天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

煉獄 緒論 来世はあるかないか 1923.9.24 マキシム プイサン神父著

2015-05-29 21:26:36 | 煉獄 
東京大震災、、謎の解決、、国王と羊飼い、、死後はなにものこらないか、、霊魂の不滅、、しばらくおまちください、、修道院の客、、司祭と医者、、ポーランドの皇族と百姓、、一番美しいこと、、暴飲者の妻、、なぜわたしにしらせてくださいません、、有名な3人のことば、、機関士と司教、、ヴィクトル=ユーゴーのことば、、結論

東京大震災

大正12年9月1日、東京横浜湘南地方は大地震に襲われた。
続いて起こった火災によって、横浜はほとんど全滅、東京も七分どおり焼失、この災害によって死んだ者は10万人を超えた。
これは世界における、最も大いなる災害の一つであった。

これら多くの、いっときに死んだ者はどうなったであろうか。
人は死という逃れられぬ現実について、今までより、まじめに考えねばならなくなった。
これは、やがて、今生きている我々すべてが受ける運命である。
我等は来世においてどうなるのであろう。
いや、来世というものは果たしてあるものだろうかどうか。

謎の解決
来世があるかないかということは、世のはじめから人類にかけられた謎である。
カトリック教会ではこれについて、次のように教える。
「人はこの世に居るあいだに神を認め、神に仕え、神を愛し、
 来世において永遠の幸福を受くべきである。
 死ととともに霊魂は神の御前にいで、
 あるいは天国、あるいは地獄、あるいは罪を清めるために煉獄にいれられる。
 世のおわりに、肉身は天主の全能により復活してふたたび霊魂にあわされ、天国の永遠の幸福か、地獄の永遠の苦しみかに決められるのである。」

国王と羊飼い
ある日、一人の国王は狩りに出て、野原で一人の羊飼いにあった。
そして、
「お前はこの羊を飼ってどれだけ儲けるか」
と尋ねた。
羊飼いは言う。
「陛下、私はあなたと同じに儲けます。」
国王は、変な顔をして
「われと同じに儲ける? それはまたどうして?」
という。そこで羊飼いは言った。
「陛下よ。私は羊を飼って、天国または地獄を儲けます。
 あなたは国を治めてもこれよりほかに儲けることはできません。」
国王はうなづいて、重々しい考えに沈みながら、羊飼いとわかれた。
この羊飼いのことばは真理である。どんなものでも、その運命は、天国か地獄かのどちらかよりほかにはない。

死後は何も残らないのか
あるものは、人間は死ねば、何も後には残らない、という。
しかし、こういう人は、傲慢なものでなければ、不品行な人である。
かれらは暗闇の中で元気をつけるために、一生懸命にうたって、自分をあざむく臆病者のようなものである。

有名な思想家、ラ=ブルエルはいった
「節制と性情とをまもり、正しく慈悲あるひとが、来世はない、と宣言するならば、その説は信じられる。
 しかし、こんな珍しい人はこの世が始まって以来まだ見られない。
 また、世の終わりまでも見られないことを断言する。」と。

霊魂の不滅
(1)
物質は不滅である。
人間のからだは腐敗してもなくならない。
それは、元素にかえるのである。
霊魂は肉体よりももっと美しい。
奴隷なる肉体が不滅であるのに、主人なる霊魂が滅してしまうとは考えられない。
これは、天主さまの叡智に似合わないことである。

(2)
この世においては、悪人が栄え、善人が迫害される。

ジャン=ジャック=ルソーは言った。
「この世において悪人が栄え、善人が責められることを見れば、霊魂の不滅を信じないわけにはいかない。
 万物の秩序のうちの、こんな明白な矛盾を解決するには、来世があるよりほか仕方がない。」と。

無信心の父と呼ばれたヴォルテールも言う。
「善と悪が来世においてその報いを受けることは是非必要である」と。
霊魂が滅するならば、この世は恐ろしい混乱に陥る。
貧しい者を助けるために苦労し、艱難のうちに一生を費やしたものも、不正放蕩にふけった一生を送ったものと同じである。
戦場に倒れた兵士も、国を売った謀反人と区別がなくなる。
常識を備えたもののうちに、これを承知するものがあるだろうか。

革命のとき、リヨン市の裁判官は、ある神父に尋ねた。
「あなたは地獄の存在を信じていますか」
神父は言った。
「あなたがたの行為を見て、どうしてその存在を疑うことができましょう。
 私は、仮に今まで地獄の存在を信じていなかったとしても、今では堅く信じていると断言します。」と。

霊魂の不滅を拒むのは、道徳のすべての土台を壊し、また、天主の義を否むことである。
わが国で毎年法廷で裁判を受けるものは、一万人について200人にあたる。犯罪人の最も多い米国でも、
1万人に120人である。英仏諸国はずっと少ない。ヴィクトル=ユーゴーは
「一学校を増すならば、一牢獄を減らす」
といった。
しかし、これは日本においては正反対である。これはどうしてか。
それは、日本はただ物質的の文明だけを採用したからである。キリスト教を除外した人間のたてた道徳は、
犯罪を減らすことができない。
「天主は自分を好まない人間を、自然の成り行きにまかせる」
という言葉がある。
日本人は、この言葉を、よく記憶せねばならぬ。

(3)シャトブリアンは言った。
「わずかな草は、羊に満足を与え、すこしの血は虎をあかす。しかし、人間だけは満足することができない」
すべての人は楽しみを求める。しかし、それは、底なしの器のように満足されるときがない。人は知識を求める。
けれどもこれも満足できない。
パスカルは言った。
「一番学者である人は、偉大なる無学にしずんでいる」
名高い説教者司教ボスエは言った。
「われらは、いかなる些細なことについても、完全に知る事はできない」
ニュートンは言う。
「われらは海辺に遊んでいる子どものようなものである。あるときはよく光っている小石をみつけ、あるときは珍しい貝をみつける。
 しかし、そのあいだに、まだ探検しない真理の大海はいつも眼前に横たわっている。」
天文学者フラン=マリオはいう。
「全世界にあるすべての学士会の学問は、みな限りなき無学を示している。真実、精密、完全なことは一つも知らない。われらは、ただ一つの権利のほかには何ももっていない。それはすなわち「へりくだる」ということこれである。われらは、「知らず」ということの中につつまれ、かつ沈んで暮らすのである。」
ソクラテスは言う。
「われわれにわかることが一つある。それはすなわち、われは何をも知らないということである。」
人間はどうしても満足することはできない。国王ソロモンもその栄華の終わりに、
「ああ、空なるかな、空の空なるかな」
とさけんだ。

ここに、父母子どもがみな一緒に楽しく暮らしている一家族がある。しかし
「この楽しみもやがて終わる」という観念だけで、すべての愉快を取り消すに十二分である。

モモでもリンゴでも、ある果物をつぶしてそのうちの味をすこしも残さないで搾り取るというように、万物のうちの楽しみや、美しさをことごとく
しぼりとりなさい。それでも人間は満足しない。たのしみは森のウグイスのように、抜き足、差し足、取ろうとしてもいつも逃げてしまう。
人間の心は世界よりも広い。つくられた万物は、これを満足させることができない。すべての快楽財産名誉などは、人間の心にある高尚な望みを充たすには
あまりにつまらない。死の暗闇のトンネルは、人間の永遠の望みをさまたげる。
人は無限のふところに入ってはじめて、無限の幸福を得られる。トンネルのあなたの、この純粋で無限なる楽しみを教えるのは、ただカトリックのみである。

(4)
(この章、続く)

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