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ある司祭のスペイン革命受難記 第1章ー第2章ー第3章

2015-01-08 05:21:00 | ある司祭のスペイン革命受難記
ある司祭のスペイン革命受難記

スペイン革命受難記

第1章 大嵐

1936年7月19日、スペイン東部の都市バルセロナに革命が起こった。
私は、このことのある4日前に私と同じ司祭である友人と共にこの町を立って、某所に入湯に出かけました。
もちろん、この際には、もはや何事か起こるらしい予感は誰にもないわけではなかったが、
しかも、いつ起こるかについては、誰も予言できるものはありませんでした。
某温泉所についてみて、浴客が例年の半数にも満たないのには、世の人の不安が如何に大きいかを見せつけられた気がしました。
ちょうどそのとき、カルオソテロの殺人事件のニュースが出たために、それでなくとも少ない浴客の中の大部分の人はあわてて帰っていったし、
帰らないお客も大きな不安におののいていたのでした。
18日には、それでも温泉場のことなので、浴客は思い思いの遊びにふけっているとき、革命に対する最初のニュースが人々の耳を打った。
その夜、モロッコに反乱のあったことを私は始めて知りました。

このことのあった翌日の日曜日には、バルセロナの反逆をラジオがしきりに報じてアナウンサーの声は、朝から晩まで労働者に向かって
「武器を執って起て」との指令を強調し、共産党の勝利を讃えて「近いうちに共産党は完全な勝利を得るであろう」と叫んでいた。
そして負傷者のために看護人と医師とを至急に募集する声が続いた。
アナウンサーの声が聞こえなくなったなと思うと、革命の流行歌がかしましくがなり立て、それに鉄砲の音さえ混じって聞こえて来る。
このときの私どもの心配は如何ばかりであったかはどなたもおわかりでしょう。
時間はいくら経ってもラジオには他のニュースはさっぱり出て参りません。私はあまり突然の出来事なのに気も転倒し、
どんなことになるだろうかとさえも考えてみる余裕がありませんでした。
しかし、夜に入ってバルセロナの反乱軍司令官ゴデ大将は脆くも共産軍の為に破られてしまった。
バルセロナは共産軍の一番強い所なのであります。
私どもはその日曜にはただラジオのニュースによって反乱のことを知っただけに過ぎませんので、
私たちの村には別に何の変わったこともありませんでした。しかし、すべての人は皆神経質な不安にとらわれていたのは事実です。
それでも夜には「反乱がおさまった」という簡単なニュースが出ただけでしたが、凡その人はこれで安心してしまって、
ある大事件勃発のこれが前哨戦であったのだ等と気づいた者は一人もありませんでした。
月曜日の朝、私はミサを上げに行く途中で、「今こそ革命が始まるのだ」とのラジオの叫び声を聞きましたが、
ただそれだけでラジオは夜までただ共産主義を讃美する声が連続して、個人の財産が共同物になるとか、その話の次には某会社が
人民共同の所有になったとかいうようなことばかり発表して、放送時間を埋めていました。

殉教者の鮮血

スペインに今、まさに起ころうとするこの革命は、単に社会的な性質を持っているだけではなくて、宗教への迫害が如何にも残酷に行われようと
しているのでありました。それは、共産政府の規則の中には、正式にはどこにも教会を破壊せよ等とは規定されてはありませんけれど、
そのしていることを見れば、2000年の間、この共産主義政府によるもの程残酷な迫害は見当たらない。
この日曜の日にも多くの聖堂は彼らによって火がつけられた。月曜日にも前日と同じことがつづけられた。その日、バルセロナから
来た人の話によれば、全市中彼らの兇手から免れた聖堂は一つもなかっという。
こうして、都会や小村にある聖堂は次々と彼らの魔手が加えられ、焼尽は免れることができたにしても略奪まで免れることは全くなかった。
建物が焼かれないか壊されないときも、礼拝用の聖器はことごとく失われるのが常であった。
バルセロナにおいては、もう聖職者に対する迫害さえもはじまっていると言う。修道士、修道女は修道院から追い出されて殺された。
田舎は都会ほど急速にはこのことは行われませんでしたが、それでも反神指令の命によって、都会で行われたようなことはだんだん田舎へも及んできた。

監視者には、次のような命令が下された。すなわち、「聖職者が見つかったならば、捕えて直ちに殺せ」と。
隣村にたいへん愛の心の深い年寄りの司祭がいて、村人のすべてからは聖人のように尊敬されていた。そこで、その村の村長さんは、
事情を話してこの老司祭を許してくれるように司令部に願い出たところが、これに対して司令部からは、
「定めのとおりにしなければならぬ。一番熱心な一番活躍するような司祭こそ、真っ先に殺さなくてはいけない」
という返事が届けられたのでした。

私はここまでは、革命の勃発について語りましたが、以下自分の目撃したことを話すことに致しましょう。

火曜日の朝のことでした。私は友人と一緒に散歩に出ましたが、急に後から自動車の音がして共産軍が迫ってきましたが、私たちは道ばたの木の陰にかくれて
彼らをやり過ごそうとしたのです。しかし、不幸にも3台目の車に乗っている軍人に見つけられてしまいました。
彼は拳をふりあげて、
「殺せ、殺せ司祭だ」
と叫んで発砲しましたが自動車が余り激しく走っていたため、弾丸は私たちには当たりませんでした。
車が見えなくなってしまってから、これを見ていた一人のお婆さんが、私たちに近づいてきて、
「危ない事で御座いました。もっと身体をかくさなくては危なう御座いますよ。今もあの最初の車に見つかってご覧、もう今頃は冷たくなっていたでしょうに。」
と。まさにそうであった。
私たちが制服を着たまま外に出るのは危ないことでありました。
そのとき、丁度都合のよいことには、親切に世話をしてくれる人があったので、私たちは背広と着替えることができました。
ところが、その夜、また軍人がトラックに乗ってこの村に現れた。妙なことには、この兵士たちは上衣を脱いでシャツ一枚で、そのボタンの止まっている者はまれだった。そして、各々違った武器を持って、あちらこちらと彷徨しながら村人たちを脅かしていたが、いつも最初に聞くのは、教会はもう焼かれたか否かについてであった。
そしてまだ、焼かれていないことが確かめられると、すぐに焼きにかかるのであった。
村長がそれを避けようと思って「ミサの式はもうやめさせるから」と申し出たにしても彼らは「どうしても焼かねばならぬ」と言って聞かないので、
「そうですか、それでは仕方ない貴方達の自由にしなさい。しかし、もしどうしても焼くのなら、この村には右傾(反共産派)の人がたくさんいるから、あなた方が聖堂を焼くのがわかったら決して無事にこの村から外へな出さないでしょう」と注意したのです。この一言が利いて彼等は初めの勢いはどこへやら、すっかりしょげかえって、聖堂のことは問いもしなくなった。しかし、困ったことには、彼等がこの村を出て行くとき、村内方々の食堂をさんざん食い荒らしながら代金を払った者は一人もいなかった事である。そして彼等は共産歌を高唱しながら来たときのトラックに乗ってあたふたと引き上げて行ってしまった。
村人たちは始めて安堵の胸をなでおろした。人々は村長の下に打ちよって、村長に礼を言ったり、今夜の恐怖を語り合ったりしていた。村人のこの安心もしかし長くは続かなかった。その翌日、私達司祭が聖堂に行ってミサを立てようとしていると、村にいた幾人かの共産主義者の密告によって共産事務所長一行が押し入って来た。そして罵詈雑言の果てが司祭や信者たちに「おまえたちはここで何をしているのだ。我々はきさまたちを殺す権利があるのを知らないのか。お祈りやミサ等をしてはならぬ、早速出て行け」と怒鳴りながら、集まっていた信者たちをとうとう追い出してしまった。

このことがあって後、この村にも都会と同じように、どこの家でも窓を開放せねばならず、人が集合してはならず、個人所有の武器は指定の場所に提出せねばならぬ等の命令が発せられ、これに続いて家宅捜索が片っ端から始められた。しかし、発見されたものは猟銃わずかに数個に過ぎなかった。その夜には、今までにない多人数の共産兵がトラックに乗って押し掛けて来て、人々は一切外出を厳禁せられ特に聖堂付近に寄り付くくとは厳重に差し止められた。彼等は聖堂破壊をはじめたのである。私の居るところからは祭壇を割る斧の音や、地面に落とされた御像の音などもハッキリ聞き取られた。突然地震のような響きが聞こえた。それは聖堂の最後端にある高台からパイプオルガンの落ちた音であった。村の人々は目の前にこの残酷極まる有様を見て、この世とも思えぬ程の驚きを感じ、見つからないように聖堂の近くの家々に集まって「彼等をゆるし給え」と涙ながらに天主に熱い祈りを捧げていた。夜も更けて11時頃には、破壊の音は全く絶えたがその刹那窓越しに赤い舌がベラベラと立ち上ったのには、かくれて見ていた村人たちも愕然とした。これは実に聖堂から運びだされた聖具のことごとくが灰燼に帰する合図に他ならないのでした。

このことのあった翌日、聖堂に入ってみれば、堂内はがらんどうになっていて役に立つものは何一つ残っていなかった。私たちは村で一番信仰の厚い信者に頼んで聖堂の中を掃除してもらった。彼等は悲痛の面持ちで整理していたが、そのときの焼け残りは遺物として今もよく保存されている。
聖具の破却を遂げた共産派は、会堂の壁を打ち抜いて沢山の窓を開けた。次の土曜日からは聖堂は村の市場として使われるとの正式な発表があった。それだけでなく、その翌日の日曜日にはこの市場の落成式という名目で盛大なダンス会が催され殊に村民一人残らず出席することが強要され、違背するときは罰金が課せられた。この強制に堪えかねた村の青年たちは、「この涜聖にどうして参加できるものか」と互いに議をまとめて「どこまでも共産派の背信に対抗する」と誓った。共産党はしかし青年のこの決意の前には無力で、何をも為し得なかったが、それでも反宗教的は怒りはますます加えられていった。

不思議なことには、共産軍の人たちはよく宗教のことを知っていた。すなわち、聖堂の中で最も大切なものは何であるかを知っているものだから、聖堂に入って彼等が最初に探すものは祭壇の石はどこにあるかであったし、聖櫃を壊すことであった。それは祭壇の石がなければ式が行われないものだということを彼等はよく知っていたからであった。革命勃発の当初には、教会に対するこうした暴虐の記事が壁に新聞紙上に載せられていたので、私は記念のためにこれを取っておいたが、1週間も経った頃からはこんな記事は一切新聞紙の上から消えていった。これは、世人の思惑を気にした政府の命令によるものであった。

しかし、それにしてもここに一つの疑問が残る。当時この地方の人々はほとんど皆熱心なカトリック信者だったのに、なぜ、このような無法行為に対抗して武力をもって起たなかったかの一事である。が、その原因は、第一にこれらの人々は武器という程のものを一つも持たなかったこと、第二には共産軍は多くの武器をもち、道徳を無視して突然押し寄せ、たちまちにしてこの地方の人々を虐殺したのでこれに恐れをなしたことが主な理由と考えられる。これについては次のような例がある。
某村に、今年70歳あまりのお爺さんがあったが、聖堂の番人に、「あなたは何故聖器の焼けるのを黙って見ているのですか」と問うたところが、その番人は返事のかわりにただ一発の下にこの爺さんを射殺してしまった。この外にも、聖堂の前に機関銃を据え付けてその前を通る人を次々と片っ端から殺してしまった所もあるほど、共産軍は実に獰猛を極めていた。

トラックに乗って来た共産軍人たちは、私たちの居る村にも押し掛けて来て、村長の首を斬り、村会議員を追って全部を入れ替えて共産議会を造り村の権利は否応なしに彼等によって掌握されてしまった。この議会は全く専制的であって裁判などでもただ名ばかりで「怪しい」と共産軍の目から見えればその場で銃殺する権利まであった。こんなときに一番目をつけられるのは旅行者で、旅行許可券がなければ一歩も動かれなかった。
某村は温泉地のこと、入湯に来ている司祭も幾人か居り、修道女の経営する修道院もあったが、この修道院はすぐに共産軍によって破壊され焼却されて修道女たちは散り散りに命からがらようやく身をもって逃れたくらいだったが、その中の二人だけはその主任司祭から、聖コップの中に残っていた御聖体を頂いていたので、私が毎日彼女等にこれを授けに言って居た。他の神父たちも、どうにかこうにか逃げるだけは逃げることができた。それは彼等がいろいろと工夫して旅行許可券をもらうことが出来たからであった。

私は自分の今後の行動についての指示を受けたいと思って、バルセロナにいる目上の人に「何をしたらよいか」を手紙で問い合わせたけれど、なかなか返事が来なかった。後になて、その人は共産軍のために殺されていたことがわかった。そして私にはその代理の人からその村で入湯がすんだら山奥の極く田舎の方にかくれなさい、決してバルセロナに帰ってはいけない、バルセロナでは共産軍が私を捜索しているという通知が来た。それで、私は7月30日までは某村に滞在して入浴しながら世の中の動静を凝視しておりましたが、その当時交わっていた司祭はその後ほとんど共産軍の兇手にたおれて死んでしまいました。
今思い出しても彼の別れの時の感激は到底忘れることのできない程深いものでありました。

某村の温泉宿に止宿しながら、私はどうして世の人々の為に働いたらよいかに少なからず悩んだのでしたが、イエズスキリスト様は「愛の牧者は小羊の為に命を捨てることだ」とおっしゃる。私も忠実にこの聖言に従おうとするのですが、宿の主人は私に警戒せよとしきりにすすめるものですから、私も人の親切を無にすることは神の聖旨ではあるまいと思って、はやる心を抑圧して時機の至るを待つこととした。
けれども、私自身も経済的に行き詰まっていて愚図愚図していては所持金は使い果たしてしまって寝るところもなくなおるし、いつまた共産軍の血祭りに上げられるかもわからないし、いずれにしても危険は刻々と迫って行く。もはや逃れる途とては、渓谷に副って山奥に走り込むより外はなかった。しかも私は全然土地不案内のために、この地方の風習も、道さえ知らなかった。でもある有力な人にすすめられて、フランスの国境近い一寒村に行くことになり、その人から行く先への紹介状まで貰うことが出来た。しかし、私にはまだ「旅行許可券」がない。それにその村も大変遠くて旅行券がなくては行けそうにもないのであった。それで先ず何よりも旅行券を貰わねばならないので、私の主治医の所へ行って、「私はこの村に入湯に来ていたのでしたけれど、お湯が体に合わないから山の上のほうのお湯に行きたいから」とて、偽名で診断書を作ってもらい、これを共産軍の事務所に見せて旅行許可券をまんまともらうことができた。
幸いにも、私が司祭であることを知っている人が誰もいなかったので、仕事は滞りなく運び、私はそれを持ってその翌31日、名残り惜しくもこの村を離れて奥地へと向いました。


ある司祭のスペイン革命受難記 第2章

共産軍の厳重な検問に引っかかってはならないと思って、私は友人にお祈りの本と十字架とを預けておいた。
そして、身分証明書は新調の袋の中によく隠し、ロザリオは鞄の底に入れた。
始めの幾日かの旅行は別に何ごともなく過ぎた。
検査の時にはただ旅行許可証を見せるだけで足りた。

ある村にたどりついて、そこでまた、その村の管理者の認め印を押して貰わなければならなかった。
そのために共産会議所に出向いたが、ここで、夢にも思わぬ悲惨な出来事を見た。
それは、一人の女が裁判官の代理となって裁判を聴いていた。その時の場面である。

共産兵「私は、○○村の神父を捕えたがどうしたらよいでしょうか」

裁判官の女「何もかも彼の物を取ったのか」

共産兵「取りました」

裁判官の女「聖堂も焼いたか」

共産兵「はい焼きました。残ったのはわずかの焼け残りだけです」

裁判官の女「神父はどんな人だったか」

共産兵「まあよい人でした」

他の一裁判官「それならばよく鞭打ってから放免してもよかろう」

裁判官の女「(怒った顔つきで)共産軍の革命とは何を指すのか。すべての神父を殺さねばならぬということこそ、我らのモットーではないか。だからその神父も殺すべきである。ああ、私は死刑を宣告する権利を得たい」と叫んだ。

議長(女に向かって)「司祭の命なんてそう大したものではないだろうから殺したければ殺してもよいだろう」それは司祭の生命を禽獣の生命程にも思っていないような言い分である。

裁判官の女(自慢ぶって)「ああよかった。私の思うとおりに彼を殺してやろう」

そして、どんな方法によって神父を殺すかについて彼女は人々に詳細説明をしてからその部屋を出て行った。
この裁判に携わった裁判官たちは、「彼女は私等よりも共産熱に燃えている」と驚いていた。

どこの村でもこうした女の幾人かが居ない村とてはなかった。悪性な生活をしている女が共産軍の仲間になった時が一番残酷な審判を平気でやってのけた。ある女中のごときは、平素その主人を恨んでいたが共産党蜂起の機逸するべからずとという考えから共産党に訴えて裁判にかかるや、狂人を装って主人に対しピストルを擬して「この問題はこの通り解決しなければ駄目なのだ」と言様に、ただ一発の下に主人を射殺してしまった。

また、ある村では神父が平服をまとって逃げ場を探しているのをみつけたこうした不逞きわまる女が
「神父だ神父だ早く殺せ早く殺せ、神父だ神父だ」
と叫んでとうとう共産軍の魔手のためにあわれな最後をとげた。こればかりではない。バルセロナにおいては、一人の神父を訴え出た者には500ないしは1000ペセタスを賞とするという神父の首に懸賞を附して殺害を企画しているため、賞金の欲しい手合いは信者に紛れて熱心な信者を訪問して重病人でもあるのを発見すれば親切ごかしに「神父を捜してやる」という口実の許に神父の居所をかぎ出してはこれを共産軍の手に渡すという悪辣な非人道極まる輩も続出したほどである。

私がある村についた時にはまだその村には革命の惨禍は及んでいなかった。教会もまだ焼かれてはいなかった。それでも宗教的な会合は一切厳禁させられていた。わたしがこの村につくとすぐに共産党員が訪問に来た。しかし私はバルセロナの商人に変装していたために幸いにも別に何も危害を加えられるようなこともなくて済んだ。そればかりではなく秘かにではあったがその村の神父とも遭う機会が恵まれた。
そのとき教会にはまだミサをたてられる場所が残っている事実もわかり、またその翌日は私の霊名の聖人の祝日にも相当していたので、神父にお願いして翌朝早くミサを立てさせて貰うことができた。これこそわたしにとっての最後のミサであった。というのは、その翌日に村の共産党員は動乱を起こして教会に対しても、先日まで私の滞在していた村と同様な涜聖行為が所構わず繰り返された。そしてそこにあった祭服を盗み出しては村の子どもたちに着せてふざけ散らし、もし子供たちが親から叱られるのを恐れ着るのをいやがれば、「大丈夫だよ、後のことは私たちが知っているから少しも恐れることはない」と無理に着せては興じている。

ここは田舎のことだから、これまでは教会は少しも損われずにいたのに、たった一日のうちに、この近所の教会はすべてが焼きつくされてしまって夜には聖堂の焼ける炎が天を焦がし遠方からでもこれを望むことができる程であった。この折なら、私が国境を越えてフランス領に逃れることは大して困難なことではなかったのだが、私には果たさねばならない使命が与えられていることを思うとそれも出来ずにそのままこの村にとどまることにしたのであった。
それは至る所から「司祭が捕えられて殺された」というニュースが耳に入るので牧者に捨てられたそれらの羊のために少しでも働きたいと考えたからでした。それにまたそんなに惨い迫害はそう永く続きはしないだろうと考えたからなのです。それでそのうちにはまたバルセロナに手紙を出して、もし出来るならば、バルセロナに帰る相談も進めたいと思ったのでした。こうして待っているうちに私はこの村の共産議長に呼び出され身分調べが行われることになりました。
しかし、私には旅行許可証と主治医の手紙とだけしか持っていなかったので、議長は「バルセロナから『他所から来た者は絶対に入れる事はならぬという通知が来ている。もし保証してくれる人がなかったら一時も早くこの村を立ち去らねばならぬ』という退去命令を受けた。私は実際途方に暮れた。けれども幸いなことには、旅館の主人が保証してくれることになったので、この場はそのままで済ますことが出来た。

私はバルセロナからの返事を首を長くして待っているが何の音信もない。待ちくたびれているとき、次のような手紙が着いた。
「もし病人が当方へ参りますならば病人はきっと死ぬでしょう。それだけではない。昨日となりの人が私の家に病人をかつぎ込んだが、その夜のうちに病人も家族の人も皆死んでしまっていた」という謎のようなものであった。これは私が司祭であることを知られない為に、もし途中で調査されても無事なように隠語が使ってあるのです。すなわちこれは、
「もし私がバルセロナに帰れば必ず殺されるであろうし、また司祭を家に隠した者は皆同罪に処せられるからであります。ことはそれだけに止まらず、バルセロナでは私はとても厳しいお尋ね者になっているのであった。
それで私は一応田舎に住んでいる兄の所へ行こうと考えた。が、それにしても兄は近頃ちっともたよりが来ない。後になってわかったことだが、兄もその村に居られなくなって逃げ出していたのであった。
そこで私の知るある人からのすすめで、その人の家に厄介になることとなり、8月13日私はバスでその人の家を訪ねることとした。
途中、有る村で調べられ旅行券を出して見せたがそれだけでは不十分で身分証明書が必要であった。同車の人々は皆出してみせたけれど私はそれを持っていなかった。私は「私は旅行許可証だけで大丈夫と思っていましたのでそれを持ってきませんでした」と言い訳したら「あなたはきっと司祭に違いない」私は懸命に「私はバルセロナの学校の教師で決して司祭ではありません」と言ってみるが、相手は「いいえあなたはきっと司祭です。司祭は自分の身分証明書さえなくしたら司祭だとは思われないと思っているか知れませんが、あなたはもう旅行を続けることはできません。そして近いうちに殺されるでしょう」となかなかきかない。
「ちょっと待ってください。こんな重大なことを証拠もないのにどうして断言することが出来ますか。早く査証して下さい。早くしてくれなければ私は乗り遅れてしまいます。私に何の悪い証拠がありますか」と私は気が気でない。
しかし相手は冷ややかに「結局殺す証拠を見せてやる」とて引き立てられた。でも私の司祭たる証拠はなかなか見つからなかった。
私の財布は取り上げられて中身はすっかり調べられた。それなのに、幸いにもその中に入れてあった司祭の身分証明書はついに気づかなかった。
守護の天使の特別の御保護に違いないと思う。
私はポケットにロザリオを入れていた。一人がこれに触って「これは何か」と言われたのにはギクッとした。
いよいよ終わりだと思って、「それはロザリオだ」と答えようとしてふと見ると、それは外の物を指しているではないか。私のこの時の感激ったらない。
「出してみせましょう」とポケットの中から小さな鉛筆を出して「これだ」と答えた。
もしも、もう一分下に触られたらロザリオを見つけられ今頃は私は冷たく野ざらしに遭っていることでしょう。
そのとき、ほかのもう一人が、「カバンを調べねばならぬ」と言った。
カバンは隈無く調べられたが別にあやしいものは出て来なかった。そこで議長は
「どうしてあなたは身分証明書を持っていないのですか」
とその理由をきいた。
私はすぐに「私は反乱の起こった折には家に居ませんでした。ここに医師の証明書があります」と出してみせた。
どうしても証拠となるものが何も見つからないので、共産議長も仕方なしに私を放免してくれた。私はようやく間に合ってバスに乗ることができた。
乗ってから隅のほうに隠れて財布をよく調べたら司祭としての身分証明書は決して失われてはいなかった。私は大急ぎでこれを小さく裂きちぎって窓から捨てた。
もしもこれが見つかっていたらと思うと、ゾッと覚え身震いした。
汽車に乗ろうと思って駅に来てみればここでもまた調べが始められた。調べているうちに一枚の名刺を見つけ出した役人がいたが、その人は名刺に刷られている「司祭」という肩書きにとうとう気づかずにしまった。誰にでもわかるこの言葉を、彼が気づかずに元の財布に入れ戻したのは実に不思議に堪えない。
調べも済んで汽車に乗り込んでほっと一安心していると、突然後ろから丁寧に挨拶したものがある。こんなところを旅行するのは、私は最初のことではあり、特に服装も今までとは違って普通の人の着る背広なのに、私を知っている人があるとは油断のならぬことだと注意深くふり向くと、それは汽車の役人でバルセロナで知り合った一人の信者であった。彼は「いくら背広であっても、私が気づくように外の人にもわかるのですから、余程注意しないと危険ですよ」とささやいた。
そして、「昔の信者の中には、信仰の熱が冷めている人もあるのですから、よく隠れておいでなさい」とも注意してくれた。
隠れるなどとそんな卑怯なことが、とは思うが、他に方法もない。
それでも、私はようやくの思いで目的地にたどり着くことができた。
しかし、私を招いてくれた人は、私の姿を見て、なげくように
「友よ、何もかも以前とは変わりました。あなたを御招待したものの今はあの当時とは違い、絶えず危険に晒されています。
 もしも、見つかって調べられたら、私たち一家は皆殺しにされてしまいます。
 あなたのためにも、私たちのためにも、ここに居るのは大きな危険があります。」と訴える。
私も全く迷ってしまう。
とにかく、今晩だけの約束が出来て寝かせてもらい、寝ながらも明日の手段を熟慮する。この地に逃げて来ている人は他にも2、3人あったから、私の立場はとても危険になっていた。それだけでなく、旅行許可券の期限もその日で終わりになっていたから、新しいのと取り替えねばならないのだけれど、取り替えるためには自分で共産党に身を委ねるようなものではないか。とはいえ、ほうぼうで許可証なしに旅行していて殺された人の噂はしきりに聞こえて来るではないか。
昨日も一人の老人が捕えられて調べられた、ところが、彼は2人の司祭の父であることがわかって、その場を去らずに殺された。

私はそれだからとてこのまま永くこの家に泊まるわけにもいかない。
そこで私は友人であるこの家の主人とよく相談して、この近くに杉と樫が生い茂った深い森林がある、そこに隠れるより外には方法がなかった。
それで、8月15日に私はこの奥で隠遁生活を始めたのであった。
木の枝を集めて小さな小屋を作り、昼はここに隠れて住み、夜はひっそりと這い出して友の家で食事をし就寝をしていたが、それでも此処とて全く安全な所とはいえない。私の隠れている所からはよく鉄砲の音が聞こえてきた。ある日、私の隠れている近くに一人の男が逃げてきたが、私の居るのには少しも気がつかない風であった。突然立ち上がって、「兵隊が上がって来る」と叫んでまた逃げて行った。私もこれは危険だなと思ったので、外の場所を探そうと出かけようとしたら、私の名を呼ぶ者がある。振り返ってみれば、一人の百姓が近づいて来る、そして「私をご存知ですか」と言う。
「いいえ、お目にかかった覚えがありませんが」
「そうですか。マンレーザで去年聖イグナシオのお説教をなさったのはあなたではありませんでしたか」
「そうでした。それは私でした」
「ああそうですか。私はそのときあなたと一緒に居たのです。こんな時にこんな所で友に遭うということは、何と言う大きな喜びでしょう」
ここで私たちは久しぶりの邂逅を喜び合うことができたが、それにしても差し迫る危険を避ける方法をまず考えねばならぬ。
彼はフランスに逃げようと思っていたのだが、二人の相談の結果それはやめにして、私の小屋の近くに彼も小屋を建てて隠れ住むことにした。
理学士である彼は早速ラジオを作って方々のニュースを聞く事が出来た。
ただこの隠遁生活で一番淋しいことは司祭としての行いを果たすことのできないことだけだった。
ミサも聖務日祷も全然不可能のことであった。
私はローマの友に手紙を出したが返事は来なかった。
私の泊まりに行く友の家で数冊の信心の本を見つけ出しこれによって毎日の務めをどうにか果たすことのできたのが、せめてもの慰めであった。

こうしているうちに、だんだん冬が近づいてきて、朝夕はとても寒くなったので、私はこの小屋に住むことが出来なくなった。
友達がこれを心配して家畜小屋に住ませてくれた。ここで1ケ月余り住んでいたが、ちょっとも安心することが出来なかった。
それは、絶えず探査が行われて、私はいつ捕えられるかわからぬ危険に迫られていることを知っているからである。
私の耳には毎日の共産軍の残酷な迫害の話が聞こえて来る。
その話の中には次のようなものもあった。
(1)
この村から一里ほど離れた所に一軒の家があったが、一人の司祭がその家にかくれていると言う見込みで共産軍に攻め立てられ、家人は一人残らず捕えられた。そしてその家にあった道具で宗教に関係のあるものは、ことごとく焼き払ってまでも調べてみるが、いくら調べても訊問しても司祭は見つからない。そこで、
「もし司祭を渡さなければお前たちを皆殺しにする」
と脅してみるが、一向効き目がない。その脅しかたというものが、戸外で鉄砲の音をさせてから、一人が家に入って来て、家の女に血だらけの布片を見せ、
「見よ、これはお前の主人の血だ。今殺したばかりだが、もしお前が司祭の居所を白状しないならおまえの子供も一人残らず殺してしまうぞ」
といいながらもう一度発砲してみせるというやり方であった。
女に対してやったのと同じ方法が主人にも試みられていた。
そして、血も今までは幸いにもウサギの血を使っていたが、遂に一人の子供が
「司祭は一人居たけれども昨日家を出て行った」
と漏らすに到った。
その司祭は後に自分のためにその家の人々が迫害されていることを聞いて大変気の毒に思い自ら進んで体を共産軍の手に渡したが、共産軍ではすぐにこの司祭を銃殺してしまった。

(2)
共産党員は、ある百姓がしばしば自分方のブドウ畑に出入りするのを見て何ごとがあるのだろうかと思っていたが、あるとき急にブドウ畑にあった小さな小屋の中に飛び込んでいってそこに隠れていた2人の司祭をその場で殺してしまった。

こういうような出来事は、次から次へと近所でも毎日のように繰り返されていたので、どうしても安心のできる事ではなかった。
それでも動くことは更に危険なので、私はそのまま家畜小屋の中でウサギと鶏を相手に10日間の黙想を始めた。黙想が終わろうとする日の出来事であった。急に釣り鐘の音が聞こえて来たが、これに引き続いて鉄砲の音も聞こえて来た。それとほとんど同時にここの主人があわただしく走って来て、
「神父様、神父様、早く早く、早く逃げてください。今、共産党員が教会の釣鐘をはずしている所です。それが済んだら、私の家の捜索が行われるでしょう。もしその時あなたが見つかったなら、皆殺されてしまわねばならぬ」と。
もちろん私はそのまま森の奥に逃げ込んで夜に入った。私が逃げてから間もなく私の隠れている場所の厳重な調べが行われ、共産党員は主人を捕えて隣の駅まで壊れた釣鐘を運ばせたのであった。鐘はバルセロナに送ってそこで爆弾にするのだという。
神の愛と人間に対する神の慈しみを告げていた、あの鐘は、今や悪逆を行うために使われてしまったのである。ああ。

たいへん勇気のある人でしたものですから、ちょうど物売りのような格好をして戸を開けて入り小声で私のことをささやいた。2、3日経ってから夜中に私が元居た家の主人が訪ねて来て私が逃げたときのことを詳しく話してくれた。その話によれば、あの共産党員が来て「おまえの家に誰かよその人が居るか」と言うので「一人だけ雇い人が居ります」と答えたら「その人に逢おう」と言うのです。そうして皆一緒になって探したのですが、その人は風を食らって逃げたものと見え、どんなに厳重に捜索しても到頭見つかりませんでした。隣家で聞き合わせてみると「誰か窓から飛び降りたようであった」ということだけはわかった。そこでさらに厳重に探査が続けられたが結局何も得る所はなかった。それで「窓から飛び降りたのがこの家の気の変な雇い人だったのだろう」ということになった。それでも彼等は諦めかねると見えて「彼がどこに逃げたかは、ほぼ見当がついているのだから見つけ出して殺してしまわねば承知が出来ない」とて、そのとき私の隠れていたところを探しに来たのであった。
この家の人はたいへん私のために心配してくれて、今頃は見つけられて殺されて居はしないだろうか、と気にかけて、さてこそ私の今の隠れ家を探して私の安否を確かめあの時の事情を知らしめてくれたのであった。それと前後してその家に対する共産軍の捜査はいっそう厳重になった。これはバルセロナから逃げて来た司祭を見つけ出そうとするためであった。そしてついにその雇い人の書類を発見することが出来たがそれは満足に価する程のものではなかった。かれらが探す者はこの奉公人ではなかったからである。業を煮やした共産軍の頭はこの主人に対して「今から8日以内にここらに逃げて来ている司祭の居所を知らせなければおまえにひどい罰を与えるぞ」と実に無理なことを言う。
これだけの様子がわかってみれば、私がいくら名を偽り職をかえてみても、共産党員の追究にはとてもかないそうにない。現在持っている家名も身分証明書も今では反古と同様ではないか。たとえこれが役立ったとしても、私のかくれ場がわからないとすれば前居た家の主人が危険に陥ることになるではないか。
「そうだ、彼等を救うために私は一思いに自首して出よう」と決心した。
しかし主人は「それは駄目です。いくら自首して出てあなたが刑罰をお受けになったからとてそのために私の危険が除かれるわけではないのですから。あなたが私の家にいたという証拠はないのですから、これはあなた一人の問題ではないのです」という話。
私は祈った。熱心に祈った。そして次のようなことをもくろんでみた。すなわち、バルセロナのスタンプのある手紙を書いて、それにでたらめの新しい住所を書き入れ、これをその主人に宛て、中には「あなたは私に対して甚だ冷淡な人ではありますが、度々私の手紙を受け取って下さるのを感謝いたします。しかし今私は次のところに宿を見つけましたから、どうぞ私の手紙は肩書きの場所にまわしてください」といったような手紙をこの主人あてに送ることである。この計画は図に当たった。この手紙は共産党員によって調べられ、宿の主人は私から手紙を受け取ったことの説明が出来、それから後は調査も行われなくなった。このようにして、私はようやく虎口を脱し得て安堵の胸を撫で下ろしたのであった。

(第3章 完結 第4章に続く)