天 主 堂 出 版  カトリック伝統派 

第2バチカン公会議以前の良書籍を掘り起こし、復興を目指す

カトリック(正統派)とプロテスタント(背教者)との教理上の主な差異

2015-01-15 20:20:19 | カトリックとプロテスタント
キリスト信者は何を信じなければならないのですか?

【正統派カトリック】
キリスト信者は、神が聖書と聖伝とをもって教え給うたことを全部信じなければならない。
(注)聖伝とは、使徒等が説教したものであるが、聖書には載せていない天啓の伝えのことである。

【背教者プロテスタント】
救いを得るには、聖書の中にあることだけを信じれば足りる


【正統派カトリックから背教者プロテスタントへの反論】

☆反論1
確かに、神の教えてくださった教えであれば、その中の一つでも信じないというものは、大罪を犯すものであるから救霊を得ることはできない。
しかし、確かに神の教えてくださったことでも聖書に書いていないことが色々ある。
たとえば、誰でも洗礼を施すことが出来るなどである。

☆反論2
キリストは明らかに聖伝をも信じなければならないことを望み給うた。
それは、使徒達におっしゃったことからわかる。
「汝等すべての被造物に福音を宣べよ、、、信じない者は罪に定められる」(マルコ16:15、16)

☆反論3
背教プロテスタントは、神の御教えはただ聖書によってのみ保存されており、かつ宣伝されることを望み給うたと考える。
しかし、もしそうであるなら、どうして使徒等に「すべての国民に福音を書け」とおっしゃらなかったのだろうか。
なぜ、キリスト御自身がその御教えを御書きにならなかったか。
どうして、すべての使徒が福音を書かないで、ただ2、3人の使徒のみが書いたのだろうか。
どうして彼等はそんなに後になってから、まるで何かの機会を得た時に書いたのだろうか。
それを手で書いた時代においては、あまりにも高価なもので、到底すべての人が聖書を手にすることが出来なかったのに、
どうして神は印刷術を紀元1450年以前に発明するようになさらなかったのか。

☆反論4
聖伝によらなければ、いずれの本が聖書に属するか確知することは出来ない。
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どのような本が聖書に属するのですか

【正統派カトリック】
公教会が使徒から神の聖典として与えられたすべての本は聖書に属する。

【背教者プロテスタント】
公教会が神の聖典とみなすものの全部が聖書に属するものではない。その中の2、3は偽りの本である。


【正統派カトリックから背教者プロテスタントへの反論】

☆反論1
公教会はどのような本を使徒から真正の神の聖典として受けたかは、15世紀の後代に至って起こった背教者プロテスタントよりもよく知っているはずである。

☆反論2
ルターは、彼の新奇な教えが明らかに矛盾しているので、聖書の2、3の本を認めようとしなかった。
そして聖ヤコブの書簡中に明らかに、「善行の伴わない信仰は死したるもので無益なものである」と書いてあるのを見て、これを屑篭書簡と言ったのである。

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誰が聖書を誤りなく解くことができるのですか?

【正統派カトリック】
聖書の中には往々解しにくいところがあって、無学な人々は容易に誤りに陥る。
しかし、聖霊のつかさどり給う教会のみは、これを誤りなく解くことができる。
聖パウロの書簡については、使徒聖ペトロでさえ、
「彼はすべての手紙の中で、そのことを述べています。その手紙の中には理解しにくいところもあり、無学な人や、心の定まらない人は、他の聖書と同じように、これを曲解し、みずから滅びを招いています」(ペトロ後書3:16)と言っている。

【背教者プロテスタント】
キリスト信者は誰でも自分で聖書を解することが出来るものであって、常に真面目に、しかも解することが出来るように祈りながら読めば、
明らかに救いの道を知ることが出来るものである。

【正統派カトリックから背教者プロテスタントへの反論】
☆反論1
ルターは、聖書を読んで、善業は救霊を得るに必要なものでないということを言い出したが、
今では多くのプロテスタント達は、善業は救霊のために必要であると思っている。
それならば、いずれが救いの道を明らかに知ったものであろうか。

☆反論2
すべての教父たちは、真面目にしかも解し得るように祈りつつ聖書を読んだけれども、
背教者プロテスタントとは全く違った救いの道を認めたのである。
それならば、どちらが正しいであろうか。

☆反論3
背教者プロテスタントは、聖霊は、正直に聖書を研究するものには、真の意味を解き明かし給うと思っている。
しかし、キリストの神性及び聖体の秘跡のような、最も重大な点について、彼等は互いに相容れない説を立てているが
これはどうしたことであろうか。
果たして聖霊は、ある人にはこの事を他の人には反対なことを教え給うものであろうか。

●注意1
背教者プロテスタントは、公教会は信者に聖書を読む事を禁じると主張する。
これは、全く嘘の説である。
公教会は信者に聖書を読ませるが、ただ、次の3つの点を注意するのみである。
第1
公教会は、ラテン語又はギリシャ語又はヘブライ語の聖書を読むことのできない人々が、翻訳の聖書を読むときには、
教会から認可されたものを使うべきことを命ずるのである。
それは、背教者プロテスタントは至る所に誤訳の聖書をひろめているので、無学な正統派カトリックが誤りに陥らないようにするためである。
第2
翻訳書を用いるときは難解のところには正しい注釈のあるものを用いることをすすめる。
もしそうしないと、誤訳のために大いなる禍を招くおそれがある。
第3
背教者プロテスタントは、さらに、
「ルターは机の下から聖書をひろいだした」と主張している。
すあんわち、ルターの前には聖書というものはごくわずかの人々に知られたのみで、公教会は聖書の宣伝に何もつとめなかったと言いたいのである。
しかし、実際は、その反対である。
すでに中世期において、特に印刷術の発明以後には、聖書のように、正統派カトリック教徒の国民に知られ、かつこれほど
多く広まった本はなかった。
ドイツ語の翻訳でさえ、ルターの前にすでに17種あった。
また、ルターの聖書の翻訳は誤謬いっぱいで、背教者プロテスタントの学者(ブンゼン)でさえ、
ルターの翻訳中には三千箇所の誤訳があると言って居る。
その聖書を見れば、容易にルターは翻訳の中に、自分の意見をつけ加えようとしたものであることが証明される。
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P26

【正統派カトリック】
聖人を尊敬し、聖人に助けを求めることは、よいことで、かつ、有益なことである。

背教プロテスタントは、繰り返し繰りかえし常に、われわれカトリック教徒は聖人を拝むと主張する。
これは、軽薄なる誹謗である。
我らは神のみを拝み、聖人を神の忠実なるしもべ、また、友人として尊敬するのみである、
ということは、どの正統派カトリックの信者の子どもでも知っているし、
また、どのカテキズム(公教要理)の中にも書いてある。

P27

【背教プロテスタント】
聖人を尊敬し、聖人に助けを求めることは、不合理であり、かつ、無益なことである。


【正統派カトリックから背教プロテスタントへの反論】

☆反論1
 戦争、芸術、学問に功労のある人を尊敬することは、よいことであると誰でも思っている。
 そうすれば、道徳及び聖きことについてすぐれている人々を尊敬するのは、どうして正しくないのであろうか。

☆反論2
 聖人を尊敬するときに、我々は恵みをもって、彼等をあのように尊いものにしてくださった、神、御自身を尊敬するのである。
 どうしてこれが不合理であって、かつ、神の御意にかなわないのであろうか。

☆反論3
 聖書は、聖人を尊敬することをすすめる。
 「国々の民は賢徳(アブラハム、モーゼ、ジョシュア、ダヴィド)を言い広めよ。(中略)教会はその栄誉を謳えよ」(集会の書 44-15)

☆反論4
 最も古代から、キリスト教会においては、聖人を尊敬し、その代願を求めたので、キリスト教の初代の様々な遺物は、その明らかな証拠を示すものである。

☆反論5
 聖人はどこにでも居るのではないから、我らの祈りを聞く事が出来ないというのは、取るに足らないことである。
 聖人は神によって、また、神の思し召しによって、我らの祈りを知ることは難しくない。
 天使もどこにでも居るものではないけれども、
 「改心する一人の罪人の為には、神の使等の前に喜びがあるであろう」(ルカ15の10)と救い主が仰せられた。
 もしも、天使らがそのことについて何も知らないならば、どうしてそのことを喜ぶことが出来ようか。

P28

☆反論6
 聖人の代願を求めることは必要であって、かつ、神の思し召しにかなうものであることは、堪えず神が、聖人に助けを求めることに対して、
 明らかなる奇蹟を行い給うを見てもわかる。
 ルターでさえ、背教してから2年目に、
 「わたしは、聖人に対する代願については、聖人を敬いかつ聖人に助けを求めるべきものであることを、
  すべてのキリスト教徒と共に言い、かつ堅くこれを信じる。
  なぜならば、今日なお神が、明らかに、聖人の体と御墓に聖人等の名をもって奇蹟を行い給うたことを、
  誰も否定することが出来ないからである。」


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☆カトリック

聖体の秘跡は、パンとぶどう酒の形色の中に我らの主イエズスキリストのまことの御体と御血とが籠っている秘跡である。




×プロテスタント

聖晩餐は、ただ、パンとぶどう酒ばかりである。
しかし、一説には、そのパンとぶどう酒を飲食すれば、それと同時にキリストの御体と御血の力を受けるといい、
他の一説には、そうではない、パンとぶどう酒は、キリストの御体と御血とを思い起こさせるものに過ぎない、
すなわち、パンとぶどう酒は、キリストの御体と御血との、「かたどり」に過ぎない。



カトリックからプロテスタントへの反駁

(その1)
キリストが聖体の秘跡を約束なされたときに、
「わたしは命のパンである。
 あなたたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べたが、死んだ。
 しかし、これは天から降ってきたパンであり、
 これを食べる者は死ぬことがない。
 わたしは天から降って来た、生きるパンである。
 このパンを食べる人は永遠に生きる。
 しかも、わたしが与えるパンは、
 この世に命を与えるための
 わたしの肉である。」(ヨハネ6:48-51)
と仰せられ、また、後に使徒達にパンを与え給うたときには、明瞭に
「これはあなたたちのために与えられるわたしの体である。
 わたしを記念するためにこれを行いなさい」(ルカ22:19)
「この杯はあなたたちのために流されるわたしの血による新しい契約である」(ルカ22:20)
とおっしゃったので、
ルターの言うように、これはパンとぶどう酒である、しかし、汝等がこれを飲食すれば、
御体と御血があとから来る、とは仰せられなかった。
また、カルヴィンのように、
これは、パンとぶどう酒である、しかし、我体と血の力がそれと結合しているとは仰せられなかった。
また、ツウイングリのように、これは、我体と血のかたどりであるとも仰せられなかった。
それで、我らは単純に、救い主が仰せられたままを信じるのであって、
ルター、カルヴィン、またはツウイングリの主張を信じないのである。


(その2)
我らが信じているように、全教会ははじめから、聖体はイエズスキリストのまことの御体と御血であると信じていた。
使徒の弟子であるイグナシオ(アンテオキアの司教)は、
「我らの罪のために苦しみ給える救い主の御肉」といい、
聖ユスチノ(166年死)は、
「人となり給えるイエズスの御肉と御血」と言っている。
エルサレムの司教、聖チリロ(386年死)は、
「イエズスみずから、パンについて、これはわたしの体である、と仰せられたから、
 誰がこれについて疑うことが出来ようか、また、明らかに、これは私の血である、と仰せられたのであるから、
 誰がこれについて疑問をいだくであろうか。そうして、
 それは御血ではないと思うであろうか。
 イエズスはかつて、水をブドウ酒に変え給うた。
 これを見れば、イエズスがぶどう酒を御血に変化されることができることを信じるのは、むずかしい事ではない。」
と言って居る。

聖アウグスチヌスは、
「キリストは、我らにキリストの御肉を糧としてお与えなさった」
 その御肉を拝領せずして、これを食すべからず。
 もしも、拝領しないときには、罪を犯すのである。」と言っている。

(その3)
プロテスタントの晩餐は、単にパンとぶどう酒にすぎないというのはもっともなことである。
なぜならば、プロテスタント側の牧師は、ぶどう酒を御血に、パンを聖体に変化させる権利をもっていないからである。

【出典】公教と新教との教理上の主なる差異 ヤコブリンデン著 荻原晃著 東京公教青年会発行 大正10年発行