新規投稿がなければ更新ができぬようにすると運営よりメールありき。このブログを維持するかどうかは未定なれど、一応更新せむ。
「笛吹けども躍らず」という喩えが、国語辞典に載っている。「準備を整えて
誘導しても、人がこれに応じない」(新潮現代国語辞典第二版)ことであると
いう。中学・高校生の頃、ハッパをかけられても勉強しなかったりすると、こ
の喩えを持ち出されて叱られたものである。叱られるときに持ち出される喩え
話だから、どうも私はこの言い方が嫌いだった。
この喩え話は、聖書からきているという。そこで、該当個所を読んでみるが、
これが難しい。残念ながら、身近に意味を質問できる人がいないから、いくら
か考えた。(考えるには考えたが、きちんと調べるべきことを調べたわけでは
ない。なんだか気になるので、メモしておくという程度である。)
疑問のポイントは一つだけである。聖書においてこの喩えが、〈笛を吹いたら
躍るべし〉という意味で使われているのか否かだ。
「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけ
ている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬
式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」(新共同訳マタイ
11:16-17)
素直に読めば、笛を吹いたり、葬式の歌を歌ったりしても応じてもらえずに不
平を言っている子供により「今の時代」をあらわしているということになる。
これは、ヨハネやイエスを認めない人々を非難している一節中であるから、文
脈からみれば笛を吹いても躍らない子供を非難しているのではなく、「『笛吹
けども躍らず』と歎いている子供」を非難しているということになりそうだ。
なお、ルカには「互いに呼びかけ」(ルカ7:31)とあるから、「踊ってくれな
かった」と不平を言っている子供と「悲しんでくれなかった」と言っている子
供は、別の子供たちらしい。一方は結婚式ごっこがしたくて、もう一方は葬式
ごっこがしたかった、ということのようだ。
さて、イエスのセリフは、その後が続く。「ヨハネが来て、食べも飲みもしな
いでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み
食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」
(ヨハネ11:18-19)。非難する人たちを逆に非難している。
ここにきて、比喩の意味がはっきり見えてくるように思う。結婚式ごっこをし
ようと言っても躍らないのがヨハネであり、葬式ごっこをしようと言っても歎
かないのがイエスである。そして、それぞれを「躍らない」「歎かない」と言っ
て不平を言っているのが「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」(ルカ7:30)
であり、イエスが非難しているのはまさにその人たちなのではないか。
叱責されているのは、踊らない人ではなくて、「笛吹けども躍らず」などと不平
を言っている人である----私にはそう読める。
誘導しても、人がこれに応じない」(新潮現代国語辞典第二版)ことであると
いう。中学・高校生の頃、ハッパをかけられても勉強しなかったりすると、こ
の喩えを持ち出されて叱られたものである。叱られるときに持ち出される喩え
話だから、どうも私はこの言い方が嫌いだった。
この喩え話は、聖書からきているという。そこで、該当個所を読んでみるが、
これが難しい。残念ながら、身近に意味を質問できる人がいないから、いくら
か考えた。(考えるには考えたが、きちんと調べるべきことを調べたわけでは
ない。なんだか気になるので、メモしておくという程度である。)
疑問のポイントは一つだけである。聖書においてこの喩えが、〈笛を吹いたら
躍るべし〉という意味で使われているのか否かだ。
「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけ
ている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。/葬
式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』」(新共同訳マタイ
11:16-17)
素直に読めば、笛を吹いたり、葬式の歌を歌ったりしても応じてもらえずに不
平を言っている子供により「今の時代」をあらわしているということになる。
これは、ヨハネやイエスを認めない人々を非難している一節中であるから、文
脈からみれば笛を吹いても躍らない子供を非難しているのではなく、「『笛吹
けども躍らず』と歎いている子供」を非難しているということになりそうだ。
なお、ルカには「互いに呼びかけ」(ルカ7:31)とあるから、「踊ってくれな
かった」と不平を言っている子供と「悲しんでくれなかった」と言っている子
供は、別の子供たちらしい。一方は結婚式ごっこがしたくて、もう一方は葬式
ごっこがしたかった、ということのようだ。
さて、イエスのセリフは、その後が続く。「ヨハネが来て、食べも飲みもしな
いでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み
食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。」
(ヨハネ11:18-19)。非難する人たちを逆に非難している。
ここにきて、比喩の意味がはっきり見えてくるように思う。結婚式ごっこをし
ようと言っても躍らないのがヨハネであり、葬式ごっこをしようと言っても歎
かないのがイエスである。そして、それぞれを「躍らない」「歎かない」と言っ
て不平を言っているのが「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」(ルカ7:30)
であり、イエスが非難しているのはまさにその人たちなのではないか。
叱責されているのは、踊らない人ではなくて、「笛吹けども躍らず」などと不平
を言っている人である----私にはそう読める。
日本人が FAX 好きであることが話題になっている。ワシントンポストの記事が
きっかけらしい。これまでも、日本人の FAX 好きはしばしばジョークのネタに
なってきたわけで、ことさら目新しい話題ではない。しかしながら、これはさ
まざまな側面から考えることができるとても面白い話題だ。
そこで、「どうして電話でなくて FAX なのか」「どうしてメールでなくて
FAX なのか」という二つの面に分けて考えてみたい。
どうして電話でなくて FAX なのか
話し言葉ではなく文字が必要とされるのは、重大な場面においてはそう珍しい
ことではない。キューブリックの「突撃」を見ると、味方の中に大砲を打ち込
めという命令に対して兵が「そういう命令は文書でください」と言っている。
あとで自分の責任にされてはかなわないわけで、これは納得できる要求である。
義経が法王に平氏を攻めよと言われたとき、院宣をくれと言ったという話も、
なるほどと思える。FAX の問題は、むしろ重要度の低い事柄でも文書が求めら
れるというところにあるのだろう。
石川九楊という書家が、面白い意見を言っていたのを読んだことがある。現在
の日本語は奈良時代に書き言葉の表記を定めるとき、それまでの言葉を整理し
た結果できたものだというのだ。すなわち、日本語の書き言葉は、発音された
言葉が先にあってそれを写しとったのではなく、書き言葉と話言葉が同時に成
立したということだろう。極言すると、日本語会話は書き言葉を読む行為であ
るということになるかもしれない。まあ、この説が妥当かどうかは別として、
日本語の話し言葉がもとよりビジネス使用を想定していないものであるという
のは、そう不思議なことではないと思う。
どうしてメールでなくて FAX なのか
これほど FAX が好きな日本人ではあるが、職員一人ひとりが個人用のファック
スを持っているということは、珍しい。このことは、大事なヒントになると思
う。FAX には、まず部署がそれを受け取り、それから責任者に届けられるとい
う感覚がある。これは、宛先に個人名が書いてあっても、部署に所属する人間
として受け取る文書は、部署を通して受け取るべきだというセンスではなかろ
うか。
これに対してメールは責任者という人間に直接届くものであるから、信頼され
ないのである。(サインよりも印鑑が好まれるのも、サインは個人という側面
をより強く打ち出すからのように思える。総務の人が勝手に押してくれる認印
が信頼されるというのも、まったく不思議なことではない)
まとめると、
わが国には、(1)話し言葉は個人間の通信にしか使えない (2)個人間の通信は文
書であっても信頼されない、というルールがある。
そして、(a)メールは一人ひとりの机の上にあるパソコンで受け取る (b)FAX は
部署が管理している受信機に届く、という物理的な特徴がある。
これらを併せて考えると、わが国のビジネスマンが FAX を愛好する理由も、想
像がつくのではないだろうか。
Neither can he, that mindeth but his own business, find much matter
for envy.
ベーコンの随筆中にある一文である。
「自分の事のほか気にすることがない者は、ねたみの種をそう多くは見つける
ことができない」ぐらいの意味であろう。neither が mindeth (=minds) と
can find に懸かっている。「詮索無ければ嫉妬もまた無し」と意訳してみる
と、「もまた」のところが neither っぽい。意味的には、べつに不思議なも
のではない。
ただ、文法的に見てちょっと不思議な感じがするのは、mindeth は従節中にあ
り、can find は主節の中にあるところである。neither が節というカラをつき
破って mindeth にも懸かってくる。そこのところが面白いので、メモしておく。
for envy.
ベーコンの随筆中にある一文である。
「自分の事のほか気にすることがない者は、ねたみの種をそう多くは見つける
ことができない」ぐらいの意味であろう。neither が mindeth (=minds) と
can find に懸かっている。「詮索無ければ嫉妬もまた無し」と意訳してみる
と、「もまた」のところが neither っぽい。意味的には、べつに不思議なも
のではない。
ただ、文法的に見てちょっと不思議な感じがするのは、mindeth は従節中にあ
り、can find は主節の中にあるところである。neither が節というカラをつき
破って mindeth にも懸かってくる。そこのところが面白いので、メモしておく。
高校生が電子辞書で音楽を聞いているのを目にした。辞書ソフトのオマケみた
いな音源で、サビの部分しかない。可笑しいのは、彼はスマホを持っていて、
古い録音で我慢しさえすれば有名なクラシックの曲などいくらでもダウンロー
ドできるということである。
思うに、スマホでダウンロードする知識がなくてできないとか、面倒だとかい
う理由ではないだろう。音楽を聴くための機能がない辞書専用のガジェットで
音楽が聴けるということが面白いに違いない。
そもそも、スマホを持っていれば辞書専用のガジェットは不要のはずである。
辞書アプリのほうが安いうえに使い易いことも多い。それでも辞書専用機を使
うのを好む高校生は少なくないようだ。(まあ、スマホだと教室に携帯が許さ
れないのかもしれないが)。なにかショボいものの魅力、オモチャのようなも
のの魅力、そんなものが辞書専用機にあるのかもしれない。
しかし、その辞書専用機たるや、目を覆いたくなるような奇妙なユーザ・イン
ターフェースである。串刺し検索はできない、必ず辞書の選択→検索語句の入
力の順でないと駄目、和英・英和辞典は和英用と英和用で二つのテキストボッ
クスがあって使い分ける、といった具合だ。
ガラパゴスと言えば一言で済んでしまうかもしれない。徒花と言えば徒花だろ
う。たしかに私だったら、その器械は買わない。ところが、やはり、それでも
辞書専用機は独自の世界を醸しているのである。使い易さと楽しさとの間には、
何かがはさまっているらしい。
いな音源で、サビの部分しかない。可笑しいのは、彼はスマホを持っていて、
古い録音で我慢しさえすれば有名なクラシックの曲などいくらでもダウンロー
ドできるということである。
思うに、スマホでダウンロードする知識がなくてできないとか、面倒だとかい
う理由ではないだろう。音楽を聴くための機能がない辞書専用のガジェットで
音楽が聴けるということが面白いに違いない。
そもそも、スマホを持っていれば辞書専用のガジェットは不要のはずである。
辞書アプリのほうが安いうえに使い易いことも多い。それでも辞書専用機を使
うのを好む高校生は少なくないようだ。(まあ、スマホだと教室に携帯が許さ
れないのかもしれないが)。なにかショボいものの魅力、オモチャのようなも
のの魅力、そんなものが辞書専用機にあるのかもしれない。
しかし、その辞書専用機たるや、目を覆いたくなるような奇妙なユーザ・イン
ターフェースである。串刺し検索はできない、必ず辞書の選択→検索語句の入
力の順でないと駄目、和英・英和辞典は和英用と英和用で二つのテキストボッ
クスがあって使い分ける、といった具合だ。
ガラパゴスと言えば一言で済んでしまうかもしれない。徒花と言えば徒花だろ
う。たしかに私だったら、その器械は買わない。ところが、やはり、それでも
辞書専用機は独自の世界を醸しているのである。使い易さと楽しさとの間には、
何かがはさまっているらしい。
中庸というのは、ずいぶん古くから言われていることで、孔子が言及している
し、アリストテレスも似たような概念を唱えているという。六つかしい話は分
からぬが、まあ極端を排して中間をとるというくらいの意味を考えるならば、
たしかに我々の日々の暮らしに不可欠なところであろう。
昔読んだミクロ経済学の教科書にこんな話が載っていた。酒ばかり飲んでも面
白くない、焼き鳥ばかり食うても面白くない。両方を同時にいただくと、あと
一杯の酒、あと一本の焼き鳥がより旨いものになるというのである。これが人
間の行動を律する基本であるというわけであるが、効用の増大という点から見
て極端というのがあまりうまくないというのは、さもありなんである。
これほど当たり前のことに思える中庸ではあるが、意見を言い合う段となると、
途端に霞んでくる。これももっとも、あれももっともというのでは、議論にイ
ンパクトが出ないからであろうか。論者というのは極端を魅力的に見せるのが
役目で、聞く者がそれぞれ落とし所を考えればよいということなのか。
焼き鳥の串と徳利を両方ながらに並べて酒を飲みつつ、口角に泡を飛ばして極
端なことを口走るのはありふれた光景だが、してみると胃袋と弁舌は異なる基
準に従うものなのかもしれない。
し、アリストテレスも似たような概念を唱えているという。六つかしい話は分
からぬが、まあ極端を排して中間をとるというくらいの意味を考えるならば、
たしかに我々の日々の暮らしに不可欠なところであろう。
昔読んだミクロ経済学の教科書にこんな話が載っていた。酒ばかり飲んでも面
白くない、焼き鳥ばかり食うても面白くない。両方を同時にいただくと、あと
一杯の酒、あと一本の焼き鳥がより旨いものになるというのである。これが人
間の行動を律する基本であるというわけであるが、効用の増大という点から見
て極端というのがあまりうまくないというのは、さもありなんである。
これほど当たり前のことに思える中庸ではあるが、意見を言い合う段となると、
途端に霞んでくる。これももっとも、あれももっともというのでは、議論にイ
ンパクトが出ないからであろうか。論者というのは極端を魅力的に見せるのが
役目で、聞く者がそれぞれ落とし所を考えればよいということなのか。
焼き鳥の串と徳利を両方ながらに並べて酒を飲みつつ、口角に泡を飛ばして極
端なことを口走るのはありふれた光景だが、してみると胃袋と弁舌は異なる基
準に従うものなのかもしれない。
「世界一大きいトラック」の写真をはじめて見たのは子どものときだった。そ
のとき、トラック自体の大きさに比べると、荷台に積める分量が少ないのに驚
いた。考えてみれば当たり前で、小さなトラックをそのまま拡大したら自重す
ら支え切れるかどうかわからない。象が蟻に比べてずんぐりしているのと同じ
話である。
これに似たことは、しばしば経験し、また、見聞きする。たとえば、大がかり
なコンピュータ・プログラムなんぞは、複数の部分に分割しておかなければ、
とうてい開発できないだろう。象を一匹にかわりにロバを百匹開発するしかな
いというわけだ。
一方、会社なんぞは合併して大きくすることにより管理部門を統合できるから
効率が良くなるということがあるらしい。だから、こうした比喩をあまり一般
化するのはよろしくなかろう。そもそも比喩は誰かを説得する力は持たずに、
ただ自分の気分を説明するぼんやりとした効果だけを持つものだと、私は考え
ている。それでも、時々この巨大トラックの比喩が頭をかすめる場面というの
は少なくない。
ある種の「人文」的な学問では、たくさんの新概念が出てくるが、ときどきこ
れが荷物の重さではなくて、トラックじたいの重さであるように思うことがあ
る。ソーカルが The clear goal here is to achieve by definition what
one could not achieve by logic. (What the Social Text Affair Does and
Does Not Prove)などというのは、いくらか似た事情が感じられなくもない。
ベーコンが whereas the meaning ought to govern the term, the term in
effect governeth the meaning (Of Unity In Religion)と言っているのを聞
いても、なんとなく巨大なトラックを思い浮かべてしまう。
べつに私はソーカル事件について知っているわけでも、ベーコンの神学につい
て知っているわけでもない。これが的外れな連想であろうことも想像はできる。
ただある種のもどかしさを感じるときに、なんとなく巨大なトラックのことを
思い出してしまうというだけの話である。
のとき、トラック自体の大きさに比べると、荷台に積める分量が少ないのに驚
いた。考えてみれば当たり前で、小さなトラックをそのまま拡大したら自重す
ら支え切れるかどうかわからない。象が蟻に比べてずんぐりしているのと同じ
話である。
これに似たことは、しばしば経験し、また、見聞きする。たとえば、大がかり
なコンピュータ・プログラムなんぞは、複数の部分に分割しておかなければ、
とうてい開発できないだろう。象を一匹にかわりにロバを百匹開発するしかな
いというわけだ。
一方、会社なんぞは合併して大きくすることにより管理部門を統合できるから
効率が良くなるということがあるらしい。だから、こうした比喩をあまり一般
化するのはよろしくなかろう。そもそも比喩は誰かを説得する力は持たずに、
ただ自分の気分を説明するぼんやりとした効果だけを持つものだと、私は考え
ている。それでも、時々この巨大トラックの比喩が頭をかすめる場面というの
は少なくない。
ある種の「人文」的な学問では、たくさんの新概念が出てくるが、ときどきこ
れが荷物の重さではなくて、トラックじたいの重さであるように思うことがあ
る。ソーカルが The clear goal here is to achieve by definition what
one could not achieve by logic. (What the Social Text Affair Does and
Does Not Prove)などというのは、いくらか似た事情が感じられなくもない。
ベーコンが whereas the meaning ought to govern the term, the term in
effect governeth the meaning (Of Unity In Religion)と言っているのを聞
いても、なんとなく巨大なトラックを思い浮かべてしまう。
べつに私はソーカル事件について知っているわけでも、ベーコンの神学につい
て知っているわけでもない。これが的外れな連想であろうことも想像はできる。
ただある種のもどかしさを感じるときに、なんとなく巨大なトラックのことを
思い出してしまうというだけの話である。
古語で文を書けたら面白そうだと思うことがある。せめて文語で書きたいとも
思う。実際には、自分の古典文法に対する知識が乏しかったり、新しい文物の
表現に難があったりするので、取り組んだことはない。それどころか、自分は
日本の古典が好きなのかというと、そうとも限らない。たしかに、あれも読ん
でない、これも読んでないというプレッシャーを感じてはいるが、そのために
時間を割くまでには至っていないのだから、真剣な古典愛好者でないことは確
かである。
それにもかかわらず、自分が古文・文語文の魅力を感じているのは何故か。毎
日口語文のお世話になっている身としては、これを一度くらいは考えてみるの
が義理というものかもしれない。
言葉を発すれば、必ず何かの影響が現れる。これには、契約が成立するとか、
ブログが炎上するとかいう客観的にわかる形だけでなく、人の心の中に何らか
の気分を生じさせるということも含まれる。
たとえば、「○○原発は××県にあります」という一文を読んだとき、何を考
えるだろうか。少なからぬ人が、「この論者は原子力発電所の稼働に賛成なの
か反対なのか」ということを読み取ろうとするのではあるまいか。もちろん、
この一文から、それが読みとれるわけもない。
しかし、そうなると、読み取りパワーは増大して、そこに書いていないさまざ
まなことを読み取りはじめる。「結局、こいつは原発についてのハッキリとし
た意見を持っていないのだ」とか「このブログは、政治的な問題に何らかの意
見を述べるようとしているのだ」とかいう印象を得る人があるとすると、それ
はこうした読み取りの結果だろう。
これが、「○○原発は××県にあり」と書いてあったらどうだろう。これなら、
江戸時代の紀行文を読むときのように、ちょっと離れた視点から読めるような
気がする。
もちろん「ひとごとみたいな書き方で、ムカつく」という人もあるだろう。し
かし考えようによっては「離れた視点から読める」も「ひとごとみたい」も、
さして変わりはない。同じことを、好意を持って、あるいはその反対の気持ち
を持って言っているだけだ。「客観的→問題と自己の利益を区別する→語るに
足る」という道順も、「客観的→ひとごとみたい→偉そう→ムカつく」という
道順も、同じところに端を発する。
もっとも、文語文を日常的に読んでいた時代の人や、歴史的文献を職業的に読
んでいる人は、こうした「遠い」印象を文語文から受けないにちがいない。
かつて、文語文は客観的であるどころか、感情を盛り込むメインの器であり、
しばしば扇動にも用いられたわけである。文語文に空しい虚飾という印象を受
けている人も少なくないのも、うなずける。また、楽しいからという以上のは
っきりした主張をもって文語文の復活を願う人にとっても、文語文は「遠く」
ないのだろう。(ただ、完全な古文となると、さすがに話は別だろうが)
ともかくここまで考えて、私は一応の結論らしきものにたどり着いた。現代に
生活している自分が擬古文に憧れているのは、ちょっと離れたところから物事
を見る瞬間を持ちたいかららしい。
そして、忘れてはならないのは、そうやって混み入った状況からふっと抜け出
してしまうというのは、すごくユーモラスだということだ。寄ってたかって殴
られている男が、なぐっている男たちの股の間からのこのこ這い出てくる様子
を想像してみるといい。これは、死語~半死語になったがゆえに、古文・文語
文が持ち合わせることになった魅力だと思う。
思う。実際には、自分の古典文法に対する知識が乏しかったり、新しい文物の
表現に難があったりするので、取り組んだことはない。それどころか、自分は
日本の古典が好きなのかというと、そうとも限らない。たしかに、あれも読ん
でない、これも読んでないというプレッシャーを感じてはいるが、そのために
時間を割くまでには至っていないのだから、真剣な古典愛好者でないことは確
かである。
それにもかかわらず、自分が古文・文語文の魅力を感じているのは何故か。毎
日口語文のお世話になっている身としては、これを一度くらいは考えてみるの
が義理というものかもしれない。
言葉を発すれば、必ず何かの影響が現れる。これには、契約が成立するとか、
ブログが炎上するとかいう客観的にわかる形だけでなく、人の心の中に何らか
の気分を生じさせるということも含まれる。
たとえば、「○○原発は××県にあります」という一文を読んだとき、何を考
えるだろうか。少なからぬ人が、「この論者は原子力発電所の稼働に賛成なの
か反対なのか」ということを読み取ろうとするのではあるまいか。もちろん、
この一文から、それが読みとれるわけもない。
しかし、そうなると、読み取りパワーは増大して、そこに書いていないさまざ
まなことを読み取りはじめる。「結局、こいつは原発についてのハッキリとし
た意見を持っていないのだ」とか「このブログは、政治的な問題に何らかの意
見を述べるようとしているのだ」とかいう印象を得る人があるとすると、それ
はこうした読み取りの結果だろう。
これが、「○○原発は××県にあり」と書いてあったらどうだろう。これなら、
江戸時代の紀行文を読むときのように、ちょっと離れた視点から読めるような
気がする。
もちろん「ひとごとみたいな書き方で、ムカつく」という人もあるだろう。し
かし考えようによっては「離れた視点から読める」も「ひとごとみたい」も、
さして変わりはない。同じことを、好意を持って、あるいはその反対の気持ち
を持って言っているだけだ。「客観的→問題と自己の利益を区別する→語るに
足る」という道順も、「客観的→ひとごとみたい→偉そう→ムカつく」という
道順も、同じところに端を発する。
もっとも、文語文を日常的に読んでいた時代の人や、歴史的文献を職業的に読
んでいる人は、こうした「遠い」印象を文語文から受けないにちがいない。
かつて、文語文は客観的であるどころか、感情を盛り込むメインの器であり、
しばしば扇動にも用いられたわけである。文語文に空しい虚飾という印象を受
けている人も少なくないのも、うなずける。また、楽しいからという以上のは
っきりした主張をもって文語文の復活を願う人にとっても、文語文は「遠く」
ないのだろう。(ただ、完全な古文となると、さすがに話は別だろうが)
ともかくここまで考えて、私は一応の結論らしきものにたどり着いた。現代に
生活している自分が擬古文に憧れているのは、ちょっと離れたところから物事
を見る瞬間を持ちたいかららしい。
そして、忘れてはならないのは、そうやって混み入った状況からふっと抜け出
してしまうというのは、すごくユーモラスだということだ。寄ってたかって殴
られている男が、なぐっている男たちの股の間からのこのこ這い出てくる様子
を想像してみるといい。これは、死語~半死語になったがゆえに、古文・文語
文が持ち合わせることになった魅力だと思う。
小説「フランケンシュタイン」には、こんなくだりがある。
In other studies you go as far as others have gone before you,
and there is nothing more to know; but in a scientific pursuit
there is continual food for discovery and wonder.
(他の研究なら、先人たちが到達したところまで自分も到達したならば、
それ以上知るべきことはない。しかし、科学的な追究においては、
発見や驚きの糧が、ずっとあるのだ。)
これは、フランケンシュタインが、科学の楽しみについて語った一部である。
フランケンシュタインといっても、彼の作った怪物ではなく、彼自身のことだ。
科学について究め尽くすことができないということは、現在の我々の考えでも
成程と思うところである。興味深いのは、他の学問・研究については、先人の到達
したところまで行けば仕舞いという発言である。
他の study というのが何を指すのかというと、なにしろ 19世紀前半のことだ。
社会科学はまだ念頭にないだろうし、工学も科学とはっきりと区別されていたか
どうか疑わしい。
おそらく、この発言に最も激しく異議を申し立てるべき人は、いわゆる人文分野の
研究者だろう。やってないことは山のようにあるし、それは次々に生まれてくると。
そして、先人の研究の上に、成果を積み重ねてきているのだと。
たしかにその通りではある。だが、ぎゃくに、「先人の知りたるところまで到達」
というのが、個人の知識・能力のことであるとすると、それができているのか、
という疑問が湧いてくる。
逆に言うと、メアリ・シェリーの考えでは、「先人の到達レベルを維持する」
というのが、じゅうぶん study に値することだったのだと、この一文を読んで
考えた次第である。
In other studies you go as far as others have gone before you,
and there is nothing more to know; but in a scientific pursuit
there is continual food for discovery and wonder.
(他の研究なら、先人たちが到達したところまで自分も到達したならば、
それ以上知るべきことはない。しかし、科学的な追究においては、
発見や驚きの糧が、ずっとあるのだ。)
これは、フランケンシュタインが、科学の楽しみについて語った一部である。
フランケンシュタインといっても、彼の作った怪物ではなく、彼自身のことだ。
科学について究め尽くすことができないということは、現在の我々の考えでも
成程と思うところである。興味深いのは、他の学問・研究については、先人の到達
したところまで行けば仕舞いという発言である。
他の study というのが何を指すのかというと、なにしろ 19世紀前半のことだ。
社会科学はまだ念頭にないだろうし、工学も科学とはっきりと区別されていたか
どうか疑わしい。
おそらく、この発言に最も激しく異議を申し立てるべき人は、いわゆる人文分野の
研究者だろう。やってないことは山のようにあるし、それは次々に生まれてくると。
そして、先人の研究の上に、成果を積み重ねてきているのだと。
たしかにその通りではある。だが、ぎゃくに、「先人の知りたるところまで到達」
というのが、個人の知識・能力のことであるとすると、それができているのか、
という疑問が湧いてくる。
逆に言うと、メアリ・シェリーの考えでは、「先人の到達レベルを維持する」
というのが、じゅうぶん study に値することだったのだと、この一文を読んで
考えた次第である。
随分とブログを更新しなくなってしまった。しかし、どうもそれでは詰まらないので、さほど起伏もなき毎日に、ああそうかと気付いたことをメモしておこうと思う。
先日来、ブラム・ストーカーのドラキュラを読んでいる。折角だから英語で読んでいるわけだが、英語力がなくて、しじゅう引っ掛かる。今日引っかかったのは……
少し前から説明すると、モリスというアメリカ人が、ルーシーというイギリス娘に結婚を申し込む。ルーシーは好きな人が別にいる(たぶん両想いだが、まだ彼は告白してくれない)ので、そう告げて断る。モリスは、それならせめて一度だけキスしてくれと言う。その後で、彼が続けたセリフ(直接話法で)が次の一文。that other good fellow というのは、ルーシーの意中の人。
You can, you know, if you like, for that other good fellow, or you could not love him, hasn't spoken yet.
しばらく考え込んでしまった。
You can (kiss me), you know, if you like (to kiss),
for (=because)
that other good fellow,
or (=If he was not a "good fellow") you could not love him,
hasn't spoken (=proposed) yet.
ということらしい(間違えてたら教えて)。
今日は、ドラキュラ伯爵と関係ないゆるい部分からの引用でした。
先日来、ブラム・ストーカーのドラキュラを読んでいる。折角だから英語で読んでいるわけだが、英語力がなくて、しじゅう引っ掛かる。今日引っかかったのは……
少し前から説明すると、モリスというアメリカ人が、ルーシーというイギリス娘に結婚を申し込む。ルーシーは好きな人が別にいる(たぶん両想いだが、まだ彼は告白してくれない)ので、そう告げて断る。モリスは、それならせめて一度だけキスしてくれと言う。その後で、彼が続けたセリフ(直接話法で)が次の一文。that other good fellow というのは、ルーシーの意中の人。
You can, you know, if you like, for that other good fellow, or you could not love him, hasn't spoken yet.
しばらく考え込んでしまった。
You can (kiss me), you know, if you like (to kiss),
for (=because)
that other good fellow,
or (=If he was not a "good fellow") you could not love him,
hasn't spoken (=proposed) yet.
ということらしい(間違えてたら教えて)。
今日は、ドラキュラ伯爵と関係ないゆるい部分からの引用でした。