天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

地獄 1章 【2】 マキシム プイサン 

2015-07-24 20:49:22 | 地獄
1章【2】
地獄は想像されたものではないーー想像することは、到底できないーー地獄の教理は天与の真理ーー良心は地獄のあることを絶えず絶叫するーー公教会反対党の首領哲学家、ヴォルテールの言論とその死ーー地獄を否定した青年の臨終

いずれの時代においても、また、いずれの人民も、地獄の存在を信じたことは、前回述べたところである。これは、各人の心の中における明らかな自然的証拠で、ただこれだけでも、地獄が人の想像したものでないことを証明することができる。

しかし、各方面からこの重大な問題を研究する必要があるから、『果たして地獄が悪を防ぐための手段として想像されたものであるか、どうか』を調べよう。いま、仮にしばらく、世間の人は穏やかに楽しみのうちに生活して、忌憚なく、あらゆる情欲に溺れていると仮定し、ある日、一人の哲学者が来て、「地獄が存在する、もし、汝等が悪を行うならば、天主が汝らを罰すべき永遠の苦しみの場所がある。もし、汝等が行いを改めなければ、無限に焼かれるべき焦熱地獄があるぞ」と言ったならば、その結果はどうであろうか。このような声明は、どんな結果を生じるであろうか。まず、だれもそれを信じる者はあるまい。それのみならず、
「そもそも、おまえは何を教えに来たのか」
と、この地獄発見者、快楽の撹乱者に向かって言うだろう。
「どこからそんな説を聞き出して来たか。どんな証拠があるか。おまえは夢を見ている。不吉な預言者よ、うそつきよ。」
と叫ぶであろう。

およそ、心の腐敗している人は、地獄という思想に対して自然的に反抗心をもっているから、決してこれを信じない。すべての罪人は、できる限り、罰という思想を避け、罪の重いものほど、どんな秘密の罪でも、すべて容赦なく罰せられるべき天の罰、火の罰のありさまを退けようとする。特に、既に仮定した、だれも、かつて、地獄のことを聞いた事のないような社会においては、地獄という思想に対する反抗心は情欲の促すままに激発して、この不吉なる哲学者を信じることを欲しないのみならず、怒ってこの哲学者を排斥し、再び、だれも、そんな考えを起こす者がないように、その哲学者をうち殺してしまうであろう。

しかしながら、これはあり得ないことではあるが、かりに百歩譲って、もし、この不思議な発見に信を置いて、すべての人が前の哲学者の言葉に基づいて、地獄を信じたならば、どのようなことが起こるであろうか。

発見者の氏名、その年代、その生活した国名等が歴史に伝わらずに居るだろうか。でも、そんな事実は、すこしも残っていない。だれか、かつて、人心に最も根底の深い情欲に反するこのような恐ろしい教理の発見者として伝えられたものがあるか。決して無い。

だから、地獄は想像されたものではない。想像することは、到底できない。実際、永遠の苦しみは、理性の了解し得ない教義である。知識は、ただ、天主の御宣託によってこれを知るのみである。

もとより、人の知識以上のことであるから、これを解ることはできない。
ゆえに、人の了解することのできない、また、想像することすらできないことを、どうして発明できるだろうか。
しかし、これは、あたかも人の知識が永遠の地獄を了解することができないから、その知識が信仰の超自然的光に照らされぬときは、地獄という思想に反抗する。

理性は、非理性に反抗するから、したがって不可能ということにも納得し得ない。それでは、どうして理性が地獄を発明することができるだろうか。

地獄の教理は、いわゆる、「天与の教理」である。すなわち、あたかも、淡い光を放つ磨かれざるダイヤモンドのように、われわれの霊魂の奥に刻み付けられた良心の底に輝く天与の光である。だから、天主御みずからが、その光を与え給うたのだから、誰もこれを抜き去ることができない。ただ、人は、このダイヤモンド、その淡い光を覆うことはできる。人は、そのダイヤモンドを見ないようにし、また、一時、これを忘れ得るのみならず、言葉でこれを否定し、また、これが存在していないふりをすることができるが、心の奥底では、堅くこれを信じ、また、良心は絶えずこれを主張する。地獄をあざける宗教反対者は、心の奥に、地獄に対して非常なおそれを抱いている。地獄は、決して存在しないということを自分とわが身に証明したというは、自分自身を欺き、また、他人をも欺くものであって、その希望していうことを、実際にしようとするのである。これは、彼らの真心から出た正しい否定ではなく、むしろ、彼らの心の中における不信心な願いに過ぎない。

なお、これについて、宗教反対の哲学者、ヴォルテールを観察すれば、驚くべき証拠がある。
ヴォルテールは、18世紀に当たって、すべての真理を滅却しようとする恐るべき印象を当時の人に与え、その一生をわが公教会の破壊に尽くすことを誓い、このようにして放埒なる生活を営むがために、天国及び地獄の存在を否定する確信を得ようと欲し、大いに努力したが、ついに、その心の中に抱く疑惑をも恐怖をも除去することができなかった。

それと同様に、宗教反対者のある友人が、地獄の存在を否定できる確信を得たことを誇って、ヴォルテールに手紙を送ったとき、ヴォルテールは友に答えた。
「あなたはわたしよりも一層幸福な者である」と、、、、ヴォルテールはわざと冷笑して「何となれば、わたしは、既に20年来、この問題を研究したが、未だ成功できないのである」と言った。また、ヴォルテールは天主について語ったとき、
「不快きわまる天主を撲滅しよう。このようにして、20年のうちに公教会は滅びるであろう。」このように、不敬極まる言葉を言ったのは1758年2月であったが、その20年後、すなわち、1778年2月、公教会が滅びるところではなく、かえってヴォルテールが失望の極みにあり、無残な最後を遂げた。これは、先に天主に対しての侮辱の報いであった。臨終の際、彼は天主の裁判のことを想い、非常な恐怖心におそわれ、告白するため、司祭を呼ぶことを命じた。すなわち、ヴォルテールの不信仰は、ヴォルテールの放埒な生活を継続するためには好都合であったが、死に対しては何らの価値をも有しないことを示した。しかし、ヴォルテールの友等は、臨終の慰安を彼に与えることを妨げた。

狂気しながら、ヴォルテールはあたかも罪を問われている者のように戦慄し、絶えず狂い叫んで、全く死ぬ前に、既に地獄の苦しみを見た。

「自分は天主からも人からも見放された」と言って、床の上でもがきながら、爪で胸をかきむしり、司祭を呼ぶことを叫んだけれども、ヴォルテールの友人は呼んでくれなかった。臨終が近づいたとき、更に失望極まって、ヴォルテールの霊魂は苦しんだ。
「わたしは、誰かの手が、わたしを天主の裁判に引き立てていく事を感じる」
といって、恐怖に満ちた面持ちで、壁へ向き返って、
「あそこに悪魔がいる。悪魔はわたしを捕えようとしている、、、、悪魔が見える。地獄が見える、早く追ってくれっ」
と叫んで、遂に最後の苦しみのとき、その便器を取って汚物を飲み干し、悲惨な叫び声を発して、血とともに汚物を口鼻から吐き出した中で絶息した。
公教会の反対党の首領哲学者は、このような最後を遂げた。誰か、このような恐ろしい死に様を想像できる者があるだろうか。
ヴォルテールの部屋にいた者は、
「もし、悪魔が死に得たならば、これ以上の死に様はあるまい。
 地獄の存在を拒む者にこのありさまを見せたかった」
と申した。このおそろしい狂乱、恐怖、失望の中におけるヴォルテールの死は、地獄の存在を立証する明らかな証拠ではないか。

なお、今、ひとつ実例を示そう。
二人の青年があった。学校に居るとき、非常に睦まじくつきあい、二人とも同じ信仰をもっていた。後、互いに各自の家に帰ってから、一人は信仰を失い、放埒な者になった。他の一人は依然として熱心な信者であった。それでも、互いにつきあいを続けた。ある日曜日、二人は共に散歩に出かけた。そのとき、熱心な信仰をもっていた青年は、年齢21歳で、ある将軍の副官であった。やがて、この青年は、その友にむかって
「これから他所に行かねばならぬ。約束したところがあるから、失敬する」
と言えば、彼の友人は
「なんだ、君。また教会に行くのか。また、慈善会に行くのか。そんなものは放棄してきたまえ。それより劇場に行くが余程よいではないか。
 時に君、君はどうして僕のようにしないんだ。誰か苦情を言うものがあるものか。君は、まさかその年齢になって、地獄を恐れているものではあるまいな。地獄なんてものは、学校に居て規則を守らせるにはいいさ。しかし、僕は断言する。もし、地獄があるならば、僕は今日死んでも構わない」と言った。それでも、熱心な青年はこのような誘惑には陥らなかった。それから、慈善会に出席した。慈善会から帰って、夜11時頃、床につくと、門口に人の足音が聞こえて、間もなく、一人の召使いがぶるぶる震えながら入って来て、青年士官に言った。
「ある夫人が、(昼間、士官と共に散歩に行った友の母)是非、あなたに宅までおいで願いたいと申しました。令息が劇場から返って来て、異様な病気におかされたのであります」
と言った。よって、士官は急いでその友人の家に駆けつけてみれば、友人は、服をつけたまま、臥床して、口から泡をふき、目は血走って、士官が来たのに気がつくと、すぐに
「君、、、君、、、地獄は存在する。僕は地獄に堕ちる」
と叫んだ。
「けれども君、君は死んだのではない。まだ望みがある。司祭を迎えよう」
と青年士官が言えば、その友人は
「いや、だめだ君、地獄が存在する。だから僕は地獄に堕ちたものがするようにする。」
と言って、彼は腕を噛み切って、士官と彼の母親と二人の姉妹の顔に、血と噛み切った肉塊をを吐きかけて、司祭の来る前に絶息した。
母親は、悲嘆のあまり世を去った。二人の姉妹は、童貞となり、士官も非常に感動して、年金4万円も収入あるを棄てて、修士となって、一生涯を天主に捧げた.
無論、このような例は極少ないが、だからといって、疑う理由がない。
天主は、時として、われわれの訓戒として、このような不敬虔に対して、急劇の応報を顕されることを許し給うこともある。

ここに、地獄は人の想像したものでなく、天主の御啓示によるもので、宗教、及び、人類道徳の基礎であると結論する。
だから、地獄は存在する。ゆえに、われわれは、地獄に堕ちぬよう、つとめなければならぬ。




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