天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

旧約のはなし(旧約聖書入門) はしがき 第1課-第10課

2015-01-01 07:36:42 | 旧約のはなし
旧約のはなし

はしがき

 このはなしは、皆さんのために書いたもので、皆さんが信仰しておられる宗教の歴史です。
皆さんは、日ごろ、日本の歴史を好んで読み、その物語を喜んでお聞きになりますでしょう。それと同じく、この歴史も繰り返し繰り返し読んでください。毎課の終わりには、結びとして、ちょっとした教訓を添えておきました。しばらく止まって、皆さんの小さな頭をひねってみなさい。きっと智を練り、悟りを開くたすけとなり、後には歴史上の大きな出来事を判断する道もおわかりになりましょう。

 しかし、ここに書いてあるのは、ホンの筋ばかりで、これだけではどうしても足りません。常に先生なり、伝道士さんなりが詳しく説明してくださいますから、
よく注意して聴かなければなりません。終わって、お宅へ帰りました上では、お父さんにもお母さんにも兄さんにも妹さんにも読んで説明しておあげなさい。教わったところは、ちゃんと判っていると、立派に証拠してください。

 さて、この歴史物語を十分わかるには、まず、神様のいらっしゃること、その摂理、その天啓、この3大真理をわきまえていなければなりません。

1 家には、系図というものがあります。親から親へとさかのぼって行きますと、始めてその家を建てた第一の親にきっとたどりつきます。
今人類は、一つの大きな家族をなしている。先祖をたどって、上へ上へとさかのぼるならば、必ず第一の親、私たちをお造りくださった神様に到着するはずです。
ですから、神様がいらっしゃるということは、この歴史の教える第1の真理なのであります。

2 その神様は、私たちを子どもとして可愛がってくださる。良い子どもだと、ますます聖寵を与え、悪い子どもでも、痛い目をみせるやら何やらして、善に立ち帰らせてくださいます。国家や人類一般に対しても、やはりそう致しなさる。神様のこの業を、摂理(せつり)<はからい>と申します。
ですから、摂理は、この歴史の教える第2の真理なのであります。

3 そればかりか、神様は自ら人類の教育者となり、おのおのの心に自然法を刻みつけてくださいました。後には、石の板に書いた十戒をモーゼに与え、またその後には、その御独子を遣わして、キリスト教の新しいおきてをお授けになりました。このように神様が御教えを人類に啓示になったことを、天啓と呼びます。
天啓がこの三段の道のりを経て、いよいよ詳しく明らかになった次第をこの歴史は物語るのです。ですから、天啓は、この歴史の教える第3の真理なのであります。

4 普通の歴史を知る必要があるならば、まして自分の信じている宗教の歴史を知らなければなりません。普通の歴史とは人と人との関係をのべるだけにとどまるのですが、宗教の歴史は人類と神様、無上の君でおられる神様との関係を物語るのであります。


第1期  アダムからアブラハムまで
第1課  天地の創造

1 世界のはじまり
 天も地も草木から禽獣、人間に至るまで、みなひとりでに生じたものではありません。永遠の存在であって、始めもなく終わりもなく、いつでもどこにでもおられるのは、ただ神様だけです。その神様によって一切のものは造られたのであります。しかし、創造の年代は、聖書に一言も記してない。現代科学の憶測によると、幾百万年、あるいはそれ以上の昔であろうということです。同じように、人間が初めて地上に現れた年代についても、聖書は何とも教えていない。科学上から推し測るよりほかはないのですが、今日では、科学者の言うところもまちまちで、一向あてになりません。確かなところは分らないと言うよりほかはありません。

2 見えない世界
 世界は、目に見えるのも見えないのも、すべて無から造られました。神様がだた一言おっしゃっただけで、一切のものは出来たのであります。まず神様は、いわゆる天使をお造りになりました。天使は色もなく、形もない、しかも知恵と自由を備えた霊であります。その天使に、永遠の福楽を与える前に、神様は一応天使をお試しになりました。もちろん、どんな種類の試しであったか、その辺は何ともわからないが、天使の多くは固く忠節を守って動きませんでした。しかし、中には柄にもない傲慢を出して神様に背き、地獄に罰されたのもありました。彼らのなれのはてが悪魔で、その頭(かしら)をサタンと呼びます。悪魔らは常に神様を怨み、人を悪に誘うて止みません。善と悪との戦いはここに始まったのであります。

3 見える世界
 次に神様は、見える世界、すなわち天と地とをお造りになりました。しかし、初めてお造りになったのは、今のように整った世界ではない、ただ、行く行く天となり、地となり、万物ともなるべき材料の大きな塊で、それと定まった形すらない。その塊を真暗な闇が包んで居ました。神様は6日の間にこの材料をそれぞれに整えて、こんな見事な世界となし給うたのであります。もとより6日といっても、24時間を1日としたそれではなく、数えられもしないほどの長い長い歳月を、大きく6つに区分けしたまでに過ぎないのであります。

4 6日間の御業
 神様は、第1日に光を造って、これを暗と分かち、光を昼と呼び、暗を夜と名づけなさいました。2日目には青空を造り、これを天とお呼びになりました。3日目には陸と海とを引き分け、陸には色々の草木を茂らせなさいました。4日目には日、月、星を造って夜を昼とを区別し、季節や日や年を分かつための象(しるし)ともなさいました。5日目には水に泳ぐ魚とか、空に翔ける鳥とかをお造りになりました。6日目に造られたのは、家に畜う牛馬や野山に駆け回る獅子、虎、象などの類でした。このような天地万物は、すべて神様の御手に造られたのですから、その間には感心するような見事な秩序が立ち、それぞれ神様の全能、全智、全善等の美しい御徳を物語っていたのであります。だが無神主義の先生たちは、その見事な秩序を眺めたくないのです。何とかして天地万物に記されてある神様の御足跡を磨り消したいものと考えています。「物というものは、ひとりでに出来、ひとりでに進化して無生物から生物へ、劣等生物から高等生物へと進んでいったのだ」
と、口癖のように叫んで止みません。彼らは被造物の上に反射している神さまの偉大さをば、わざと目をつぶって見ないように、見ないようにと努めているのであります。

5 人間の創造
 天地万物は美しく整ってきた。しかし、いくら美しく整ってきても、まだこれだけでは物足りない。なおその上に知恵を持ち、意志を備えた何者かがあって、天地万物の美をたたえ、あわせてこれが創造主である神様を認め、讃め、愛し、神さまに仕え奉らなくては、それこそ龍を描いて眼を入れないようなものです。よって神様は、6日目に土をもって体を作り、これに魂を与えて立派な人間となし給うた。これこそ、わたしたちの元祖アダムで、世界の美を一身に集めたものでありました。そうして、創世の業はめでたく終わりました。神様はその天地万物をご覧になると、いかにも美しく見事にできている。よって7日目にはお休みになり、この日を祝して聖日となし給うた。旧約時代には土曜日を、今日では日曜日を安息日となし、労働を休んで祈祷をとなえ、祭礼にあずかるのは、ここに基づくのであります。

6 教訓
 国王がどこかにお行幸になるという時は、下検分のために、まえもって人が遣わされ、諸般の準備をしておくものです。今、人間は万物の霊長ですから、神様は住所から食物までの必要なものを一切備えたうえで、ようやくこれをお造りになりました。で、人たるものは、あくまで己の品位を高め、万物の霊長たる身を持ちながら、自ら己を賤しめて万物の奴隷となるようなことをしてはならないのであります。


第2課 人間の幸福

7 楽園
 神様はアダムを住まわせるため、エデンというところに一個の美しい園をお構えになりました。この園には草木が緑に萌え、色さまざまの花は美しく咲きこぼれ
甘い甘い果実は枝もたわわになり下がり、その間を、水晶のような清水が、ひとつの泉から分かれて四方に流れ、四つの河を成している。それこそ実に地上の楽園で、神様はアダムをこの園において耕作に当たらせなさいました。アダムはもとより独りぼっちでした。しかし「人がただ独り居るのは宜しくない」と神様も思し召しになり、アダムを深く眠らせておいて、その脇から骨を取って女を造り、アダムに連れ添わせてその妻と致しなさいました。アダムは後でその女にエワという名をつけました。「生ける者の母」という意味であります。アダムもエワも神様のおもかげに似て、無罪で、幸福で、聖寵に輝き、心は正しくて悪に流れたがる傾きすらなく、智慧は明らかに物事をよく判り、苦しみも悲しみも死ぬことすら全く知らないのでした。異教徒でも、この、めでたい時代をかすかに記憶していたものと見え、よく「黄金時代」という名をこれに付けています。

8 善悪の知識の樹
 楽園の樹の中には「生命の樹」と「善悪の知識の樹」というのがありました。「生命の樹」とは、その実を食べていると、老いぼれたり、死んだりする憂いすらないはずのものでした。「善悪の知識の樹」は、ひとたびその実を食べると、するべきはずではない悪までも判って来る。何とも危ない、恐ろしい樹でありました。
神様は、アダムとエワとに善こそ知らせ給うたが、悪は知らせまいと思し召しになりました。悪を知ると、いつしかその悪を働きたくなるからです。そこで、「他の樹の実は、心のままに取って食べてもよい、ただ、善悪の知識の樹の実だけは食べてはならぬ、食べたらきっと死ぬぞよ」と厳しく禁じておかれました。

9 教訓
 女は男の脇から取った骨で造られました。夫婦が一つの体であること互いに相愛してゆくべきこと妻は夫の下であること等をこれによって教えられるのです。

第3課 人祖の罪と救い主の約束

10 堕落
 アダムとエワは、神様からいただいた福楽を保つことも失うことも、それを子孫に伝えようと伝えまいと、それは全く自由でした。ところで、憎むべきは悪魔です。人間の幸福を妬み、なんとかして人間に罪を犯させ、自分と同じように悲惨な運命に泣かせたいものと思い、ある日のこと、ヘビの形を借りて女に言い寄りました。「なぜ神様は、この木の実を食べるなっておっしゃるんです?これを食べたら、善と悪とがわかって、神さまのようになるのですのに!」と言って、そろそろ女を誘いました。女は好奇心と虚栄心とに負けて、ヘビの言うがままにその実を取って食べました。アダムまでが、女にひかされてその木の実を食べました。果たして、悪が分かってきた。突然眼が開いて、わが身が赤裸であることを悟りました。二人は恥ずかしくてたまりません。木蔭に身を隠して小さくなっていると、「アダム、アダム!」と、神様に御声を掛けられました。アダムは恐れて縮みあがった。神様はアダムにその罪を告白させようと思い、「何をした?禁じておいた木の実を食べたんじゃないか?」と、お尋ねになりました。アダムは、もう、最初の優しい心を持ちません。「女に勧められて食べました」と、その罪を女になすりつけた。女もまた、自分の過ちは棚に上げて、「ヘビが、だましました」と言い訳をしました。「仰せに背いてすみませんでした」と言って、謝ろうとは致しません。

11 罪の罰と救い主の約束
 ここにおいて、神様は、各々に厳しい罰を申し渡しなさいました。まず、ヘビに向かって仰せられた。「おまえは、こんな悪いことをしたのだから、生き物の中でも一番のろわれ、地上をはらばい歩き、塵を食って生きていくのだ。わたしは、おまえと女と、おまえの子孫と女の子孫との間に恨みをおく。彼はいつか、おまえの頭を踏み砕き、おまえもまた、かれのかかとにかみつこうとするであろう。」女には、次のように申し渡された。「おまえは、お産をするとき、苦しい目をみる、
また、夫の下になって、その支配をうけなければならぬぞ」最後にアダムにも宣告を下しなさいました。「おまえは、妻の言葉をきいて、私の戒めを破った。その罰として、地はのろわれて、イバラとアザミとを生じ、おまえは一生の間、よほど苦しんで働き、額に汗して食を求めなければならない。そしてお前は、もともとちりから出たものであるから、最期には、また、死んでもとの塵に帰るであろうぞ。」と。それから神様は両人に皮衣を着せて、両人を楽園から追い出し、両人が二度と入ってきて、生命の木の実を食べることができないように、火焔の剣を携えたケルビム天使にその門を守らせなさいました。このように、人祖は、成聖の聖寵もその他の幸福も失いました。全人類を無知と苦痛と死の禍に沈ませました。あらゆる人間の不幸は、ここからおこったのであります。しかし、神様は、決して人類をお見捨てにはらない。「彼はお前の頭を踏み砕くであろう」と、ヘビにおっしゃったのは、あとで救い主を降して人類を悪魔の手から救いとって遣わす、という御約束であったのです。アダム夫婦は、この有難いお約束を堅く信じ、長い間その罪を悔い悲しんで、お詫びを致しました。

12 教訓
 人祖の罪は、人祖のみにとどまらないで、後世子孫にまで伝わった。これを、原罪と申します。原罪のことは、聖書に書いてあるばかりではない。また、私たちの内にいろいろな誘惑が起こる。心は悪に流れたがる。労働の辛さ、貧の苦しさ、病の耐えがたさを感じ、死を恐ろしく思う。一方には、やむにやまれぬ知識欲があり、幸福にあこがれ、真・善・美をこいねがう念もある。これらは、すべて原罪の存在を語る生きた証拠です。

第4課 アダムの子孫
 人祖の堕落の結果は家庭にも社会にもあらわれて、いろいろの面白くない罪悪となり、人類はいつしか腐り果ててしまいました。

13 家庭における罪
 アダムとエワは、多くの子どもを生みました。長男をカインと呼び、その次をアベルと名づけました。成長の後、カインは農夫となり、アベルは牧畜をやることとなりました。アベルは心の清い正直な青年でしたが、カインはどうも、こころだての良くない不正直な男でありました。ある日、ふたりは、神様に物を捧げました。
神様は、正直なアベルの供え物を喜んでお受けになったが、カインの供え物は一向にかえりみてくださいません。カインはおおいに腹を立てた。アベルを外へ誘い出してアベルを打ち殺してしまった。「アベルはどうした?」と神様に問われても、「知らない。わたしは弟の番人ですか」と、しらばっくれました。痛悔してお赦しを願おうという気は露ばかりもない。このため、神様ののろいをこうむり一生の間地上をうろつきまわりました。子孫も皆、カインの良からぬ性質を伝えて、残忍で、傲慢で、ただもう肉身の楽しみにのみふける悪人となりました。これに反して、アベルのかわりに生まれたセトは、アベルにも劣らぬ善い児でした。子孫も皆よく神様に仕え、幾代かの間は、カインの子孫とはつっ離れて清い社会を作りました。カインの子孫を「人の子」といい、セトの子孫を「神の子」と呼んだものであります。

14 社会における罪
 アダムもその子孫も、最初は随分長生きをしました。900年もその上も命を保って多くの子どもを生んだので「人の子」も「神の子」も非常な勢いで繁殖しました。繁殖するに随い、「神の子」にも不心得な人間がでてきて、「人の子」の容姿の美しさに迷い、「人の子」と婚姻を結びました。夫婦の間に生まれたのは、何とも始末に負えぬ悪漢で、その悪い風儀が次第に他の人々にも伝わり、終には社会全体が、魂の抜けた、肉の塊も同様になってしまいました。

15 ノアの方舟
 そういう腐った人間社会にも、ノア夫婦と3子、セム、カム、ヤフェト、及びその嫁たちは、それこそ泥の中を抜け出た蓮の葉のように、周囲の濁りにも染まず、身を慎み、行いを磨き、一心に神様を敬い尊んでいました。神様はいよいよ人間に見切りをつけ、大洪水をあふれさせて彼らを残らず滅ぼし、ノアを祖先として新たに清い社会を作らせたいとおぼしめしになりました。そこで、ノアに命じて、ひとつの大きな方舟を造らせなさったが、その方舟は長さおよそ150メートル、幅が25メートル、高さが15メートル以上もあり、上に明かり窓を設け、船べりにも一つの門をこしらえ、内からも外からもちゃんと塗り、その中にノアの一家をはじめ、諸々の鳥獣を乗せ、入り用な食物までも積み込むのでした。ノアは、方舟を作るのに、随分長い年月を費やした。その間にも、彼は人々に勧めて悔い改めさそうとしました。しかし、悪に沈み入った人々は、ノアの誠意こめた説諭も全く馬の耳に風と聞き流して、一向相手にしません。

16 教訓
 方舟は、カトリック教会をかたどったものです。これに乗りこまなくては、どうせ溺れ死にを免れない。そして、これに乗り込むには、洗礼の門がただ一つ開いていることを忘れてはなりません。

第5課 洪水とその後

17 大洪水
 方舟は出来上がった。7日の後には、いよいよ大雨を降らして世界を水になしてしまうという神様のお沙汰が出た。ノアとその家族は、急いで方舟に乗り込んだ。鳥でも獣でも入れるはずのものは残らず入れてしまいました。7日目になると、はたして、滝でも切って落としたかのような大雨が40日の間も、昼夜休みなしにザアザアと降り続いた。たちまち川も海もあふれにあふれて、世界は濁った波がダブダブと湧きかえる大海となり、ノアの方舟は次第に高く高く水面に浮かび上がりました。ノアの勧めに耳を傾けなかった人々も、この有様を見てはどんなに驚きあわてて、樹に、岡に、高い山の頂に駆け登ったでしょう。しかし、水はたちまち樹を没し、岡を沈め、高い山の頂でも、25,6尺の深い波の底に溺らせました。人間はもちろん、山の獣、空の鳥、草むらに住む虫けらまでも残らず滅ぼし尽くされました。

18 ノアの燔祭
 雨は降りやんでも、地上はなお一面に泥浪のもみ返す大海でした。150日を経て神様はノアのことを思い出して海上に熱い風を吹かせなさいました。すると、水は次第に減って、方舟はついにアルメニア国のアララト山に据わりました。それからしばらくたって、ノアは方舟の窓を開いてカラスを放しました。カラスはあちらこちらと飛び回って、方舟には帰りません。で、今度はハトを放ってみました。最初はむなしく帰ってきたが2回目には青いオリーブの枝をくわえてまいりました。
もういよいよ水はひいたのです。やがて、神様の仰せもあって、ノアは妻子や鳥獣と方舟を出ました。生命を助けてくださった御恵を感謝するがため、祭壇を築いて燔祭を捧げました。神様は、それを大そうお喜びになり、一同にありがたい祝福をくだして「もう、これからは、洪水を溢らして、生き物を滅ぼすようなことはしない。この契約を忘れないしるしとして、雲に虹をあらわすことにする」とお約束になりました。

19 セム、祝せられる
 ノアの子どもの中で、カムはあまり、たちの良い子どもではなかった。ある日、父に対して不都合なことをした。ノアは、これをのろい、カムの子孫がしもべのしもべとなって他の兄弟に仕えるようになるであろうと言いわたし、反対にセムとヤフェトを祝しました。特に、「セムの神は讃むべきかな」と言って、セムと神様との間に、特別の関係が結ばれるべきであること、救い主が彼の子孫に出て来給うことをほのめかしました。

20 バベルの塔
 ノアの子孫は、次第に殖えて地上にあふれるようになった。いつまでも1か所に住んでいるわけにはいかない。分かれる前にひとつの町を建て、その中に天にもとどくような高い塔を気づき、自分たちの名を万世に残そうと謀りました。神様はかれらの大それた傲慢をお憎みになり、彼らの言葉を乱してお互いに通じないようにしてしまわれました。仕方がないので、彼らも工事を止めて、東へ西へ南へ北へと散り散りに分かれました。その建て止めた塔は、「バベル(乱れ)の塔」と呼ばれました。言葉が乱れて通じなくなったからです。一概には言われないが、カムの子孫は主としてカナアン地方からアフリカにかけて住み、セムの子孫はアラビア、カルデア地方に国を建て、ヤフェトの子孫は西のほうに広がって、ヨーロッパ人種となりました。

21 教訓
 洪水の話は、聖書に載っているばかりではなく、カルデア人、エジプト人、ギリシア人、ローマ人その他多くの民族の間にも、代々語り継ぎ、聞き伝えられたものです。キリスト前3000年の頃、カルデア人はこれを、煉瓦の板に書き記しておきました。その板は、近年続々と発見されつつあります。

第6課 アブラハムの召し出し (紀元前およそ2000年前)

22 アブラハム
 四方に分かれ分かれたノアの子孫は、次第に神様を忘れ、日や、月や、星や、鳥獣などを礼拝するようになりました。このままにしておいたら、まことの宗教は滅び、救い主を遣わすという約束も忘れてしまっているにきまっている。ところで、セムの幾代かの孫に、アブラハムという信仰堅固な人がいました。始めは、カルデアのウル(バビロンの南)という町に住んでいたのですが、神様の仰せに従い、父のタレ、甥のロト、妻のサラ等と町を出て、遠く西北に進み、ユーフラテス川の上流にあたるハランという町にたどりついて、しばらくここに足をとどめました。タレはそこで亡くなったが、その後で神様はアブラハムにあらわれて「汝の国を出て、汝の親族を出て、汝の父の家を出て、我が汝に示す地に行け。我は、汝を大いなる民の祖となし、かくて、地上のすべての民は汝によって祝せられるに至るであろう」と仰せになりました。「地上のすべての民は汝によって祝せられるに至るであろう」とは、彼の子孫に救い主がお生まれになるという約束だったのです。アブラハムは神様の仰せを、畏まって、甥のロトとハランを絶ち、西南の方、カナアンを指して出発しました。向こうへ到着するや、神様は再びアブラハムにあらわれて、「この地を汝と汝の子孫に与える」とお約束になりました。アブラハムはそこに祭壇を築き、供え物をささげて御恵みを感謝しました。

23 ロトと別れる

 アブラハムもロトも、おびただしい牛、羊、ロバ等の持ち主で、水や草のあるところを尋ねて次から次へと移って遊牧をしたものでした。しかし、2家族が一緒に住んでいては、どうしてもまぐさが足りない。よって互いに仲良く分かれることに話をきめ、ロトはヨルダン川に沿った青緑の平野をみつけて、その方へ立ち去り、後ではソドムという町に移りました。アブラハムは、南カナアンのヘブロンの付近に住居を定めました。

24 アブラハムとメルキセデク
 時に、ソドム付近には、別に4つの町があって、遠い東のほう、エラムという国のコドルラホモル王に服従していたものでした。ところで、このごろ、互いに同盟を約して、王命を拒み、貢を納めなかったものだから、王はセンナアルの王アムラフエル等と兵をあわせてカナアンに入り、ソドム方を打ち破り、物でも人でも手当たり次第にかすめとって引き揚げました。無論、ロトも捕虜の一員であったのです。アブラハムはそれと聞くなり、しもべを318人ほどすぐりたて、他の援兵をも加えて、敵の後を追いかけ、勝ち誇って油断をしているところに夜襲をしかけました。敵は、不意を打たれてうろたえるの、うろたえないのじゃない、何もかも投げ捨てて命からがら逃げ失せた。アブラハムはロトをはじめ、大勢の捕虜、たくさんの分捕り品を残らず取り戻した。ソドマの王とサレム(後のエルサレム)の王、メルキセデクは、喜んでアブラハムを出迎えました。このメルキセデクは、真の神を信じる司祭でもあって、パンとブドウ酒とを捧げて神さまをまつり、アブラハムを祝しました。アブラハムは、彼に謝礼として、奪い返した物の10分の1を贈りました。メルキセデクは、万物の王にして永遠の司祭であるイエズス・キリストを
かたどり、メルキセデクの捧げたパンとブドウ酒は、ミサ聖祭を前表したものであります。

25 ソドムの滅び
 ソドムとその付近の町町は、聞くもいやらしい罪悪にふけっていたものでした。敵軍に荒らされ、散々な目にあっても、一向に改める様子がない。その濁った汚い罪悪の叫びが、神様の耳にまでとどきました。神様もついに愛想を尽かし、ソドムを滅ぼしてしまおうと思し召しになりました。かねて情け深いアブラハムのことですから、そのことを知るや、不憫の情に堪えず、「もし、ソドムに50人のただしい者がいましたら、それに免じてあの町を御赦しくださいますように」と嘆願しました。神様は快くアブラハムの願いをお聞きいれくださった。しかし、ソドムには50人の正しい者もいなかった。アブラハムはだんだんその数を減らして、10人にまで下りました。神様も相変わらずアブラハムの請いを許し、10人でも正しい者がいたら、滅ぼさないとおっしゃってくださいました。でも、ソドムには、10人の正しい者すらいなかったのです。もう仕方ない。神様は天使を遣わしてロト一家に町を立ち退かせ、それから硫黄と火の雨を降らして、そのあたり一帯の地をすっかり焼き尽くしてしまわれました。

26 教訓
 罪は、恐ろしいものです。神様は正義限りないお方です。罪にふけっていつまでも改めないならば、一度は必ず天罰がやってくる。のがれる道はありません。

第7課 イザアク

27 割礼
 あるとき、神様はアブラハムに現れて、
「我は全能の神である。おまえは私の前を歩いて完全な者になれ・・わたしは、おまえの子孫を非常に増やし、おまえとおまえの子孫の神となり、お前が現在さまよっているこの土地を彼らに与えるであろう。この契約の証拠として、男子が生まれて8日目になると、これに割礼を施すことにせよ・・・来年の今頃には、おまえの妻、サラが男子を産むから、それにはイザアクと名づけるのだ」と仰せになりました。割礼とは、体の一部を傷つけて血を流す式であります。時にアブラハムは98歳、サラもずいぶん老いぼれていました。もう、こどものできる年ではなかったのですけれども、さすがは信仰の父と崇められるほどあって、
アブラハムは正直に神様の御言葉を信じました。その日、早速わが身をはじめ、家にいる男子に、残らず割礼を施しました。

28 イザアクの誕生と犠牲
 果たして翌年、アブラハムは玉のような男児を与えられ、これにイザアクと名づけました。イザアクはだんだんと成長しました。神様は、アブラハムの信仰を試してみたいと思われました。ある日のこと、
「おまえの愛するイザアクを伴い、私の示す山に行き、これをいけにえに捧げよ。」と命じなさいました。アブラハムは、仰せのままにイザアクを伴い、一人のしもべと、神様のお示しになったモリア山をさして出発し、3日目に山のふもとにつきました。
それから、しもべはそこにとどめ置き、イザアクに薪を負わせて山に登りました。
頂にたどり着くや、石を集めて祭壇を築き、薪を積んでその上にイザアクをしばって載せました。剣を執っていよいよ最愛の独り子をささげようとするとき、天から声が聞こえました。
「その子を害するな。おまえが神様をおそれ、神様のためには独り子でも惜しまないという、その美しい心掛けは、もう十分にわかった」と、天使が呼び止めたのでした。アブラハムはハっと思い、後ろを振り返ると、一匹の雄羊が藪の中に角をひっかけてもじもじしているじゃありませんか。さっそくそれをほふって、わが子のかわりにいけにえに供えました。

29 信仰の報い
 アブラハムは、やがて、信仰の報いをこうむりました。天使は再びアブラハムに声をかけました。
「これは、神様の御言葉です。おまえはわがために独り子すら惜しまなかったから、わたしもおまえを祝し、おまえの子孫を空の星のように浜の砂のように増やし、地上のすべての民もおまえによって祝せられるであろう。」こういう、うれしいお約束をありがたくも頂戴したアブラハムは、どんなに喜んで、足さえ軽々と自宅へ帰ったことでしょうか。

30 イザアクの結婚
 イザアクは、やがて、よい年ごろになりました。アブラハムは、イザアクに適当な配偶者を見つけやりたいとは思ったが、何分カナアンの民は、みな偶像教におぼれている。とても自分の家にあわない。幸い、メソポタミアのハランには、弟ナコルが住んでいる。そこで探したら、適当な嫁が見つからないこともあるまい、と思い、しもべのエレアザルを遣わしました。エレアザルは、10頭のラクダにたくさんの贈り物を負わせて旅に上がり、多くの日数を重ねて無事、ハランの町にたどり着きました。時に、夕日はまさに西の山の端に傾き、町の娘たちがそろそろ水汲みに出かけることでした。
「その娘たちのうちから、若旦那イザアク様の奥方を選んでください」と、エレアザルは、心をこめて神様に祈りました。
まだ、祈りも終わらないうちに、レベッカという世にも美しいしとやかな乙女がやってまいりました。
エレアザルは、その乙女に水を一口飲ませてもらい、話しかけてみるとそれこそナコルの孫娘で、父をバッエルというのではありませんか。エレアザルは大いに喜び、厚く神様の御恵みを感謝しました。やがてその家に招待され、丁重な待遇を受けました。旅行の目的を打ち明けてレベッカを懇望すると、父のバッエルも兄のラバンも、快く承諾してくれました。このように、レベッカは、エレアザルに伴われてカナアンへ行き、めでたくイザアクの妻となりました。

31 教訓
 イザアクは、イエズス・キリストを前表したものです。彼が、自分の焼かれるべき薪をかついで山へ登ったのは、主が、その磔(はりつけ)たまう十字架を担いでカルワリオへお登りになったのを、立派にかたどっているのであります。

第8課 エザウとヤコブ

32 兄弟の気質
 イザアクは、エザウとヤコブの双子を生みました。エザウは体中毛だらけで、性質もまた荒っぽい、わがままな男でした。始終野山を駆けまわり、獣狩をして日を送ったものであります。
 ヤコブは反対に、至って優しく、おとなしい質で、いつもテントに住んで、羊の番をしているのでした。

33 長男の権
 ある日、ヤコブが赤い豆を煮ていると、エザウはへとへとに疲れて山から帰ってきました。

エザウ 「オイそれを俺に喰わせい。腹がペコペコになって堪らぬじゃないか」
ヤコブ 「豆は上げますが、その代りに長男の権を私に売ってください」
エザウ 「死なんばかりだ。長男の権もあったものじゃないよ」

エザウはやすやすと承諾した。ヤコブの差し出す煮豆を食べ、酒を飲み、平気で立ち去りました。長男の権を売り飛ばしたことなど、気にもかけない風です。イザアクはだんだん年老いて、眼はかすんで見えなくなるし、最期の日もあまり遠くあるまいと思われてきた。まだ息のある中に、長男のエザウに祝福を与えたいものだと考え、まず、狩にいって御馳走を食べさせてくれと頼みました。しかし、エザウは、長男の権を弟に譲り渡している、その祝福を戴くわけにはいかない。
エザウが野へ出て行ったあとに、母のレベッカは、急いで御馳走をこしらえ、ヤコブに持たせてやってその祝福を受けさせました。エザウは地団駄踏んで悔しがったが、もう後の祭りで、どうすることもできません。

34 ヤコブの避難
 エザウは腹がたってたまらない「ウヌ見て居れ。お父さんが目を瞑られたら活かしておかぬから」と言っている。レベッカはヤコブの身の上を気遣い、勧めてハランへ走り、伯父ラパンの許に避難させました。その途中で、ヤコブは、とあるところで石を枕にして休みました。夢の中に、地から天に届いたハシゴがあって、天使がそれを昇ったり降ったりしているのを見ました。ハシゴのてっぺんには、神様がいらして、ヤコブに親しくお声をかけ、
「我はアブラハムの神、イザアクの神である。汝が休んでいる地は、汝と汝の子孫に与える。汝の子孫は、地の埃のようにたくさんになり、汝と汝の子孫によって、地上のすべての国民も祝されるであろう。」と仰ってくださいました。ヤコブは、どんどん行ってラパンの家にたどり着いた。20年間もラパンのためにまめまめしく働き、神様の祝福によって、おびただしい羊、ヤギ、ラクダ、ロバ等の持ち主となった。それからカナアンへ帰って、兄エザウと和睦し、ヘブロンなる父の許に
とどまりました。エザウは南の方エドムの地に住み、イドメア人の祖となりました。

35 教訓
 イザアクは、ヤコブを祝したうえで、エザウからしきりにせがまれて、エザウに、将来のことを告げました。
「おまえは、剣をとって世を渡り、弟につかえるであろう。しかし、後では、そのくびきを振り落とす時が来る」
と申しました。果たして、エザウの子孫は、死海の南に住んで、エドムの国を建てたが、しかし、国はやせこけた石ころの土地で、農耕に適さない。したがって、住民はおのずと戦争や強盗を事とするようになった。イスラエルの国勢がさかんになると、征服されてその属国となり、衰えると背いて独立するというようにしていたが、後では、この国からヘロデというものが出て、イスラエルの王となりました。

第9課 ヨゼフ兄弟に売られる

36 イスラエル人
 ヤコブは、またの名をイスラエルと称していたから、彼の子孫はイスラエル人と呼ばれるに至った。別に、ヘブライ人と言うこともある。彼らは一時カナアンの地を去ってエジプトに移住することになりました。今、その遠い原因を物語っておきます。

37 ヨゼフ兄弟に妬まれる
 ヤコブは多くの子どもを与えられた。男子ばかりでも12人から持っていました。末から2番目はヨゼフと呼び、気質は素直で、心は清く、しかも人並すぐれて利発な子でした。父もこの児をまたとなきものと思い、ヨゼフに美しい上着を着せて、何かにつけて他の子どもよりもかわいがったものであります。兄たちは、妬ましくてたまらない。これに加えて、ヨゼフは己の将来の運命を告げるのではないかと思われるような2つの夢を見ました。ひとつは、兄たちと畑へ行って麦をたばねていると、ヨゼフの麦束が、がっと立ちあがり、兄弟たちのがその周りを取り巻いてこれを拝んだというのでした。もう一つは、日と、月と11の星とが、ヨゼフの前にひれ伏した夢でした。星は兄弟にあたり、日と月は、父と母とをかたどったものである。
この夢話をきいた兄たちは、いよいよヨゼフを憎み嫌い、今はもう優しい言葉さえ交わさなくなりました。

38 ヨゼフ売られる
 そうしている中に、10人の兄たちは、遠い北の方シケムの野に行って羊を牧することとなりました。ヤコブは、彼らの安否を気遣い、ヨゼフを見にやりました。
兄たちは、早速彼をひっとらえて上着をはぎとり、そこにあった空井戸に投げいれました。たまたま、エジプトに下る証人が、ラクダに乳香を負わせて、そのあたりを通りかかりました。4男が「殺すよりか、あの商人に売ろう。そのほうが、金にもなるし、我々の手も汚れないし、上策だよ」と言いだしました。皆が賛成したので、ヨゼフを井戸から引き上げて銀貨12枚で奴隷に売り飛ばした。それからヤギを殺し、その血をヨゼフの上着に塗りつけ、道で拾ったと言って、父の許へ送り届けた。ヤコブは、彼らの虚言を真に受けて、ヨゼフがいよいよ獣に食い殺されたものと思い込み、衣を裂いて泣き悲しみました。誰がなんといって慰めても、聞きいれませんでした。

39 ヨゼフの入牢
 エジプトへ連れて行かれたヨゼフは、その国の将軍プチファルという人に売られました。かねて心の清い、罪のないヨゼフのことですから、大そう主人の
御気に入り、その厚い信用を得、何から何まで一切一人で切り回すほどになりました。しかし、主人の奥方にあられぬ濡れ衣を着せられ、とうとう牢屋に
ぶちこまれました。でも、「正直の頭に神やどる」とはよく言ったものです。ヨゼフほどの人を、神様がお見捨てになるはずがない。
ここでも、老番頭に見込まれて、囚人の監督に挙げられました。

40 国王の近臣
 囚人の中に、国王ファラオの近臣が2人いました。ひとりは、「さかびとの司」で、もう一人は「お料理ばんの頭」でした。ある夜、2人とも不思議な夢を見たといって、よほど心配している様子です。「どんな夢?」とヨゼフに問われて、まず、「さかびとの司」はこう物語ました。「枝の分かれた1本のブドウの樹がありました。それがだんだん芽をふき、花を開き、実を結びましたので、私はその実をしぼって王様に奉ったのです。」ヨゼフは、その夢を次のように判断しました。「3の枝は、3日のことで、3日の後、王さまはあなたをもとの職に就けてくださいます。そうなりましたら、どうぞ、わたしのことを思いだして、王様に申し上げ、救い出してください。わたしは、何の覚えもない罪のために、こんな目にあっているのですから。」次に、「お料理番の頭」も自分の夢を語りました。「私は、頭の上に白いパン粉を3籠ほど乗せていました。一番上の籠には、王さまのためにこしらえたいろいろの料理も入っていたですのに空の鳥が来て、それを食い散らしてしまいました。」ヨゼフは、答えて言いました。「その夢の意味はこうです。3籠はやはり3日のことで、3日の後、王様はあなたの首を斬ってさおの上にさらし、空の鳥が来て、あなたの肉をつつくようになります」3日の後、果たしてヨゼフの言ったとおりになりました。しかし、「さかびとの司」は、わが身の幸福を喜んで、ヨゼフの頼みは、すっかり忘れてしまいました。

41 ファラオの夢
 それから2年ほどたちまして、今度は国王ファラオが夢を見ました。ニル河の岸に立っていると、肥え太った美しい7頭のメス牛が河から上がってきました。その後に、痩せこけた醜い7頭のメス牛がでてきて、前の肥え太ったメス牛を食ってしまったと見たとき、夢は破れました。それから、またうとうと眠っていると、今度は別な夢をみました。1本の麦に、目も醒めるくらいに実った穂が7つも出ていたのに、間もなくヒョロヒョロにしなびた7つの穂が出てきて、前の見事な穂を呑みこんでしまいました。2つとも不思議な夢です。何か意味があるらしい。翌朝ファラオは、国内の博識、占者などを呼び出して判断させてみたが、誰ひとりその意味を解き明かせる者がいない。そのとき、「さかびとの司」が、やっとヨゼフのことを思い出して、王さまにその旨を申し上げました。ファラオは、さっそくヨゼフを宮中に召しだして、ヨゼフに、2つの夢を物語りました。ヨゼフは、うやうやしく答えて申します。
「王様の夢は2つとも同じことを指すのでございます。7頭の肥えたメス牛と7の実った麦穂は7年間の豊作を示し、7頭のやせたメス牛と7のしなびた麦穂は、7年間の凶作を意味します。7年間というものは、エジプト全国は、非常な豊作つづきでございますが、その次には、かつてないほどの大凶作が7年間も続きます。でありますから、今のうちに、賢い腕ききの人を挙げて、豊作が続く間に、余った分を貯えおき、その次に来る7凶年のために備えをするがよろしいかと存じます。」
ヨゼフの意見は、ファラオのお気に入りました。
「いや、そなたほど賢い腕ききの人が見つかるだろうか。今からそなたをぬきんでてエジプト全国をつかさどらしめる。自分は、ただ王の位だけそなたの上にあるのだから、そう思ってもらいたい。」
と言って、直に、自分の指輪をはずして、ヨゼフの指にさし、身には美しい貴人の服をつけさせ、黄金の鎖を首にかけてやり、添え乗りの車にのせて都を乗りまわらせ、「エジプト宰相様じゃ、ひざをかがめい」と先払いに触れさせた。時に、ヨゼフは、年わずかに30歳でした。

42 教訓
 兄たちは、ヨゼフが偉くなってはと気遣い、ヨゼフを奴隷として売り飛ばしたが、それでヨゼフは一躍エジプトの大宰相となりました。彼らが押し下げようとしただけ、かえって高く上がりました。神様のおはからいばかりは、実に感心じゃありませんか。しかし、ヨゼフがそんなに偉くなったのも、つまり心の清く、行いの正しい、少しの非を打たれるところもない模範的青年だったからであります。

第10課 兄弟のめぐりあい

43 ヨゼフへ行け
 ヨゼフの言ったところに少しも違わず、7年間はぶっとおしに豊年が続きました。ヨゼフはエジプト全国をかけまわって、町町に倉庫を建て、ありあまる麦をそれに蓄えました。果たして、豊年の7年が終わると、凶作が続けざまにやってきた。人民は困ってファラオの前へ行き、麦の払い下げを願い出た。
「ヨゼフへ行け」とファラオは答えて、一切をヨゼフの計らいに任せたので、ヨゼフは倉を開いて麦を売り出した。噂を伝え聞いて、近隣の国々からも麦を求めに押し寄せました。ヤコブ一家も、やはり今度の飢饉には、おお弱りです。ヤコブは止むを得ず、子どもをエジプトへ遣わして麦を買い取らせました。しかし、ヨゼフが亡くなった後には、末っ子のベンヤミンをことさら可愛がっていましたので、ベンヤミンだけは家に留め置くことにしました。

44 ヨゼフ、兄弟を見識る
 10人の兄弟は、無事エジプトに着き、ヨゼフの前にひれ伏しました。これが、弟のヨゼフだとは夢にも思い得ようはずがない。しかし、ヨゼフはすぐにそれを見てとりました。ベンヤミンを連れて来なかったのは、何のためだろう?兄たちの心は、今も昔のままだろうか?ひとつ試してみようと思い、「何者じゃ。どこから来た?まわしものだろう。我が国のすきを窺いに来た者に相違ない」と、思いもよらぬことをいいかけた。兄弟は、おそるおそる答えました。自分たちは、カナアンの者で、12人兄弟であった。一人は父のもとに残っている。一人は亡くなった。別に何の悪意もない。ただ、麦を求めに来たのみである。と、家庭の事情までも申し述べて、ひたすらヨゼフの疑いを晴らそうと務めました。しかし、そんな弁解は信ずるに足りないと言わんばかりに、ヨゼフは彼らをひっとらえて、牢にぶちこんでしまいました。3日を経て、ヨゼフは兄たちを牢から引き出して「果たしてお前たちの言うとおりならば、人質として誰か一人だけ残り、他は麦を買って国へ帰れ。そして、末の弟を連れてくるようにせい。」と命じました。兄たちは、かしこまりました。そして、互いに顔を見合わせ「弟をいじめた罰だ。彼が泣いて願ったとき、その心の苦しさはわかっていながら、聴いてやらなかったのだもの、こんな悲しい目を遭うのも無理はないよ」と、懺悔話をやりだした。ヨゼフが、わざと通訳をもって話していたので、自分たちの言葉をわからないものと安心して声高に話したのでした。ヨゼフは聞いてたまらなくなり、ちょっと身をかわして涙をぬぐいました。やがて、再び出てきました。心を鬼にして、シメオンを皆の前で縛り、牢舎にぶち込みました。それから、役人に命じて、彼らのふくろに麦をいっぱい詰めさせ、途中の糧までも添えて帰しました。兄たちは、国へ帰って一部始終を物語ました。ヤコブは大きなため息をつき、「お前たちは、俺を子なしにしてしまうのじゃな。ヨゼフは亡くなる。シメオンは牢につながれる。今またベンヤミンまでも連れて行こうとするのか。いやいや、そればかりは許さぬ。」と、断然言い放ちました。

45 教訓
 ヨゼフが兄たちを牢に入れたのは、決して復讐の念からではない。ただ、自分の言うことが至極真面目な話だ、ということを彼らに承知させるとともに、また、これまでの仕打ちを、とくと考えて痛悔の胸を打たせるがためでした。







旧約のはなし(旧約聖書入門) 第11課-第20課

2014-12-31 12:41:33 | 旧約のはなし
第11課 銀の杯

46 ベンヤミン
 エジプトから買ってきた麦も、おいおい食べ尽くして、残り少なくなった。飢饉は容易に止みそうにない。エジプトへ下りさえすれば、麦を求めるのは、そう難しいことでもないが、それにはベンヤミンを連れていかねばならぬ。しかし、父がなかなか許してくれない。困り果てていると、第4子のユダが父の前に進み出ました。「ベンヤミンを私にまかせてください。私がきっと連れもどります。万一、連れもどらなかったら、どんな罰でも受けます」こう言うものですから、父も進まぬながら、ついに承諾した。そこで、ベンヤミンを加えて10人の兄弟は、土地の名産を贈り物として携え、再びエジプトさして出発した。ヨゼフは、兄弟たちが来た由を耳にするや、早速家臣に命じて自宅へ案内させ、シメオンを牢から出して、面会させました。やがてヨゼフは、兄弟たちの前へ出て行った。兄弟たちは、贈り物を捧げてひれ伏した。ヨゼフも親切に礼を返し、それとなく父の安否を問いました。それから、ベンヤミンをうち眺めて、「これが若い弟なのか」と言いだしたが、懐かしさに胸はたちまちいっぱいとなり、涙がこみあげてきた。でも、ここは未だ名乗るべきときではないと思い、たって別室へ退き、こころゆくまで泣きました。やがて顔を洗い、彼らと食事を共にしました。わざとベンヤミンには5倍も多く与えて、兄たちの心をひいてみました。

47 ベンヤミンを奴隷に!
 ヨゼフは、兄たちの心がよほど変わっているとわかった。しかし、今一つ十分に試してみようと思い、家臣に命じて彼らの袋に麦を詰めさせベンヤミンの袋の口には自分の銀の杯をも入れさせた。そして、彼らがやっと都をはなれたろうか、と思う頃、急いでその跡を追わせました。

家臣 「オイオイ、なぜ貴様らは、恩に報いるに仇をもってなしたのだ。主人の大切な銀の杯を盗んでいるぞ」
兄弟 「どうして私たちがそんなことを致しましょう。万が一、その杯が誰かの袋に見当たりましたら、その者は殺され、私たちは皆奴隷となります」

家臣は袋を下させ、いちいち中を改めてみた。すると、どうでしょう、ベンヤミンの袋から、ころりと銀の杯が出てくるじゃありませんか。彼らの驚きかたったらありません。衣をひきさき、色は真っ白となり、しおしおと都に引き返し一同ヨゼフの前にひれ伏しました。

ヨゼフ 「どうしてこんなことをしたのだ」
ユダ  「何とも申訳がございません。私たちは、残らず殿下の奴隷となるでございましょう」
ヨゼフ 「いや、それには相成らぬ。杯を盗んだ者だけが奴隷となるのだ。他は勝手に里へ帰るがよい」
ユダ  「父は、この児に身も魂もくれて居るのでございます。万一、この児を連れないで、そのままに帰りましたものならば、きっと悲しみのあまりにもだえ死にします。実は、命に代えてもつれて戻ると私が請け負ってきているのでございますからどうぞ格別の御情けをもって、私を、この児のかわりに奴隷となしこの児だけは無事に帰らせてくださいませ。この児を残して帰宅いたし、父の泣き狂いするのを私は見るに忍びません。」

48 私がヨゼフです
 これですっかりわかった。我が身は奴隷となっても弟を救いたいという、見上げた心になっている。ヨゼフは、うれしいやら、なつかしいやらで、もうもうたまらなくなりました。側にいたエジプト人を立ち退かせ、はらはらと涙を流しながら大声あげて「私はヨゼフです。おとうさんは、まだ御存命ですか」と名乗りました。
兄弟たちは、びっくりして急に声がでない。互いに顔を見合わせ、目をぱちぱちさせるばかり、ヨゼフは親切に彼らを傍近く招き寄せた。
「私は、兄さんたちに売られたヨゼフです。しかし、何も恐れることはありません。こうなったのは、決して兄さんたちの仕業ではない。まったく、神様のおぼしめしによるのです。神様は、私をファラオの父のようになし、エジプト全国の主宰ともしてくださいました。早く、国へ帰って、お父さんに、私の立身出世と、兄さんたちの見たところを告げて、一家のこらず引っ越すことにいたしなさい。」
こう言って、ベンヤミンの首に抱きついて、うれしなきに泣きました。それから、他の兄弟にも、いちいち涙ながらに接吻しますと、彼らのようやく胸の動悸がおさまり、ヨゼフと親しく打ちとけ話をしました。
ことは、いつしか、ファラオの耳に入った。ファラオも大いに喜び、ヨゼフに命じて一家を迎え取らせることにしました。そこで、ヨゼフは、ロバ10頭にたくさんの贈り物を積ませ、別に10頭のメスロバに道中の糧を背負わせ、婦人、こども用の車までも添えて彼らを帰しました。

49 教訓
 うらみに報いるに、徳をもってするヨゼフのこころゆきの美しさをみなさい。復讐をしようと思えば、どうすることも出来たのに、怒った顔すら見せません。かえって、兄たちのしたことをいろいろに弁解してやりました。これほど立派な御主のかたどりはありますまい。御主も、その兄弟であるユダヤ人に売られ、無理無法に責め殺されながら、彼らの罪こそ憎み給うても、かれらはかえって不憫に思し召され、その御血をば、かれらの贖いの値、心の傷を癒す薬としてくださいました。

第12課 ヤコブ、エジプトに移る

50 ヤコブの喜び
 ヨゼフがなお存命で、エジプトの大宰相になっていると聞いても、ヤコブは夢見る心地がして、容易に真としません。だが、ヨゼフがよこした車やら、贈り物やらを見て、ようやく夢ではないとわかり、したくもそこそこに、エジプトさして出発しました。ヨゼフは道に出迎え、首に抱きついて熱い涙をはらはらと流しました。
ヤコブもうれしくてたまりません。「もう、おまえの顔をみたから、安心して死ぬよ」といって、非常に喜びました。ヨゼフは、ファラオの承諾を得て、兄父をゼッセンの地に住まわせた。ゼッセンは、エジプトの東北の隅に位置し、土地は肥え、まぐさは豊かで、すこぶる牧畜に適したところでありました。

51 ヤコブの死
 ヤコブがエジプトへ引っ越したのは、130歳の時で、それから17年目に死にました。死ぬ前に、12人の子どもを枕もとにあつめて、最後の祝福を与え、いちいち彼らの将来を告げました。特に、約束の救い主がユダの子孫に出て給うことを預言して、「しゃくを持てる者が来て、これの諸々の民が従うに至るまでは、ユダより王しゃくは取り去られない」と申しました。「しゃくを持てる者」とは、救い主を指したのです。子どもを祝し終わると、ヤコブは安然として永い眠りに入りました。ヨゼフは、エジプトの習慣に従って、父の死体に薬を塗らせ、盛んな葬儀を営んで、南カナアンのヘブロンへ携えて行き、アブラハム、サラ、イザアクの傍らに葬りました。ヨゼフは、それから54、5年間も生きながらえ、110歳になって死にました。死体はそのままエジプトに遺しておき、神さまが一同をカナアンの地へ連れ戻してくださるとき、携えていって、向こうで葬るように、一族の人々に頼んで目をつむりました。


52 教訓
 ヤコブにせよ、ヨゼフにせよ、栄華のありだけを極めながらも、我が身は異国の空にさすらいの旅を続けているのだということを忘れないで、是非とも神さまのお約束になった、乳と蜜の流れる地に葬られたいと思いました。わたしたちは、より以上に楽しい国、極まりなき福楽のみなぎる天国を約束されているのですから、この世でいくら栄華をほしいままにすることができるにせよ、瞬時たりともその天国を忘れてはならぬのであります。

第13課 ヨブの忍耐

53 ヨブとサタン
 時代は、いつのころかは、はっきりしません。アラビアのフスに、ヨブという人がいました。7人の息子に3人の娘の父で、おびただしい財産を神様に与えられ、何の不自由もなく暮らしていたものでした。しかし、この世によくいる金持ちとは違い、常日頃から神様をおそれ、人をあわれみ、かりそめにも、道にはずれるようなことはいたしません。平素はこどもたちのことにも注意を怠らず、彼らが神様をわすれて罪を犯すようなことがあってはいけないと気遣い、いけにえをささげて彼らのために、神様の御憐みを祈るというくらいにしていました。ある日、神さまはサタンを見て、しきりにヨブの徳行をおほめになりました。

神様 「ヨブを見てまいったか。あんなに質朴で、正直で、神をおそれ、悪に遠ざかった人間は、世界に2人とあるまい」
サタン「ヨブが神さまを畏れるのは、たくさんのお恵みをいただいているからです。もし、ちょっとでもお手を伸ばして彼の財産をお取り上げになりましたら、きっと恨みを申すでございましょう」
神様 「ではヨブの財産を、汝の勝手にまかせる。ただ、身体に触れることだけは許さぬぞ」

サタンは喜んで御前を退き、早速ヨブの試しにとりかかりました。たちまちヨブの身には、災難が続けざまにやってきました。ウシとロバとは、サバ人に盗まれて、下男は殺されました。ヒツジと羊飼いは、天から火が降ってきて残らず焼き殺されました。ラクダは、カルデア人にひったくられました。7人の子女までが、旋風に吹き倒されてその下敷きとなりました。こうなっても、ヨブは、神様に一言のうらみすら申しません。
「裸で生まれたから、裸に帰るのです。主が与えて、主がお取り上げになった。おぼしめしのままに御取り計らいくださいました。主の御名は、祝せられたまえ。」

54 腫れもの
 それでも、サタンはまだ断念しません。今度は、神様のお許しにより、ヨブの体を一面の腫れものとなしてしまいました。ヨブは、かゆくてかゆくてたまらないが、指先までがはれ上がっているものですから、どうすることもできません。ただ、陶器の破片で、そのかゆいところをかきむしっているのみでありました。妻はそれをみて、ヨブをなぐさめようとはしないで、馬鹿正直だと、ののしりました。「神さまをのろって、死んでしまいなさい」とまで言いました。しかし、ヨブは、そんな気の弱い人間ではない。「おまえは、愚かな女の口で、そのようなことを言うのだな。神さまに、ありがたくも、わざわいをいただいたわが身だ。またわざわいをいただくはずではないか。」と、諭して、大山でも突っ立ったかのように、少しも動かないのでありました。

55 3人の友
 ヨブがひどいめにあったときいて、3人の友が見舞いにきました。しかし、あまりの変わり方なので、3人とも、声をあげて泣き悲しみました。そして、何と言っていいやら、なぐさめ方もわかりません。ですから、ヨブのほうから言いだし、自分の苦しみを訴え、不運を嘆きました。でも、3人は、ヨブの不幸は、罪の罰だからと、しきりに痛悔をすすめるのです。ヨブは承服しません。自分は、何の悪いこともした覚えがないと言い争い、最終的には固い希望を述べて、こう、叫びました。
「私は知っています。私を贖ってくださる御方が、生きていらっしゃることを。わたしは、おわりの日に、地から起き出て、再び自分の皮をまとい、わが肉をもって
神様を見るのです。私は、自分で見るのです。私の目がながめるのです。他の人ではありません。わたしは、この希望を胸におさめています。」
彼は、肉身の復活、終わりなき命を堅く信じ、その信仰によって、どのような苦しみでも気強く耐え忍んだのでありました。

56 忍耐の報い
 ついに、ヨブの忍耐の報いられるときが来ました。腫れものは、ぬぐい去ったように癒えました。財産は、以前の倍にして与えられました。前々どおり、7人の息子と3人の娘をもうけ、それから140年間も幸福にいきながらえ、4代目の孫を見て安らかにこの世を去りました。

57 教訓
 ちょっとした災難にでくわしても、すぐにベソをかいて、神様をうらんだり、人を咎めたりするような人は、ヨブの爪のアカでも煎じてもらって飲んでみてはどうでしょうか。

第3期:モーゼの誕生から王国の建設まで 

第14課 モーゼの誕生と教育(紀元前およそ1500年ころ)

58 ファラオの迫害
 ヤコブがエジプトに移ってから400年ばかりの間に、彼の子孫は非常な勢いをもって繁殖しました。彼らはエジプト国内に住みながら、エジプト人とはかけ離れて別個な社会を作り、昔からの習慣に従い、族長をたてて自治を営み、よく祖先の宗教を奉じて変わらないのでした。そうしているうちに、ヨゼフを重く用いた王朝が倒れ、新たに起こった王朝は、もとよりヨゼフの功績を知ろうはずもない。イスラエル人が朝日の昇るような勢いでぐんぐん発展していくのを見て、そらおそろしく思い、彼らの勢力をくじいてやろうと謀りました。よって彼らを夫役に召し出し、煉瓦を焼かせて城を築かせるやら、灌漑用の運河を掘らせるやら、それはそれは無理無法にこき使いました。それでもイスラエル人が日増しに繁殖していく一方なのを見て、いよいよおそれ、ついには男児が生まれたらことごとく川に流してしまえ、とまで命じました。

59 モーゼの誕生
 そのころ、レビ族の一婦人がお産をしました。見れば、玉のような美男子です。みすみす川に流すことができず、3か月ほど家にかくしておきました。しかし、エジプト人の監視がなかなか厳重なものですから、到底隠しおおせない。やむをえずチヤンを塗ったヨシ籠の中に赤ん坊を入れ、川辺のヨシの茂みの中に置き、姉のマリアに物陰から見張りをさせました。たまたま、ファラオの姫が水浴びにくだってきて、ヨシ籠を見つけました。侍女にその籠を取り寄せさせ、蓋を開けてみると、まるまると肥えた、可愛らしい赤ん坊が泣いているじゃありませんか。「イスラエル人の子だな、かわいそうに!」と言っているところに、姉のマリアが走り出てきました。「乳母を呼んで参りましょうか、イスラエルの婦人を!」と言い、姫の承諾を得るや、早速母を連れていきました。母はこの子を大切に育て上げ、成長の後、姫の手に返しました。姫はこれをわが子として養い、モーゼと名づけました。「水から救われた者」という意味です。モーゼは宮中で、エジプトのあらゆる学問を修め、非常に偉い人物となりました。

60 モーゼの義侠心
 モーゼは王宮に栄華を極めていながらも、わが身のイスラエル人たることを忘れません。満40歳になったとき、ついに王宮を去ってイスラエル人の間に降り、かれらと苦楽を共にすることとしました。ある日、エジプトの監督がイスラエル人をさんざんにぶん殴っているのを見て、モーゼはあまりの腹立たしさにその監督を打ち殺し、わが身はマデイアンの地に高飛びをしました。そしてマデイアンの司祭エトロの婿となり、その羊を飼って40年の長い年月を夢の中に過ごしました。

61 藪の火
 ある日、モーゼは、エトロの羊をひきつれて深く荒野の中へ分け入り、ホレブ山の麓まで行きました。すると、ひとむらの藪の中から、ほのおが赤々と燃えあがったが、藪は少しも焼けない。「不思議だ。ひとつ、見届けてやろうかな」と思い、モーゼが近寄ろうとするとき、神様が現れてお声をかけられた。

神様 「近寄るな。靴を脱げ。汝が立っているところは、聖なる地であるぞ・・我はアブラハムの神、イザアクの神、ヤコブの神である。わが民がエジプトで難儀しているのを見て居る。彼らを救いだして、広い、美しい、乳と蜜の流れるカナアンの地にすえ置きたい。汝はこれからファラオの前に行って、我が民をエジプトから連れ出すようにせよ。」

モーゼ 「私が民の前へ行って、おまえらの先祖の神様に遣わされてきたと申しましたら、その神様の名は?と彼らが尋ねるに相違ありません。その時は、何と答えたものでございましょうか。」

神様 「我はエホワ、有る所のものじゃ。ある所のものから遣わされてきたというがよい。」

モーゼ 「でもイスラエル人はとうてい私の言うことを信じません。神様がおまえなんかにあらわれ給うものか、というに決まっています。」

神様 「しからば、汝の杖を取って地に投げてみよ」

モーゼは、仰せのままに杖を投げた。杖はたちまちヘビになって、のろのろと鎌首をもたげて動きだしました。「手を伸ばして尻尾を捉えよ。」と神様に命ぜられてそういたしたら、再び元の杖になった。次に神様の仰せに従い、手を懐に入れると、たちまちらい病にはれ上がったが、再びこれを入れると、立派なもとの手になっている。
「イスラエル人の前に行って、今のようにせよ。・・・彼らはきっと信じる」
と神様が仰せになりましたので、モーゼは御言葉に従い、エジプトを指して出発しました。すると、兄のアーロンも神さまのお告げをこうむって途中で出迎え、相携えてゼッセンの地へ帰りました。それから民を集めて神様のおおせを伝え、奇跡をおこないますと、民は彼らのことばを信じて、神様を伏しおがみました。

62 教訓
 赤々と燃えあがりながら少しも焼けない藪の中で、神様はモーゼにお現われになりました。イスラエル人がいくら苦労の火で焼かれても、神様がともにいてくだされば、焼き尽くされる憂いはないとお諭しくださったものであります。わたくしたちも、神様に突っ離されさえしなければ、たとえ艱難苦労の火に投げ込まれても、焼き尽くされないのみか、かえってその火に鍛えあげられて、いよいよ清くうつくしくなるばかりであります。

63 10のわざわい
 モーゼとアーロンは、ファラオの前に出て、神様の仰せを申し述べ、イスラエルの民にエジプトを出る許しをお与えくださいと願いました。ファラオは、えらそうに肩を揺すって「イスラエルの神様が何ものなら、その言葉に従い、民に暇を取らせねばならぬか。自分はエホワの何のと、そんなものを知らない。」
と答えて、聞きいれません。モーゼもアーロンも、幾度も幾度も王に謁見して談判してみましたが、ファラオは相変わらず頭を横に振って応じません。よって、神様は彼のかたくなな心を打ち破るがため、10のわざわいを次から次へとエジプト人の上にお降しになりました。

1 川の水が腐って血になり、人民は飲料水に困り果てた。
2 おびただしいカエルが出てきて、かまどにも食卓にも寝床にも這いまわり、エジプトは全くカエルの国となった
3 数限りもない蚊が生じて、人や家畜に食いつき、始末におえなかった。
4 空も真っ黒になるほどたくさんのアブが飛んできて、人々をさんざんに悩ました
5 野にあった家畜がころころと疫病にたおれた。
6 人にも獣にも、腫れものができて非常に苦しんだ
7 大粒の雹(ひょう)が降って、草も木も叩きつけ、打ち折ってしまった。
8 イナゴが黒雲のように飛んで来て、雹(ひょう)の打ち残した草木を見る間に食い荒してしまった。
9 3日間というもの、エジプト全土が真っ暗闇になって、人足も出歩きができなくなった。

エジプト人の上には、こんな恐ろしい災害がつづけざまにやってきたのに、イスラエル人の住んでいるゼッセンの地には、何の変わったこともない。彼らは極めて安らかにその日その日を送ることができた。ためにイスラエル人は、ますますモーゼとアーロンを信用し、エジプト人もようやく神様の御力の偉大さに驚きの目を見張るようになりました。ただ、いつになっても動かないのはファラオの心です。よってモーゼは、第10のわざわいを告げました。一夜のうちに、上は国王から下はいやしい奴隷の家に至るまで、初児という初児は、人でも、獣でも、残らず死に果ててしまう、昔からかつてないほどの大きな嘆きがエジプト全土におこるであろう、しかし、イスラエル人の家には、イヌの鳴き声すら聞こえまい、と言い捨ててかえりました。

63 過ぎ越しの子羊
 モーゼとアーロンは、ファラオの前を退くや、イスラエル人民を集めて神様の御命令を伝えました。
「この月(3月)の14日の夕方になると、傷のない今年生まれの雄の子羊を殺し、その血は門の鴨居と両側の柱とに塗り、肉は骨を折らないように焼き、酵(たね)の入らないパンに副え、苦い野菜と共にこれを食べる。この夜は過ぎ越しである。神様がエジプト全土をお巡りになる。人でも畜類でも、初児は残らず殺される。ただ、戸口に血を塗った家だけはそのまま過ぎ越しなさるのだから、仰せのようにやっておきさえすれば気遣いするには及ばぬ。」

 イスラエル人は、命令どおりにいたしました。はたして14日の夜中に、上はファラオの長男から、下は奴隷の総領に至るまで残らず死んでしまった。死人のいない家とては一軒もない。都も田舎も涙の雨に漂った。ファラオはうろたえて、夜中にモーゼとアーロンを呼び寄せ、早く国を出てくれるようにと頼み、国人もまた急ぎに急いで「出てください。一刻も早く。皆死んじまったら大変です。」と願いました。ここにおいてイスラエル人はモーゼとアーロンに率いられ、ヨゼフの遺骸を携え、400年ばかりも住んで随分と苦労を見たエジプトの地を立ち去りました。その数は、婦人子どもを別として、武器を執って戦えるほどの男子ばかりで60万からありました。みんなをあわせると、200万を下らなかっただろうかと思われます。

64 教訓
 過越しの子羊は、汚れなき神の子羊と、歌われ給うキリストをかたどったものである。この子羊の骨は折ってはならなかったが、キリストも十字架上でその骨を砕かれなかったのでした。イスラエルの民がこの子羊の血によって奴隷の鎖を解かれ、わが身の死滅を免れ得たように、キリストの御血を塗られ、その御肉を食する人も、罪の奴隷を解かれ、永遠の死滅を免れ得るのであります。

65 ファラオの追撃
 神様は、イスラエル人をエジプトの奴隷から救いだして、昼は雲の柱を彼らの前に立て、夜はそれを火の柱となして道案内をしてくださいました。彼らはやがて紅海の浜に出た。でも、ファラオはイスラエル人が国を空にして出て行ったのを見て、口惜しくてたまらない。急に大軍をくりだして後を追いかけました。今や、イスラエル人はまったく袋の中のネズミです。前には紅海の水が広々と横たわっている。後ろからはエジプトの大軍が押し寄せてきた。みな怖れて色を失い、あわて惑うていると、これまでイスラエル人の前にたっていた雲の柱がにわかに動いて後ろにまわりました。たちまち、イスラエル側はあかあかと真っ昼間のように照りわたったが、エジプト軍のほうは真っ暗闇となり、一寸先も見えなくなりました。

66 海中の大道
 その時、神様はモーゼに命じて、例の杖を海の上に伸ばさせなさいました。たちまち海の水は2つにわかれて、両側に壁のようにそばだち、中に広い大きな道ができました。イスラエル人は急いでその道を進み、難なく向こう岸に着きました。翌朝になって、エジプト軍はイスラエル人の後を追うて海中に入りました。彼らはみな馬にまたがるやら戦車に乗るやらしていたのですが、よい頃合いを見計らって、神様は彼らの車を覆し、馬を打倒しなさいました。彼らは驚いてわれがちにと逃げ出しました。しかし、モーゼが再び杖を海の上にさし伸ばすと、両側に壁をなしていた海水は、どっと勢い激しくもとへかえりました。ためにエジプト軍は一人も残らず荒波に引きさらわれ、屍となって浜辺に打ち上げられました。これを見たイスラエル軍は、いよいよ神様をおそれ、厚くモーゼを信じるようになりました。モーゼは有名な讃美歌を作り、姉のマリアは鼓に合わせて民と共にこれを歌い、神様の御恵みを感謝しました。

67 マンナと岩清水
 やがてイスラエル人は、モーゼに率いられて紅海の浜を出発し、シナイ山を指して進みました。これから先は、足を滑らす石ころや、つま先をかむ岩角の荒野で、青い草、緑の樹、岩間もる清水などは容易に見つからない。エジプトから携えてきた糧食さえ、だんだん食いつくして残りすくなくなりました。
「ああ、エジプトに居るとき死ねばよかった。肉鍋の前に座って、飽きるほど甘いパンが食べられたのに・・・」と、民はモーゼに向かって不平を言いました。モーゼは神様に伺いますと「夕方には肉を食し、朝にはパンに飽きることができる」というお答えを得ました。はたしてその夕方、おびただしい数のウズラの群れがテントの周囲に群がり下って逃げようともしません。いくらでも手捕りにすることができました。翌朝になると、霜のような白く丸いものが砂の上に落ちている。民はそれを見て、「マヌ、マヌ」(何だろう、何だろう)としきりに不思議がっています。
「これは、神様からくださったパンです。みな今日の入り用だけを拾いなさい」
とモーゼは神様の仰せを伝えた。それからその白玉には、マンナという名がついた。マンナは、麦粉に蜂蜜をまぜたような、おいしい味をもっていました。イスラエル人は、カナアンの地に入るまで40年間というものは、このマンナによって命をつないだものであります。
なお進んでいくと、今度は一滴の水すらない荒野に出た。民は神様に祈って水を求めようとはしないで、例のごとくモーゼに向かって不平をこぼした。モーゼは神様のおぼしめしを伺い、民の長老たちを率いて大きな岩の前に立たせ、杖をもってこれを打ちました。たちまち甘い清水がサラサラと岩から流れ出た。人も家畜も乾いた喉をうるおして、よみがえったような心持になりました。

68 教訓
 イスラエル人が紅海をわたって、ここに全くエジプトの奴隷を免れたように、私たちも洗礼の水をわたって、悪魔の奴隷より救われ、契約の地である天国へ帰るべくこの世の荒野を旅行しているのです。日々の糧としては、マンナよりも限りなくすぐれた聖体があるので、これの拝領を怠りさえしなければ、途中飢え渇きに疲れて倒れるような気遣いはないのであります。

69 シナイ山
 イスラエル人は、エジプトを出てから3ケ月目にシナイ山の麓に着きました。この山はシナイ半島の南、荒野の真ん中に絶壁のように突っ立っている大きな大きな岩山で、高さ7360尺もあります。(注:標高2285メートル)前に、モーゼが燃え上がる藪を見たホレブ山も、この山の一角であったのです。山の麓には、清水も湧けば青草の茂ったかなり広い平地もある。イスラエル人は、その平地にテントを張って、一年間も滞在しました。さて、イスラエル人が、シナイ山に到着するや、神様はモーゼを山上に召し上げ、今度イスラエルの民と特別の関係を結びたい、民が自分の戒めを守りさえすれば、彼らを選ばれた民となし、世界のどんな民よりもこれを愛し、ありがたい恵みをも施すべき旨をお諭しになりました。モーゼは山を下ってその旨を民に伝え、おのおの身を清め、衣服を洗い、3日の間それぞれに準備して待つようにと命じました。

70 十戒
 3日目の朝になると、にわかに雷がとどろき、いなずまがひらめき、大きな雲が深く山をたてこめ、ラッパの音さえも激しく鳴りどよめきました。モーゼは天幕の中に小さくなっている民を引き出して、山の麓に近づいた。今こそ神様が山に御降りになったので、山は盛んに煙を吐き、ほのおをあげ、ラッパの音は次第に高く遠く峰に響き谷に流れてくる。このような凄い勢いの中から神様は、厳かな声を放って、契約の条件をお諭しになりました。その条件は、10の戒めになっているので、常にこれを十戒と呼びなすのであります。

1 我は主なる汝の神なり。我のほか汝(なんじ)に神あるべからず
2 汝、主なる汝の神の名をみだりに呼ぶなかれ
3 汝、安息日を聖日とすることを記憶ゆべし
4 汝、父母を敬うべし
5 汝、殺すなかれ
6 汝、姦淫するなかれ
7 汝、盗むなかれ
8 汝、偽証するなかれ
9 汝、人の妻を恋ゆるなかれ
10 汝、人の所有物を貪るなかれ


71 契約の血
 やがてモーゼは民を天幕に帰し、自分ひとり山に登って神様の尊前に近づきました。そして、これから神から選ばれた民として守るべき律法を細々と承り、これを民に伝えると、民は等しく声をそろえて、「仰せのように守ります」と答えました。よってモーゼはみことばを書物に記し、犠牲を屠してその血の半分は祭壇にそそぎ、半分は民に振りかけて、「これは、神様が汝等と結びくださる契約の血であるぞ」と申しました。


72 金の仔牛(こうし)
 それからモーゼはアーロンに留守を頼んで、3たび、山の頂に登り、40日間も山籠りをしました。その間に神様は、まっかな火焔の立ち昇るなかにあらわれて、聖幕屋、契約の櫃、種々の祭式、祝祭日にあたることを逐一指図し、終には十戒を刻んだ2枚の石版までもお授けになりました。
民は、モーゼが一向に帰って来ないのを見て、もう、とても生きてはいないのだと思い、たった今、神様と取り交わした契約をも打ち忘れ、アーロンに迫って金の仔牛を造らせ「これが、われわれをエジプトからお連れ出し下さった神様よ」と言って、皆その前に集まり、飲めや歌えと、からさわぎをやりだしました。そこにモーゼが山から下ってきました。この有様を見て、憤慨に堪えず、いきなり十戒の板を岩にたたきつけ、金の仔牛は火の中に投げいれ、砕いて粉微塵となした。それからレビ族の者に命じて、偶像を拝んでいる者は、見当たり次第斬って棄てさせました。翌日モーゼは神様の尊前にひれ伏して、民のために罪の赦しを求めました。そうしたうえで、2枚の石板をこしらえて今一度山に登り、40日間断食して祈り、再び十戒を書きつけて戴きました。

73 教訓
 血をもって契約を固めるのは、昔からどこにでも広く行われた習慣で、モーゼも神様とイスラエル人との契約の固めとして犠牲の血を注いだのでありました。
その時の契約がいわゆる「旧約」で、後日イエズス・キリストがカルワリオの十字架上から、その尊い御血をそそいで人類と取結んでくださった契約は、これを「新約」と呼ぶのであります。


75 契約の櫃
 至聖所は、「契約の櫃」を安置するところでした。「契約の櫃」とは、アカシアの板で造った箱で、内側にも外側にも純金を張り、その中に、十戒の石板とマンナとを収めてあります。櫃の蓋は、純金で造り、両端には、2位の天使が向かい合って中央を見つめた像を飾りつけてある。この蓋を、「贖罪所」と呼び、神様は常にここから御旨を民に伝えたり、民の嘆きをきいたり、罪を赦したりしたもうのでした。至聖所に入れるのは、大司祭のみで、しかも、一年に一度きりでした。聖幕屋の外は、広い露天の庭になり、そのなかでいけにえを焼いて神様に捧げるための祭壇、司祭たちが手足を洗うためのタライなどが供えてあります。

76 司祭とレビ人
 モーゼは、祭祀をつかさどり、もっぱら神様の奉仕に当たらせるがため、レビの一族を選びました。まず、アーロンとその4人の子にオリーブ油を注いでこれを祝別し、アーロンを大司祭に、4人の子を司祭に任じ、残りのレビ人には、司祭の手伝いをさせることにしました。

77 安息日と安息年
 毎週1日を安息日として、一切の労働を休むことは、世の始めからの規定で、十戒の中にもその明文がでてきます。7日に1日を聖とするように、7年に1年を聖として、これを「安息年」と名づけ、この年には土地を休ませて種子をまかない。ブドウ畑にも手入れをしない。この年の間は、借財の支払いを請求することもできないのでした。安息年を7たび重ねた49年目の翌年を、「大赦の年」と称します。やはり安息年も同様に種子をまいたり、ブドウ畑の手入れをしたりすることはできない。イスラエル人で奴隷となっている者は許されて自由の身となる。借財は全く帳消しになる。人手に渡した田畑も無料でもともとどおりに返還してもらえるのでした。

78 祝祭日
 年中の祝祭日で、過越祭、ペンテコステ、幕屋祭の3つは、イスラエルの3大節でした。過越祭は、国民がエジプトの奴隷より救われた記念祭で、3月の14日から21日までの都合1週間続いたものであります。ペンテコステは、過越祭から50日目に当たり、シナイ山で十戒を授かったのを記念するのでした。幕屋祭は、40年間荒野をさまよい、テント住まいをしたことを記念する秋の祭りで、その1週間というものは、おのおの自宅を出て、柴の仮小屋に住み、盛んに祝ったものであります。

79 贖罪の日
 幕屋祭の5日前を、「贖罪の日」と言い、民が1年間犯した罪を贖い、赦しを願うことになっていました。まず、2頭のヤギを聖幕屋の前に引き出して、一頭を「神様のヤギ」、一頭を「おいたてのヤギ」と定めます。それから大司祭は、自分と家族の罪を贖うがため、仔牛を屠り、その血をもって至聖所に入り、指をもって7たびこれを「贖罪所」にそそぎかける。次に、「神様のヤギ」を屠り、その血を携えて再び至聖所に入り、指をもって7たびこれを「贖罪所」にそそぎ、民の罪のために汚れたのをきよめる。聖所、香壇も同じようにきよめ終わります。
 その次に、「おいたてのヤギ」の頭に両手を置き、イスラエルの民の罪、不足、過失を残らずこれにいいかけ、その後、人に曳かせて荒野においたてさせる。屠った仔牛も、ヤギも、汚れたものとして陣営の外に持ち出し、残らず焼き棄てるのでありました。

80 教訓
 おいたてのヤギは、イエズスキリストが全人類の罪を負わされ、エルサレムの町外においたてられ、殺されなさったところを、立派にかたどったものではありませんか。

81 12人の偵察部隊
 滞留1ケ年の後、イスラエル人は、シナイ山の麓を立ち進んでファランの荒野に入りました。しかし、少しでも道中が困難になるか、飲み水に困るか、食物に不自由をみるかすると、かれらは例によって神様にむかってつぶやき、モーゼに不平を陳したものである。しかし、神様はいつも、ならぬ堪忍をして彼らのつぶやきを聞き流し、彼らが悔い改めるとすぐにその罪をお赦しくださるのでした。イスラエル人は、北へ、北へと進んで、ついにカデスというところに着きました。もうカナアンの地もあまり遠くはない。モーゼは、各族から一人ずつ、都合12人の偵察部隊を使わして、土地の様子を探らせました。偵察部隊は、40日もかかって、カナアンを南から北へとくままく見回り、ヘブロンの付近からは大きなブドウの一房を切り取り、二人がかりで担って帰りました。そのブドウを民に見せて「それは実に立派な土地です。乳と蜜の流れるというのはウソではない。しかし市街は大きく城は堅固だ。民もなかなか強く、体は馬鹿に大きい。我々をそばに持っていったら、ちょっとイナゴとしか思われない。」と言いました。それを聞いた民は皆大いにおそれ、「ああ、エジプトで死んでいたらよかったのに!むしろこの荒野ででも死んだがましよ。そんな土地へは行きたかないものだ」と、夜もすがら泣き叫んで仕方ない。モーゼとアーロンがいくらなだめても聞き入れない。さすがの神様もついには堪忍袋が破れて、彼らを残らず滅ぼしつくすと言いだしなさいました。モーゼは相変わらず御前にひれ伏して、一心に御憐みを祈りました。しかし、イスラエル人の不平不満の程度もあまりにひどいものでしたから、今度ばかりはそう易々とお赦しになりません。
「汝らの言葉のわが耳に入ったように致すであろう。20歳以上のもので、我に向かって不平不満を言った者は契約の地に入ることはできない。みな、屍をこの荒野に横たえるのだ。ただ、子どもだけを引き入れて、汝らの好かない土地を見せてやろう。あの地を視察するのに40日間費やしたから、1日を1年に見積もり、40年間、汝らはこの荒野にさすらわねばならぬ。」と言い渡しなさいました。こうなってはもう、いたしかたない。民はモーゼに従い、40年の間もファランの荒野をさまよい歩き、エジプトを出るときに大人となっていたものは、ヨズエとカレブの2人を除き、みな荒野の露と消え失せました。

この、ファランにさまよっている時分のことでした。モーゼのいとこにあたる、コレというものが、アーロンの司祭職を奪おうと謀り、ルベン族のダタン、アビロンをはじめ、250名もの大勢を味方にだきこんで、モーゼとアーロンに反対をしました。神様は、懲らしめのため、彼らに厳しい罰をお降しになりました。ダタンとアビロンの2人は、急に地が裂けて、生きながら妻子、家財、天幕もろともに呑み込まれてしまいました。そのとき、コレと250名は聖幕屋の前に立っていたのですが、これも、神様のおん前から不思議な火がでてきて、残らず殺されました。

82 銅のヘビ
 月日は流れ、40年の放浪も、いつしか終わりに近づきました。モーゼはいよいよカナアンに攻め入ろうと、民を率いてエドム国境に達し、国王の許へ使者を遣わして、路を通らせてほしいと申し入れました。エドムの王が承諾してくれなかったので、やむをえず南のほうへ大きく迂回をしました。ホルというところへ辿りついたとき、アーロンは死んで、子のエレアザルがかわって大司祭となりました。それからホルを発して南へ南へと下り、焼き付けるような石ころの道を何日も歩かせられたので、民は疲れてへとへとになり、またもや、神様とモーゼに対して不平を言いました。神様は罰のために毒ヘビをはい回らせなさいました。それに噛まれて死ぬものが多数出ました。民は恐れて痛悔し、
「どうぞ、神様に祈って、このヘビを退治してください」
と、モーゼに願いました。
「銅のヘビを作って、さおの上に建てよ。ヘビに噛まれた者がそれを見ると生き上がる。」
と、神様はモーゼにおっしゃってくださいました。果たして、死にかかった者でも、そのヘビをながめるとたちまち生き返るのでありました。

83 モーゼの永眠
 モーゼは進んで死海の東北に出て、アモレ人を破って、セオンとオグの2王を斬り、ヨルダン河の東側にあるガラアドの地を残らず征服しました。しかし、自分は神様のおぼしめしにより、契約の地へは入れないことになりましたので、ヨシュアを後継ぎに立て、民を集めて最後の遺訓をなし、神様の御ことばを忠実に守るように、くれぐれもいいきかせました。救い主の御降りになることをも預言して、「主は、私のような預言者をお遣わしになるであろうから、よくそれに従わなければならぬ」と告げました。それから、ネポという山に登り、イスラエル人民にたまわるべきカナアンの青い山、広い野、うねうねと流れるヨルダン川などをはるかに打ち眺めて、神様を賛美し、そのまま永い眠りに入りました。時に歳120歳で、民は30日間その死を嘆き悲しみました。

84 教訓
 モーゼはキリストの前表でした。キリストのように神様のおきてをのべ伝え、その奇蹟、その預言、その聖徳の光をもって自分の使命が偽りでないことを証拠だてました。ことに、いつも柔和、謙遜で、どんな無理を言われても、じっと耐えしのび、かえって無理を言った人々のために祈ってやった点などは、実にキリストそっくりと言わなければなりません。

第20課 カナアンの征服

85 ヨルダン川を歩いてわたる

 モーゼの死後、ヨシュア(ジョシュアあるいはヨズエ)は、民を率いて、ヨルダンの川岸まで押し寄せました。時は、4月ごろで、上流の山々から落ちてくる
雪解け水は、だぶだぶと早瀬をなして流れました。ですから、とても川を歩いてわたることなど、できそうにありません。でも、ヨシュアは、神様のおん助けにすがり、司祭たちに命じて契約の櫃を担がせ、まっ先にすすませると、不思議にも川上の水はぴたりと止まって、ひとしずくも流れなくなりました。反対に、川下のほうにはどしどし流れ下りました。民は、足も濡らさずに、この大きな川を歩いてわたることができました。川をわたって、ガルカラというところに、天幕を張り、過ぎ越し祭を行い、畑の麦を刈り取ってパンを焼くやら、穂のままにあぶるやらして食べました。40年のあいだ、常食としていたマンナも、このときから降らなくなりました。

86 エリコを陥落させる
 ガルカラから少し進むと、エリコの町があります。四周は頑丈な城壁でめぐらされ、たいへん堅固に構えています。これを攻め落とさなくては、カナアンの
征服は考えられません。ヨシュアは、神様の指図に従い、武装した兵士を先頭に進ませ、次に契約の櫃を担いだ兵士またその次に群衆という順序でしずしずと城をひとめぐりさせてガルカラへ帰らせます。6日間は毎日同じことをくりかえし、7日目には、7回城をめぐらせ、最後に、司祭の吹き鳴らすラッパを合図に、一斉にときの声をあげ、ワァワァと天地も崩れんばかりに叫ばせました。すると、城はたちまちガラガラと崩れ落ち、イスラエル人はそれに乗じて四方から潮のように突入し、難なくエリコを攻め取りました。

87 カナアンの征服と土地の分配
 このころ、カナアンの地は、多くの小さな国にわかれ、それぞれ王を戴いて独立していました。ヨシュアがエリコを陥落させたと聞くや、彼らは皆、たいへんおそれ、エルサレム以下5ケ国の王が互いに同盟してヨシュアに抵抗を試みました。しかし、ヨシュアが急に軍をひっさげて突進してきたので、散々な敗北をくらい、命からがら逃げ失せました。ベトロンの坂を走り下っていると、神さまが、大石のような雹(ひょう)を頭の上にふらせなさったので、多くはそれに打たれて死にました。時に、日はすでに西の山の端に傾いてきました。敵兵は、まだずいぶん残っています。夜に入っては、どうすることもできません。ヨシュアは、熱い熱い信仰をもって神様に祈りました。
「日よ、ガバオンの上にとどまれ、月よ、、おまえはアヤロンの谷に休んでおれ」と命じました。
神様は、ヨシュアの望みに応じてくださいました。日も月も、そのままとまって、すこしも動かなくなりました。それから勝ちに乗じて南を攻め、北を討ち、6年ほどのあいだに、おおよそカナアン全土を征服し、12族をシロというところにあつめ、くじをひかせて土地を公平に分配しました。ヨシュアは、112歳になって、最後の目を閉じました。死ぬ前に、イスラエルの長老たちを召しよせてあくまで神様にお仕えすることを、誓わせました。

88 教訓
ヨシュアも、キリストのかたどりでした。ヨシュアが骨身を惜しまず、南に北にかけまわって契約の地を征服し、契約の地を国民に分配した点は、キリストが一命をなげうって、わたしたちのために天国をお求めくださったのに、よく似ているではありませんか。

旧約のはなし (旧約聖書入門) 第21課-第27課

2014-12-31 12:31:07 | 旧約のはなし
第21課 デボラとゼデオン

89 判士時代

 ヨシュアが世を去ったのち、神様はイスラエル全国を一つにとりまとめてこれを治めるような人物をおあたえになりませんでした。12族とも、各々その族長によって支配され、お互いの間は独立の姿となり、わずかに宗教の綱をもって結ばれるというのみでした。それにしても、長らく荒野をさまよい、驚くような奇蹟を目の前で見た老人たちが生存している間は、民も、神様の道をまっすぐに歩き、右にも左にもそれないのでした。でも、その老人たちが死に果て、青年が変わって第二の国民となると、いつしか神様をわすれ、周囲の異教者たちにならい、偶像を拝むようになりました。すると、神様は、彼らを敵の手にわたして豪い目にあわせました。それで、かれらが迷いの目をさまし、悔い改めてゆるしを願えば英雄を起こして敵の手から救いだしてくださるのでした。
 この、判士というのは、12族を統一して政治を行う君主でもなければ民の訴えを聞く裁判官でもありません。ただ、敵を打ち破って国民を奴隷の苦しみから
救い出してくれる一個の武将であるにすぎなかったのです。
 ヨシュアが死んでから、サウルが国王となるまで300年あまりのあいだに、かわるがわるたちあがって、国民を救った判士は、すべて15人でした。その中で、特に名高いデボラ、ゼデオン、サムソン、サムエルの話だけを掲げておきます。

90 デボラ
 イスラエル人は、偶像をおがんだ罰で、カナアン人の奴隷となり、20年間も非常な圧政をこうむりました。これに懲りて、自分たちの過失を悟り、偶像を棄てて神様のほうへ立ち返ったので、神様は、女預言者デボラに「立ち上がって、国民を救え」と命じられました。デボラは、神様のおおせを、うけたまわると、バラクという豪傑と、兵1万を集めて、タボル山に布陣しました。敵の大将シサラは、山の下を流れるシソン河の岸に大軍を備え、イスラエル軍が水や食料を切らして山から下ってくるところを、たった一撃で叩き潰そうと待ち構えていました。デボラとバラクは、そんな悠長なことはいたしません。全軍に命令し、まっしぐらに山を下り、敵軍めがけてわきめもふらずに突入しました。不意をつかれた敵は、ただうろたえ騒ぐばかりで、何をどうすることもできませんでした。これに加えて、大あらしがおこり、シソン河の渓流はにわかに水かさが増し、逃げ行くカナアン兵を押し流してしまいました。これは、かなわない、と、大将シサラは、走りだして、逃げました。幸運なことに、ハベルという人のテントが見つかったので、その中に隠してもらいました。もう、へとへとに疲れきっていたうえに、ハベルの妻に、牛乳まで御馳走になったものだから、急に、張りつめていた気がゆるんで、ぐっすり眠ってしまいました。ところで、このハベルという人は、モーゼの遠い親戚にあたる、ホバブの遠い子孫にあたり、イスラエル人の味方でした。妻のヤイルは、良い頃をみはからい、テントを張るために使う釘と槌とをもってきて、シサラの頭を地面に打ち抜きました。デボラは、有名な讃美歌を作って今回の大勝利を歌い、神様の御恵みを感謝しました。

91 ゼデオン
 判士のうちで、最も名高いのは、ゼデオンです。イスラエル人は、異教の神、バールを祀って天罰をこうむり、マジアン人に征服されてたいへんな難儀をみました。でも、彼らが悔い改めると、神様はゼデオンという豪傑を起こして、かれらを救わせなさいました。ゼデオンは、早速、兵3万あまりを募って、ゼルボエ山の中腹に陣どりました。しかし、神様は全能です。敵を打ち破るのに、必ずしも武器や兵力の必要がありません。ゼデオンに命じて、ただ、300人だけを残し、他はすべて帰宅させなさいました。ゼデオンはその300人を3手にわけておのおのにラッパと、たいまつを入れた土焼のつぼをもたせ、夜のあいだにそっと山を下りました。敵は、13万5千の大軍でした。ですから、イスラエル方をあなどって、みな、グウグウと高いびきをかいていました。ゼデオンは、難なく敵陣に忍び入り、急にラッパをふきならし、つぼを破ってたいまつを取りだし、300人が同時に口をそろえて、ときのこえをあげました。ねぼけかえった目先に、たいまつがあかあかと燃え、ラッパの音は、耳をつんざかんばかりなので、敵はすっかりそれに気をのまれて、互いに踏みあい、へしあい、果ては同志討ちをするやらして我がちに逃げ失せました。すると、道筋のイスラエル人がみな立ち上がってこれを追いうち、さきほどの大軍を、ほとんどみなごろしにしてしまいました。

92 教訓
 判士時代には、12族がおのおの独立の姿になっていました。それだけ国民の団結力は弱く、敵に乗じられる欠点はまぬがれることができなかったのです。しかし、一方から考えると、別に首領というものもなく、神様が直接に民の王となり、その悪を罰し、その善を賞してくださるので、神様と民との関係が密接となり、唯一にして全能、正義にして憐み深いという神様の思想を、深く民の頭にしみこさせるという利点がありました。

第22課 サムソンとサムエル

93 サムソン
 ゼデオンは300の小勢力で、マジアンの大軍をみなごろしにしましたが、サムソンは、たった一人で、フェリシテ人(フィリスチン人)を思う存分悩ましたのでした。フェリシテ人は、カナアンの西、地中海沿岸一帯の地に居住している民で、イスラエル人にとっても、最も強く、おそろしい敵であったのです。サムソンは、たぐいない腕力を神様から恵まれていました。狂いかかるライオンでも、取り押さえて引き裂くくらいは、簡単にできるのでした。あるときなどは、野犬を300匹もとらえてきて、2匹ずつ尾と尾とをつないで、それにたいまつをしっかりくくりつけて火をつけフェリシテ人の麦畑にかりやりました。季節は、麦が早くも黄色に熟れ、オリーブやブドウは若葉をしげらせた初夏のころでした。野犬は尾が焼けるのに驚いて、畑の中を縦横無尽に狂いまわったので、フェリシテの平野は、みるみる火の海となり、麦もブドウもオリーブも、すっかり黒こげになってしまいました。フェリシテ人は、怒って兵3000を出し、ユダの地に攻め入りました。ユダ族の人々は、恐れてサムソンをとらえ、2本の新しい綱でしばって、フェリシテ人の陣へ連れて行きました。フェリシテ人は、「しめた」と大声あげて踊り喜びました。陣を出て、サムソンを受け取りました。すると、今までおとなしくしばられていたサムソンは縛られていた綱をふっつりと引き切り、その場にありあわせたロバのあご骨をふるって敵陣の中を暴れまわり、やにわに1000人を撃ち殺しました。ある日のことでした。サムソンは、フェリシテの都ガザに行って、悠々と遊んでいるところを敵にさとられ、町の門を閉め切られてしまいました。夜中に起きて、町を出ようとすれば、門は固く閉まっています。サムソンは騒がず、門柱に両手をかけ、錠前、かんぬきもろともに地面から引き抜いてとおいヘブロン近くの山へ、担ぎあげました。フェリシテ人は、いよいよ、サムソンの腕力の不思議なことに驚きました。どこからそんな力がでるものか、それをさぐりたいとしきりにあせりました。いったい、サムソンは、「ナザレ人」すなわち、神様にささげられたもので、
あたまにかみそりをあてることができません。かれの腕力はそこにあったので、万一、頭髪をそりおとしたものなら、たちまちその地からは抜けて、ただの人と異なるところはないはずでした。サムソンも最初のうちは、固く秘密を守り、これを敵にもらさないようにしていたのですが、最終的には、女にだまされて、とうとうありのままを口走りました。でも、その女はフェリシテ人に買われていたのですからたまりません。サムソンが眠っている間に、頭髪をそりおとして難なくこれを、敵の手に引き渡しました。フェリシテ人は、大いに喜び、かれの目玉をえぐりだして牢屋にぶちこみ、毎日ひきうすを回させ、いやというほど彼を苦しめ、多年の恨みを報いました。そうしているうちに、サムソンの頭髪が次第に伸びてそれとともに腕力も以前にもどってきたように感じました。サムソンは、心ひそかに復讐のときをねらいました。ある日、フェリシテ人らが、フェリシテ人の神ダゴンの堂に3000人を集めて祝賀会を開き、歌ったり踊ったり大騒ぎをしました。果ては、サムソンをあざけり笑ってなぐさみものにしようと、サムソンを牢屋から引っ張りだしてきて、大きな2本の柱の間に立たせました。サムソンは、今こそ、と、神様のおん助けを祈りつつ、両手を2本の柱にかけ、満身の力をしぼってこれをゆさぶりました。さすがの殿堂も、サムソンの剛力にあってはひとたまりもありません。メリメリと大音響を発して倒れ、堂内の敵は、数知れず押し殺されました。サムソンも、その下敷きとなって、死にました。

94 サムエル
 判士時代には、聖なる幕屋は、エフライムのシロに据えられていました。大司祭がその守護にあたっていました。サムソンがフェリシテ人を悩ましているころ、シロにはヘリという大司祭があり、イスラエルの判士をも兼ねていました。そして、丁寧に民に教えを導いていたものでした。そのころ、エフライムの山の中に住んでいるレヴィ人にエルカナという、信仰堅固な人がありました。妻のアンナは、子どもが一向にできないので、それをたいへん悲しみ、ある年、シロに参詣して熱く祈りました。もし、神様が自分をあわれんで男子をおあたえくださったら、一生涯御前において奉仕させることを誓いました。神様はアンナの祈祷をお聞きいれくださいました。うまれた児は、はたして、男子でした。「サムエル(神の申し子)」と名づけ、3歳になると、サムエルをシロへ連れて行って、ヘリの手にあずけ、死ぬまで神様に奉仕させることとしました。サムエルは、年と共に賢い、信心な、世にも稀な少年となりました。その反対に、ヘリの2人のこども、オフニとフィネエスはどうも心根のよくない、人に鼻つまみされるような悪人でした。身は司祭の貴い職にありながら、人々が神様に犠牲をささげていると、その肉を強奪して、自分の腹を肥やすというふうに、神様を礼拝するということには、全く心を留めません。ヘリも、それには一方ならず胸を痛めながら寄る年なみに、もはや腰はかがみ、眼もかすんでいるので、厳しく彼らを戒め、悪行をやめさせる力もないのでした。ある夜、神様はサムエルにあらわれました。そして、ヘリの一家に恐ろしい天罰をくだすであろうことをお告げになりました。はたしてその夜、フェリシテ人が攻め入ってきました。イスラエル人は、防衛のために戦いましたが、大いに敗れました。神様のおん助けを求めるため、シロから契約の櫃を陣中に迎え取りました。でも、その契約の櫃を担いでいたのが、オフニとフイエネスでしたから、とても神様の御憐みをこうむり得るはずがありません。前回以上の大敗北をくらい、契約の櫃は的に奪われ、オフニとフイエネスは戦死しました。ヘリも、その悲しいしらせに驚いて、椅子からどっと倒れ、頭の骨を砕いて死にました。フェリシテ人は、今度の勝利は、まったく、フェリシテ人の神、ダゴンのお陰と思い、分捕り品のなかでも一番貴い、契約の櫃をダゴンの堂に奉納しました。ダゴンは上半身が人間で、下半身は魚の形をしたフェリシテ人の偶像です。翌朝、堂にはいってみると、ダゴンの像は、契約の櫃の前に倒れてうつ伏せになっていました。驚いて抱え起こし、もともとのとおりに据え置きました。その次の朝に行ってみると、ダゴンは、またまた倒れ、首と両手はちぎれて床の上に投げ出されていました。それとともに、フェリシテ人には、おそろしい疫病がはやり、畑にもおびただしい野ネズミが出て、何から何まで食い荒らしてしまいます。フェリシテ人は、おおいに恐れ、相集まって協議を重ねました。その結果、新しい車をつくって、その上に契約の櫃を載せ、2頭のメス牛にひかせて、イスラエルの地に送り還しました。ヘリの死後、サムエルが判士となり、民を諭して偶像を取り棄て、誠意から神様に仕えさせました。フェリシテ人が攻め込んでくると、神様のおん助けによって大いにその軍を破りました。そのため、フェリシテ人は、長いあいだ、イスラエルとの国境をうかがうことができなくなりました。

95 教訓
 判士時代は、サムエルで終わります。これから王国になるのです。ヨシュアが死んでから、ここにいたるまで、少なくとも、300年は経過していると思われます。

第23課 ルト(ルツ)の孝養

96 ベトレヘムの飢饉
 判士時代は判士時代でしたが、どの判士時代と年代は確かにはわかりません。ベトレヘムにエリメレクという人がいました。ある年、ひどい飢饉にみまわれて、やむをえず、妻のノエミ(ナオミ)と二人の子どもを伴い、モアブの地に移住しました。モアブは、死海の東に位置し、ロトの子孫が建てている国です。そこに移住してから、まもなくエリメレクは死にました。2人の子どもは、それぞれ、オルファとルトという女をめとって、どうやら細い煙をたてていましたが、この2人の子どもも、10年ばかりのうちに死にました。

97 ノエミの帰郷
 ノエミは、もう、年はとるし、異郷にあって頼るものはいないし、幸い、ベトレヘムの飢饉は止んだという話を耳にしましたから、ついに、家をたたんで帰国することにしました。2人の嫁も、ついてきました。ノエミは、2人の身の上を、かわいそうに思い、言葉を尽して、実家へ帰るように勧めました。2人は、すすり泣きして、「ぜひとも、一緒に連れて行ってください」と願って、しかたありません。しかし、向こうへ行っても、将来の見込みがあるわけではありません。2人の若い身の上があまりかわいそうなので、ノエミは、強いて帰宅させようとしました。オルファは、やっとその言葉に従い泣く泣くノエミにいとまごいをして里へ帰りました。でも、ルトだけは、どうしても動きません。
「私は、お義母さんのおいでになるところへ行きます。お止まりになるところに止まります。お義母さんの民は、わたしの民、お義母さんの神様は、わたしの神様です。お義母さんが眼をつむられるところに、わたしも死んで葬られます。死に別れるまで、どんなことがあっても離れません」と、盤石より固い決心を見せました。
貧しい、老いた姑に、ついてゆき、どこまでも行こうどんな難儀でもいといません。というルトの志は、実に見上げたものではありませんか。ノエミも、彼女の美しい志に感動し、そのまま連れだって、ベトレヘムへ帰りました。

98 ルトの孝心
 帰ってみると、ちょうど刈取の季節でした。モーゼの律法によると、刈入れのときに落ちた麦穂は、貧民が勝手に拾ってよいことになっていました。よって、ルトは、ノエミの承諾を得て落ち穂拾いに出かけましたが、幸い、その畑主は、エリメレクの親戚にあたる、ボオズという豪農でした。ボオズは、畑を見回りにいって、ルトの熱心な働きぶりにしみじみと感心しました。お昼には呼んで刈子と共に食べさせるやら、わざと麦穂をここかしこに落として、心おきなく拾わせるやら、いろいろと親切にいたわってやりました。ルトは日暮れまで働いて、一斗あまりの麦を拾い、それと昼飯の余りを持ち帰って義母を喜ばせました。それからも、毎日ボオズの畑へ行ってまめまめしく働き、一日もノエミに孝養を怠りません。ボオズはルトの心がけの美しさに、心の底から感服し、ついには、ルトをめとって妻にし、オベドという男子を生みました。このオベドの子がイザイ、イザイの子が有名なダヴィド王で、王の子孫に、世の救い主(イエズスさま)がお生まれになることになるのであります。

99 教訓
 ルトは、偶像を拝む国民のあいだに生まれながら、一身を棄て、姑に孝養をつくしたおかげで、まことの神様を知り、人には尊び愛され、ついには救い主の先祖となるという光栄を得ました。「孝行なものは、この世でも、後の世でも特別の恵みを得る」というのは、決していいすぎではありません。

第4期 王国の建設からバビロン捕囚まで

第24課 サウル王

100 サウル、国王に選ばれる
 これまで、イスラエルには国王がいません。神様が自ら王となって、直接にその民を治めてくださるのでした。しかし、民はそれを格別ありがたいとは思わない。
かれらは、ある日、サムエルのところへきて、「外国にはみな王様があります。私たちにも王様をお立てください」と願いました。国王を立てるなんて、それは神様を見捨てるのも同様だと思い、サムエルは民の願いをあまり喜びません。しかし、いちおう、神様に申し上げますと、神様は彼らの恩知らずの沙汰を面白くないと思われたのですが、しかし、御願いの趣旨はお聞きいれになりました。よって、サムエルは、仰せのままに、ベンヤミン族のサウルを選びこれにオリーブ油を注いで王として立てました。サウルは容姿のすぐれた、体の大きい、腕力の強い、それはそれは立派な青年で、おのずと王者の威厳をそなえていたものでした。サウルも、王となって当時は、よくサムエルの教えに従い、神様のおん戒めを忠実に守りました。したがって、神様にもかわいがられ、何をやってもトントン拍子で成功しました。東にモアブ、アンモンを破り、北にソバを討ち、南にエドムを退け、西に強敵フェリシテを打ち払いました。国民も、はじめて枕を高くして眠ることができ、サウルの名はいよいよ国の内外に響き渡りました。

101 ヨナタス(ヨナタン)の勇敢
 王子のヨナタス(ヨナタン)は、父にも勝った豪傑でした。即位2年の後、サウルは兵3000を選び、2000は自ら率いて、1000はヨナタスに授けて、フェリシテに備えました。それを見たフェリシテは、早速大軍をくりだして押しかけました。幸いイスラエル軍は山の上に陣をとり、その下が深い谷になっているので、敵も容易には近づくことができません。ある朝、ヨナタスは従卒をただひとり連れて、大胆にもその谷をわたり、険しい坂をよじのぼって敵陣に斬り入り、たちどころに20人ほども討ちとりました。フェリシテ兵はにわかに怖気づいて命からがら逃げ出すやら、互いに同志討ちをするやら、上を下へと大騒ぎをやりだしました。サウルはこの機を外さず軍をひっさげて敵を追いうち、思わぬ大勝利を得ました。

102 サウルの罪
 サウルは威名が挙がるにしたがい、そろそろ傲慢の鼻を高め、神様の御戒めに従わず、気まま勝手なことをするようになりました。シナイ半島に国を建てているアマレク人は、前方、ずいぶんイスラエル人を苦しめたものでした。よって、サウルは神様の仰せを承り、これを征伐して大いに勝ちました。しかし、人でも物でも一切滅ぼせという神様のご命令でしたのに、そうは致しません。賤しい民は殺したが、国王は生かしておきました。つまらぬ値打ちのものは滅ぼしたが、美しく肥えた牛や羊はそのまま国へ持ち帰りました。神様はとうとうサウルに見切りをつけ、サムエルに「ベトレヘムのイザイのところへ行け。そのこどものうちに、王を選んでおいたから」と、命じなさいました。サムエルは仰せのままにベトレヘムへ行き、イザイとその子どもを呼びました。年順にしたがい、7人のこどもがかわるがわるサムエルの前にでてきました。しかし、その中には、一人も神様のお選びになったものはいない。時に、末っ子のダヴィドというのは、野に出て羊を牧していました。それを呼ばせてみると、容貌の優れた、いかにも賢そうな青年でした。
「起きて油を注げ。これこそ私が選んだ者である」と、神様のお告げがあったので、サムエルは兄弟たちの前で彼の頭に油を注ぎ、イスラエルの王に選びました。でも、その日から直ちに王の位についたわけではありません。なお、20年ばかりも、サウルの下にあって、心を練り、体を鍛え、王者の道を学んだのであります。

103 ゴリアテ
 そのころ、フェリシテ人は、またもや国の南境に攻め入ってきました。サウルは兵を率いてこれを防ぎ、敵と狭い谷を隔ててにらみ合っていました。すると、フェリシテ方から、身の丈が一丈にも余るという巨漢のゴリアテが出てきました。見ると、青銅のかぶと、鱗綴のよろい、青銅のスネあてに身を固め、長い大きな槍をひっさげ、従卒に盾を持たせて前に立て、のそりのそりと両陣の間に進み、天地にとどろく大音声をあげ、
「さあ、誰でもよいから出てきて俺と勝負をいたせ。俺を殺したら、フェリシテはお前らに降参する。俺が勝ったら、おまえらが、フェリシテの奴隷となるのだ」と挑発しました。イスラエル軍は、彼の声をきいただけで、ブルブルと震えあがり誰一人相手になろうというものがいない。ゴリアテは40日もの間毎日朝夕2回ずつ出てきてイスラエル軍を辱めたものであります。このとき、イザイの子は、長男以下3人まで、サウルに従い、出陣していました。ある日、イザイは、ダヴィドを陣に遣わしてこどもの安否を問わせ、彼らに糧食をも送らせました。ちょうどダヴィドが陣にいるとき、ゴリアテが例のようにやってきました。イスラエル兵は1も2もなく縮みあがり、先を争って陣内へ逃げ込んだ。ダヴィドは歯がゆくてたまらない。自分が行って、奴を打ちとると言いだした。サウルは喜んで召し寄せてみると、まだ20歳前後の青年である。
「おまえはとても相手になれない。あれは若いときから戦場で腕を鍛え上げた勇士だよ」
「ご安心あそばせ。王様、私が父の羊を牧っていますとき、よく獅子やクマが来て羊を盗みます。わたしはいつも追っかけて取り戻したものです。もし、あやつらが、口惜しさに牙をむきだして狂いかかると、私はアゴをつかみ、のどをぐいと一締めして絞め殺すのでした。獅子やクマから、私を御救いくださった神様は、きっと、あのフェリシテの手からも御救いくださいます。」そういって、ダヴィドは王を安堵させ、一本の杖を携えて谷川に下り、つるつるした小石を5つほど拾って袋に入れ、投石機を手にして立ち向かいました。どんな奴がでてくるかと、ゴリアテは瞳を据えてよくよく見てみると、それは顔の赤い、ほんのかわいらしい坊っちゃんだ。
「やい、きさまは、杖で立ち向かうのか。俺をイヌだとでも思っているのだね。今にみろ、きさまの肉を鳥獣の餌食にしてやるから」
頭からバカにしている。ダヴィドは落ち着きはらって答えた。
「おまえは、槍や盾をもって戦うが、俺はな、お前がののしっているイスラエルの神様の御名をもって戦うのだよ」
「生意気な小童め」と、ゴリアテはドスドスと押し寄せてきた。ダヴィドも急いで走せ向かい、袋の石を取り出して投石機にのせ、ゴリアテめがけて投げつけました。狙いたがわず、石はゴリアテの額にポンと当たった。急所を打たれたゴリアテは、ドウとうつ伏せに倒れた。ダヴィドは飛び込んで行って、ゴリアテの刀を引き抜き、難なくその首を打ち落とした。フェリシテ軍はそれを見て肝をつぶし、算を乱して逃げ出したので、イスラエル軍は追撃して非常な大勝利を得ました。

教訓 
 ゴリアテを悪魔とするならば、わたしたちは力の弱い、無経験なダヴィドのようなものです。しかし、全能の神様を後ろ盾にしている。この神様の御名によって、戦うならば、どんな強敵でも難なく打ち倒すことができます。

第25課 度量の大きいダヴィド

105 サウルの嫉妬
 イスラエル軍は足取り勇ましく凱旋した。婦人たちは家をとびだして喜びむかえ、「サウルは千を殺し、ダヴィドは万を殺した」と、歌い囃しました。サウルはたちまち嫉妬の炎に燃えました。自分の位を奪う者はダヴィドに違いない、むしろ今のうちにこれを殺して、子孫の禍を除くのが一番よいと恐ろしい考えを起こしました。父王に反して、ヨナタスは、ダヴィドの勇気にしみじみと感心し、自分の上着や武器を与え、相約して無二の親友となりました。ゴリアテを倒した者には、長女を娶らせると、サウルはまえもって約束していたのですが、今となってはその約束を守らない。新たに条件をたてて、もし、敵兵100を斬ってきたら2女ミコルを与えるといいだした。姫を餌にしてダヴィドを敵の手にかけ、まんまと殺してやる考えなのである。ところが案に相違してダヴィドは200を斬って帰り、約束どおりにミコルをもらいうけて王の婿となり威名は、ますます高まっていくばかりでした。サウルはいよいよ気を苛立てて、ヨナタスに命じて殺させようとしました。
ヨナタスは早速ことのよしをダヴィドに告げて用心させ、自分は折をうかがい父の前へ出て、ダヴィドの功を数え、ダヴィドを殺すことが罪深い業であることを説いてその心を諫めました。サウルは2度も手槍を投げてダヴィドを殺そうとしました。しかし、そのつどダヴィドは巧みに身をかわして難を逃れました。サウルはついに、兵をつかわしてダヴィドの家を囲ませました。翌朝ダヴィドが起きて出るところを殺させるつもりだったのです。しかし、妻のミコルがいちはやくそれを悟り、ダヴィドを窓からつり降ろして逃がしてやりました。

106 ダヴィドの太っ腹
 サウルの嫉妬は、いつになってもかわりそうにありません。だからダヴィドは王のもとを去って、ユダの荒野に隠れました。すると、かねてからダヴィドを慕っていた兵士たちが馳せ集まってきて、たちまち400人ばかりの勢力となり、やがて600人に達しました。サウルは何とかしてダヴィドを討ちとろうとして、みずから兵3000を率いてこれを尋ねまわりました。しかし、どうしても捉えられないばかりではなく、反対に、2度も、ダヴィドから命を助けられました。というのは、ある日、ダヴィドが従者とほら穴の奥に隠れているとサウルはただひとり、それへ入ってきました。中は真っ暗ですから、外から入ったものには、さっぱり様子がわからない。しかも、内からは何もかもよく見えている。「今こそ、ただ一突きにやっつけなさい。」従者はしきりにすすめました。ダヴィドはやおら立ち上がった。足音をぬすんで王の背後に近付き、上着のすそをそっと切り取ったが、
「神様に油を注がれたものだ。手をかけてはならぬ。」といって、従者の心をなだめ、何の害をも加えません。王がほら穴を出ていくや、自分もその後を追い、
「王様、王様、」と呼びかけて、その上着の裾を見せました。王は、ダヴィドの、海よりも広く、花よりも美しい心にたいへん感心し、大声をあげて泣きながら自分の悪かったことを後悔してダヴィドに謝りそのまま引き上げました。
そのころサムエルが亡くなった。
イスラエル人は、大いにこれを悲しみ、手厚く葬りました。やがて、サウルはダヴィドに謝ったこともうち忘れ、将軍アブネルと兵3000を率いて、再びダヴィドの隠れ家近くへ押し寄せました。ダヴィドは夜中、甥のアビサイを連れて山をくだりサウルの陣へ忍び入ってみると、王は槍を枕もとにたてて、さも心地よさそうに眠っている。番兵までが深く眠りこんで、誰ひとりダヴィドの忍び入ったのに気づくものもいない。
「今です。今です。たった一突きに突き殺しましょう」とアビサイが言ったけれども、ダヴィドは許さない。
「神様に油を注がれた人を殺すのは、罪深い業だ」と言って、ただ、枕もとの槍と水筒だけを取って陣を出て、谷の向こうの山に登って、大勢で呼ばわりました。
「アブネル、アブネル、おまえは男子ではないかおまえほどの人はイスラエルにいないはずだ。それにどうして王様を守護しない。見よ、王様の槍も水筒もどこにあるかを」サウルはびっくりして目を醒ました。
「これはわが子ダヴィドの声ではないか。私が悪かった。どうぞ帰ってください。もう決して悪いことはしないから」と言いました。でも、ダヴィドは、サウルの変わりやすい心を信じられません。
「槍はここに置きます。誰かを取りにお遣わしください」と言い捨てて、そこを立ち去りました。

107 サウルの死
 それから1年半ほど経て、フェリシテ人が中部イスラエルに攻め入りました。サウルはこれを防いでゼルボエ山に陣を張りましたが、しかし、神様には見限られ、
失望しきって戦ったのですから、さんざんな敗北をくらい、王子ヨナタスをはじめ、多くのイスラエル兵は、枕をならべて討ち死にしました。サウルも重い傷をこうむり、今にも敵の手にかかりそうになったので、自ら胸を突いて死にました。ダヴィドはこの敗報を知って大いに悲しみ、サウルとヨナタスの死を惜しみ、名高い「弓の歌」というのをつくって民に歌わせ、誠心から哀悼の意を表しました。

108 教訓
 ダヴィドは、キリストの前表である。キリストにならい、自分を殺そうと謀ってやまなかった敵をも愛し、一度ならずその命を助けてやりました。その敵が死んだと聞くや、心から悲しんで泣きました。

109 ダヴィドの治世(紀元前1055-1015)
 サウルの死後ダヴィドは、かくれがを出てヘブロンへ移りました。ユダ族の人々は歓び迎えてこれを王とたてましたが、他の氏族はサウルの子イスボセトを戴いて王となし、ダヴィドに抵抗を試みました。しかし、到底ダヴィドの敵ではないと考えているところに将軍アブネルは死に、イスボセトも暗殺されたので、全イスラエルはこぞってダヴィドに屈服しました。このころまでエルサレムのシオン山には、カナアン人のエブス人が立てこもっていたのですが、ダヴィドは攻めてその城を陥落し、ここに都を定めて国家の基礎を固めました。それから兵を四方に出して、フィリスチン、アンモン、シリア、エドム等の諸国を平定し、東はユーフラテス川から西は地中海まで、南はエジプトの境から北はシリアに至る間の国々を、ことごとくその領土としました。

110 ダヴィドの敬虔
 卑しい羊飼いから成りあがって、このような大国の王とまで崇めらるようになったのは、全く神様のお陰なので、ダヴィドはいつになってもその御恵を忘れません。その頃まで、契約の櫃は、カリアチアリムというところにありました。ダヴィドはぜひともこれをエルサレムに迎えとりたいと思い、まず、シオン山に立派な聖幕屋を建てました。それから民を多く召集し、盛んな行列を作り、聖歌を歌い、音楽を奏でつつ、用意の聖幕屋に奉納しました。ダヴィド自身も、王者の尊厳を忘れ、竪琴を弾き、歌いつつ舞いつつして大いに喜びました。めでたく奉納し終わってから、たくさんの犠牲をささげて神様を礼拝し、その御恵みを感謝し、その御名をもって民を祝しました。それからダヴィドは宗教制度を一定し、まず司祭を24組に分けてかわるがわる神様に奉仕させることにしました。次に、レビ人に唱歌隊、音楽組、聖祭の手伝いなど、それぞれに役を割り当て、すこしの混雑もなく不都合も起こらないようにしました。ダヴィドは生まれながらに音楽が好きで、詩作に巧みでした。神様のみさかえを歌い、その御あわれみをほめたたえるため、気高くて、上品で、美しい詩を多く作りました。しかも、その詩の中には、救い主の御生活や御受難や、御復活等に関する預言さえ含まれているのが多くあります。これをとなえてみると、福音書でも読むような心持がするのであります。

111 ダヴィドの罪と罰
 これほど偉い、優れて、敬虔な国王でも、つい油断をして、大きな罪を2つまでも重ねました。ウリアという忠臣が、戦いに出ている間に、その妻と姦淫罪を犯し、ついにはウリアを敵の一番強い危険なところに出して討ち死にさせ、その妻をわがものとしてしまいました。もとより、預言者ナタンの手痛き忠告をこうむるや、ハッと迷いの眼を醒まして己の過ちを悟り、心から悔い改めました。有名な懺悔の詩までも作って、その痛悔の偽りないことを証しました。しかし、国民をつまずかせた罰はどうしても免れることができません。ダヴィドの第3子は、アブサロンと称し、容貌こそ美しいが、心の曲がった、随分と腹黒い男でした。父の位を奪って自らイスラエル王になろうと謀り、にわかに大軍を集めてエルサレムに迫りました。思いがけないことですから、さすがのダヴィドも策の施しようがありません。いちはやく家族を伴い、少数ばかりの臣下とエルサレムを抜け出て、はだしのまま身の不幸を嘆きつつ東を指しておちゆきました。途中でサウル家のセメイという男があらわれて、ダヴィド一行に石を投げつつ、さんざんにののしりました。「出て行け、出て行け。人の血を流した大悪人。今こそサウル家の血を神様が報い給うのだ。サウルの位を奪ったかわりに、今度はわが子アブサロンに奪われるのだ」あまりにひどいので、従者のアビサイがプンプン怒りだし、行って斬り棄てると息まいて仕方がない。王は静かに彼をなだめました。「よせよせ。神様がダヴィドを、のろわせなさるのだ。なぜそんなにのろうかと、とがめるわけはないじゃないか。生みの子さえ命を取ろうとする場合だもの、ベンヤミン族のものが悪口するぐらいは当然だ。彼を棄ておいてのろわしたら、神様もあるいは私を顧みてこののろいのかわりに御憐みをたれさせたまうかも分らぬよ。」といい、そのまま聞き棄てにしてそこを立ち去り、ヨルダン川を渡ってマハナイムの町に入りました。
 やがてダヴィドの旗下には、勤王の兵が馳せ参じました。アブサロンも全国の兵を募り自らこれを率いてヨルダン河を渡り、大きな山のなかに布陣しました。しかし、彼の兵は数こそ多いのですが、にわかに駆り集めた烏合の衆です。とてもダヴィド方の精兵には敵となれるはずがありません。さんざんに打ち破られ、先を争って右往左往へ逃げ失せました。アブサロン自身も、騾馬に鞭打って森の中を走っているとたん、その長い頭髪が木の枝にからみつき、騾馬はそのまま駆け行ってしまいました。ダヴィドの将軍ヨアブは、早速手槍を3本引っさげて、その場にはせつけ、アブサロンの胸にこれを投げつけて殺し、死骸は穴に打ちこみ、石を積み重ねて引き揚げました。天下は再びダヴィドに帰ってきました。ダヴィドは30歳で王となり、40年間国を治め、子のソロモンに後を継がせ、どこまでも忠実に神さまの戒めを守るようにと遺言して、死にました。

112 教訓
 ダヴィドは当時まれに見る豪傑、神様のみこころにかなう聖人で、敵の生命さえも保護してやるほどの広い大きな度量を持っていました。それにもかかわらず、ひとたび色情の虜となるや、神様のおとがめも、人の躓きもかえりみず、無二の忠臣さえも殺すに至りました。世に色情ほど恐るべきものがありましょうか。しかし、彼が預言者の忠告を蒙るや、正直に自分の過ちを認めてこれを痛悔し、わが身にふりかかる災難をも、罪の償いとして潔く耐え忍んだのま、1000年以上経った後でも、仰ぐべき立派な鑑であります。

113 ソロモンの知恵
 ソロモンは位についたとき、年わずかに20歳でした。しかし、父の遺言を守り、預言者ナタンのおしえに従い、厚く神様を愛し、右にも左にもそれなかったので、一層神様にかわいがられ、いろいろとありがたい御恵みをかたじけなくしました。ある夜のことでした。神様はソロモンにあらわれ、欲しいと思うものは何でも与える、遠慮なく申し出よ。とおっしゃってくださいました。ソロモンは、正しい裁きをなし、よく善悪を見分けるだけの知恵を与えていただきたいと願いました。ソロモンのお願いは、非常に神様のお気にいり、昔からかつてないほどの知恵を恵まれました。やがて、その知恵を試す機会が出てまいりました。と、申しますのは、ある日、2人の婦人が王の前に出て、裁判を願いました。
「私たち二人は、同じ家に住んでいました。ところで、この女は、夜中、誤って自分の子を押し殺し、そして私の寝息をうかがい、その死んだ子を私の子とすりかえて置いたものであります。」
「いや、それはウソです。死んだほうが、確かにこの女の、子どもで、生きているのは、私の子にちがいありません。」
証拠人がべつにあるわけではなし、どちらの言うのが真やら、さっぱりわからない。よて、ソロモンは臣下を顧み、生きた子を真っ二つに斬って半分ずつ2人に分けてやるように命じました。1人の女は、それを聞いて仰天し、
「どうぞ王様、子どもは殺さないで、このままあの女に与えてください」
と願いました。もう一人の女は、一向に平気で、
「この子は私のでもなければ、おまえさんのものでもないから、斬り分けてもよいじゃありませんか」と言っている。母の情として、とてもそんなことが言われるはずはない。
「よし。その子ははじめの女に与えよ。あれがまことの母じゃ。」と、ソロモンは早速判決を下しました。このことが早くも全国に響き渡り、民は皆王をおそれ、その深い深い知恵に感服しました。

114 神殿の建築
 これまで契約の櫃は天幕(テント)の中でしたから、ダヴィドも何とかして主の御威厳にふさわしい神殿を築いて、それに安置したいと思っていました。しかし、神殿建築のような大事業は、世の中が平和になり、心も十分落ち着いてから手をつけても遅くはない。それよりもまず、外敵を征服して国家のために憂いを除き、王室の基礎を固めるのが急務である。神様は預言者のナタンを遣わして、その旨を御諭しになりました。よってダヴィドは神殿建築を思いとどまり、ただ、金、銀、銅、鉄、宝石類をおびただしく集めて、準備だけをしておくことにいたしました。ソロモンの時代になると、天下は全く泰平無事でした。王は父の志を継いで治世の第4年、イスラエル人がエジプトを出てから442年目(紀元前1012年)に、いよいよ神殿の工事に着手しました。イスラエルの北辺に境するチロのリバノン山には、大きな杉の木が、昼でも暗いほどに生え茂っている。ソロモンは、チロのヒラン王に交渉して、その杉材を買い受けることとし、別に人夫や石工を80000人余りも使って、付近の山から石材を切りださせました。
神殿は奥行が30メートル、間口が10メートル余りで、長方形をなし、高さは15メートルばかり、いわば、聖幕屋を大きくし、木と石とで作り上げたようなものでした。聖幕屋と同じく、玄関、聖所、至聖所の3つに仕切り、東から入って、西に向かうようにできていました。
このようにして、7年6ケ月を費やして、善を尽し、美を尽くした大神殿が出来上がりました。ソロモンは民を数知れず集め、荘厳な儀式を備えて、契約の櫃をめでたく至聖所へ移しました。納め終わるや、雲が神殿をたちこめ、神さまのみさかえはまばゆいまでに輝きわたり、司祭も立って奉事をつづけられないほどでした。
それからサロモンは、燔祭壇に犠牲を供えさせ、その前に平伏して「願わくは、以後、主の御目をこの家の上に注ぎ、しもべが申し上げる祈りを聞きしめたまえ」と祈りました。たちまち天から火が降っていけにえを焼き尽くしました。それを見た民は、皆、石畳の上に額ずいて神様を伏しおがみ、「エホワの恩恵は、世世限りなきかな」と賛美しました。

115 ソロモンの悲惨な末路
 ソロモンは神殿を建てたうえで、自分のためにも華美壮麗な宮殿を築き、エルサレムの周囲には堅固な城壁をめぐらせて敵の侵入に備えました。盛んに海外貿易を営み、インド地方から莫大な金銀、宝玉、象牙等を輸入して栄華を極めました。しかし、栄華の裏には、いつでも暗い影が潜んでおります。王は自分ひとりで歓楽をほしいままにし、民のことは一向思いません。勝手に夫役に駆り使い、重い租税を割りつけて顧みませんでした。そればかりか、偶像を信じる外国婦人を多く妃となし、彼女らを喜ばせるためにバアルやアスタルテやモロクなどの偶像堂をオリベト山に建ててこれを祀らせました。神様は王の所業をお憎みになり、彼の死後、その国を割いて2つにすることを申し渡しなさいました。ソロモンは、在位40年、70歳で墓に入りました。

116 教訓
 聖書は、ソロモンの堕落を述べてその痛悔を語っていません。彼が、はたして父ダヴィドのように改心して神様のおん赦しをいただいたか随分疑わしいものだ、という人が多い。人間ほどあさましいものはない。いつもながら、慎むべきは色欲であります。サムソンのような英雄、ダヴィドのような聖人、ソロモンのような賢人でも、色欲のために倒れたじゃありませんか。

第28課 王国の分裂とエリア預言者
117 エロボアムの謀反
 ソロモンが死ぬと、北部の10族はシケムに集会しました。そして王子ロボアムの出席を求め、「あなたの父は、われわれに重い税を負わせ、苦しい夫役をわりつけました。もし、幾分でもそれを軽くしてくださったら、今後もあなたを王と戴きましょう。どうしてくださるか」と手堅い談判をもちかけた。ロボアムは3日間の猶予を請い、臣下の意見を聞きました。老臣らは、民の意に従い、優しい返答をするように勧めました。しかし、ロボアムは彼らの意見を聴かないで、むしろ年若い坊ちゃん育ちの臣下の言うところに従いました。
「父はなんじらに重いくびきを負わせたが、私は一層重くする。父はなんじらをムチで打ったがわたしは、鉄でたたくであろう。」と、荒々しい返答をしたので、民は一斉にたちあがりました。「じゃあ、我々はもうダヴィド家に関係がない。おい、皆めいめいのテントに帰るんだ」といって馳せ帰り、ただちにエロボアムという者を立て、王としました。ロボアムは車に飛び乗ってエルサレムへ逃げかえり、わずかにユダとベンヤミンの2族を集めて、この上に王となりました。このときから、国は2つに分かれ、北部はイスラエル国と称し、エフライムのシケムに都を定め、南部はユダ国と呼び、エルサレムを都としました。

118 イスラエルの金の仔牛
 エロボアムは10族に推されてまんまとイスラエル王になりました。しかし民が今までどおりエルサレムへ参詣して神様をまつっていると、いつしかロボアムに心を寄せるだろうと考え、彼らの足を引き止めるがために金の仔牛を2つ鋳造し、北の境のダンと南の端のベテルに建てました。「これが汝らをエジプトから救いだしてくださった神様じゃ」といって、自らこれを祀り、民にも礼拝させました。このようにしてイスラエルの民は次第にまことの神様を忘れて偶像教に溺れ、あらゆる罪悪を重ねました。このため、国勢が一向にふるわない。内政では、王位の奪回が始終繰り返され、外政では種々の敵が攻め入ってきて、民は一日も枕を高くして安らかに眠ることすらできないのでした。

119 アカブ王
 エロボアムが金の仔牛を鋳造したのは、もとよりそれをエホワとして祀るためでした。でも、紀元前918年に王位についたアカブは、シドン国の王女エザベルを妃にむかえ、その国の神であるバアルを尊んで、バアルの殿堂をサマリアに建てました。王の悪い業に倣い、いよいよ神様から遠ざかって、よこしまな道へ迷いこんでいくのでした。しかし、神様は、なお彼らをお見棄てになりません。なんとかして迷いの夢を醒まさせたいものと思い、多くの預言者をお遣わしになりました。

120 エリア預言者
 預言者のうちでも特に有名なのはエリアである。彼は、ある日、アカブ王の前へ出て「私が何とか申すまで、この国には雨も露も降りません」と言い棄てて立ち去りました。そして神様の命に従い、ヨルダンの支流カリトのあたりに隠れ、その水をすくってのどをうるおし、カラスが朝夕、くわえてきてくれるパンと肉で飢えをしのぐことにしました。やがてカリトの水も枯れ果てたので、エリアは再び神様の仰せを承り、イスラエルを出てチロとシドンの中程に位置するサレブタの町へ行きました。町の門に近づくと、一人の婦人が薪を拾っている。それはあわれな寡婦でした。エリアはこの寡婦に少しのパンを求めました。「私はパンを持ちません。ただ桶に一握りの麦粉とビンに少しばかりの油があるだけです。ただいま、私と息子のためにそれをパンに焼いて食べ、そして死を待とうかと思っているところであります。」「いや、あなたと息子さんのは後へまわして、まず、わたしのために小さなパンを焼いてください。そうしてくださると、雨がこの地に降るまで、桶の麦粉もビンの油も減ることがありません。イスラエルの神、エホワ様のお告げです」寡婦はエリアの言うがままにしました。はたして、桶の麦粉もビンの油もその日から少しも減りませんでした。そうしているうちに、寡婦の息子が大病にかかって死にました。エリアは、死体を自分の部屋に運ばせ、その上にのりかかるようにして、
「どうぞ、この子をよみがえらせたまえ」と神様に祈りますと、死んでいたその子はやがて息を吹き返しました。寡婦は限りなく喜び、エリアがまことに神の預言者であることを信じました。

121 バアルの神主とエリア
 エリアがアカブ王に天罰を告げてから3年6ケ月の間というものは、はたしてイスラエルには一滴の雨も降りません。いたるところの川はひからび、草木は枯れ果て、見渡す限り焼け砂の荒地となってしまいました。王もほとほと困りぬいているところに、突然エリアが帰ってきました。そして王に申し出、バアルの神主450名、アスタルテの神主400名をはじめ、イスラエルの代表者をカルメル山に集めて、ひどく彼らの偶像崇拝を責めました。「いつまで二心を抱くのです。もし、エホワがまことの神様ならば、エホワにつきなさい。バアルをまことの神と思うならば、バアルに従いなさい。
と言ったけれども、民は道理に詰まって何とも答えません。エリアはなお続いて申しました。「エホワの預言者は私一人です。バアルの預言者は、450人からいます。で、こういたしましょう。2頭の牛をください。私も彼らも、一頭ずつを屠り、こまかに刻んで薪の上に載せ火をつけないで、めいめい、その信じる神様を呼びます。願いに応じて火を祭壇に降した神こそまことの神様です。そうしてはいかがでしょう?」民は皆、それに賛成しました。で、バアルの神主等がまず牛を殺して祭壇の上にそなえ、朝から昼までも「バアル我らに聞きたまえ」と大声に祈りつづけました。もとより、何のしるしもあろうはずがないので、彼らは気でもちがったかのように祭壇の周囲を踊りまわっています。「さあ、もっと大きな声で叫ぶのです。神様は誰かとお話中だろうよ。室内にとじこもっていらっしゃるのかな。それとも御旅行中だろうか。御昼寝あそばしておられるかも分らぬ。皆大きな声を立ててお起こし申すのだ」と、エリアがからかうものだから、彼らはいよいよ気をいらだて、はては我とわが身を傷つけ、生血をたらたら滴らせながら「バアル我らに聞きたまえ」を繰り返しました。でも、物音一つありません。犠牲は、やはりもとのままです。

今度は、エリアが祭壇を築き、その上に薪を置き、犠牲をのせ、水を桶4杯も注ぎかけ、それから心をこめて神様に祈りますと、たちまち火が天から降って犠牲も薪も焼き尽くし、祭壇の石までとろとろに溶けてしまいました。民は驚いて顔を地に伏せ、「エホワは神様じゃ。エホワは神様じゃ。」と叫びました。エリアは彼らに命じて早速バアルの神主等をとらえさせ、ふもとを流れるシソンの河原に引き下して、残らず殺させました。それから、山の頂に登って神様に祈りますと、てのひらくらいの雲が海の中から立ち上りました。みるみるうちに、その雲が墨を流したように、すうと空一面に広がり、やがて篠つく大雨は、瀧でも切って落としたかのように、ザアザアと降り注ぎました。

122 40日の修行
 エザベルは、この日の出来事を聞いて大いに怒り、エリアを殺させようとしたので、エリアは恐れて国を逃れ出て、シナイ山方面へ高飛びをしました。途中でひどく疲れ、とある木蔭に倒れて、ぐっすり眠りこんでいると、天使が現れてエリアの体に手をかけ、「起きて食べよ」と申します。目を覚ましてあたりをみまわせば、頭もとにパンと水ビンが置いてある。エリアは起きて、そのパンを食べ、その水を飲みましたが、またじきに眠ってしまいました。天使は再び彼を揺すり起こし、
「起きて食べなさい。まだ、これから、遠い旅をせねばならぬのだから」と申しました。エリアは、そのパンと水にすっかり元気を回復し、40日の間も旅行を続け、ついに、「神の山」と呼ばれるホレブ山にたどりつきました。エリアは、その山で神様のお告げをこうむり、再びイスラエルに取って返し、エリゼオを自分の後継ぎに定めました。それから両人連れだってエリコのあたりへ行き、その道を歩いていると、突然、ほのおの馬車が現れて、2人の間に割り入ったかと見る間に、エリアはその馬車に乗せられて、旋風の中を天に昇りました。



旧約のはなし (旧約聖書入門) 第28課-第33課

2014-12-31 10:17:07 | 旧約のはなし
第28課 王国の分裂とエリア預言者
117 エロボアムの謀反
 ソロモンが死ぬと、北部の10族はシケムに集会しました。そして王子ロボアムの出席を求め、「あなたの父は、われわれに重い税を負わせ、苦しい夫役をわりつけました。もし、幾分でもそれを軽くしてくださったら、今後もあなたを王と戴きましょう。どうしてくださるか」と手堅い談判をもちかけた。ロボアムは3日間の猶予を請い、臣下の意見を聞きました。老臣らは、民の意に従い、優しい返答をするように勧めました。しかし、ロボアムは彼らの意見を聴かないで、むしろ年若い坊ちゃん育ちの臣下の言うところに従いました。
「父はなんじらに重いくびきを負わせたが、私は一層重くする。父はなんじらをムチで打ったがわたしは、鉄でたたくであろう。」と、荒々しい返答をしたので、民は一斉にたちあがりました。「じゃあ、我々はもうダヴィド家に関係がない。おい、皆めいめいのテントに帰るんだ」といって馳せ帰り、ただちにエロボアムという者を立て、王としました。ロボアムは車に飛び乗ってエルサレムへ逃げかえり、わずかにユダとベンヤミンの2族を集めて、この上に王となりました。このときから、国は2つに分かれ、北部はイスラエル国と称し、エフライムのシケムに都を定め、南部はユダ国と呼び、エルサレムを都としました。

118 イスラエルの金の仔牛
 エロボアムは10族に推されてまんまとイスラエル王になりました。しかし民が今までどおりエルサレムへ参詣して神様をまつっていると、いつしかロボアムに心を寄せるだろうと考え、彼らの足を引き止めるがために金の仔牛を2つ鋳造し、北の境のダンと南の端のベテルに建てました。「これが汝らをエジプトから救いだしてくださった神様じゃ」といって、自らこれを祀り、民にも礼拝させました。このようにしてイスラエルの民は次第にまことの神様を忘れて偶像教に溺れ、あらゆる罪悪を重ねました。このため、国勢が一向にふるわない。内政では、王位の奪回が始終繰り返され、外政では種々の敵が攻め入ってきて、民は一日も枕を高くして安らかに眠ることすらできないのでした。

119 アカブ王
 エロボアムが金の仔牛を鋳造したのは、もとよりそれをエホワとして祀るためでした。でも、紀元前918年に王位についたアカブは、シドン国の王女エザベルを妃にむかえ、その国の神であるバアルを尊んで、バアルの殿堂をサマリアに建てました。王の悪い業に倣い、いよいよ神様から遠ざかって、よこしまな道へ迷いこんでいくのでした。しかし、神様は、なお彼らをお見棄てになりません。なんとかして迷いの夢を醒まさせたいものと思い、多くの預言者をお遣わしになりました。

120 エリア預言者
 預言者のうちでも特に有名なのはエリアである。彼は、ある日、アカブ王の前へ出て「私が何とか申すまで、この国には雨も露も降りません」と言い棄てて立ち去りました。そして神様の命に従い、ヨルダンの支流カリトのあたりに隠れ、その水をすくってのどをうるおし、カラスが朝夕、くわえてきてくれるパンと肉で飢えをしのぐことにしました。やがてカリトの水も枯れ果てたので、エリアは再び神様の仰せを承り、イスラエルを出てチロとシドンの中程に位置するサレブタの町へ行きました。町の門に近づくと、一人の婦人が薪を拾っている。それはあわれな寡婦でした。エリアはこの寡婦に少しのパンを求めました。「私はパンを持ちません。ただ桶に一握りの麦粉とビンに少しばかりの油があるだけです。ただいま、私と息子のためにそれをパンに焼いて食べ、そして死を待とうかと思っているところであります。」「いや、あなたと息子さんのは後へまわして、まず、わたしのために小さなパンを焼いてください。そうしてくださると、雨がこの地に降るまで、桶の麦粉もビンの油も減ることがありません。イスラエルの神、エホワ様のお告げです」寡婦はエリアの言うがままにしました。はたして、桶の麦粉もビンの油もその日から少しも減りませんでした。そうしているうちに、寡婦の息子が大病にかかって死にました。エリアは、死体を自分の部屋に運ばせ、その上にのりかかるようにして、
「どうぞ、この子をよみがえらせたまえ」と神様に祈りますと、死んでいたその子はやがて息を吹き返しました。寡婦は限りなく喜び、エリアがまことに神の預言者であることを信じました。

121 バアルの神主とエリア
 エリアがアカブ王に天罰を告げてから3年6ケ月の間というものは、はたしてイスラエルには一滴の雨も降りません。いたるところの川はひからび、草木は枯れ果て、見渡す限り焼け砂の荒地となってしまいました。王もほとほと困りぬいているところに、突然エリアが帰ってきました。そして王に申し出、バアルの神主450名、アスタルテの神主400名をはじめ、イスラエルの代表者をカルメル山に集めて、ひどく彼らの偶像崇拝を責めました。「いつまで二心を抱くのです。もし、エホワがまことの神様ならば、エホワにつきなさい。バアルをまことの神と思うならば、バアルに従いなさい。
と言ったけれども、民は道理に詰まって何とも答えません。エリアはなお続いて申しました。「エホワの預言者は私一人です。バアルの預言者は、450人からいます。で、こういたしましょう。2頭の牛をください。私も彼らも、一頭ずつを屠り、こまかに刻んで薪の上に載せ火をつけないで、めいめい、その信じる神様を呼びます。願いに応じて火を祭壇に降した神こそまことの神様です。そうしてはいかがでしょう?」民は皆、それに賛成しました。で、バアルの神主等がまず牛を殺して祭壇の上にそなえ、朝から昼までも「バアル我らに聞きたまえ」と大声に祈りつづけました。もとより、何のしるしもあろうはずがないので、彼らは気でもちがったかのように祭壇の周囲を踊りまわっています。「さあ、もっと大きな声で叫ぶのです。神様は誰かとお話中だろうよ。室内にとじこもっていらっしゃるのかな。それとも御旅行中だろうか。御昼寝あそばしておられるかも分らぬ。皆大きな声を立ててお起こし申すのだ」と、エリアがからかうものだから、彼らはいよいよ気をいらだて、はては我とわが身を傷つけ、生血をたらたら滴らせながら「バアル我らに聞きたまえ」を繰り返しました。でも、物音一つありません。犠牲は、やはりもとのままです。

今度は、エリアが祭壇を築き、その上に薪を置き、犠牲をのせ、水を桶4杯も注ぎかけ、それから心をこめて神様に祈りますと、たちまち火が天から降って犠牲も薪も焼き尽くし、祭壇の石までとろとろに溶けてしまいました。民は驚いて顔を地に伏せ、「エホワは神様じゃ。エホワは神様じゃ。」と叫びました。エリアは彼らに命じて早速バアルの神主等をとらえさせ、ふもとを流れるシソンの河原に引き下して、残らず殺させました。それから、山の頂に登って神様に祈りますと、てのひらくらいの雲が海の中から立ち上りました。みるみるうちに、その雲が墨を流したように、すうと空一面に広がり、やがて篠つく大雨は、瀧でも切って落としたかのように、ザアザアと降り注ぎました。

122 40日の修行
 エザベルは、この日の出来事を聞いて大いに怒り、エリアを殺させようとしたので、エリアは恐れて国を逃れ出て、シナイ山方面へ高飛びをしました。途中でひどく疲れ、とある木蔭に倒れて、ぐっすり眠りこんでいると、天使が現れてエリアの体に手をかけ、「起きて食べよ」と申します。目を覚ましてあたりをみまわせば、頭もとにパンと水ビンが置いてある。エリアは起きて、そのパンを食べ、その水を飲みましたが、またじきに眠ってしまいました。天使は再び彼を揺すり起こし、
「起きて食べなさい。まだ、これから、遠い旅をせねばならぬのだから」と申しました。エリアは、そのパンと水にすっかり元気を回復し、40日の間も旅行を続け、ついに、「神の山」と呼ばれるホレブ山にたどりつきました。エリアは、その山で神様のお告げをこうむり、再びイスラエルに取って返し、エリゼオを自分の後継ぎに定めました。それから両人連れだってエリコのあたりへ行き、その道を歩いていると、突然、ほのおの馬車が現れて、2人の間に割り入ったかと見る間に、エリアはその馬車に乗せられて、旋風の中を天に昇りました。

123 教訓
 エリアは、天使の与えたパンに元気をつけられて、40日間も荒野を歩き、「神の山」にたどり着きました。このパンは、聖体の前表で、よく聖体を拝領すると、悪と戦って疲れきった霊魂もたちまち気力を回復します。現世の荒野を無事にわたって「神の山」である天国にたどり着くことができるのであります。

124 アカブ家滅ぼされる
 アカブは后のエザベルに引きずられて、さんざんに悪事を働き、エリアの手痛い忠告も一切聞きいれません。ことに、エザベルのするがままに打ちまかせて、ナボトという罪のない良民を殺し、そのブドウ畑をまき上げたのは、憎んでも余りあることでした。それは、まだ、エリアが存命中の話で、その内容は次のとおりです。
アカブは、エズラエルという町に離宮を持っていました。その離宮の近くに、ナボトのブドウ畑があったのです。これを離宮内に取り入れて、野菜畑にしたら大変都合がよいので、ナボトに相談してみました。しかし、ナボトは応じません。「これは、祖先から譲られた財産で、人手に渡すのは、モーゼの掟で禁じられております。」と言って、断りました。アカブは、悔しいやら腹立たしいやらで、ふさぎ込んでいます。それと知ったエザベルは、早速書面をしたため、アカブの名を書き、捺印してエズラエルの長老たちに送り、「偽証人を作って、ナボドが神様と王さまを呪ったと訴えさせ、市外へ引き出して石殺しにせよ」と命じました。長老たちは、命令どおりにナボトを殺しました。ブドウ畑は、アカブの手に入りました。アカブは喜んで検分に行き、ちょうどブドウ畑に着いたとき、エリアが突然やってきて、神様のの御言葉を伝えました。「あなたは人殺しで、また、強盗です。主は、このようにおっしゃいます。ここでナボトの血をなめた犬は、おまえの血もなめるであろう。・・・・わたしは、おまえの上にわざわいを下し、おまえの子孫を刈り倒し、アカブ家に属するものは滅ぼし尽くして、一人も残すまい。エザベルもまた、エズラエルの城壁で犬に食われるであろう、と。」エリアの預言どおり、アカブは3年の後、シリア軍と戦って討ち死にしました。死体は、サマリアに持ち帰って葬ったが、血糊で汚れた王の車を池の水であらっていると、犬がでてきてその血をなめました。アカブ王の子ヨラム王のとき、将軍イエフーが、神様に選ばれてイスラエル王となり、ヨラムを射殺し、エザベルも、人に命じて宮殿の2階から外庭に投げ落とさせ、馬のひづめにかけて踏みにじりました。後で死体を葬らせようと、しもべを遣わしてみると、エザベルの肉は、もう、犬に食われて、ただ、頭の骨と手足の尖端が残っているばかりでした。それから、イエフーは、アカブの一家親族を一人も残らず斬って棄て、バアルの神主や信者はことごとくサマリアに集めて殺し、その堂を壊し、偶像を焼き払いました。彼がバアル教をほろぼすために尽くしたのは、大いに賞すべきことでしたが、それでも全くは、エホワのほうに立ち返らないで、相変わらず、エロボアムの作った金の仔牛を拝んだのは、惜しんでもあまりあることでした。

125 エリゼオ
 エリアが天に昇ってから、エリゼオはエリコから北の方、イスラエル国へ赴き、ベテルの町を通りました。ベテルは、金の仔牛を祀ってあるところで、人の心もおのずと腐り果てている。子どもらまでが、エリゼオをあざけり、大声で「ヤカン頭のぼって行け、ヤカン頭上って行け」とはやしたてました。エリゼオは懲らしめのため、神様の名をもって彼らをのろいました。すると、たちまち2頭の熊が林の中から出てきて子どもを42人も食い殺しました。老人をあざけること、特に、神様に仕えている人を辱めるのは、どんなに悪いことであるということは、このことでもわかるでしょう。エリゼオは、このほかにも多くの奇跡をおこないました。
エリアのように、死んだ子どもをよみがえらせました。エリコでは、苦い泉に塩を入れて甘い上等な水にしました。貧しい未亡人のために、少しの油をたくさんに増やして、その借財を払ってやりました。しかし、エリゼオの奇跡の中でもっとも有名なのは、ナアマンのらい病を癒したことであります。ナアマンは、シリア国の偉い将軍でした。らい病を患い、困り果てている際に、エリゼオ預言者のうわさを聞き、多くの礼物を馬車に積んでイスラエルへ行き、エリゼオの門をたたいて、その病をなおしていただきたいと願いました。エリゼオは、しもべのジエジを取次に出して、「ヨルダン河に行って、7回身を洗いなさい。きっとそのらい病は潔まります。」と言わせました。自ら出て迎えて神様の御名を呼び、らい病のところを触れて、いやしてくれるものと、ナアマンは思っていたのに、これはまた、案外でした。ナアマンは、少し、むっとしてそのまま引き返そうとしました。しかし、従者の諫めを聞きいれ、言われるままにヨルダン河へ行って、7回身を洗いますと、はたしてらい病はぬぐって取ったかのように消え失せました。ナアマンの喜びったらありません。さっそくエリゼオの前へ行って、「イスラエルの神様をおいて、世界に神という神のないことは、十分わかりました。どうぞ、いささか、しもべの礼物をお受けください」と、願いました。しかし、エリゼオは固く謝絶して、一品も受けませんでした。しもべのジエジは、エリゼオが何も受けなかったのをみて、口惜しくてたまりません。ひそかにナアマンの後を追って行き、「先生のお願いでございます。」と、偽り、銀2タレント(七千円ほど)と、衣服2襲とをもらい受けて帰りました。
「どこから来た」と、エリゼオに問われても「どこへも行きません」と、とぼけてみせました。でも、エリゼオは何もかも知っています。「おまえは、オリーブ畑、ブドウ園、羊、牛、しもべを買うに足りるほどの大金をもらっている。しかし、ナアマンのらい病は、おまえとおまえの子孫について、いつまでも離れないぞ。」
と、言い渡したが早いが、たちまちジエジの身は、雪のようにらい病ができました。エリゼオは、それからもなお、熱心に運動を続け、国民に迷いの目を覚まさせるとともに、国家の危急を幾度となく救ってやりましたが、イエフーの孫ヨアス王の代に至って、とうとう帰らぬ旅につきました。その翌年、ある人が死んで、その葬式をしている途中、強盗に出遭いました。会葬者は、恐れて死体をエリゼオの墓に投げ込んで、そのまま逃げ帰りました。すると、その死体がエリゼオの骨に触れて、たちまち息を吹き返して立ち上がりました。エリゼオは骨になってからまで、大きな奇蹟を行ったわけであります。

126 ヨナ預言者
 神様は、イスラエルの民ばかりを愛して、他は棄てておき、顧みなかったのではありません。そのころ、シリアの東に、アッシリアという国がありました。ニネベを都として、四方を征服し、世界で1,2を争うほどの大国でした。ニネベの町人は、異教者だけに、深く罪悪に溺れ、どうしても天罰を免れられないようになって参りました。情け厚い神様は、これほどの大都会をむざむざ滅ぼしつくすのも、かわいそうだと思し召しになり、ヨナという預言者をイスラエルから遣わして、ひとまず痛悔を勧めさせなさいました。ヨナは敵国民に痛悔を説き、神様の憐みをこうむらせるのは面白くないとでも思ったのでしょうか。西の方のヨッペの港から、便船に乗って、イスパニア方面へ走ろうとしました。でも、突然空模様が変わって、意外なことに大あらしとなりました。船は崩れおち、大波に浮きつ沈みつして、乗合の人々は生きた心地もありません。誰のためにこのような大あらしが起こったのか、くじを引いてみようと、水夫たちがいいだしました。そうすると、くじは、ヨナに当たりました。こうなっては仕方ない、と、ヨナはこれまでの事情を打ち明けました。そして、水夫らに頼んで、自分を海に投げ入れてもらいました。すると、あの大あらしは、ぱったり止んで、海はまるで油を流したかのように、さざ波すら立ちません。乗合の人々は、今更ながら、神様のお力の広大なのに驚き、岸にあがるや、いけにえをささげて神様を祀りました。さて、神様は、あらかじめ、海の中に大きな魚を待たせておいて、ヨナが投げ入れられると、ただ一呑みに、ヨナを呑み込ませなさいました。ヨナは、3昼夜、魚の腹にありましたが、神様の不思議なお計らいによって命をつなぎとめ、心から御名を賛美していました。
3日目に、神様は魚に命じてヨナを浜辺に吐き出させ、「ニネベに行き、痛悔を勧めよ」と、仰せつけになりました。ヨナも今度ばかりは、「今から40日したら、ニネベは、滅びるぞ」と、町じゅうを、縦横に叫びまわりました。町の人々は、神様の御言葉を信じ、上は国王という貴い方から、下は奴隷という賤しい者に至るまで、荒い服を着て、断食して、罪を悔い悲しみました。そのため、神様の御憐みをこうむり、一時天罰を猶予していただくことができました。

127 イスラエルの滅び
 ヨアス王の代に、イスラエルの国勢は一時盛り返してきました。特に、その子エロボアム2世は、イスラエル諸王の中でも、一番偉い君主でした。今までシリアに攻め立てられ、息もたえだえになっていたイスラエルも、この王の時代になって、むくむくと力をもたげ、逆にシリアを撃ち破って以前の領土を残らず回復しました。しかし、それとても、実は灯火の消える前に、一時ぱっと明るくなるようなもので、彼の後を継いだ諸王は、立っては殺され、立っては殺されるというような状況でした。そのうえ、これまでシリアに隔てられて、直接そのおおきな腕をイスラエルに加えなかったアッシリアが、隆々たる朝日のような勢いで国境近くに迫ってきました。ついに、紀元前723年のころ、アッシリア王サルマナサル4世は、大軍を率いてイスラエルを撃ち、オセエ王を生けどりにし、都のサマリアを囲むこと3年。次の王サルゴンに至って、ようやくこれを陥れ、国民を捕えて遠くメソポタミア、メディア地方に移し、その跡にはバビロンあたりから異教者を送って、残りのイスラエル人とごっちゃにしてしまいました。この混沌から生れ出たのが、後のいわゆるサマリア人であります。イスラエル人は、975年にユダと別れてから、19代254年で滅びました。

128 教訓
 イスラエルは、ユダよりも国が広く、民は土地もずっと豊かでした。それにもかかわらず、政治は乱れ、国勢はふるわず、ユダよりは130年あまりも前に滅んだのは、偶像教に溺れ、風儀を破り、罪悪にふけった結果にほかなりません。「義は国を高くし、罪は民を不幸にする」(箴言14の34)というものです。国家を思う人の、深く鑑みねばならぬところでありましょう。

ユダ国の成り行き
129 初代の諸王
 ユダ国の諸王は、ダヴィドの正しい血統をうけただけあって、神様を畏れ、預言者の教えに従い、右にも左にもそれない賢い君主が少なくありませんでした。しかし、イスラエルの王に倣い、偶像を尊び拝み、民を迷わせ、不義を働いた愚かな王も随分ありました。まず、ロボアムとその子アビアは、神様に対してあまり忠実ではない方でした。しかしアビアに継いで立ったアサは、すこぶる信仰の厚い賢君でした。特に、その子ヨサファトなどは、よくダヴィドの跡をふんで、誠意から神様に仕え、民の祀っていた偶像は、見当たり次第に叩き壊し、賢い家来を国内に遣わして、神様の教えを説き聞かせました。その為に、ユダ国はにわかに富み栄え、四方の国々もその勢いに怖れ、先を争って親交を結び、あえて国境をうかがおうとする者すらないくらいでした。

130 アタリヤ
 しかし、ヨサファトのために、いくら惜しんでも足りないのは、イスラエル王アカブと親しく交わり、太子ヨラムの妃に、アカブの娘アタリアを迎えた一件でした。アタリアは、母のエザベルにも劣らぬ毒婦で、ヨラムをおだてて弟たちを殺させるやら、ユダの町々にバアルの偶像を建てて民にこれを祀らせるやら、それはそれは非常に悪いことをいたしました。ヨラム王に継いで子のオコジアが立ち、在位一年にしてイスラエル王イエフーに殺されるや、アタリアは不意に起って、王家の子弟を残らず殺害し、自らユダの女王になりました。ひとりだけ、ヨアスという今年一歳の幼児だけが、叔母のヨザベトに救われて、アタリアの手を免れたのみでした。ヨザベトは、オコジア王の妹で、大司祭ヨイアダに嫁いでいたですから、ヨアスを神殿内にかくまい、人知れずヨアスを養育すること6年間、7年目にヨイアダは近衛の軍人らに説いて勤王を誓わせ、民が神殿に集まった折を見計らって、王冠を戴かせて、その前に立てました。それから、アタリアをひっとらえてこれを斬り、バアルの祭壇を壊し、その偶像をみじんに砕き、神主マタンをも殺しました。

 ヨアス4代の孫をアカズといい、ユダ国でも指折りの悪王でした。アンモンやモアブの偶像モロクに我が子をささげて火の中をくぐらせるやら、小高い山の上、茂った樹の下に偶像を飾り付けて香をくゆらせるやら、神殿の門を閉ざして、人々の出入りを禁じるやら、良からぬことの限りをつくしました。そのために、国はシリア、イスラエルの連合軍にせめ破られ、兵士は殺され、民は多く捕虜となりました。

131 エゼキア王
 アカズの不信仰に引き換え、その子エゼキアの信仰は、また、感動すべきの至りでした。王は、第1着に、父王の閉ざした神殿の門を開き、司祭やレビ人を召集して、神殿を清めさせ、朝夕の燔祭、そなえのパン、神前に奏する音楽、賛美歌等、すべてもとのままに戻し、長くとだえていた過ぎ越し祭をも盛大に行い、人を遣わしてイスラエルの民まで招待し、アブラハム、イザク、ヤコブの神に立ち返るように勧めました。しばらくすると、エゼキアは重い病にかかり、命も危うく見えてきたので、熱い涙をはらはらと流して、一心に神様の御憐みを祈りました。すると、預言者イザヤが王に謁見して、神様の仰せを伝え、
(1)王の病が、すぐに癒えて、3日の後には、神殿に参詣することができること
(2)王の命は、なお15年加えられたこと
(3)王の身も、エルサレムの町も、アッシリア王の手から救われるべきこと
を約束しました。そして、王が3日の後、全快して神殿へ参詣できるという証拠に、神様は王の求めに応じて、日時計の影を10度ほど後退させてくださいました。

132 アッシリア軍の全滅
 その頃のアッシリア王は、サルゴンの子センケナリブでした。ユダをはじめ、付近の国々がエジプトと連合して自分の命を拒むとみるや、急に大軍を率いて攻めに来て、しきりにユダの諸城を陥落し、今にもエルサレムへ迫ろうとする勢いを見せました。エゼキアは、大いに恐れて降りを請い、アッシリア王の言うがままに莫大な金銀を差し出しました。それでもセンケナリブは、承知しません。さらに、都を引き渡し、国民は、アッシリア王の指定する国に移れ、と命じました。
こうなっては、もう、絶対絶命です。エゼキアは、深く神様にすがって、その御助けを祈るとともに、断然アッシリア王の要求を退けました。イザヤ預言者もまた、神様の御告げを伝え、敵はエルサレムに対して一筋の矢をも放つことができない、恐れるに足りぬ、としきりに王の心を励ましました。果たして、ある夜、天使がアッシリアの陣中に降って、恐ろしい疫病か何かで、たちどころにアッシリアの精兵18万5千を倒しました。センナケリブが翌朝眼を覚ました時は、陣営は、まったく屍の山でした。王の驚きかたといったら、ありませんでした。わずかに生き残った兵をまとめて、ニネベに逃げかえり、それからというものは、一度もユダ方面に兵をだそうとはしませんでした。

133 教訓
 神様は、全能です。その御腕に取りすがっておれば、何にもうろたえ騒ぐ必要はありません。
「たとえ、敵陣が わたしの前に立ち並んだとしても、私の心は、恐れないたとえ戦いが わたしに対して起こったとしても、私には、なお、よりたのむところがある(詩篇26の3)」と、歌っておれるのであります。

第31課 女傑ジュディス(ユヂト)
134 マナッセ王
 エゼキアの子マナッセは、父にも似ない愚かな君主でした。せっかく父が取り壊したバアルの堂を再建したり、日、月、星を祀ったり、果ては神殿内にまで偶像を据え付けるとか、罪なき人を殺すとか、さんざん悪事を働きました。とどのつまりは、天罰をこうむり、アッシリア軍と戦い敗れて捕虜となり、バビロンの獄につながれました。しかし、身の不幸が薬となって、ようやく迷いの夢を醒まし、神様の御前にへりくだって、心から悔いあらためました。そのために、おんあわれみをこうむり、赦されて国へ帰ることができ、それからは、死ぬまで忠実に御教えを守りました。

135 ベツリア城の包囲
 マナッセがバビロンに囚われの身となっている頃出来事だろうといわれています。アッシリア王は、将軍ホロフエルネに、歩兵12万、騎兵1万2千を授けて西アジア地方を討たせました。ホロフエルネは、いたるところで城を毀し、そこの人々を殺し、そこの神殿を焼き払いました。大司祭エリアキムは、何としてでもエルサレムとその神殿を荒らされたくないものだと思い、国民を励まして要所要所を固めさせました。そして、敵の大軍を食い止めようとしました。「なんと、こしゃくな。」と、ホロフエルネは鼻の先であしらい、まず、サマリアの北に位置するベツリア城を十重二十重に囲み、その水道を絶ちました。それには、城兵も、ほとほと弱りはて、5日以内に神さまのおん助けがないならば、城を明け渡すよりほかはない、と主将オジアまでが弱音を吹き出しました。

136 ジュディスの大勇断
 そのとき、ベツリア城内に、ジュディスという名で、まだうら若い一人の未亡人がいました。家は金持ちで、容姿にすぐれ、何の不自由もない身でありながら、再婚しようともせず、2階の一室にこもって、祈祷や断食に身をゆだね、ひたすら神様に仕えていたのでした。オジアが弱音を吐いたと、伝え聞くや、ジュディスは、人を遣わして長老たちを招き、「日をきめて御憐みを求めるのは、神様を試みるのじゃありませんか。むしろ、へりくだって神様に仕え、泣いて御憐みを祈りましょう。神様が、こんな目に遭わせなさいますのは、私たちを懲らしめるためで、滅ぼすためではありません。」と申しました。そして、自分は麻布をつけ、頭に灰をかぶって、ひれふして主の御助けを祈りましたが、やがて、その麻布も未亡人の服も一切脱ぎ捨て、晴れやかな服装をなし、一人の腰元を従えて城を出ました。敵に捕らえられ、将軍のテントに連れていかれるや、言葉巧みに彼の武勇をほめたたえました。ベツリア城民が神様にそむき、罪を重ねて天罰をこうむることになっているのが、眼前に見えすいてきたから、将軍に城内の困難な状況を知らせ、かたがた身の安全を保つために城を逃れ出てきたのだ、と述べたてました。ホロフエルネは、だまされるのだとは全くわからず、ジュディスを陣内に留め置き、神様に祈りたいというときは、いつでも勝手に出入りする許可さえ与えました。

それから、4日目に、ホロフエルネは、部下の将校たちを集め、ジュディスも招いて酒宴を開き、しきりに大杯を傾けていましたが、ついに、前後不覚の状態になり、その場に酔いつぶれてしまいました。将校たちも、皆おおいに酔い、千鳥足でめいめいのテントに帰り、ホロフエルネのテントに居残ったのは、ただジュディス一人でありました。そこで、ジュディスは、腰元を外に立たせて見張りをさせ、自分はホロフエルネの床の前に立って熱心に神様のおん助けを祈り、やがてまくらもとの剣をひきぬいて、ホロフエルネの首を打ち落とし、腰元の用意した袋に納めて、ベツリア城へ持ち帰り、民を集めてその首を見せました。民は一斉に神様をふしおがみ、夜明けを待って、フホロフエルネの首を城壁につるし、ワッとばかりに、ときのこえをあげて敵陣へ打って出ました。敵は、将軍の眠りを覚まそうとテントの入口に騒がしい音をたててみたが、何の答もない。やむをえず、中に入ってみると、首のない死骸が血糊にまみれて倒れている。ジュディスはどうなったかと居間をのぞけば、がらんどうとしていて人の影すらない。「おのれ、にくきジュディスめ!」と、歯を食いしばったが、もう後のまつり。こうなっては、命あってのものだねだ、アッシリア軍は、にわかにおじけづいて、われがちにと逃げ失せました。逃がすものかとベツリア兵は激しく追い打ち、道筋のイスラエル人もいっせいに立ち上がって数知れず討ちとりました。大司祭エリアキムは、おもいがけない大勝利のしらせを得て大いに喜び、自らベツリア城に来てジュディスを祝し、「あなたは、エルサレムの栄光、イスラエルのよろこび、わが民の誉れよ」と、口を極めてほめたたえました。民は、3ケ月間もこの大勝利を祝賀しました。

137 教訓
 ジュディスが女の細腕一つで、目に余る大軍を破り、国家の急を救ったのは、聖母マリアが救い主の御母となって悪魔勢を打ち破り、人類を御救いくださったのに、多少あてはめられます。

第32課 ユダ国の滅亡

138 ヨシュア王
 マナッセに継いでアモンが立ち、在位2年にして臣下に殺され、その子のヨジアが8歳にして位を継ぎました。ヨジアは、エゼキアに並ぶほどの賢い君で、ダヴィドの遺した道を正しく歩きました。熱心に偶像征伐をはじめ、国内の偶像は片っ端から打ち砕き、すすんでもとのイスラエル国へ入り、エロボアムがベテルに建てた金の仔牛の堂を壊し、偶像の司祭たちの骨までも掘り出して焼き捨てました。治世の31年目に、エジプト王ネカオが兵を率いて、メソポタミア方面へ出ようとしたとき、ヨジアはエスドレロンの平野に陣して路を遮りました。不幸にして戦利あらず、身も敵の矢に当たって死にました。

139 ユダ、ついに滅ぶ
 ヨジアの後には、その子ヨアカズ、ヨアキム、孫のエコニア、ヨアキムの弟のセデシア等が相次いで立ちました。しかし、彼らは揃いも揃って偶像の前にひざまずき、神様を振り棄てて顧みないのでした。時に、アッシリアはすでに滅び、新たにバビロン国がその南に興って、恐ろしい腕を八方に伸ばし、アッシリアの旧領地をことごとく手中に収めました。でも、ユダの諸王は、この勢いを察するだけの眼を持ちません。いたずらにエジプトの勢力を頼みにして、バビロンに抵抗を試みようとしました。よって、バビロンの王子ナブコドノソルは、紀元前606年、ユダに攻め入って、難なくエルサレムを陥れ、ヨアキム王を降しました。そして、王はそのままにしておきましたが、王族や上流社会の人々を多く捕虜そていバビロンに送りました。いわゆる、「70年の囚われ」は、このときにはじまったのであります。間もなく、ヨアキム王は反旗をひるがえして独立を謀りました。時にナブコドノソルは父の後を継いで、バビロン王の位についていたのですが、早速兵をくりだしてエルサレムを囲み、ヨアキムを殺して死骸は道端に投げ棄てました。次の王エコニアも、エジプトを頼りとしてバビロンに背きました。ナブコドノソルは、3たびエルサレムへ攻めのぼり、王をはじめエゼキエル預言者以下7000人の大家、豪族を捕えてバビロンへ移し、ただ、下層民だけを残し置き、セデシアを王として帰国しました。しかし、セデシアもやがて部下のエジプト党に引きずられてバビロンに背きました。ここにおいてナブコドノソルは自ら大軍に将としてエルサレムに押し寄せ、包囲3年の後、これを陥れ、セデシアを生け捕って目玉をえぐりぬき、縛ってバビロンに送りました。神殿をはじめ、王宮も民家も火を放って焼き払い、城壁は取り壊し、富裕な民はことごとくバビロンに移しました。時は、紀元前580年で、ユダは分裂このかた20代、387年で滅びました。

140 イザヤとエレミア
 これより先、ユダ国にも多くの預言者が遣わされました。その中でも特に有名なのは、イザヤとエレミヤです。イザヤは紀元前8世紀ごろの人で、彼がエゼキア王を助けて真の宗教を復興し、併せてアッシリア軍の侵入を防ぐがために、ひとかたならず働いたことは、既に申し上げたところであります。彼は、700年余りも前から、救い主が童貞女から生まれ給うことになっていること、神の御子であるとともに、ダヴィドの子孫でもあること、私たちを救うために苦しみを受け、無残な最期を遂げ給うことになっていることなどを預言しました。
 エレミアは、ヨジア王の13年から、エルサレム滅亡の後に至る、最も困難な時期に出て、あらゆる辛酸を嘗め尽くしたものであります。彼は、身をもって青銅の壁となり、滔々とした罪悪の流れをせき止めようと務めたのですが、国民は頑として彼の言うところに耳を傾けません。でも、エレミアは少しもくじけません。燃えるような愛国の熱情にかられて、相変わらず国民を戒め、エジプトを頼みにしてバビロンに背いては、国家の滅びを招くばかりだと叫んで、エジプト党の注意を促しました。このために彼らの怒りを買い、国賊の名を着せられ、深い泥だらけの井戸の中に繋がれ、死ぬよりも辛い目にあいました。エルサレムがいよいよ焼き払われるや、エレミアは、ナブコドノソルのために救い出され、バビロンへ行こうと、エルサレムに残ろうと自由に任されました。バビロンへ行けば、対した尊敬を受けられるのでしたけれども、彼は残された民と悩みを共にする覚悟で、エルサレムに踏みとどまり、神殿、王宮の灰になった後をとむらい、有名な「哀傷の歌」を作りました。その後、国民から、強制的にエジプトへ連れてゆかれ、そこで石殺しにされたという話であります。

141 教訓
 エルサレムといえば、ユダ国民の唯一の誇りでした。しかし、神様を忘れ、偶像を拝み、さまざまの悪事を働いた罰で、とうとうこの始末になったのであります。考えてみると、わたしたちの霊魂も、エルサレムにかたどられ、神様の愛する子どもとして、ひとかたならぬおめぐみを浴びせられています。だが、万一その神様を忘れ、浮世の栄華、快楽を偶像に祭り上げるようなことでもあると、終には神様に見棄てられ、恐ろしい天罰をこうむるよりほか、ありますまい。

第5期 バビロンの囚われからイエズス・キリストまで

第33課 トビア

142 囚われのイスラエル人
 イスラエル人は、アッシリアに移され、ユダ国民はバビロンに囚われたが、両国民とも、終にはどう成り果てたのでしょう。いったい、アッシリア人でも、バビロン人でも、その征服民を遠くの国に移したのは、奴隷にして無理やりこき使うためではなく、主に、謀反を企てないようにするためと、人口の少ない地に殖民させるためでした。したがって、囚われの身となったからとて、格別の不自由もなく、商業を営もうと、遠方へ旅行しようと、そんなことはほとんど、思いのままでした。ただ、宗教上からいうと、イスラエル人の成績は、あまり感服されなかったらしいが、それでもトビアのような珍しい信仰の持ち主もありました。彼らは、後に、バビロンに囚われたユダ国民とひとつになり、進退を共にしたものであります。

143 トビアの信仰
 トビアは、ネフタリ族の人で、まだ国にいる時から、深く神様を敬い、隣近所の人々は金の仔牛を拝みに行っても、自分だけはエルサレムへ参詣して、神様を礼拝し、モーゼの掟を几帳面に守ったものでした。成長して、アンナという敬虔な婦人を娶って、一子をあげ、これに自分の名を与えてトビアと呼び、早くから神様を畏れ、罪に遠ざかるように躾ました。アッシリア王サルマナサル(サルゴン)に、生け捕られて、都のニネベに移されてからも、あくまでモーゼの律法を守り、いつも正直に、まめまめしく立ちまわりました。そのためにアッシリア王に見込まれて、親切な取扱いを受け、勝手にどこへでも行き、何でもしてよい許可さえ与えられました。トビアは、その許可によて、同じ流浪の憂き目を見ている同胞を訪れて、ねんごろに善をすすめ、悪を戒め、貧困者には金でも物でも惜しげなく施すのでした。あるときなどは、遠いカスピ海の南に当たるラゼスへ行き、同族ガベルスが貧苦に弱っているのを見て、アッシリア王から頂いた10タレント(3万4千円余り)の大金を、1通の証書をとって貸してやりました。程経て、トビアを信用していてくれたアッシリア王が亡くなり、新たにセンナケリブが立って王となりました。この王は、あまりイスラエル人を好かないうえに、ユダに攻め入って、その大軍を皆殺しにされてからというものは、いよいよ彼らを憎み、わずかのことにかこつけて彼らを殺し、死骸は路に投げ捨て、葬ることすら許しません。こうなると、トビアはますます熱心に八方を飛び回って同胞を慰め助け、死骸は見当たり次第に拾い取って、夜中、人が寝静まるのを待って葬っていました。時としては、食事を中止してまで、死骸を拾い取りにかけ出したものであります。ある日、くたくたに疲れきって、家に帰り、壁にもたれてうたた寝をしていると、壁の上のツバメが熱いフンを眼の中に落とし、それが原因となって、とうとう生まれもつかぬ盲目となりました。トビアは、人のために財産を投げだし、身を粉にして尽くした挙句に、こんあ災難に見舞われたのですから、一家の憐れさといったらたとえようもありません。それでもさすがはトビアです。少しも神様を恨んだり、身の不幸を嘆いたりするのではない。いつも、いつも、神様に感謝していました。友達や、親戚や、妻からその信仰をあざ笑われても、トビアは決して心を動かしません。
「そんなことを言うものではない。私たちは、聖人の子孫です。あくまで、その信仰を保っていくように、神様がおあたえになる終りなき生命を待っている身じゃありませんか」と、さかさまに教えてやる位でした。

144 トビアの遺訓(いくん)
 トビアはだんだん年をとって、死ぬときが近づいたとみるや、わが子を近く呼び寄せて、これに美しい遺訓を与えました。
「父が、目を瞑ったら、お母さんに孝行しなさい。お母さんがお果てになったら、私のそばに葬るのですよ。一生の間、神様を心に思い、一度でも知りつつ罪を犯しておん戒めを破ってはなりません。財産は慈善事業に用い、決して貧しい人に顔をそむけないことです。そうすれば、神様もお前に御顔をそむけ給うようなことがありますまい。とにかく、力に応じて慈善をしなさい。たくさん持っていればたくさん施し少ししか持たなければ少しでもよいから、喜んで施しなさい。邪淫を避けなさい。心にも、言葉にも、傲慢を出してはなりません。すべての滅びは、傲慢からおこったものです。おまえの欲しないことは、決して人にもしなさるな。かえって、飢えに困っている人にはお前の食を分かち、裸体になっている人には、おまえの服を脱いででもやりなさい。悪人と飲食をともにしないで、ただ、賢い人の指導を仰ぎなさい。いつもいつも神様を賛美し、神様がおまえの足を導くように祈りなさい。」小トビアは、慎んで父の遺訓を承り、必ずそのとおりに実行すると約束しました。

145 小トビアの旅立ち
 父は、このついでに、ガベルスに貸金のあることも話し、ラゼスへ行って、それを回収してくるように命じました。小トビアは、早速承諾しました。でも、道は遠く不案内でもあるし、誰か良い道づれでもないかなと、外へ出てみると、あたかもよし、かいがいしく旅装束をした一人の青年が見つかりました。名は、アザリアと呼び、同じイスラエル人で、快く道づれになってくれるといいました。実は、ラファエル大天使だったのですけれども、トビア親子はそれと気づくはずもありません。ただ、親切なイスラエル人だと思いこみ、2人手を執って出発しました。夕方、チグリス川の岸に着いた。小トビアは、河に下って、足を洗おうとすると、大きな魚が躍り出て小トビアに襲いかかったので、小トビアは思わず黄色い声をだして助けを呼びました。しかし、アザリアに励まされ、魚をつかんでぐいぐいと引きよせ、難なくこれを手捕りにしました。そして、アザリアの言うがままに腹を割いて、心臓と胃と肝は薬にとっておき、肉はあぶって食べ、余りは塩漬けにして道中の糧に充てました。それから幾日も路を続けて、エクバタナの町に着き、アザリアに教えられて親戚のラゲル方に宿を取りました。ラゲルはかねてより、老トビアの徳に深く感心していたものですから、厚く2人をもてなしてくれました。ラゲルには、サラという一人娘がいました。よほど心の清い、徳の高い処女でした。小トビアはアザリアの勧めによって、そのサラを妻にもらい受け、ラゲルの請いに応じて2週間ほど滞在しました。その間に、アザリアはラゲルのしもべ4人と、ラクダ2頭をひきつれて、ガベルスのもとへ行き、貸金を受け取り、ガベルス自身をも新婚披露の祝宴へ案内しました。

146 徳の報い
 15日を経て、小トビアは、ラゲル夫婦に暇を告げ、サラを伴って帰途につきました。家に帰ってみると、父母も幸い無事でした。互いにひしと抱き合って、しばしうれし涙にむせび、一同神さまを伏し拝んでその御恵みを感謝しました。それから、小トビアは、途中でアザリアに教えられたまま、魚の胃をとって父の目に塗りました。小半時間も待っていると、卵の薄膜みたいなものが目から出て、5年くらい暗んでいた目がたちまち明きました。懐かしいわが子の顔もはっきりと見えました。トビアは喜びに堪えず、声をあげて神様を賛美しました。やがて、小トビアは、アザリアの恩を父に物語り、お礼のしるしとして携え帰った財産の半分を差し上げようとしました。アザリアはそのときはじめてわが身の素性を打ち明けました。
「むしろ、神様を祝し、これをすべての人の前に賛美しなさい。いったい、祈祷と断食と慈善は、金銀を貯えおくよりも利益です。慈善を行えば、死を免れ、罪をきよめられ、神様の御憐み、永遠の生命が見つかります。反対に、罪を犯し、悪を働く人は自分でわが身の敵となるのです。私は、今こそ実際を打ち明けますが、あなたが泣いて祈り食事を止めて死体を拾い取り、夜中を待ってこれを葬っているとき、あなたの祈祷を神様にささげていたものです。なにしろ、あなたは神様の聖心にかなっていましたから、是非とも試みに遭わなければならぬのでした。こういう私は、神様の御前に立っている7天使の1であるラファエル大天使です」天使だと聞いて、一同はびっくりしました。わなわなとふるえながら地上にひれ伏しますと、ラファエル大天使は、
「御安心なさい、恐れなさるな。神様を賛美し、そのお恵みを人々に物語りなさい。」と言い終わって、かき消すように消え失せました。
老トビアは、それから40年も生きながらえ、102歳になって死にました。
子孫は皆その徳を承け継いで、信仰は厚く、行いはきよく、少しも曲がったことは致しませず、神にも人にもかわいがられたものでした。

147 教訓
トビアは、第二のヨブです。深く神様を恐れていながら、かえって意外な災難に罹りました。大いに人を憐み助けていながら、かえって人に棄てられ罵られました。
しかし、夢にも神様をうらまず、人をとがめず、静かに祈祷し、むしろその災難を感謝するのでありました。いかにも美しい心掛けではありませんか。


旧約のはなし (旧約聖書入門) 第34課-第40課

2014-12-31 10:00:00 | 旧約のはなし
第34課 エゼキエルとダニエル

148 エゼキエル預言者
 今度はバビロンに囚われたユダ国民のなれの果てを覗いてみることにいたしましょう。ユダ国がいよいよ滅び、民はバビロンに引かれ行くことになった際、彼らの主の御憐みを説いて信頼の念を起させるがために遣わされたのは、エレミアとエゼキエルとダニエルの3預言者でした。エレミアがエルサレムにおいてどんなひどい目にあったかということは、すでに申し上げたとおりであります。エゼキエルはエコニア王と共にバビロンに送られ、コバル河(ユーフラテス河に設けてある運河)のほとりに住んだものでした。神様は彼にいろいろの幻影を現して、ユダ国の滅びは、民の罪によること、しかしやがて敵国は滅び、ユダ国民はかえって主の御憐みをこうむり、本国へ帰るべきことをお告げになりました。あるときなどは、枯れ果てた人の骨がいっぱい散らばった広い原に彼を連れ行き、その骨に肉がつき、皮ができるように命ぜよと仰せになりました。そのとおりに命じますと、たちまち大きな音がして、散らかっていた骨は一つに寄り添って互いにつながりあい、それに肉がつき皮ができ、息がもどって、夥しい人数となりました。この枯れ果てた骨こそ、ユダ国民で、今はまったく滅び失せて、希望も何もなくなったかのように見えていても、神様はやがてこれを墓の中から呼び起こし、本国へお還しくださるということを見せたものでありました。

149 ダニエル
 ダニエルは、紀元前606年に囚われの身となった王族の一員で、アナニア、ミサエル、アザリアの3青年と選ばれて王宮に召し入れられ、バビロン流の教育を受けることになりました。ところで、その日々あてがわれる食物は、モーゼの律法に禁じたものでした。ダニエルらは、それを断然ことわり、そのかわりに水と野菜だけを与えてもらいたいと係りの人に願いました。しかし、そんなものばかり食べていて、万が一、体が衰え、色でも悪くなるようなことがあっては、自分の首が危なくなるので、係りの人は、おいそれと聞きいれてくれません。「では、10日間試してください」とダニエルが言うものですから、そうしてみると、4人の顔は、ほかの人のにも優って美しく艶々しくなりました。学問の出来も非常によく、才智の鋭いといったら、驚くばかり、3年の後、ナブコドノソルは彼らを召しだして、その才学を誉め、4人とも高い位に取り挙げました。

150 スザンナ
 囚われのユダ国民の中に、ヨアキムという富豪がいました。妻をスザンナと呼び世にも美しい婦人でしたが、しかし、容貌よりも心はなおさら美しく、深く神を畏れ、仮にも道ならぬことはいたしません。そのころ国民の間におこった訴えを裁くが為に二人の長老が選ばれていました。二人とも、心の腐り果てた人間で、スザンナがただ一人居る時をうかがい、これに近づいて悪いことをすすめ、聴かなければ自分たちが証人となって、姦淫の罪を犯す現場を見届けたと訴えるが、それでもよいかと脅しました。スザンナは困りはてました。しかし、無実の罪を負わされても仕方がない。神様にだけは背いてはならぬと決心して、きっぱりと彼らの悪い勧めを退けました。果たして二人は翌日、スザンナを人々の前に呼び出し、自ら偽りの証人となって無実の罪を負わせ、これに死刑の宣告をくだしました。スザンナは天をあおぎ、大きな声して神様にわが身の潔白を訴えました。
 スザンナがいよいよ刑場へ引き立てられるとき、ダニエルは神様の黙示によって、その無罪であることを知り、今の裁判に異議を申し立てました。そして、自ら民に推されて判事となり、二人の長老を引き分けさせ、一人づつ呼び出して口聞きをはじめました。どの樹の下でスザンナが罪を犯すのを見たかとダニエルに問い詰められて、一人は「乳香樹の下で」といい、一人は、「梅の木の下で」と答えました。二人の申し立てが食い違っているのをみて、民ははじめてその訴えが偽りであることを悟り、スザンナを赦してその二人を石殺しにしました。

151 ナブコドノソルの夢
 ある夜、ナブコドノソルは不思議な夢をみましたが、朝になって一向それを思い出しません。よって、バビロンの学者たちを集めて夢とその意味を知らせよと命じました。でも、彼らにそんなことの出来ようはずがない。王は怒って彼らを残らず斬って棄てると言いわたしました。そのときダニエルが王の前に進んで猶予を請い、アナニア、ミサエル、アザリアと心を合わせて神さまに祈り、そのお黙示をこうむりました。そこで、翌朝王に謁見して、夢とその意味を説明しました。
「王様の夢はこうでした。大きな高い像がありましたでしょう。その頭は純金で、胸と腕は銀、腹とモモは青銅、スネは鉄、足も一部は鉄、一部は土で出来たものでした。そのとき、人の手にきられない一個の石が山から転がってきて、その像の足につきあたりますと、像は砕けて鉄も青銅も銀も金も、たちまちこっぱみじんとなって風に吹き散らされ、影も形もとどめなくなりました。そしてその像を打ち砕いた石はみるみる大きな山となり、全世界に充ち広がりました。」
「お夢はこれですが、今その意味を説明いたしますと、王様は、もろもろの王の王で、天の神様から国と勢いと権力と光栄をお授かりになったのですから、それこそ純金の国でございます。王様の後には、幾分劣った銀の国が起こり、またその次には青銅の国が出て世界を治めるでございましょう。第4の国は、鉄のように堅い国で、何でもかんでも打ち砕くのです。しかし、その国にも土のように弱いところがある。統一がうまく行われません。山から転がってきた石とは、神様の国であって、この国だけは、すべての国を打ち砕いて全世界にひろがり、いつになっても滅びることがないのでございます。」滔々と少しのよどみもなく申し上げました。ナブコドノソルは、腹の底からダニエルの知恵の鋭さに感心し、挙げてバビロン全州の総督・学者等のかしらとし、アナニア、ミサエル、アザリアには、バビロン州の事務を司らせることとしました。

152 教訓
 上記の4つの国とは、純金がナブコドノソルのバビロン国、銀がシルスのペルシア国、青銅がアレクサンダー大王のマケドニア国、鉄がローマ帝国を指したものである。その足が、鉄と土から成っていたのは、鉄のようなローマ帝国も、東と西に分かれて弱みを見せるところを示し、大きな山となった石こそ、メシアの国、すなわちキリスト教会にあたるのであります。

第35課 ダニエル の続き

153 火のかまどの3青年
 ナブコドノソルは大きな金の像を作ってバビロンの平原に立て、ラッパや琴や笛やその他いろいろの音楽が鳴り出したら、皆ひれ伏して礼拝せよと命じました。アナニア、ミサエル、アザリアの3青年もその場に臨んでいたのですが、3人とも王の命令を拒んでひれ伏しません。王は怒って、大きなかまどに薪を、通常の7倍ほども多く積み重ねて、盛んに火の手を上げさせ、3人を着のみ着のまま縛ってその中に投げ込ませました。しかし、天使がかまどの中にくだってほのおを外に払いのけましたので、3人を投げ込んだ役人達は、それに当たって焼け死にました。けれども、かまどの中には涼しい風がそよそよ吹き、3人は、縛られた綱こそ焼き切れたが、身には何の苦しみも感じません。ゆうゆうとかまどの中をそぞろ歩きしながら、声をあわせて神様を祝しています。王は、この有様を見て、大いに驚き、3人を外に呼び出し、口をきわめて彼らの神様を誉めました。以後、この神様をけがす者があったら、その身は斬り、その家はとりつぶしてしまうぞと命じ、3人をバビロンに留め置いて高い位に挙げました。

154 ダニエルとバルタサル王
 ナブコドノソルの死後、バビロンの勢いは俄かに衰え、かえって東隣のメディアとペルシアの両国がむくむくと頭をもたげてきました。ことに、ペルシア王シルスは、非常にえらい豪傑で、まずメディアを取り、次にバビロンに攻め入って、その都を囲みました。しかし、バビロン城といえば、天下に2つとないほど頑丈に構えてある。たとえ、敵の王が天空を駆け巡り地の底を潜る術があろうと、到底攻め落とされる心配はない、と、バルタサル王は安心して、防戦の最中に大宴会を催しました。ナブコドノソルがエルサレムから奪ってきた金銀の聖なる器を神々を賛美しつつ、それでしきりに祝い酒を飲みました。すると、たちまち、人の指が壁の上に現れて、不思議な文字を書きつけましたが誰一人その文字を読むことができる者がいない。そのとき、ダニエルが召し入れられて、その文字を
「マネー  数えた テセルー 測った ファレス 分けた」と読み、これを次のように解釈しました。「神さまは、陛下の御代を数え給うたが、もう終わりに達している。陛下をその秤にかけて測り給うたが、あまりに軽かった。陛下の国を分けてメディア人とペルシア人とに与えたという意味でございます。」果たしてその夜、シルス王は、抜け道からバビロンに忍び入ってバビロンを陥落し、バルタサル王を斬り、メディア人のダリウスというものを王に立て、バビロンを治めさせることにしました。

155 ダニエルをライオンの檻に
 さて、ダリウスは、大いにダニエルを信用して、ダニエルを諸役人の監督となしました。バビロンの役人たちは、それを面白くないと思い、何とかしてダニエルを陥れようと、互いに談合を始めました。ある日、連れだって王の前に進み出て「これから30日間、王様よりほかの者に向かって、何の願い事でもしてはならぬ。背いた者は、ライオンの檻に入れる」という勅令の発布を願いました。王は、何気なくその願いを許しました。ところで、ダニエルは、日に三度、エルサレムに向かった方の窓を開いて神様に祈ることにしていたのですが、勅令が出てからも、それだけは決して怠りません。例の役人たちは、それをはっきりと突き止めたうえで、さっそく王に訴えました。王は当惑して、ダニエルを救いだす方法があるかどうか終日考えてみたが一向に良い知恵も出てこない。やむを得ず、ダニエルをライオンの檻に入れ、大きな石で蓋をして封印をつけ、誰でも勝手に開けてはいけないようにしておきました。翌朝早く、ライオンの檻に馳せ行き、「ダニエル、活ける神のしもべ、あなたの仕える神様は、ライオンの口からあなたを救ってはくださらなかったのであろうか。」と、鳴き声をあげて叫びますと、檻の底から、ダニエルの声が聞こえました。
「陛下、神様は、天使を遣わしてライオンの口をふさいでくださいました。私が、神様にも陛下にも、何の不都合も致さなかったものですから」
王は喜びのあまりに跳び上がりました。命じてダニエルを引き上げさせ、かえって、ダニエルを訴えた諸役人をとらえ妻子もろともその檻に投げいれました。獅子は、早速彼らをひっつかんで、骨さえ残さずにかみ砕いてしまいました。

156 ダニエルを再びライオンの檻に
 ダリウスは、2年にして世を去り、シルス自身がバビロンの政治を司ることとなり相変わらずダニエルを重く用いてくれました。そのころ、バビロン人は、ベル(バール)という偶像を特に尊び拝んでいました。この偶像は、日々、麦粉を12斗、羊を40頭、ブドウ酒を6樽ずつも平らげるという非常な大食家で、王も厚くこのベルを信仰していたものでした。ある日、ダニエルに向かい、
「君は、なぜベル(バール)を信仰せぬのじゃ。見よ、ベル(バール)は活神様じゃ。毎日、どれほどの飲食をしていらっしゃるか。」
と言いますから、ダニエルは笑って答えました。
「陛下、だまされちゃいけません。ベルは内は土で、外は青銅です。飲食などするはずがありますか。」
そこで、飲食の実否を確かめるため、王はダニエルとベルの堂へ行きました。そして、王が偶像の前に供え物を置いてから、ダニエルは敷石の上に灰をふりまき、門を閉じ、封印を施して立ち去りました。翌朝、堂へ行ってみると、封印は昨日のままでした。門を開いて祭壇を見ると、何一つ残っていません。王は非常に喜び、ベルを賛美して中へ入ろうとしますと、ダニエルは王を引き止め、「陛下、下をご覧あそばせ。これは、誰の足跡です」と敷石の上を指差しました。「やあ、これは、男、女、こどもの足跡じゃ」と、王もさすがに驚かざるを得ない。神主たちを召しだして厳しく糾問しますと彼らも、とうとう包みきらないで、堂に抜け道をこしらえていること、夜中、妻子とその抜け道から入って飲食していることなどを、残らず白状しました。王は、怒って彼らを死刑に処し、ベルをダニエルの手にゆだねました。ダニエルは、偶像も堂も残らずたたき壊してしまいました。バビロン人は、大きなヘビを飼い、ヘビを礼拝していました。

王 「こればかりは、活神様でないとは言えまい。どうだ、礼拝しては。」
ダニエル 「ヘビなんか、活神様ってあるものですか。もし、陛下のお許しがありましたら、わたくしは、剣や棒がなくとも、立派に殺してお目にかけますよ」
王が首を縦に振ったので、ダニエルは、松脂と、脂と、獣毛を一つに煮てこれを丸め、ヘビの口へ投げいれました。ヘビは、それを飲んで間もなく、たおれてしまいました。これを見たバビロンの民は、怒るまいことか、王に迫ってダニエルを引き渡させ、7頭のライオンを飼ってある穴に投げいれました。しかし、ライオンは、ダニエルに何の害をも加えません。7日目には、王はダニエルを弔おうと思って、ライオンの穴に行きました。見ると、ダニエルは、ライオンの間にちゃんと座っている。王は、思わず声をあげて、「ああ、ダニエルの神様はえらい」と叫び、命じてダニエルを引き出させ、反対者をライオンの穴に投げいれさせると、ライオンは、たちまちおどりかかって、噛み裂いてしまいました。

157 教訓
 神様の教えを守るにつけて、ダニエルのような目を見ねばならぬことが今日でも往々あるものです。恐れず、たゆまず、あくまで信仰を保って、動かない覚悟が重要です。

第36課 楽しい帰国

158 帰国の許可
 ユダ国民は、エレミア、エゼキエル、ダニエルなどの預言者に教え諭され、外国に流浪の身となった辛さにこりごりして、深く過ちを悔い、一心に神様の御憐みを求めるようになりました。エレミアの預言したとおりに、最初の虜がバビロンに移されてから70年目に、ペルシア王シルスはバビロンを滅ぼし、ユダ国民に帰国の許可を与えました。ナブコドノソルがエルサレムの神殿から奪ってきた金銀の聖なる器も残らず返還してくれました。ここにおいて、王族ゾロバベルと大司祭ヨズエに率いられて、総勢5万人ばかりがふるさとの空を臨んで帰国の途につきました。70年前に泣きの涙でたどった流浪の路を、今や足取り勇ましく帰って行くのです。彼らの喜びったら、はたしてどれほどでしたでしょう。

159 神殿の再建築と、エルサレム城の復興
 彼らは、エルサレムへ辿りつくや、まず神殿の跡をたずね、その焼け土をとりのけて昔の祭壇の礎を見いだし、その上に新祭壇を築いて燔祭を捧げ、幕屋祭を行いました。1年を経て、神殿の再建築に着手しました。基礎を据え終わるや、司祭は聖服をつけ、ラッパを吹き、レビ人はどらをたたいて神様の御恵みをほめたたえ、民は大声をあげて、主の御名を賛美しました。でも、北隣のサマリア人が、ペルシア朝廷に、あられぬことを申し立てたので、工事はやむなく一時中止するに至りました。しかし、あとで、ダリウス1世の許可を得て再び建築にとりかかり、ようやく21年目にめでたく工事を終えて盛んな落成式を挙げました。その後、ペルシアの朝廷につかえていたネエミアが、エルサレムに帰ってきて国民に城壁の復興を勧めました。家家に仕事を割り当て、老いも若いも総出で、夜の目もあわわぬくらいに働いた甲斐があって、52日目には見事な城壁ができあがり、今や容易に侵入できないようになりました。ネエミアと力を合わせて復興事業に当たり、敗残の母国を宗教上にも政治上にも国らしい国にしたのは、司祭エスドラでした。二人は、ある年の幕屋祭に民をエルサレムに集めて律法を読み聞かせ、それに簡単な説明までもつけ加えて、その真意を徹底させようと努めました。後でもう一度彼らを神殿に集会させ、これまで神様の律法を破って種々の罪を重ねたのを悔い悲しませ、以後は決してこのような過ちを再びすまいと誓わせ、各自の名を書いて印を捺させました。それから、安息日には、城門を閉め切って物品の売買を堅く禁じ、異教の女を娶っている者には強いて離婚を命じ、応じない者は、容赦なく国民の籍を切って放逐し、以て信仰の純潔さを保つべく努めました。二人の荒療治は、意外の功を奏して、民は厳重に神様の掟を守るようになり、従ってその手厚き御保護をこうむり、次第に富み栄えてきました。このころから、エルサレムに帰った国民は、昔の名をそのままヘブライ人と言ったり、北隣のサマリア人に対してユダヤ人と呼んだりしました。そして、ペルシア、エジプト、その他の国々に住んで帰国しなかったのを、「離散のユダヤ人」と呼んで、互いに区別したものであります。

160 教訓
 帰国以後の年表を掲げますと、
紀元前538年 シルス王がバビロンを滅ぼす
紀元前536年 ユダヤ人に帰国を許可した
帰国の翌年   神殿の再建築に着手
紀元前515年 神殿の落成
紀元前485年 城壁が復興

そして、嬉しいことには、70年にわたる囚われの苦痛が深く身に浸み、骨に徹ったとみえて、あれほどまでに偶像崇拝にかたむき易かった民も帰国後は決して偶像の前に膝をかがめなくなりました。苦しみの鞭(むち)は、なかなか、ためになります。
「児が可愛くば棒を食わせろ。鞭を容赦する親はその児を憎むのだ」
という諺があります。

第37課 エステル皇后

161 エステル皇后のおいたち
 シルス王が、帰国のゆるしを与えても、それを利用しないで、そのまま向こうに踏みとどまったユダヤ人は、大変多かったのです。異教者にも救いの恵みを得させたいという神様のめぐみからそうなったのです。彼らのなかには、ペルシアの朝廷にあつく信用され、高い位に挙げられたものが少なくありませんでした。ネエミアもその一人でした。ことに、エステルという女子などは、アスエルス王(ギリシア遠征で名高いクセルクセス)に見出されて、その皇后にとりたてられたほどであります。
 このエステルは、幼いころ、父母に死に別れ叔父マルドゲウスの手で養育されたものでした。マルドゲウスは、彼女が皇后になったとき、その身がユダヤ人であることを明かさないように注意し、自分は毎日王宮の門に立って、陰ながらエステルを守護していました。あるとき、門衛兵を務めている2人の朝臣が、王を殺そうとしているのを、マルドゲウスはそれとなく漏れ聞いて、エステルに告げ、エステルから王に申し上げました。
引きとらえて、厳重にただしてみると、「恐れ入りました」と、事実を白状したから、王は命じて二人を磔に処し、そのことを記録に記させておきました。

162 ユダヤ人の危機
 その後、王はアマンという者を寵愛して一番高い位にあげました。何事も、その言うがままになるので、朝廷の百官は、彼の権勢に恐れ、神様に対するような最敬礼をアマンにつくしたものでありました。しかし、マルドケウスだけはそんな敬礼をはらいません。アマンはそれを知ると大いに怒り、マルドケウスをはじめ、国内のユダヤ人を残らず殺しつくそうとはかり、王に申し出てその許可を得ました。さっそく王の名をもって書面を各地の総督に送り、12月23日を期してユダヤ人を残らず殺し、その財産を没収せよと命じました。ユダヤ人の悲しみ方といったらありませんでした。マルドケウスは、ことの次第をエステルに告げ、「王様の前へ出て、命乞いをしてください」と、たのみました。
 この国の法律では王に召されないで御前に出て行ったものは、死刑にされることになっていました。エステルは一か月も前から王に召されていなかったのです。しかし、今の場合、そんなことを言っておられたものではありません。都のユダヤ人は、3昼夜食べず飲まずに祈ってくれるように頼み、一命をなげうって王の前へ出て行きました。
 王は、はたして、目をいからせ、きっとにらみつけました。エステルはおそれて、気を失い、色は蒼白になって、侍女の肩に倒れかかりました。それを見ると、王の心は急にかわり、自ら玉座を飛び出して、エステルを抱き起し、いろいろと介抱して正気づかせました。
「恐れぬでもよい。この掟は、そのために設けてあるのではない。ほかの人のためだよ。さあ、近くよるのだ。望みは何?何が願いたい?ほしければ、国の半分でもあげるよ」
「わたしの願いは、ほかではございませんただ、陛下がアマンを具して私の用意しました心ばかりの酒宴に御臨席くださいますれば、身に余る幸いと存じまする」
王は喜んで承諾し、アナンを従えてエステルの酒宴に臨みました。ほろ酔い加減になったころ、エステルを顧みて、「何がほしい?国の半分でもあげるよ」と、重ねて申しました。エステルは、ただちに打ち明けません。明日を待とう、そのほうが一層好都合じゃあるまいかと思い、
「もし、陛下の、お気に召されますことならば、明日、もう一度アマンと御臨席くださいませ。その節は、きっと、わたしの意向を申しあげるでございましょう」
と願いました。アナンは、飛び立つばかりに喜びました。しかし、王宮の門を出るとき、マルドケウスがつくねんと座ったまま、腰を建てようともしないのをみて、腹立たしくてたまりませんでした。妻子や朋友をあつめて、そのことをくどきたてると、妻のザレスはアマンに連れ添った女だけになかなか腹黒い
「なあに、高さ25メートルもある柱を用意しておいて明朝早くに陛下に申し上げ、マルドケウスめをその柱に吊上げて絞め殺しなさい。そうしたうえで、皇后さまのご宴席に臨んだら、愉快にお酒ものめるじゃありませんか」と、知恵をつけました。うまい考えだと、アマンは喜んで、急に、高い柱の用意をさせました。

163 アマンのあてはずれ
 その夜、王は一向に眠れなかったので、即位以来の記録を取り寄せて、従臣に読ませていると、マルドケウス忠節の一段がでてまいりました。「マルドケウスは、このために、なんの恩賞にあずかったか」「なんにもいただいていません」といっているところに、マルドケウスを死刑に処する許しを願おうとアマンが王宮にやってきました。王は早速これを召し入れました。
「ペルシア王が、ことさら栄誉を加えようと思う人には、何をどうしたらよいだろうね。」
「その人に、王さまの御衣をつけさせ、御馬にのせ、金の冠を戴かせ、大臣にそのくつわをとらせ、王さまが栄誉を加えたもう人は、このとおりだ、と呼ばわりながら、市中をまわらせるがよいかと存じます」
「じゃ、御身は御苦労だろうが、宮門にすわっているユダヤ人 マルドケウスにそうしてください。一つでもおとしてはいけませんよ。」
王様から栄誉を加えられるべきものは、自分のほかにはないとおもって、はじめから大きくでたのに、これはまた、なんということでしょう。さすがのアマンも、まったくあっけにとられてこそこそと自宅へ逃げかえりました。やがて、定めの時刻となり、アマンは王に従ってエステルの酒宴に臨みました。王は、再びエステルの希望を問いました。
「どうぞ、わたしと、わたしの民の命をお助けくださいますように。実に、わたしも、わたしの民も、敵にわたされ足の下に踏みにじられ、殺され、滅ぼし尽くされようとしているのでございます」
と、エステルは嘆願しました。王は、驚いて問い返しました。
「誰か、そんなものは。どんな権勢があってそんなことを企てるのだ?」
「わたしたちの大敵は、この腹黒いアマンでございます」
エステル皇后がユダヤ人であることは全く知らなかったので自分を誰よりも寵愛してくださるものと安心していたアマンの耳には、今の一言は晴天の霹靂でした。
これをきいた王は、かっといかって、アマンを刑吏にわたし、アマンがマルドケウスのために設けた柱に吊上げてこれを絞殺させ、マルドケウスをアマンの位にあげました。

164 教訓
 エステルは、聖母マリアのりっぱなかたどりです。彼女ひとりが、ペルシアの法律にしばられなかったように、聖母マリアもただひとり、一般人類が縛られている原罪のさだめをまぬがれなさいました。また、エステルが、自国民のために周旋してその命を助けたように、聖母マリアもわたしたちのために取り次ぎをなし、神さまのお怒りをやわらげて、悪魔の手より救いだし、もともと悪魔がすわっていた福の座にわたしたちをお取り上げくださるのであります。