまいました。
ヨゼフの心配は、大きくなるばかりです。
けれども、マリアは微笑みを失いませんでした。
が、救い主がお生まれになる前に早くも人々から遠ざけられた驚くべき運命について、彼女は心を痛めておりました。
聖ヨハネは後に書き記しています。
「彼は自分の家に来たもうたが、その人々は彼を受けなかった。」と。
ベトレヘムの人々は、この言葉のとおりに行いました。
日は暮れました。
ヨゼフは手当たり次第に戸を叩いて廻りました。
しかし、すべては終わりました。彼は、もう母になろうとしているマリアと一緒に、その広い宿屋の広場にさえも入れなかったのでした。
貧しい旅人が、ロバやラクダと一緒につめこまれる所にさえも。

32
ヨゼフは、マリアのために、どうしてもしずかな所を探したい、と思いました。
ところが、ある人が、町から少し離れた所に、自然に出来ている洞穴のあることを教えてくれたのです。
その洞穴は、ときおり、羊飼いが羊を連れて行ったりする所でした。
ヨゼフは、それを聞きますと、少しもためらわず、マリアを伴って洞穴へ急ぎました。
着くそうそう、ヨゼフは簡単に掃除をすまし、マリアのために藁の寝床をつくってあげました。
こうして、動物たちの宿る洞穴に、救い主イエズスキリストは、すべての幼児と同じようにお生まれになりました。
2人は、このとき、ひざまづいて心の底からの祈りをとなえ、主に礼拝するよりほかに、何をするすべもありませんでした。

33
生まれ出たこの幼子の前で、聖母マリアの愛情は、あふれるように燃えさかりました。
この幼児は、我が子でもあります。神の御子でもあります。
聖母マリアは、自分をすべてイエズスにお捧げし、イエズスが貧しくお生まれになったこの世と、
これからお救いになろうとするこの世とを、お捧げするのでした。
しかし、それは、ほんの少しの間でした。
聖母マリアは、よい母として、愛のこもった手でイエズスを抱きしめ、産着を着せました。
こうしながら、聖母マリアは、感嘆し、礼拝し、祈り続けるのでした。
彼女は、幼子になり給うた主を、
ヨゼフがマット代わりに藁を詰めた、かいば桶を、ゆりかごのかわりにして、お寝かせしたのであります。

34
真夜中です。
マリアとヨゼフは、心しずかにお祈りにひたります。
その近くに、羊飼いと羊の群れが眠っておりました。
が、急に輝き出た光に、彼等の眠りは止みました。
青い光でした。真昼のように、大空にきらめき出た光でした。
おどろきおそれた羊飼いたちは、互いにたずねあいました。
「これは、いったい、なにごと?」
すると、天使たちが現れたのです。
「おそれるな、すべての民にとって、大きな喜びの訪れを、私は汝らに告げる。
 今日、ダヴィドの町に、汝等のために救い主が生まれ給うた。
 これすなわち、主なるキリストである。
 これを見出すに、次のことをしるしとせよ。
 布で包まれ、馬ぶねに置かれて横たわる幼子を見るであろう」
好奇心と安らぎに充たされた羊飼いたちは、すぐに告げられた幼子を探しに出かけることにいたしました。

35
出発する前に、彼らは、キリストにお捧げするものを探しました。
つましい捧げものでした。牛乳、チーズ、バター、羊毛、子羊など。
このような貧しくつましい捧げものではありましたが、心からの捧げものでしたから、彼らにとって、それは大きな喜びのもととなるものでありました。
羊飼いたちは、今、天使から告げられた幼子の前にひざまずいています。彼らは、幼子の貧しさにも驚かず、深い礼拝を捧げます。
この、不意の訪問で驚かされたのは、マリアとヨゼフでした。しかし、彼らに「どうしてイエズスの御降誕を知ったのですか」と聞いたとき、マリアとヨゼフは、天主がベトレヘムの市民よりも汚れた心のない羊飼いたちを選び給うた御摂理に、思わず胸を打たれるのでした。

36
マリアは知っております。幼子を抱くときの喜びを。
しかも、その幼子は天主にまします。
羊飼いたちの手に、マリアは喜んでイエズスを抱かせました。
幼子を抱いた彼らは、はかり知れない喜びと楽しさに、涙するほどの気持ちだったのです。
羊飼いたちは、ヨゼフと語らい、ささやかな捧げものをさしだし、幼いイエズスのために角笛を吹き鳴らし、そして、喜びにみたされた心で、自分たちの羊の群れを探しました。彼らは、そのままベトレヘムの市民に、見たふしぎを話そうと帰って行きました。
羊飼いたちの話しをきいたベトレヘムの市民たちは、彼等の言葉を信じようとはしませんでした。市民たちは、彼等の無学を見てとったからでした。けれども、ベトレヘムの市民たちは、その傲慢な心のために何を失ってしまったのか、わかりませんでした。

37
幼子イエズスは、泣き声をあげました。生まれ落ちるとすぐのことでありました。そして、赤ん坊がすべてそうなように、イエズスもひもじさに泣かれたのでした。天主の御子が泣いているのを見たマリアは、大層心を動かしました。尊敬を心にみなぎらせながら、彼女は、乳をふくませるべく幼子を胸に近づけました。
この、世にも稀な出来事を前にして、どんな思いがあったことでしょう。人の形をとってこの世にお降りになった天主は、その御身体を成長させるために、乳を飲もうとお望みになるのです。その御身体を養うのは、この賎しい身分の若い婦人です。この聖母マリアの行いによって、イエズスは成長することが出来るのです。
私たちも、他の方法でマリアの行ったようなことを繰り返すべきです。
私たちがキリスト教的な生活を送ることによって、イエズスが私たちの中にも世の中にも行きてゆかれるようにすることができましょう。

38
ヨゼフは、小さな家を見つけ、マリアと幼子とを連れました。
その村では、非常に貧しいくらしをたてなければなりません。
しかし、貧しくとも2人の心は幸いにみたされておりました。一致して御子のために働き、生活を送るのでした。マリアは、自分が救い主の母として選ばれたこと、夫として保護者としてヨゼフが与えられたことを心から天主に感謝いたしました。
こんなにも善良で心やさしい夫と、子として愛し天主として礼拝する幼子を持つことの他に、何を望み得るでしょうか。
精なる愛に燃えて天主のために生き、天主と一致している者にとって、貧しさや犠牲などは少しの妨げにもなりません。

39
幼きイエズスがお生まれになってから、はや8日たちました。
ヘブライ人の赤ん坊は、この年齢にすべて割礼を受けることになっておりました。
この儀式は、私たちが受ける洗礼式にいくらか似ております。なぜなら、この儀式による小さな出血は、
その赤ん坊をイスラエルの子供の家庭に入れる印となったからであります。
割礼の日、前から選ばれていた名を、洗礼のときのように幼児につけました。
割礼は、父が自分の家の中で簡単に自分の子に行うこともありました。
ヨゼフも、世の父のように、ベトレヘムでそのように行いました。
客の訪問もなく、御馳走もなしに、天主の御子は、ヨゼフから割礼を受けたのでした。
こうして、大天使ガブリエルが告げたように、イエズスと名付けられたもうたのであります。

40
ベトレヘムでの暮らしは、安らかに続きました。
もう生まれてから40日目になろうとしております。ヘブライの律法では、長男の赤ん坊はその日に神殿に捧げなければならない、と
命じておりました。
母マリアも、その日に「潔め」と名付けられた式にあずからなければなりませんでした。
この律法に、マリアの子が従う必要はありません。なぜなら、その御父は天主御自身にましますからです。
イエズスは、他の子供のように潔める必要はありませんでした。イエズスがこの世にお降りになったのは、この世を潔めるためだったからです。
その母マリアも同じく潔められる必要はありません。
マリアは傷なき婦人で原罪の汚れがなかったからであります。