天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

煉獄 フランシスコ=ウィタリ著 はしがき~第1章~第3章(全30章)

2015-06-06 05:16:43 | 煉獄 
はしがき

煉獄の存在及び煉獄の霊魂が祈祷、善業殊にミサ聖祭を以って助けらるるという教義は、公会議に於いて定義されたる公教の信条である。それで信者はこれを固く信ずるとともに煉獄の霊魂を助くること努むべきである。
本書は煉獄の存在の道理、その罰及び死者を助くる務等を略述してこれを無学な子どもや老人田舎人にまでも知らせ併せて古来煉獄の月と称せられる11月中の読み物としたい目的をもって、フランシスコ・ウイタリ Francisco Vitali の原著書 Le mois des ames du Purgatoire 中より小部分を抜き取り編み上げたものである。素より不文、浅学な著者の手になったものであるから、首尾不揃の点の多いは言うまでもないが、読者この書によっていくらか煉獄の霊魂に対する務めを行うに実せらるるところあれば幸甚である。

大正元年11月(1912年11月18日) 著者識

第1章
人は必ず一度死すべしとは、天主が定められ給うたのであるから、人は身の上に死ほど確かなことはない。他のわざわいや不幸はあるいは免れることもできるが、死ばかりは、どうしても免れることができない。死すべき時期が到来したなら、男女を問わず、年齢と身分がどうであるかにかかわらず、悲しんでも嘆いても、すべての者にわかれ、一切の物を捨てて、この世を去らねばなりません。

世界がはじまったときから世の終わりに至るまで、世に生まれ来た者の順次と死に赴くは、ちょうど大河の水が絶えずとうとうと流れてしばらくもとどまらぬような光景である。私たちも、いつしか、この流れに入らなければならぬはずである。それならば、死とは何であろうか。死とは、霊魂が肉身を離れこの世を去って先の世に行くのである。先の世には、天国と地獄と煉獄の3ケ所がある。天国とは、善人が天主の美善美徳を眺めて一心に天主を愛し、天主の寵愛をこうむり完全なる福楽を享けるところである。地獄とは、罪人が天主より棄てられて終わりなく言いつくしがたい苦しみを受けるところである。煉獄とは、小罪あるか、あるいは未だ罪の償いを果たさざる善人の霊魂が罪の償いを果たすまで苦しみを受けるところである。これ聖なるカトリック教会の教えるところで、信仰の箇条である。煉獄の存在は、天国地獄の存在と同じく確実なことである。このことは、信仰上からは言うまでもないが、聖書と道理に照らしても明瞭である。

旧約聖書に、ユダヤ国の大将マカベオが凱旋の後エルサレムの聖殿に黄金を献じて死者の救霊を祈ったことが載せられている。もし、死者の霊魂の行くところが天国と地獄ばかりであるなら、死者のために祈る必要はまったくない。このことは、暗に煉獄の存在を示したものである。また、新約聖書マタイの福音書に
「すべて人の子に対して「冒涜」の言葉を吐く者は許されない。それと、聖霊に対してこれを吐く者は、この世後の世共に許されないであろう。」と記されてある。この、いわゆる後の世とは、地獄をさしたものではない。なぜなら、地獄の罰は永遠で、許されるべきものではない。それで、この世後の世とは疑いなく煉獄を指したものである。またこれを道理の上から考えても、天主は正義な御者でいささかのけがれあるものでも、これをすぐに尊い天国に上げ給うことができない。さりとてまたそのお慈悲の上より考えれば、いささかのけがれしかない者を永遠の地獄に陥れたまうということもできない。このような者を煉獄で清めて後天国に昇らせ給うということは、最も正当なことである。またさらに煉獄の苦しみはどのようなものであるかといえば、歴代の聖人や博士等の教えによると、煉獄の苦しみは地獄の苦しみと同じである。ただ、異なるところは、地獄の苦しみは終わりがなく、煉獄の苦しみには終わりがあるというばかりである。

実話

昔、ある国に、深くセナの聖ベルナルディノに信心していた一人の青年があった。ふとしたことから重い病にかかり、種々の薬石も医者の治療もそのかいなく、ついに死亡した。聖人は彼の平素の信心に報いるために、天主に祈ってこれをよみがえらせた。しかし、この青年をよみがえらせる前に来世の状態を知らせるため、まず彼を地獄に連れてゆかれた。ここにはさかんに立ち上る黒煙と、えんえんと燃え立つ炎の渦が失望に満ち、歯噛みし、虚空をつかんで苦しみ悩む無数の悪人を容赦もなくのみこんでいるその光景の恐ろしいことをとても筆や言葉で述べることができない。これを見ただけでも身の毛がよだち、震いおののくほどであった。次に彼を天国へ導かれた。ここには星のように輝いた、数多の聖人等は、天使等と共に天主の美善美徳を眺め、妙なる快楽を享けらるるその光景は、どのような言葉をもってもこれを形容することができなかった。この世のどんな楽しみもこれに比べることはできなかった。ただ、恍惚として、これを眺めていた。
それから、彼を煉獄に伴われた。ここは、数多の善人の霊魂は、金銀がるつぼの中にあるような耐えがたい苦しみをもって練り清められている、その苦しみも、とてもこの世の苦しみに比較することができなかった。
そして彼らは青年の来たのを見て、その周囲に馳せ集まり、蘇生して世に帰ったならば、自分等の親族や友人に、この苦痛を知らせて、祈祷や善業をもって自分等を救うために力を尽くさせるように願った。
青年は蘇って、彼らの親兄弟や友人にこれを知らせ、霊魂を救うために祈りや善業を行わせた。(イエズス会司祭、フランシスコ・ベアルシオ所記)

祈願

主よ、願わくは、煉獄に苦しむ我らの親族恩人友人、また、私たちに害を加えた者の霊魂にも憐みを下し、彼らに終わりなき楽しみを与えたまえ。

第2章

天主はその全能をもって望みのままに、どんなところにおいても、霊魂をしてその償いのために受けるべき苦痛を凌しめたまうことができるのである。しかし、博士たちの説によると、地球の中心に絶えず怖ろしい火がどんどんと燃えているひとつの場所があって、これを煉獄という。ここに、小罪や償いの残った霊魂が、全く清浄になるまで大いなる苦痛を凌ぐのである。この場所を深い井戸、荒れた海、苦しみの地、暗闇の国などと称し、地獄に最も接近して、ほとんど地獄の一部分とでも言うべき場所である。

神学博士らのおしえによると、煉獄の苦痛も地獄の苦痛も同じである。ただ、異なるところは、一つは有限、一つは無限である。聖アウグスチヌスは、わらを焼く火も金を溶解する火も同じ火であると言い、聖グレゴリオはこれに加えて、この同じ火の中に悪人は罰せられ、善人はきよめられるのである、と言われた。地獄の火は天主に謀反し、わが主イエズス・キリストの御贖いをないがしろにした大罪人を罰するために設けられた火であるから、その恐ろしいことは言うまでもない。煉獄の火もこれと同じとあれば、その火に焼かれる苦痛はどれほどであろう。そして、煉獄に拘留される期限の長短は、罪と残る償いの大小によって定まるもので、天主の正義をもって定められた罰は一厘一毛までも残りなく果たさねばなりません。ですから、罪次第では、幾千年、万年あるいは世界の終わりまでもこの苦しみの場所に拘留させられるかもしれないのである。

天主の御あわれみ深いのも、正義をもってこのような怖ろしい監獄を設けて、常にその門戸が開放されてあるとおもえば、どうして恐れおそれ謹み慎んで罪を避けずにいられるでしょうか。また、このところに償いをする霊魂の苦痛の大いなることを考えるなら、どうしてあわれみをもよおし、同情を寄せ、これを救うために力を尽くさずにいられるでしょうか。

実話

アイルランドの司教マラキアスがある日、弟子たちとともに精神修養の談話中に、話はたまたま死のことに及んで、いつ、また、どこで死ぬことを望むかという問いが皆のあいだにおこった。

司教は、自分が死にたいと思うのは、場所としては、慈善業に最も熱心なクレルオの修道院である。時期としては、11月2日、死者の記念日であると言われた。
その望みはかなえられた。
司教はその後、エウセニオ教皇陛下に謁見のためにローマに赴き、クレルオの修道院に宿泊されたときににわかに重い病がおこり、もはや死期が迫ったことを悟り、左右に侍る信者や修道士らの熱心な祈りのうちに感謝の念に充ち天をあおぎ、
「これは永遠にわがやすみどころなり。われはここに住もう、そは、われ、これを望みたればなり」というダビドの詩篇を唱えながら、やすらかに息たえました。かつて、自分が善業や祈祷をもって、救った多いの善人の霊魂に歓迎され、天の幸福に到達された。その日は、ちょうど、11月2日、死せる信者の記念日であった。

祈願

ああ、全能の御父、われらをして煉獄の霊魂の苦痛の
いとも恐るべきを悟らしめ、今よりあえて罪をおかしてなんじの御心にそむくことなく、かえって、もろもろの善業を行い、もって己の罪を贖い、
また、死せる信者の霊魂を救うことを得せしめたまえ。

第3章  感覚の苦痛

預言者の言葉に、

「天主は火をもって聖人の罪悪を焼き、
 火をもって善人の欠点を補い
 その正義を顕わし給う」

とあります。

また、聖パウロは、コリント人に贈った書簡に、

「人もしその土台(イエズス・キリスト)の上に
 金、銀、宝石、木、草、ワラをもって建築したならば、
 面々の建物現れるであろう
 それは、主の日(審判の日)において明らかにされることになるであろう
 それは、火をもって顕わされ、
 火は、面々の建物がどのようなものであるかを試すであろう」

と言いました。

カトリックの多数の博士たちの説によれば、煉獄の火はこの世の火と同じ物質の火であって、霊魂がその火の中に在って、感覚の苦痛をも凌ぐのである。

すなわち、人がこの世においては身体の器官によって感じるところを、煉獄においては、天主の全能をもって、その器官によってではなく、直接火の苦痛を感じるのである。

煉獄の火は、決して想像や比喩の火ではなく、真実の火である。

この世界のどんなに烈しい火も、煉獄の火に比較するなら、ただ、影にすぎないのである。

ユダのマカベオが、ベアニトの城郭を焼き滅ぼした火も、ナブコドノソルが3少年を殺すために燃やした火も、ペンタポルを焼き尽くした火も煉獄の火に比較しては、ものの数でもない。

煉獄の火は、知恵分別を備えたかのよに、正義と公道に従ってその作用を為し、小罪と言っても同じ重さのものではないから、その中でも一層重い罪に対しては、一層激しく燃え、軽い罪に対しては緩やかに燃え、罰すべきはずのものは一つも残さず公平無私に罰するのである。

聖ベルナルドは、説教の中で、

「死ぬ日に清められていない者は、最も不幸な者である。
 それは、死後、激しい火をもって清めなれなければならない、
 その火の恐ろしいこと、苦しいことは
 到底この世において想像することができない」

と言われた。

だから、私たちはウカウカして罪の償いをすることを怠ったりせず、
小罪、特に、小罪を知りつつ犯したりせず、
未来に恐ろしい罰を残さぬように努めねばなりません。

実話

聖テレジアのパウロという修道女がいました。
ある土曜日に、煉獄の霊魂のために熱心に祈祷をしているうちに、
幻影となって聖マリアが天使をしたがえて煉獄に下り、
数多い霊魂を救いだしておられるのを見た。
救い出された霊魂たちは、さも嬉しそうな有様で、
讃美と喜びの歌を歌いながら天に昇っていた。

煉獄に残留された霊魂たちは、炎々と燃える火の中に苦しみつつ
いかにも悲しそうに泣いている。
その声は、まことにあわれであった。

また、その霊魂たちが同じ火の中に苦しんでいても、
その苦痛の程度が同じではないのをみて、そのことを不思議に思い、
自分の守護の天使にその理由を尋ねた。

天使は、これに答えて、
「およそ、人の未来において、受ける賞罰の大小は、
 この世において行った善悪の大小によるものであるから、
 煉獄の苦痛の代償も、過失の性質とその程度によって定まるのである。
 たとえば、世にあって名聞や虚栄に沈酔していたものは、辱めをもて苦しめられ
 情欲に従っていたものは、勢いの盛んな火によって焼かれるである。
 煉獄は、天主の御憐みの顕われる場所ではない、
 厳しく天主の正義を示し給う所である。
 もし、人が、この厳しい懲罰をのがれようと思ったら、
 努めて罪を避けなければならない」
と言われた。

祈願

主よ、死せる信者の霊魂を憐み、
彼らに終りなき安息を得させてください。
また、主の摂理によって、
私が直面するすべての苦難を甘んじ受けることができるようにしてください。
そして
煉獄の苦しい罰を免れることができるようにしてください。

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