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辞書引く日々

辞書が好きなのだ。辞書を引くのだ。

真面目という言葉

2010年12月28日 | 言葉
もし、キュウリとメロンを区別しないで、ともにキューロンと表現されていたとしたらどうだろう。「おれ、長くてトゲトゲのキューロンは嫌いなんだよ」とか「甘くて丸いキューロンは好きなんだけどな」なんて言わなくちゃならない。これは不便である。しかし、キュウリとメロンという概念を、言う人聞く人の双方が持っていれば、まあ何とかなる。

ところが、キュウリとメロンの概念が区別されないで曖昧なままだったらどうなるか。キュウリを買おうとすると、メロンが混ざっていたりして、大変都合が悪い。こういう例だと馬鹿馬鹿しく思えるが、こうしたことは、抽象的な概念では、しばしば起こる。

「真面目」という言葉には、ちょっとこうした傾向があるように思う。

serious, earnest, diligent, industorious
なんてのが、真面目と訳されているのを見かける。さらに、
condescending, obedient, tame
なんてのは、マジメと訳してもよい状況があるかもしれない。
誠実なという言葉はあるが、口語ではあまり使われないので、やぱり日常的には「真面目」で済ましてしまう傾向もある。

真面目という言葉の解釈は、あまりに状況に依存しているように思える。「真面目」ほど真面目に使われない言葉はない、と言ったら言い過ぎであろうか。

構造主義入門できず

2010年08月30日 | 言葉
構造主義なんて古いぜと言いながら、いまだにその概念が随所に使われているように見える。

それで、入門書くらいは読んでみたりしたのだが、いつも途中で挫折する。

まず、入門書の最初のほうには「記号表現」と「記号内容」が違うと書いてある。
そして、この二つの間に意味作用という関係があるという。

少し読み進めると、「記号表現+記号内容」がもうひとつ上のレベルで新たな記号表現の役割を果たすことがあるといい始める。

私の見た本では、「コニャック・ペリエ」という注文は、デノテーションのレベルではその飲み物を指すが、コノテーションのレベルではこの「記号表現+記号内容」があらたな記号表現となって「スノビズムなるものはきらいでね」という記号内容をもたらすというのである。

このへんで、なんか嫌になってくる。

コノテーションのレベルでデノテーションのレベルと同じことが行われるなら、きっとその上のレベルだってあるはずだ。「スノビズムなるものはきらいでね」というようなことを特定の場所で発言することが、さらに何らかの意味を持つ可能性があるのだから。

それよりも、「人間が直接理解できる記号表現」というものを仮定して、意味内容という言葉のかわりにつかえばよい。そうのうえで、「意味作用は記号表現を引数としてあらたな記号表現を返す」でいいのではないかと考えたりする。

そんなことを言ったら、書かれたり、発話されたりして記録できるものと、頭の中だけにあるものの区別がつかずに、客観的な研究ができないじゃないかと言われそうだ。

うーん、まあそれはそうなのだけれども…。ともかくこの分野、用語の定義がどんどん出てきて、いささか閉口してしまうのだ。

四文字語

2010年08月27日 | 言葉
四文字語というものがある。f*ck とかね。アメリカ産の映画など見ていると、これが多発される。

日本語でいうと「クソッ」という程度のものなのだろうが、わが国ではそれほどクソは行われない。少なくとも、「このクソ暑いのにクソ仕事がクソ忙しくてクソ休みがクソとれない」なんて頻度では使わない。

思えば、f*ck にしろ sh*t にしろ、すべて一音節語である。だから会話にはさみやすいのではないか。これに対して「クソ」は二音節だから、そう多発できない。

「このド暑いのにド仕事がド忙しくてド休みがドとれない」

これならいくらか短くて言いやすい。「ド」は一音節である。しかし、「ド」にはそうお下品な意味がないから、やはり f*ck にかないそうもない。

日本語は「ん」を除くと必ず子音のあとに母音が入るが、その結果四文字レベルの悪態がつきにくくなっているような気がするのである。

折りたたみ傘

2010年08月25日 | 言葉
何ができたときに大人になったと感じたかという質問をされたら、こう答える。折りたたみ傘がきれいにたためるようになったとき、と。

折りたたみ傘というのは、あまりいい加減にたたむとバンドが留まらない。傘を回すようにして、小間(布の部分)を同じ方向に折っていかなくてはだめである。もっとも、ここまでは長い傘でも同じこと。

折りたたみの場合は、それだけでは不十分だ。小間が袋状にたたまれるので、そのままぐるぐると巻きつけるようにまとめても、バンドは辛うじて留まるだけで、あまり美しく仕上がらない。きれいにやっつけるためには、袋状に折られた小間の中に指を入れて、引き出してそろえるような動作が必要となる。

これは、たいがいの大人が実行するもので、傘のつくりというものを見れば自然と想像ができる作業である。

だが、私は子供の頃、それがどうてもできなかった。小間を同じ方向にそろえるというところまではわかったのだが、袋状になったところに指を入れて引き出すという技がどうしてもわからなかったのである。

思えば、傘を畳む、と言う。畳むためには、伸ばす必要がある。シャツでもパンツでもみなそうである。ところが、傘の場合、畳むの反対は「さす」である。このへんに陥穽があったのではないかと推測する。

「さす」←→「畳む」という軸で抽象的に考える限り、袋状になった小間の間に指をはさんで「伸ばす」という発想が出てこない。

目の前にある具体的な傘を本当に観察できるようになるのは、まさに大人ならではのことだと思うのである。

セロテープ

2010年08月24日 | 言葉
どうも子供というのはセロテープが好きなものらしい。

子供にとって、セロテープというのは神々しいほうどの力を持っている。彼らの頭の中では、セロテープで補修した箇所は壊れる前と同じ強度を保っているし、経年劣化などありえない。

それというのも、物の状態はこわれているかこわれていないかのどちらかにはっきりと属しているからにちがいない。そして「セロテープは、こわれたものを直す」というごく単純な働きをするわけだ。

だから彼らは、大事な紙が破れる前に予防的にセロテープを貼っておくことさえする。この作戦が失敗だと気づくのは、数年してからだ。引き出しの奥から、黄色くなったテープがはりついた変色した紙が出てくる。

経年による漸々たる変化、補修しても元には戻らないという無常、予防的行為が逆の結果をもたらすという皮肉。セロテープがその万能の力を失うときに、子供たちは大人になるのである。

めも)twitterのAPIの残りカウントを調べるという簡単なお仕事

2010年07月13日 | 言葉
API のレートリミットというのがあって、ふつう API 制限といふ。

http://apiwiki.twitter.com/Rate-limiting
を見ると、時間あたり150とあるが、いま調べたら350ある。
増えたのだな。

この残りカウントを調べるだけなら簡単。
なお、この調査は残りカウントを減少させない(はず)。

#!/usr/bin/env python

import tweepy

CONSUMER_KEY = 'xxxxxxxxxxxx'
CONSUMER_SECRET = 'xxxxxxxxxxxx'
ACCESS_KEY = 'xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx'
ACCESS_SECRET = 'xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx'

auth = tweepy.OAuthHandler(CONSUMER_KEY, CONSUMER_SECRET)
auth.set_access_token(ACCESS_KEY, ACCESS_SECRET)
api = tweepy.API(auth)

print "API LIMIT : "
print api.rate_limit_status()

python + tweepy + OAuth 最低限度の twitter メモ(4)タイムライン2

2010年07月12日 | 言葉
(前回までのあらすじ。CONSUMER_KEY、CONSUMER_SECRET、ACCESS_KEY、ACCESS_SECRET は取得済み。加えて、昨日の念仏?で、api オブジェクトを取得済み)

api.home_timeline() でホーム・タイムラインから最新20のツイートを取得できるということは、昨日見たのだ。
では、最新20より前のものをどうやって取得するか。

そのために、まず home_timeline() メソッドに食わせるパラメータを見るべや。
http://joshthecoder.github.com/tweepy/docs/api.html#timeline-methods
に書いてあるな。

API.home_timeline([since_id][, max_id][, count][, page])¶
* since_id – この数字より新しい ID のツイートを得る
* max_id – この数字と同じか、より古い ID を持つツイートを得る
* count – 得るツイート数
* page – 得るページを指定する

つまり、 home_timeline(count=30) とかやると、最新30ツイートが得られる。
だが、これには制限があり、
http://apiwiki.twitter.com/Twitter-REST-API-Method%3A-statuses-home_timeline
には
May not be greater than 200
と書いてある。

ページングを使えば、もっと前のものを知ることもできる。
home_timeline(count=200, page=2)

とやれば、200件ずつ最新から表示した場合の2ページ目、つまり最新から数えて201件から400件目までを得られる。
ただ、このやり方にも制限がある。

http://apiwiki.twitter.com/Things-Every-Developer-Should-Know#6Therearepaginationlimits
を見ると、ページとカウントで得られるのは 3200 件までとある。
これは、一度に取得できる件数を指すのではなく、それより古い投稿に、ページとカウントを使ってアクセスすることができないということらしい。
(なお、これは API の残りカウント http://apiwiki.twitter.com/Rate-limiting とは別立ての制限のようである)

ともあれ、3200件目より古いものを見ることはあまりないだろうから、当座の用向きは足りると思われる。
もし、これが問題になるとすると、自分のツイートをバックアップするときだろう。

そこで、次は、自分のツイートを全件バックアップする方法を考えてみたいノシ
(tweepy のカーソル機能についても、そこで見ることにしたいノシ)

(つづく)

「科学技術」ってホントに変な言葉なのか?

2010年03月01日 | 言葉
よく、「科学技術」というのは変な言葉だという人がいる。

先日も新聞のコラムでそんな話を見かけた。以前、ある大学の先生に話を聞いたときも、その方はやっぱりそんなことを言って憤慨していた。

そう言う人たちは、「科学」と「技術」は別物であるから、それをいっしょにして「科学技術」と呼ぶのはおかしいというのである。

私はそうは思わない。「科学技術」というのは、「技術のうち科学と関係の深いもの」という意味だと理解している。

技術というのは、「鎌倉彫りの技術」とか「その場をなごませる会話の技術」とか、そういったものも立派な技術である。したがって、テクノロジーの訳語として「技術」だけでは、いささか広義に過ぎる。

そこで、「技術」という言葉に「科学」という限定を冠して「科学技術」とし、テクノロジーという言葉と、その示すところの範囲を合わせるのだと思う。

怪奇小説

2010年01月17日 | 言葉
最近いわゆる怪奇小説ばかり読んでいる。

怪奇小説という言い方じたい古くさいが、実際読んでいる小説も古くさい。
ファンタジーでもホラーでもなくて、やっぱり怪奇小説である。

具体的にいうと、ラヴクラフトとか、M.R.ジェームズとか、アーサー・マッケン
とか、そのあたりである。もっと古いバリバリのゴシック小説にも挑戦中だ。

何が魅力なのかというと、けっして「怖い」からだけではない。
そもそも私はあまり想像力のない人間なのか、それほど「怖い」と思わない。

幸田露伴は、小説というのは「興」であるというようなことを言っていたと
思うが、怖い小説に独特の興がある。

もっとも、それがどういう「興」なのかということになると、
ちょっとうまく説明する自信がない。

怪奇小説を料理にたとえるなら、香辛料きつ目の退屈しない料理か。

辛さに慣れていないと、辛い料理はただ「辛い」だけである。
辛さに慣れてくると、辛さの中にさまざまな味わいがある。

「怖さ」に慣れていないと、怪奇小説は怖いだけである。
怖さに慣れてくると、そこにさまざまな興がある。

そして、クセになるという点においても、怪奇小説とエスニック料理は
似たところがある。

「おめでとう」ってなんだ

2009年12月21日 | 言葉
そろそろ年賀状を書く季節になった。とうぜん、
「あけましておめでとう」とか「謹賀新年」とか書く。

しかし「おめでとう」って何だ?と、ふと、考えてしまった。
「たのしいお正月を過ごしてね」というのとは少し違うぞ。

たとえば、志望校に落ちて、不本意な入学を果たした人がいたとする。
「よかったね」と言うと、「それ、がじつはナ……」とつながるかもしれない。
でも「ご入学おめでとうございます」だと、「こん畜生」と思いながら、
「ありがとうございます」と言うしかない。

あまり好きでない相手と結婚することになった人がいたとする。
これを知った友人は、なにがなんでも「おめでとう」で押し通すしかない。
本人は心中泣きながらでも「ありがとう」と答えるしかない。

「おめでとう」というのは、何か有無を言わせぬものがある。
本人のハッピーさとは何の関係もない、儀式的な神聖さがあるのかもしれない。

などと考えているうちに、今年も年賀状を書かぬまま年末になってしまいそうな予感がする。