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地獄 1章 【3】 マキシム プイサン 

2015-07-26 05:28:19 | 地獄
地獄 1章 【3】 マキシム プイサン 

主イエズスキリストとその使徒とによる地獄についての教訓ーー地獄の存在は聖会の信仰箇条ーー地獄を否定することは、断崖絶壁上の道を行くにあたり目を閉じてその危険を見ないようにするようなものだ

地獄の存在の確信が世界的であり、かつ、地獄は誰も想像し得ないのみならず、なおまた、この2点よりすぐれた確固たる第3の証拠がある。すなわち、天主御みずからが、われわれに地獄の存在を示し給うたことである。

前回引用した旧約聖書の数句には、既に地獄の教義は天主御みずから、大祖、及び預言者に伝え給うたものであることを立証しているが、まったく、地獄の存在は、単に歴史的証拠ばかりでなく、なおわれわれが信じなければならない、誤り得ぬ権威をもって、われわれに道理を教え給うた天主の示し給える証拠がある。

聖主イエズスキリストは、この恐るべき地獄の御託宣を、厳かに確かめ給うた。聖書の中には、地獄のことについて、14回も述べてある。
ただし、これは天主の御言葉であることをよく記憶せねばならぬ。天主はこのように仰せになった。

「天地は過ぎ去る。しかし私の言葉は過ぎ去らない」(聖マタイ福音書24:35)

また、タボル山における不思議は変容の少し後に、聖主はその弟子及び従い来た群衆に向かって、

「もし、あなたの片手が、または片足が、あなたをつまづかせるのであれば、切ってこれを身外に投げ打ちなさい。
 両手、両足があって永遠の火に投げ入れられるよりは、片手あるいは片足で、とこしえのいのちを得ることがまさっているし、これに及ばない。
 もし、あなたの片目があなたをつまづかせるのであれば、えぐってこれを身外に投げ打ちなさい。
 その片目をそなえ持って地獄の火に投げ入れられるよりは、片目でとこしえのいのちを得ることがまさっているし、これに及ばない。」(聖マタイ福音書18:8-9)

と仰せられた。また、聖主は世の終わりにあたって、起こるべき事について仰せられた。

「人の子、まさに天使を遣わして、人を悪に誘いみずから悪を行う者どもをその国より集めてこれをかまどに入れるだろう、、、そこには嘆きと歯がみとがあるだろう。耳があって聞こうとするする者は、これを聞きなさい。(聖マタイ福音書13:41、42、、、11:15)

また、天主の子が最後の審判を預言し給うたとき、その最後の審判において、天主に捨てられた罪人に申し渡す宣告を、まえもって御みずから、われわれに教え給うた。すなわち、

「左にある者について言う。『のろわれたる者よ、我を離れて、永遠の火に入れ。』」(聖マタイ福音書25:41)

実に、この御言葉ほど明白なものがあるだろうか。さて、世界人類あって以来、地獄存在について異説を唱えたものは未だ聞いたことがない。なおまた、世界最終まで、異説の起こることはないと断言してもよいと思う。

なお、聖教伝播の氏名を受け、伝授した聖教を世界の民に充分説明せよとの使命を受けたイエズスキリストの使徒等は、地獄及びその永遠の火について明らかに語った。いま、そのうちの2、3を示そう。

聖パウロは、テサロニケの教会の信者に、天主の裁判のことについて、天主をしらざる人々、我が主イエズスキリストの福音に従わない人々に報い給う時にあたって、彼らは主の御顔とその能力の光栄とを離れて、焔の中において、終わりなき滅亡の罰を受けるだろうと(テサロニケ後書1:8-9)言った。

聖ペトロは、
「天主が、罪を犯した天使等を赦し給わず、これを地獄の暗闇につなぎ置かれたように、苦しみに委ねようとして審判を待たせておられる」(聖ペトロ後書24)
と言われた。

聖ヨハネも、また、アンチキリスト、及びその偽りの預言者に向かって、地獄及び永遠の火について、
「火、天から降りて、彼らを焼き尽くし、彼らを惑わしたる悪魔は、火と硫黄との池に投げ入れられた」(黙示録20:9)
と言い、

また、暗闇の中で永遠の焔の苦罰を受け、終わりなき罰を受けて地獄に苦しむ悪魔を、われわれに示しながら、地獄について、使徒聖ユダも、
「永遠の火の刑罰を受けて懲罰(みせしめ)とされたのである」(聖ユダ書7)
と語った。

使徒等は、このように、天主の黙示を受けて書いた書簡中に、常に恐るべき天主の裁判のこと、及び悔悛せざる罪人のこうむるべき永遠の苦罰のことを述べた。

今、列記した明らかな教示がある。だから、公教会がわれわれに永遠の苦しみ、および地獄の火のことを、信仰箇条として教えることを、なお、怪しむ必要があるであろうか。少しも疑いを要しない。これによって、地獄を否定しようとし、あるいは地獄を疑う者は、ただそれだけで異教者の行いとなる。

地獄の存在は、公教会の信仰箇条である。
天主は御みずから誤り給うことができない。また、われわれを誤らせることもできないから、われわれは、地獄の存在については、天主と同様に確実に信じる。だから、地獄は存在する。われわれに、地獄の思想を与え給うた聖主は、あたかも救霊のため、危険に際し軽佻浮薄な子どもを保護するため、ときどき彼らに鞭を示す必要を感じる温和にして注意周到なる父のようでおられる。人の性質は、もとより恩賞の期待よりも、刑罰の恐怖が深く感じるものである。だから、地獄を排斥しようとする思想は当然起こるべきことで、これは善人も悪人もともに等しく感じる。人がこの考えに悩まされるということについて、言わねばならないことは、もし、人が断崖絶壁から墜落するかもしれないという危険な場所を通るときに当たって、目を転じてその危険な場所を見ない様にしたら、どうであろうか。
果たして、当を得たものと言えるであろうか。それよりは、むしろ、この世に居るあいだに、死んでから後、地獄に堕ちないように心がけるがよい。また、その砂漠で猟師に追われ、長い追撃に疲れて休息し、その頭を羽翼に隠して、おのれに見えないから危難をのがれることが出来ると思って、そのうちに猟師に追いつかれて殺されるダチョウを真似る人も少なくない。病を隠すは、決して病を治す方法ではない。同様に、地獄のことを退けるは、決して地獄の存在を滅亡させることができない。地獄は、全世界のあらゆる宗教の基礎で、いずれの時代においても、霊魂の不滅、および神の存在と同一の轍のものと見なされた、疑うべからざる真理である。いずれの時代においても、また、世界いずれの国においても、これを信じている。また、これを否定しようとする欲情は盛んであるにもかかわらず、常にこれを教え、教えられるのであって、実にすべての法則及び人類道徳のかなめともなるもので、もし、これがなければ、あのヴォルテールが言ったように、
我々は互いに自己矛盾に陥る。
ゆえに、地獄は存在する。

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