天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

キリシタン秘史 巻頭言

2015-05-09 21:58:02 | キリシタン秘史
最近のキリシタン研究の勃興は、確かに、わが日本文化史上における影響の重大なることを語るものであります。
キリシタンの過去400年間における歴史は、不幸にしてほとんど惨々たる迫害の歴史でありましたけれど、
由来、The Most の精神に欠けているといわれた我が日本民族は、かえってその迫害のために、隠れた底力を現し示すことができました。
そもそも、いかなる世界の宗教も、未だキリスト教ほどの迫害を受けた宗教はありません。
その信仰は常に生々しい血と肉によってあがなわれました。
豊臣以降明治初年に至る300有余年間の大迫害は、確かに我が日本民族の宗教的試金石でありました。
馨香はくだけて初めてその芳香を発するのでありまして、我らの祖先がこの迫害にあたり勇敢にその信仰のために奮闘して死を辞さなかったことは、
わが日本民族の立派な宗教的民族であることを証拠だてたものといわねばなりません。
すなわち、The Most の精神は、われわれ民族に決して欠けていないということが立派に証明されたのであります。
先年、回教の一宣教師が日本布教を志して視察に来たことがありましたが、とどまること旬日にして早くも日本という国に見切りをつけ帰国いたしました。
その理由は、日本人が到底宗教的民族ではないこと、特に回教的ファナチシズムと相容れない民族であることを洞破したが為であったと申します。

いかにも、現代われわれ日本人は、冷淡な無宗教国民のように見えないでもありません。
かつて、血涌き肉踊る底の信仰の勇士をその祖先に有した国民ではないかの如く思われないでもありません。
これは、単に先述の回教宣教師の場合ばかりでなく、今日キリスト教的宣教師にすら、日本人の冷淡さ加減に愛想を尽かしているものも多いと聞いています。

これは果たして何の理由か?
甚だ矛盾した現象ではないか。

しかし、荒らされた土が、再びその元気を恢復して種の実ることができるまでには長い年月を要する場合があります。
いかにも、300年間の惨鼻を極めた迫害が、たしかに我が国民の頭に拭い難い恐怖と疲労とを植え付けましたことは事実です。

しかし、これをもって直ちに日本民族の無宗教性を極言することは早計です。
歴史を無視した話です。
殉教者の血は決して無意義にこの土に流されません。
それは、ある時期に到達すると、必ずや、深き地底より沸々と湧きたって来ないではおきません。
この現象は既に今日においてその一端を示しています。
現代我が国民の思想精神が果たしていかなる方向に動き進みつつあるか?を見る者は、必ずはそこにキリスト教精神の大なる支配を見逃すことはできますまい。
この際、キリシタン史の研究は、われらの精神生活に根強き基礎を与えます。
歴史とは、単に血なまぐさい戦争の記録であると誤解している人々に、一国の真の歴史を教えるものは、このような尊い祖先の事跡です。
実に、正義と真理とのために戦われた歴史こそは、国家を飾るところの光栄ある真の歴史です。
まこと、殉教者の血こそは、この国土に注ぎ入れられた永遠の生命でありました。

国栄え、国滅びる歴史の繰り返しには、遂に終わる時がありましても、この生命のみは一人国民をして永遠に生き、かつ栄えさせるものであります。

キリシタン史の日本語訳には、以前からクラッセの「日本西教史」がありますが、この大部の書が果たしてどれだけ一般に読まれているかは疑問です。
クラッセに比して、シャルボア、またはパジェスの日本キリスト教史は、一層の史的確実性をもっていると言われますが、惜しいことに難解なため
未だ日本語訳があることを聞きません。
また、フロイスの日本に関する記録は非常に尊い文献でありまして、長くリスボン大学図書館裏に埋もれていましたのを、
シュールハンメル、フオレチエの2氏によって、ドイツ語に翻訳され、近く日本語訳も出るということを聞いています。

本書の原拠であるスタイヒエン氏のChristian Daimyoは、1901年、英語、フランス語両言語によって公にされたものでありますが、
これまた、今日まで日本語訳されていません。
Christian Daimyoは、パジェスその他幾多の貴重なる文献資料によって編術されたもので、その大部分は、かつてカトリック機関「聲」誌上に公にされたもの
でありますが、今、その中より最も興味深い部分を選び、さらにこれを通俗的に書き改めたものが本書でありまして、
いわば、本書は一種の無系統な随筆的史話にすぎません。
したがって、本書に洩れた幾多の事項は、これを第2巻の刊行を待って補いたいと思うのであります。

終わりに本書は、キリシタン史の研究に造詣深い先輩、工藤應之氏の御研究に負うところ多きを記し、併せて同氏に感謝する次第であります。