天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

心戦 第60章ー第66章 ロレンツォ=スクポリ著

2015-07-29 05:04:32 | 心戦 ロレンツォ=スクポリ著
スクポリ「心戦」第60章 良心の究明について

良心を究明する場合に、3つの事柄を考察しなければならない。
1 今日の罪過
2 その原因
3 これと戦うため、またその反対の徳に達しようとする意向と熱心
がこれである。

1 罪に関しては「罪に傷ついたとき、私どものとるべき道」(第26章)に述べたことを守ればよい。
2 罪の原因に関しては、どこまでもこれを反撃して、その根絶に努力すべきである。
3 これを実行しようとし、徳を獲得しようとする意向に関しては、あなた自身をたのまず、神を信頼して祈り、欠点を憎み、その逆をいく徳行を、あこがれ望み、種々の行為をもって、堅めるようにしなければならない。
すでに獲得した勝利や、行ったわざに対しては、「あやしいものである」とみなすべきである。
こればかりではなく、あなたはこれに関して、あまり考えない方がいいと、私は忠言したい。
このとき、少なくとも虚栄と傲慢のような、なにかの動機が、ひそかに入り込む危険を避けることができないからである。
であるから、なにごとも、、、それがいかなる種類のものであろうとも、、、自分のした善業は、神のご仁慈にゆだねてしまい、むしろあなたの思念を、今後果たすために残されている事柄に導くがよい。
それから当日、神があなたに与え給うた賜物と恵みに対して感謝すべきであるが、それにはまず、神を万善の源と認め、このように多くの可視的、かつ、さらに無数の見えない敵から救い給い、善念を起こさせ、徳を行う機会を与え給い、そのた、あなたのまだ知らない数多くの恩恵をこうむったことを感謝せよ。


スクポリ「心戦」第61章 死ぬまで反撃を加えて、この心戦を続けなければならない

心戦に重要な条件はいろいろあるが、そのうちの第一のものは堅忍である。
これをもって、常に私どもの欲情と戦うように注意しなければならない。欲情は現世において、あたかも年中発芽する悪い草のようなものであって、絶対に死滅しないからである。
この心戦は生命とともにでなければ、終わらないものであるから、私どもの絶対にのがれられないものである。それで戦いたくないという人は、捕虜になるか、さもなければ死ぬよりほかはない。
そればかりではない。私どもの敵は、絶えず私どもを憎悪するから、平和や休戦など全く望むことができないのである。さらに、かれらは友好を求めて来る者を、いっそう苛酷に滅ぼすのが常である。
しかし、かれらの勢力や数に恐れをなしてはならない。なぜならば、負けたくないものばかりが、この戦いで敗北しえないからである。実に、神たる総司令官の手中に、敵軍の運命は握られているのである。私どもは、この神の栄光のために、戦わなければならない。神はあなたの敗北を許し給わず、むしろあなたのために武器をとって立ち給う。もし、あなたさえ神と一致し、おおしく戦い、信頼を自分自身に置かず、神の全能と全善とにおくならば、いかなる敵よりも強いものとして、あなたい勝利の冠を給うであろう。
しかし、神がたとえ、いますぐあなたに勝利の冠を与えたまわないとしても、決して失望してはならない。あなたさえ、もし、忠実に捨て身になって戦えば、神はあなたの遭遇するいかなる逆運をも、また、勝利が遠ざかるように見えたり、敗北をきたすように見えることでも、、、それがどんな種類のものであろうとも、、、あなたの利益に転換させ給うであろうということを、確証するであろうから。そしてこれは、あなたにとっても勇ましく戦うよう鼓舞してくれる真理なのである。
読者よ、あなたのために世に打ち勝ち、身を犠牲に供し給うた天の総司令官に従って歩みなさい。鋭意この戦いに熱中し、あなたの敵を全滅させるために努力しなさい。わずか一人の敵でも生き残らせるならば、剣を眼中に入れたと同じく、また、槍を横腹に突き刺されたようになるであろう。
したがって、あなたの光栄ある勝利の道を、妨害することになるであろう。


スクポリ「心戦」第62章 臨終に際して、襲撃してくる敵に対抗する準備方法
人が世にある間は、絶えまない戦闘に臨んでいるのではあるが、重要なそして最後の勝負を決する戦いは、まさに生から死に移ろうとする臨終の際である。
ゆえに、この瞬間に倒れるものは、もはや起き上がる道はない。
であるから正しく準備するために、あなたのなすべき道は、あなたに与えられた現在の瞬間に勇ましく戦うことである。
なぜならば、生前よく戦ったものは、すでによく習慣づけられているために、臨終に際しても容易に勝利を得るからである。
さらにまた、しばしば死ということについて真剣に考えるがよい。
こうすれば死がくるとき、これを恐れること少なく、あなたの心は何者にも妨げられずに自由となり、戦うに充分準備が整っている。
世人はこれを考えることを避ける。
その理由は、浮き世の享楽が妨げられることを恐れるからである。すなわち、かれらの立脚点からいって、また愛着している点からいって、いつかこれから離れなければならないということが、非常な苦痛と感じるからである。このようにしてかれらのよこしまな愛着は、決して薄らがない。むしろますます、強力となる。それがために現世と深く愛するものとに別れを告げるとき、言語に絶した苦痛をおぼえる。しかもその苦痛は、愉楽の長短の期間に応じて深刻さをきわめるのである。
なお、この大切な準備をいっそう完全にするために、ときどきあなたが、ひとりで、誰一人助けてくれる人もなく、いま現に死の苦しみに置かれていると想像するがよい。そして、次の瞬間に来る事柄、、、すなわち、そのとき苦しむであろう境遇、、、を思い浮かべよ。
そして、次章で私の与える方法によく目を通し、これをあなたの臨終の苦しみに際して、いっそうよく役立たせるがよい。
ただの一度しか行えない決闘には、前によく練習しておく必要がある。それによって、とりかえしのつかない過誤を決しておかさないようにするのである。


スクポリ「心戦」第63章 臨終の際にこうむる敵の襲撃について 信仰の誘惑、及びこれを防御する方法
臨終の際、私どもの敵が、普通、私どもを襲うもっとも重要な、かつもっとも危険な誘惑が4つある。
1 信仰を誘惑すること
2 失望させること
3 虚栄をいだかせること
4 悪魔が光の天使に偽装して、種々な迷いを起こさせること
これである。
第一の襲撃。
もし、悪魔が偽りの論証を掲げて、あなたを誘いはじめるとき、即座にあなたは知識より意志に逃避して、次のように言いなさい。
「サタン退け!虚偽の父よ!私は聞く耳をもたない。カトリック教会の教えるところを信じるだけで結構である」
こうして、たとえそれが信仰問題についての思念であっても、できるだけこれに気をとめてはならない。いかにそれが味方らしく見えても、これを悪魔があなたと紛争関係を結ぶ誘因であると解すべきである。
しかし、このような観念から思念を撤回しようとしても、間にあわない場合には、悪魔がいかなる理由をもちだしても、また聖書の句を引用してきても、毅然たる態度で一歩もこれにゆずってはならない。なぜならば、たとえあなたによく、かつ明々白々の事柄にみえても、提示される文句全部が、聖書の章句の主要部を切り取った断片であるか、あるいは悪用か、あるいは曲解かのいずれかであるからである。
悪賢いヘビ(悪魔)が、もしカトリック教会は何を信じるのかと尋ねても、決して答えてはいけない。かえって悪魔の欺瞞と、悪魔がいかに、ことばじりをとらえようとするかを考え、胸に信仰をいっそういきいきと燃やすほうがよい。もし悪魔に侮辱を加えて激怒させようと思うならば、カトリック教会は真理を信じるのであると答えればよい。もしまた、その真理とは何であるかと、悪魔が反問するならば、
「その真理とは、カトリック教会の信じるところのものだ」
と答えてやればよい。
とにかく、あなたの心を常に十字架に釘づけられたキリストに向け、こういうべきである。

「わが神、わがつくり主、わが救い主よ、
 すみやかにわたしを助けたまえ。
 わたしから離れないでください。
 わたしを、主の聖なるカトリック教会の信仰の真理からはずれさせないでください。
 わたしは、主の聖寵によって、この教会に誕生したのですから、主の光栄のために、わたしの現世の生命を終わらせてください。」



スクポリ「心戦」第64章 失望の誘惑とその対抗方法
第2の襲撃。悪魔は失望によって、全く私どもを打ち倒そうと努力する。私どもの罪を思い出させて恐怖を起こさせ、もって失望のふちに投げ込むのである。
このような危険に際しては、次の原則を確実なものとして堅く持つべきである。
罪の追憶も、(その結果、謙遜と、天主にそむいたことの悲嘆と、天主の仁慈への信頼とを起こさせるものである限り)それは天主の聖寵から出たものであって、あなたの救霊に役立つのだということ。
しかし、この罪の追憶が、もし、不安、懐疑を生じさせ、意気を沈ませ、地獄の苦罰を受けなければならないとか、もうたすかる時間も、見込みもないであろう、というような確信をあなたに起こさせるとかして、これを真実らしく示すならば、そのとき、この中に陰険な悪魔の作用があると認識すべきであろう。それで、あのいっそうへりくだって、天主に信頼せよ。このようにしてはじめて敵の武器をもって敵にうち勝ち、かつ天主に光栄を帰すことになるであろう。
罪を追憶するごとに、必ず天主に背いたという理由で悲しめ。ただ主イエズスキリストの御受難の功徳を信頼して悲しみ、罪の赦しを祈り求めなければならない。
さらになお、あなたに言っておく。たとえ天主が「もはや、おまえは、天主に属する小羊ではない」とおっしゃるように思えても、それがために決して天主への信頼を忘れてはならない。むしろ、へりくだって、いうべきであろう。

「わが天主よ、わたしの罪のためにわたしを棄てられるのは当然のことです。
 しかしわたしは、主のあわれみのゆえに、必ずわたしを許してくださるという、さらに大いなる信頼をもっているのです。
 ですから、このみすぼらしい、主に造られた人間を救ってくださることをお願い申し上げます。
 わたしはもとより、悪のために地獄に罰せられるべきものなのです。
 しかし、わたしは、主の御血の価(あたい)をもって、あがなわれたものなのです。
 ああ、わたしの救い主よ、主の栄光のためにも、わたしは、わたしが救われることを欲します。
 主の限りない御仁慈によりたのみ、御手にわたしのすべてを委ねます。
 主だけが、わたしの主でいらっしゃるのですから、み旨のままにわたしをはからってください。
 たとえ、主はわたしを殺されたとしても、わたしの生きた信仰は、主にとどまることを望んでやまないのです。」
と。


スクポリ「心戦」第65章 虚栄心の誘惑について
第3の襲撃は、虚栄及び自負心からくる。この点に対してあなたは絶対に譲歩してはならない。どんなぐあいに将来それがなるであろうとも、決してあなた自身に、あるいはあなたの業に誇りを求めてはならない。あなたの喜悦することは、ただ神のみ、神の御慈悲、イエズスキリストの御生涯と御苦難のみである。

臨終の最後の一息まで、あなた自身をますますさげすめ。そして、あなたのした善業を想起するとしても、神こそすべての創始者であると、承諾せよ。神の御助けを願うのもよいが、どれほど多く、大きな戦いに勝利を得たとしても、それを鼻にかけて願うのはよくない。

いつもうやうやしくおそれかしこみ、あなたの神がその翼のかげにあなたを収容し給わなかったとしたならば、あなたの配慮のことごとくが徒労に帰したであろうと、真剣に告白しなければならない。この御保護こそ、あなたが唯一に希望すべきものなのである。

この訓戒を守るならば、あなたは敵に負けるようなことは決してない。このようにして、あなたは天のエルサレム(天国)に嬉々として、凱旋する道を開くべきである。




第66章 臨終の瞬間に襲われる迷いと偽現について
がんこに妨害する敵(悪魔)は、私どもを幻惑し、光明の天使に変容して襲ってくる。
このとき、はっきり自分が無力であることを認識し、動かず、大胆に言ってのけなさい。

「不吉なやつ!
 暗黒界に引き返せ!
 私は出現を受けるに足りない身である。
 私の望みはただ一つ、童貞聖マリア、聖ヨゼフ、諸聖人のとりなしをもって、わが主イエズスのあわれみを得ること、
 これだけである」

たとえ、あなたには、ほとんど明らかなしるしとして天から来たらしく見えても、力の及ぶ限りこれを拒絶し、追い払いなさい。
この拒絶が天主に背くことになりはしないかと心配する必要はない。
なんとなれば、みずから資格なきものとして、へりくだる基礎をもっているからである。
これがもし、天主から出現したものであったならば、その後もますます明白な出現となってくるのであるから、
あなたにとって、結局なにも損害をこうむることなしに済むことになるでしょう。
それから、人間に聖寵を与える天主は、謙遜の行為に対して、決して聖寵を取り上げなさることはないのである。
臨終の際に悪魔どもが私どもに対抗して、とる武器はたいていこのようなものである。
このほか、悪魔は各個人の弱点をよく知り抜いているから、各自独自の性癖に応じて誘惑する。
それで、私どもの霊魂の決戦の時が接近する前に、すでに欲情をいっそう抑制して身を守り、よく武装し、勇敢に闘わなければならない。
こうしてこそ、何ごとをも為し遂げる時間がもはや切れた臨終の瞬間に、たやすく勝利を得るに至るのである。

スクポリ著 霊魂の戦い(心戦) 第1章ー第2章ー第3章ー第4章ー第5章ー第6章

2015-01-07 19:43:55 | 心戦 ロレンツォ=スクポリ著
第一章

キリスト教における完徳について。
完徳とはどのようなものであるのでしょうか。
完徳を求めるには、「霊魂の戦い(精神上の闘い)」が必要です。
この戦いに入るためには、4つの武器が必要です。

キリスト信者が、ぜひ、しなければいけないことのうち、
最も高尚で最も偉大なことは、確実に完徳に達することです。

天におられる天主に近づき、天主とほとんど一心同体となることです。

 もし、私たちが完徳に達することを望むなら、
まず第一に完徳、すなわち正真正銘の精神的生活、
いいかえるならば霊的生活とはどのようなものであるか、
ということを知る必要があります。

多くの人は、聖人方の所業を目にしても、十分に考えたりしません。

完徳とは、くらしかたを厳しくし、五感を制し、毛衣(シリス)をまとい、
自身に鞭打ち、徹夜し、断食や大斎・小斎を行い、
その他これに類する難行苦行を行うことにあると思うのです。

 また、ある人々、特に婦人などは、次のようであります。

祈祷を多く唱え、ミサに幾度も通い、
朝夕の日課になっている長い祈祷を行い、
しばしば聖堂を訪問し、規定の通り欠かさず御聖体拝領をしさえすれば、
完徳の高い度合いに達したかのように勘違いする人がいます。

 また、次のような考えをしている人もいます。
これは、修道者の服を着て聖なる生活を行っている人々の中にも多くみられます。
完徳とは、絶えず日課の祈祷に従事し、沈黙し、孤独を愛し、
修道会の規則を厳格に守ることにあると思うのです。

 このように完徳については、十人十色で、
各自、それぞれ違った理想を持っているのです。

 しかしながら、これらみな間違いなのです。
なるほど、以上の修行は、完徳の精神を求める方法であることに間違いありません。
また、時には、この精神の結果であるとも言えるでしょう。
しかしながら、これらの勤めをもって
完徳及びキリスト教の「まことの」精神であるとみなしてはいけません。

このように完徳については、十人十色で、
各自、それぞれ違った理想を持っているのです。

 しかしながら、これらみな間違いなのです。
なるほど、以上の修行は、完徳の精神を求める方法であることに
間違いありません。
また、時には、この精神の結果であるとも言えるでしょう。

しかしながら、これらの勤めをもって
完徳及びキリスト教の「まことの」精神であると
みなしてはいけません。
 
 繰り返して申し上げます。
以上の修行は、完徳の精神に達するため、極めて有力な方法です。
すなわち、私たちの内に固く凝り固まっている悪い心と
私たちの浅ましさに対抗し、
私たちに力を与え、勢いを与えるためには、効果があるものです。

私たち人類の敵である悪魔の襲撃、
あるいは悪魔の「はかりごと」に対しても、
わたしたちを守るものです。

すべての天主に奉献された者、
つまり天主に仕えることに自身を委ねた者は、
とりわけその初期において、
必要な精神上の助けを得ることができるものです。

でも、それは、間違いなく、また丁度よい程度に、
以上の修行を用いる者に限定されたことなのです。
 
 

そのうえ、またその修行は、完徳の精神の結果であると
言われるのは、
どのような人においてそれが見られるかというと、
真実の霊魂、言い換えるならば霊的生活を
至上のものとして生きる人において見られるのです。

そのような人が自分の肉身を苦しめるのは、
それは天主に背いたからです。

また、天主に仕えるときに
どこまでもへりくだって謙遜を示すべきだからです。

また、沈黙を愛し、孤独な生活を送っているのは、
天主のみこころにかなわないことを避け、
かつ、天国のことを容易に考えられるからです。

彼らがひたすら礼拝を行い、信心業にいそしみ、
祈祷し、
わが主の生涯及び苦難について黙想したりしているのも、
好奇心からのものでもなければ、
感情的嗜好を満足させるためでもありません。

全ては、自分の心の中にもとからある悪い心と、
天主の慈悲限りない慈愛を
ますます深く悟るのを目的としているのであります。

我が主キリストが、十字架を肩に担ぎ、
己に克つ道をお歩みになったことを
慕い申し上げ、そのために天主を愛し、
自分を憎む心をますます篤くしようと心がけているのです。

頻繁に告解し、御聖体を拝領するのも、
天主の栄光をほめたたえるため、
自分をなお一層親密に天主と一致させるため、また、
救霊の敵に反抗できる新勢力をさらに大きくするためにするのです。

 さて、これらの外面的な業ばかりで完徳の基礎としている人は
どのような状況になるかを見てご覧なさい。

 なるほど、これらの業は本当に尊いものに間違いありません。
でも、もし、その業を間違って用いるならば、
その結果として、
これに身を委ねている人は、
罪よりもなお一層自分の滅亡の機会となる場合があります。

それは、どうしてでしょうか?

それは、ほかでもありません。
もっぱらこれらの業ばかりを行いながら、
自分の心を自然の傾きと
悪魔のはかりごとに任せて置くからであります。

悪魔は、すでに、これらの人が正道から外れているのを見て、
依然としてそのような
信心の業を楽しませておくばかりではありません

なお一層空想の世界を広め、
天国の福楽の見込みがあると思わせるようにしておくのです。

また、これらの人は、自分はすでに天使の位置に達したかのように、
現に心の中に天主を感じているかのように思わせておくのです。

そのような心持ちでありますから、霊魂はむなしい黙想に流れやすく、
珍しい黙想を楽しみにして、自分自身は世間全てのものを超越して、
すでに第三の天国にでも昇って楽しんでいるように思っているのです。
 
でも、そのようなひとの言動を見れば、
素早くその迷いが現れるものです。
まだまだその人の求めているらしい完徳には
遠くかけ離れていることが明らかにわかるのです。

 論より証拠です。
そのような人は、いつどこにおいても、
自分を他人より大切なものだと思い、
ただ、自分の利益を求め、
また、どこまでもその強情な意志を主張し、
自分の意見にのみ従い、自分自身の欠点には盲目であって、
他人の過失がちょっとでもその言語挙動に現れたならば、
綿密に指摘してひどい批評をするのです。

 もし、彼らの、それほど大事な、
是非とも保とうとしている名誉に少しでも抵触したならば。
あるいは、彼らが今までに行った業を
「やめてください」といい、
これに従わせようとでもしたならば。
たちまち、わけもなく心を乱し、
心配するようになるのであります。

 そればかりではありません。
もし、天主が、病苦困難を彼らに下し、
そのありがたい思し召しによって
彼らに迫害でも来すことがあるならば、
その迫害は、試金石のようなものであって、
天主の下僕の忠誠を試すものです。
それをもって、
天主は彼らに自分自身がどのようなものであるかをお教えになり、
完徳の道に導きたいとの目的であります。
でも、彼らは、病苦困難に陥るとたちまち、
その主義の実に何も役に立たないことを現し、
その傲慢による心の傷と浅ましさを現すのであります。
彼らの身にどんな困難がきても、
彼らは天主の清い御手の下に堪え忍び、
謙遜に従うことをしません。
天主の公平な御摂理は、
たとえ人間には理解できないことであっても、
その下に身を屈めて従うのが妥当であります。

あの、天主の御子キリストが、
卑しめられて苦難を忍ばれた模範に習い、
他人の前に屈服すべきはずであります。
実は、迫害者を見つけたならば、
親しい友達と思うべきなのです。

天主の仁愛が私たちを助けて、
自分に勝ち、完徳、救霊の道に進ませてくださるのだと、
理解する道に至るべきです。

天主の おぼし召しとは、まさにこのことです。
でも、そのような人々は、気の毒なことに、
これに納得することができないのです。


そうすれば、結局どうなるかというと、
彼らは本当に大きな危険に遭遇しているのです。
自分の本心については盲目で、
自分自身と自分が行っている信心の外面に自分で納得して、
自分がすでに完徳の最も高い位にでも達したかのように
思っています。

そのように 自分が高ぶって、
他人の上にあると自分で思いこむために、
彼らを正しい心に立ち返らせるには、
慈悲である天主の不思議なお助けがなければ、
ほとんど不可能になってしまうのです。


しかし、このような高尚な完徳に達するには、
常に自分に逆らうか、
人間の人性や自然の性癖に対して勇ましく闘い、
これをすべて討ち滅ぼすように努めなければなりません。

ですから、速やかに決心して
闘いの準備をせねばならないのです。
なぜなら、勇ましく闘う者だけが、
勝利の冠を得ることができるのですから。

 事実、この勝利の冠は、
他の冠より得難いものに間違いありません。
すなわち、
私たちは自分と自分の心に対して闘うのですから、
自分に対して自ら敵となるのです。
しかしながらこの困難があってこそ、
私たちの勝利に名誉が加わるのです。
天主の御前において一層価値のあることとなるわけです。

 くれぐれも心得なければならないことは、
乱れた情欲、人間的情愛、自然の性癖などを
すべて滅ぼすために一生懸命がんばるのは、
自分のみだらな心の性癖を改めることを怠りながら、
ただ、我が身に激しくムチ打って血を流したり、
厳しい断食をしたり、
あるいは数千人を改心させるよりも
なお一層天主の御心にかなうということです。

 なるほど、人々の改心は、
一つの邪欲を抑えることよりも
天主の御前において価値があることは間違いありません。
でも、わたしたち各自にとっては、
天主が私たちに対して厳密に命じられたことをおのぞみになり、
それを行うこと以上に大切なことはないのです。

 また、確かに、情欲を抑えるために力を尽くすのは、
この情欲をそのままにしておきながら
何かの業を行うよりも天主のみこころにかなうものであります。

 ここまでのことで、
すでに完徳がどのようなものであるかがわかったなら、
完徳を求めるためには自分と自分の心に
いつも激しい闘いをしなければいけないということが
わかったでしょう。
この精神上の闘いに勝利を得て、
凱旋の冠を戴くために、
必要なことが4つあります。
この4つは、必要不可欠な護身用の武器のようなものです。

第一、自分をあてにしないこと、

第二、天主を頼みにすること、

第三、知識と意志を尽くすこと、

第四、お祈りに励むことであります。

これから、天主の御助けを乞いながら
この4つの条件をひとつひとつ簡単に述べていくつもりです。


第2章 自分をあてにしないこと

自分をあてにしないことは、霊魂の戦いにおいてもっとも重要です。
これがなければ、単に私たちが望む勝利が得られないばかりではありません。
そればかりではなく、わたしたちの情欲の至って弱いものにすら
打ち勝つことができないのです。

しっかりこれを認めて、この理屈をわたしたちの心に深く刻み込まなければなりません。
悲しいことに、わたしたちの本性が腐敗しておりますから、
ややもすれば自尊心という妄想が起こり、
どうもこれに陥りやすいのです。

実際自分自身はとるに足らない者であるのに、それでもなお自分自身を
すばらしいと思いこんで、リキみ、わけもなく自分の力をあてにして
空威張りに威張っているのです。

不幸なことに、この欠点は 自分ではそうそう気づきません。

神がわたしたちに望み、また、お喜びになることは、
わたしたちが正直に、神だけがすべての善の源であることを認め
神によらぬ聖寵・聖徳がないことを認めることです。
また、わたしたち本来の性質では神の御心にかなう善い思いは
一つも起こすことができないことを認めることです。

これによって考えてみれば、自分をすばらしいと思う考えは
どれほど神の御意志に背くものであるか、おのずから
明らかです。

自分をあてにしないことは、霊的完徳に、極めて大切なもので
神の全知から派生する恩恵といわねばなりません。
神が、ご自分の愛する者に、これをおあたえになるとき、
ある者には聖なる感動をもって与え、ある者にはつらい災難
あるいは激しくてほとんど打ち勝つことのできないほどの誘惑をもって
お与えになり、また、時には神のみが御存じの秘密の方法をもって
お与えになるときがあります。

しかしながら、神は、わたしたちの側からもできるだけのことをして
尽してほしいとお望みになりますから、ここに仁慈な神が
私たちに対して採用なさった、わたしたちが自由に選ぶことのできる
4つの方法を述べたいと思います。

これは、自分をあてにしないことに至る最も適当な方法です。

第1の方法

自分と自分の心に立ち入り、自分の身のいやしいことや
自分の身のむなしいこと、
いまだに自分自身の力ではとても天国に行くに充分なほどの事業はできないことを
認めること。

第2の方法

自分をあてにしないことは、神のたまものであります。だから、これを求めるために、
けんそん かつ 熱心な祈りを行い、しばしば天主に願うことです。
また、このためには、わたしたちは、単にこのたまものを持っていないということを
心得るだけではなく、とても私たち自身ではこれを求めることができない
のを自ら自認しなければなりません。そのために、神の御前にたびたびすすみでて
この尊いたまものは、ただ、仁慈なる神のみに由来するものであることを確信し
辛抱してこれを神がわたしたちにおあたえくださるまで待たなければなりません。
そうすれば、最終的にはかならず
この賜物を得るようになります。

第3の方法は、

自分を恐れ、自分一人の意見、罪に流れやすい傾向、および反抗できないほどの周囲の敵に対して恐怖の念を抱くことであります。その敵が戦いに熟達していること、
敵の無数の謀計などは、徳の道にまで巧妙に設けおかれているのです。
これは、本当におそろしいことです。
ですから、絶えずこれを祈らなければならないのです。

第4の方法は

不幸なことに、なにか過ちのあったときに すぐに自分の本心に立ち返り、
深く自分の身が弱いことを考え、これを心にしみこませることです。
神が私たちに、過ちに陥ることをお許しになるのは、私たちに 明らかな教えを
くださり、悟らせるためです。
神の啓示によってわたしたちはますますいっそう明らかに
わたしたちが本当にあさましい者であることを知り、自分を理解して
自分を軽んじ、これでは他人が自分を軽蔑するのも無理はないと承知するように
なるのです。このような正直な志がなければ、
徳となるほどの 自分をあてにしないこと の域に達することはできません。
なぜなら、自分をあてにしない境地に至る基礎は、真実の謙遜と
自分が弱いことを実地経験した上での心得にあるのですから。

このように、どんな人でも、超自然的な光明と神の真理とに合致したいと望む者は必ず、まず、自分のことを知らなければなりません。傲慢な人は、自分の失敗の経験によって自分自身のことを理解する、というのが普通です。神は、いわゆる御摂理により、彼らが自分で防ぐことができると思っている過ちに陥いらせなさるので、彼らはこのような方法で自分が何者であるかを心得るようになります。そして最終的には、どんな場合においても自分をあてにしないことを学ぶのです。

 しかし、神がこの非常手段をお使いになるのは、ただ、他の最も良い手段に効果のなかった場合です。そのうえで神が彼らを過ちに陥らせなさるのは、その人の傲慢の程度に応じてのことです。ですから全く傲慢のない者、例えるならば至聖なる童貞聖マリアのような方には、全く過ちに陥る危険はないのです。

 そうであるとすれば、もし、私たちに何か過ちがあったならば、直ちににへりくだって自分の弱いことを認め、完全に自分をあてにする心を取り除き、自分自身を明らかに知るために必要な光明を、神に向かってしきりに願わなければなりません。私たちが今後、このような過ちに陥りたくないと願うならば、ましてや、これより重大な過ちに陥りたくないと願うならば、ぜひともそうしなければならないのです。

第3章 神をたのみとすること

自分をあてにしないことが霊魂の戦いにおいて極めて必要であることは、すでに述べたとおりです。しかし、いくら必要であっても、それだけでは足りないのです。それでは、なんとか敵に勝利を得させずに逃げるだけのことですから、自分をあてにしないことと同時に、神に信頼すること、すなわち、神だけを頼りにすることが必要になります。すなわちすべてのお恵みも、聖寵の助けも、勝利も、すべて神に由来するものであることを心得、これを希望して待つべきなのです。本当に、わたしたちは、何者でもない者なのですから、自分の浅ましさにより、失墜する以外の道がないので、自分をあてにする心を完全に取り去らねばならないのです。しかし、もし、厚く神に信頼して、それをもって心を固め、その助けを受けるようにさえすれば、その助けによってきっと大勝利を得るに違いないのです。この信頼を求めるために、4つの方法があります。
第一
神にこれを願わなければなりません
第二
信仰の眼をもって、神は全知全能でいらっしゃるために、何事も不可能なことはなく、成就しづらいこともない、ということを考えます。また、限りない仁愛でいらっしゃいます。ですから、わたしたちの霊魂の状態及びわたしたち自身に打ち勝つために必要なものは、いつでも、惜しまずにすぐにお与えになることをよく覚えておかなければなりません。つまり、信頼をもって、天主の腕にすがりつきさえすればよいのです。本当に善き牧者でいらっしゃるイエズス・キリストは、33年間も、その迷える羊を求めるために奔走され、叫び声を高めて羊を呼んだためにキリストの御声が枯れたほどなのです。いばらだらけの道をたどり、羊を求めるために御血を流し、御命を捨てられたほどではありませんか。そうであるならば、迷える羊が再び帰ってきて、キリストの御教えを守りたいと、弱いながらも主の御声に従う望みをおこして、主に叫び、しきりに祈るならば、どうしてその者のうえに生命を与えるという眼をかけ、その者の声に耳を傾け、主の肩にその者を担っていただいて、天国におられる天使たちとともに喜ぶ ということをしない、なんてことがありえるでしょうか?

福音書を読むと、私たちの主は、いったん紛失したドラクマをしきりに探す女や、身上を潰した放蕩息子を待ち受ける慈悲深い父や、また、99匹の羊を置いて1匹の迷える羊をしきりに探す牧者などのたとえ話を用いています。また、主が、目の見えない罪人や、耳の聞こえない罪人を探すために奔走なさることが書かれてあります。主は、あふれるばかりの愛で、勇んで、このような者を見つけるまで探されるのです。

そうであるならば、迷える羊がさけび声をあげて牧者をお呼びするときに、聞き入れられないなどということがあり得るでしょうか。

神はいつも、わたしたちの心の扉をたたいて、中に入りたいと望んでおられるのです。また、そこで神秘の宴を開いて、天主の恩寵を分け与えようと望んでおられるのです。そうであるなら、私たちのほうから進んで心の戸を開き、天主が来てくださることを迎えようとするならば、どうして、これを断り、私たちの招待に応じてくださらないなどということがあり得るでしょうか。

第3の、信頼を求める方法は、聖書の真理について考えることです。聖書のあちらこちらに「神に信頼を置く者は、永遠に辱められることはない」と書かれていることをたびたび思い起こさなければなりません。

第4 自分をあてにしないと同時に神を信頼することを可能にする方法とは次のとおりです。

わたしたちが、何か、大切なことをはじめるとき、たとえば戦いをはじめるとき、あるいは、自分自身を勝利へと導きたいときには、その、最後の決定をする前に、自分が弱いことを考えて、全く自分をあてにしてはなりません。神を全知全能全善をたよりにしなければなりません。このような心構えをもって、「さあ、勇ましく闘おう」と決心するのです。このようにして武装し、この後に記す祈りによって身を固め、そのうえで頼もしく雄々しく闘って打ち勝たなくてはなりません。

もし、わたしたちが、忠実にこの順序を守らなかったとしたら。たとえ、何事も神を信頼して行っているように思われても、おそらくそれは、重大な誤りになるでしょう。このように、自分をあてにする心は人生において自然なことで、きわめて巧妙なものですから、わたしたち自身は、まったく自分をあてにせず、神に信頼しているという心のうちにも、自分をあてにする心が隠れているものなのです。

この点に、できる限り注意して、自分をあてにする心を取り去り、神を信頼する心によってのみ物事を行おうとするためには、まず、神の万能を考える前に、自分の弱さを反省し、いったん、この2つを考えた後にのみ、物事を行うようにせねばなりません。

第4章

自分をあてにせず、神に信頼して物事を行っているか、そうでないかの見極め方


自分をあてにする人は、しばしば、
「わたしは、もう、すでに、自分自身をあてに、していません。
 わたしは、神様を信頼しています」

と、自分でも思いこんでいる場合があります。

でも、それは間違いです。その証拠は、その人が、何か、過ちに陥ったときの心持において現れます。

もし、何か過ちに陥ったときには非常に憂鬱になり、また、心配して、ほとんど失望の淵に沈んでしまうとします。
そして、もはや自分は、徳に進むことも、何らかの善をおこなうこともできないと思うならば、それは、すなわち、神よりも自分をあてにしているというしるしです。
また、その憂いや失望がますます激しくなるとすれば、それは、神に信頼することが少なくて、自分をあてにすることが、いよいよ、ますます深かったのです。
これに反して、少しも自分をあてにせず、完全な信頼を神に置く人は、自分が過ちに陥っても、それほど驚いたりしません。
したがって、憂い悲しんだりすることもありませんし、過度に嘆いたりもしないのです。

なぜなら、その落ち度は、自分が弱いことと、神に信頼するのが少なかったことが原因であったことを知っているからです。
それによって、ますます自分をあてにせず、なおいっそう深い謙遜をもって神に信頼するようになります。
まず第一に憎むものは、罪、また、その落ち度の原因となった邪欲であって、神にそむいたことを深く悔み悲しむといっても、この悲しみは心を乱さず穏やかです。
このような心持では、なお一層勇気をもって、なお一層決心を固めながらその救霊の事業を継続し、死にいたるまで、その敵を追及するのです。

そのような霊的生活を送りつつ、たまたま何か過ちに陥るとすぐに失望して、もはや、この世に安心して生きていられない、生きていたくもない、などと思う人々に、これらのことをよく考えてもらいたいのです。
このような人々は、自分を愛する心から起こる心配に耐えられなくなって、それを取り除くために、ただちに自分の指導師のところに行くのです。
でも、それよりは、むしろ、悔い改めの秘跡によって自分の罪のけがれを取り去り、再び罪に陥らないように必要な力を求めに行くのが、はるかにまさっているのです。

第5章
気が小さいことを徳であると勘違いする人の妄想

他にもまた、多くのひとの陥る妄想があります。

それは、気が小さいことと、
罪を犯した後で、
心配するとき、不快な思いがするので、
それを徳であるかのようにみなすことです。

彼らに、このような気持ちが起こるのは、
ひそかに忍び込んだ傲慢と、
自分と、自分の力を過信した
自負の念からであるということが
わかっていないのです。

じぶんが、ほんとうに、
なにか素晴らしいものであると
思うことによって、
自分の力を、こよなく頼りにしていたのですが、
ひとたび失墜し、自分の足りないところを
認めたらならば、すぐに動揺し、
自分のことを、
とんでもないもののように驚くのです。

また、自分が万全に信頼をかけておいた基礎、土台が
不幸にもなくなるのを見て、
たちまち、小心、失望に
陥ってしまうのです。

いっぽう、本当に謙遜な者は、
こんな心のありかたをしていないのです。

その、自分が万全の信頼を、神さまにかけており、
自分の力は、少しもたのみにしていませんから、
不幸なことに、何か過失があっても
それは、悲しむに違いありませんけれども、
そのために、別段驚いたりしません。
余計な心配もしないのです。

これは、真理の光に照らされており、
自分があさましいことも、
よわいことも、
十分に承知しているので、
その罪も、そこからでたのであるということを、
よくわかっているからです。


第6章
自分をあてにせず、神を信頼することを得るための意見

自分をあてにしないことと、神に信頼することとは、
私たちが敵に打ち勝つ力の由来であり、その力の主要な本源であるから、
なお、ここに意見を加え、神の御庇護をもって、
これを求めようと欲する者の助けに供するつもりである。

まず、第一に、私たちにとって確かなこととして心得ておかなければならないことは、
神の思し召しを全うするには、すべての自然徳による賜物でも、特に恵まれた恩寵でも
聖書全部の知識でも、長年神に仕えてきたという習慣でも、
全然まだ足りないということである。

なお、その上に、神の思し召しを全うするには、
私たちがどんな善業を行おうとするのも、
どんな誘惑に勝とうとするのも、
どんな危険を避けようとするのも、
また、神のみこころに従ってどんな苦難をしのぶ時にも
私たちの心を、神の助けによって
特別に引き上げていただき、また、支えていただき、
神の全能の御手でもって、わたしたちの負担すべき義務を尽くすことができるように
助けをこうむることが最も必要です。

また、この、神のおん助けが必要であるという確信は、
私たちが、日々にこれを暖め、時々刻々にそのことを引き起こさなければなりません。
これは、実に、私たち自身の力を空頼みを避ける唯一の方法である。

なお、神に信頼することについては、
たとえ私たちの敵がどんなにおびただしくても、
どんなに年齢を経て熟達していても、
これに打ち勝つことは、神にとっては何よりも、たやすいことであることを
心得ておかなくてはなりません。

それゆえ、人が、たとえ想像されるだけの罪と欠点とをことごとく担っているとしても、
また、種々さまざまな誘惑に悩まされているとしても、
また、罪を避け、善をおこなうとめ、ありとあらゆる方法を尽くしても、まったく、小さな徳さえ求められなかったとしても、
なお、一歩すすんで、ますます罪の道に深入りしたとしても、
そんなことでは、神に信頼を欠く理由にはなりません。
そのために、決して武器と精神的修業とを棄てるはずではありません。
かえって、ますます勇ましく戦わねばならぬのである。

霊魂の戦いにおいては、戦おうと思う志と、神に信頼する心とを失わないうちは、まだまだ駄目だと心得なければならない。
たとえ、神が、時に、その兵士が負傷することを許しなさったとしても、神の助けは決してその兵士に欠けるものではない。
ですから、いつも絶えず戦わなければならない。
何事も、皆、私たちを戦いに励ますものである。
こればかりではなく、負傷すればすぐに薬の用意がしてあるから、
戦士は信頼をもって神の助けを仰いでさえいれば、その薬のききめは確かであると
信じることができる。
また、時々は夢にも考えないのに、その敵が足もとに倒れて、死んでしまうことがある。