けれど(Credo)

I:キリシタン信仰と殉教 II:ファチマと現代世界 III:カトリック典礼、グレゴリオ聖歌 IV:「聖と俗」雑感

ファチマ・クルーセイダー

2013年07月30日 | Weblog

世界の奴隷化か、それとも平和か...それは教皇にかかっている

第 X 部(3)

聖母を沈黙させるための陰謀 -- 第II部

Father Paul Leonard 著

組織の中傷キャンペーンは悪化している

反「ファチマ・クルーセイダー」キャンペーンは単なるほのめかしで止まらなかった。あの組織のニュースレターの中で、彼らの記者たちの一人にとって、それ以上に文章を推敲することを拒否しながら、「ファチマ・クルーセイダーは過激派である」と書くことでは十分ではない。(おそらく、彼はそれが極端に客観的、信頼に満ちており、そして教導職に忠実であるということを意味しているのであろう。)彼は、そのまさにカトリック的な外見にもかかわらず、なお「あなたはその出版物を信用することができない」ということを強調している。彼はなぜ彼が正確にこの陳述をしているかを書きそこなっている。(おそらく彼は、あの組織の「党路線」を遂行しようとして真理を歪曲するためにはあなたはファチマ・クルーセイダーを信用することができないということを意味しているのであろう。)ある司祭は、あの組織の別の最近のニュースレターの中で、附加されたあの組織の記章と共に、「ファチマ・クルーセイダーは位階に対する叛逆と不信を永続化し、推奨している」という明白に名誉を毀損する主張を出した。

ファチマ・クルーセイダーは教皇と信仰を擁護する

実際は、ファチマ・クルーセイダーはまさにその反対のことを促進している:ファチマ・クルーセイダーは、彼らの教会の高位に関係なしに、教皇、教導職あるいは教会法に対して叛逆するすべての人に対する抵抗を奨励する。聖職者、あるいは司教でさえが教皇、あるいは神の律法あるいは教会に対して叛逆するとき、彼らに反対することは信徒の権利であるばかりでなく、また義務であるということは教会の普遍的かつ永続的な教えである。聖トマス・アクィナスは、司教たちはあらゆる事柄において従われるべきではないと説明している。というのは、司教たちの命令は時には神の律法に反することがあるからである。そしてそのような場合には、「人間たちに従うよりはむしろ神に従うことが必要である。」ある司教の命令は律法に直接に反することがあり得る。そのような場合には、臣下はより大きな権威に従わなければならない。さらに、臣下は「もし彼がそれにおいては臣下ではない事柄において命令を与えられるならば」彼の上長に従う義務はない(神学大全、2-2, 104.5)。

ガニョン枢機卿は誤った司教たちに抵抗するわれわれの権利を支持しておられる

教皇立家庭協議会の長であるガニョン枢機卿は The Wanderer における、よく知られている1983年インタビューの中で誤った司教たちに対する合法的な不同意と反対の主題に関して話された。この主題に関して、ガニョン枢機卿はこう言われた:「戦いの多くは、特定の歪曲が起こった場所、司教区や小教区において平信徒によって戦われてきた」と。そして彼は「小教区と司教区の水準で戦い、そして働く準備ができるように」グループや団体を勇気づけられた。

あの組織によって支持されたバチカン・モスクワ協定の裏切り

あの組織はどういうわけか、修正されるべき教会の諸問題についての筋の通った議論を提示することが悪いことであると示唆してきた。教会史と神学は両者とも、行政の諸問題においては、司教たちや枢機卿たち、そして教皇でさえ、誤りを犯し得るということを証明している。ファチマ・クルーセイダーは教皇ヨハネ・パウロ二世と共に、さらなる研究の下に、バチカン・モスクワ協定が霊魂たちの救いと教会の善に反するものであるということを見出した。

ファチマ・クルーセイダーはこのことを証明してきた。注1)しかしあの組織の編集者はハーミッシュ・フレイザーへの公刊された手紙およびグルーナー神父への手紙の中で、バチカン・モスクワ協定は教会にとってよいものであると述べた。ファチマ・クルーセイダーへのあの編集者の手紙を引用すればこうである:「あなたは、ニコディムとティッセラン枢機卿が最終的に戦闘的無神論にではなく、ファチマの聖母の約束に役立つであろう協定をしたということ、...ロシアが回心するということを確信することができる。」あの出版物の編集者は Approaches の編集者ハーミッシュ・フレイザーへのその手紙の中で、バチカン・モスクワ協定は秘密を保たれるべきであると明らかに暗示している。

盲目の従順は悪魔から来る

何人かの教会の高位聖職者への盲目的な従順という、しばしば言及されるその組織の明白な方針は単に教会の教えに反するばかりではない。それは一つの本質的に共産主義的な原理である。第二バチカン公会議は正当な教会の権威への「筋の通った従順」を規定している。あの組織は、ソビエト連邦の共産党のように、公式的な「党路線」からのいかなる意見の相違 -- その意見の相違がどれほど道理を弁えたものであろうと、権威の乱用がどれほど大きかろうと -- をも許容しない。あなたは重大な誤りに陥っている司教たちに決して反対してはならない、あるいはあなたは「公式的」でないいかなる声をも決して認めてはならないという考え方はそれに対応するものをレーニンの「すべての権力をソビエトへ」-- 他の何者をも認めるな -- という政策のうちに持っている。

マルクス主義の教義への親近性

彼らの知覚した敵対者たちに対して故意の誤報や中傷を広める、その組織の手の込んだそして玄人はだしの方法そして彼ら自身の「党路線」から逸脱するいかなる声をも沈黙させる諸々の企ては国家安全のためのソビエト委員会(K.G.B.)の実践に驚くほど類似している。私はここで、あの言及されている平信徒の団体が左翼の邪悪な勢力によって潜入され、乗っ取られた(そういう趣旨の嫌疑は正当化されるであろうけれども)ということを示唆しているのではないのであって、ただ単に彼らの方針や実践がキリスト教的諸原理のうちに何らかの基礎を示すことからほど遠く、マルクス主義的教義と、その組織をバチカン・モスクワ協定に基づけられた東方政策の効果的な道具へと変えた政治化への親近性を反映しているという事実を指摘しているにすぎない。

ロシアの回心はすでに始まったという一度ならず繰り返された彼らの提案した主張を支持するためにソビエト政府の長を引用し、そのことによってファチマ・メッセージの緊急性を小さくしている彼らをあなたが見出すとき驚いてはいけない。(彼らの出版物 1986年5月/6月号の p. 4 を見よ。)彼らはそのことによって同時に、モスクワが神とカトリック教会に対するその戦争をまさに止めようとしているということを示唆することによって、モスクワと共産党の「党路線」の巨大な欺瞞を永続化することを助けているのである。これは一つの明らかな虚言である。

ファチマの聖母はわれわれに、「ロシアは世界中にその諸々の誤謬を広めるでしょう」と警告なさった。あなたはファチマの聖母の名の下に[上述のことを]広める彼らを期待したであろうか?それは悪魔の絶妙な処置であろう。

共産主義者たちは似たようなグループを乗っ取ろうと試みた

ソビエト連邦においては、ロシア正教の教会は大いに、秘密警察の道具である。G.R.U.(ソビエト軍事諜報局)の大佐であるオレグ・ペンコフスキーは西側に逃亡した多くのK.G.B. 幹部たちがそうであったと同じように、彼の文書においてこの事実を確証した。アメリカ合衆国へ寝返ったソビエト外交官であり K.G.B. スパイであったアレクサンドル・サハロフ(反体制派のアンドレイ・サハロフではない)は、カシュノヴェツキー大司教自身が秘密情報員であったとということを明らかにした。彼の仕事はアフリカにおける聖職者をソビエト寄りの見解へと影響を与え、K.G.B. のために秘密情報員を勧誘することであった。アメリカ合衆国へ寝返ったK.G.B. 秘密情報幹部のセルゲイ・ミャコフ大尉は反共産主義組織および教会の組織の中に、それらを中立化し、それらをソビエト外交政策の道具へと変えるために、潜入するというK.G.B. の目的を単純に述べた秘密文書を作成した。

K.G.B.、ニコディムそしてあの組織

バチカン・モスクワ協定を促進し、擁護することにおいて、その組織は、それをソビエトの外交政策と一致させる方向へとその方針を指示した。すでに1971年に、あの組織はK.G.B. 秘密情報員と交際関係を持っていた。その年に、彼らの組織の国際会議への15人の国家代表のうちのただ1人だけがよく知られたソビエト秘密情報員のニコディムの招待に反対した。ニコディムがソビエト秘密情報員であったことは疑いを容れないところである。クレムリン警備局長を務め、後にウィーンにおけるソビエトスパイを監督した弁務官として務めたペーター・デリアビン少佐は、アメリカ合衆国に寝返った後に、「あらゆる司祭は秘密警察の情報員である。モスクワのロシア正教会における二流の高官でさえ秘密情報員である」ということを証言した。(Chronicle-Telegraph of Elyria. Ohio, July 20, 1961).ニコディムは、ソビエトにおいて、上に言及された二流の教会人であった主座大司教ニコライの助手として一年間務めた。ニコライの跡を継いだのは、助手として一年間務めた終りのニコディム大司教であった。ニコディムはその役職としてはそのとき異例の若さ、わずか31歳であった。彼はその地位にフルチショフによって据えられた。 

ニコライは、アソシエイテッド・プレスが1956年6月6日に報道したように、彼が「共産主義者たちに協力した」ということを否定したけれども、デリアビン少佐は、合衆国上院国内安全小委員会の前で(1959年5月5日)、K.G.B. の命令の下に彼自身が、彼らの秘密情報員ニコライに協力したということ、そしてウィーン平和会議へのソビエト代表団がウィーンへ到着しようとしていた時に、コヴァレフ大佐が彼に「代表団の世話をするように」という命令、そして「首座大司教ニコライは国家安全局の秘密情報員である」という電報を付託したと証言した。

明らかに、ニコライが暴露された後に、彼は交替させられたのである。ニコディムが彼の交代要員であった。ニコライと同様に、ニコディムは彼の代表団が海外で会議に出席した時には、ソビエトの高官たちによって援助された。ロシア正教会がニューデリーにおいて世界教会協議会へと受け容れられた時(1961年11月)、ニコディム代表団は、ロンドンの「デイリー・テレグラフ」の報道によれば(11月22日)、「彼らの快適さと彼らのすべての費用の責任を持つロシア政府秘密情報部員に伴われて」いた。

ニコディムはウクライナ・カトリック教会について嘘を言っている

ニコディムはまた、彼のソビエト政府の助言者たちによって命令された通りに共産主義のプロパガンダのラッパを吹き鳴らした熟達した嘘つきであった。ニューデリーでのある記者会見において、彼は次から次へと一つの嘘 -- ソビエト連邦の共産党の公式的な路線を反映したすべての証明された虚言 -- を繰り返した。その会見の中で、ニコディムはこう言った:「ソビエト社会主義連邦共和国の憲法によって保証された他の市民的諸自由と並んで、宗教的礼拝の完全な自由がU.S.S.R. のすべての人民によて享受されている。」

いわゆる「リュヴィヴの司教会議」が一方的にウクライナ・カトリック教会を廃止し、それをロシア正教会に統合した1946年以来、ウクライナにおけるカトリック教会は最も血なまぐさい迫害を苦しんできた。「あの司教会議にはカトリック司教たちは誰一人列席せず(彼らは全部投獄された)、そして信徒の大部分が反対したからして、ウクライナ・カトリック教会のローマとの一致は決して破られなかった。そしてこの教会の『モスクワの母なる教会』の懐への立ち戻りは決して起こらなかった。」(Alexis Ulysses Floridi S.J., Moscow and the Vatican, Ardis Publishers, 1986, p. 246.)

ニコディムはあの組織の編集者によって称賛されている

これらすべての事実にもかかわらず、しばしば言及される出版物を取り仕切っている編集者は、ハーミッシュ・フレイザーへの署名入りの公表された書簡の中で、こう書いている:「そしてニコディムは彼のソビエトの主人との非常にみごとなそして困難な路線を歩いた。彼らは彼がもう一人のトマス・モアであるかどうかを実際に知ることはできないであろう。しかし、彼はそうであった。」注2)

過度のお世辞を通り越して、あの編集者は、彼がソビエト秘密情報員ニコディムの精神を高揚させるような外見によって、その同じニコディムがあの組織の事務所を訪問した時に、どんなに深い感銘を与えられたかということを表明するところまで進んでいる。

スリピ(Slipyj)枢機卿の報告(1980年7月28日、ファチマ・クルーセイダー, No. 8, p. 24 を見よ)の中で、ウクライナ・カトリック教会の首座大司教は、10人の司教、1,400人以上の司祭、800人の修道女、そして数万人の信徒が「彼らの生命を犠牲にして教皇、使徒座そして普遍教会への彼らの忠誠の印を押した」、と宣言した。これらの事柄はニコディムが首座大司教であった間に起こった。

モスクワ大司教区とニコディムの外交関係部局の公式的な立場は、ソビエト連邦においてはどこでも誰の宗教的自由も侵害されなかったし、今も侵害されていない、そしてウクライナ・カトリック教会の血塗られた抑圧は U.S.S.R. の正教会の厳密に内部的な問題であるというものであった。

左方への漂流

その組織は現在、マーティン・シーンの映画「緊急事態の国」を奨励中である。中央アメリカそして急進左翼の司祭ダニエル・ベリガンについての左翼的なドキュメンタリーの語り手を務めたシーンは、彼の共産主義的な見解から回心しなかった。1985年9月に、シーンはロスアンジェルス、ノースリッジのカリフォルニア州立大学の「ティーチ・イン」において指導的な役割を担った。その中で、「彼は(共産主義的な)サンディニスタの指導者たちのことを称賛すること以外のことをしなかった」。彼らは、シーンに従えば、「人間的で、正しくそして民主的」である。(ロスアンジェルス・タイムズ、1985年9月20日)。それは、教皇ヨハネ・パウロ二世がニカラグアを訪問したときに、教皇を公的に侮辱したその同じ共産党政府である。ニカラグアの司教たちは、シーンが「人間的で、正しくそして民主的」と呼んでいる共産党政府による宗教的、市民的諸権利の抑圧に対して現在抗議しているところである。シーンの映画に対するその組織の職員たちの一般的な反応は、彼ら自身の出版物によれば、「熱狂的」だった。おそらく、クレムリンにいる人々もまた、あの見かけは無害な平信徒団体の着実な左方漂流について熱狂的であろう。

注 1.The Fatima Crusader issue No. 16, p. 9ff, 11, 12ff(see pages 263ff, 329ff, 301ff respectively, of this book); No. 17, p. 7ff, 11ff, 19ff(see pages 279ff, 294ff, 140ff respectively of this book).

2. See Approaches, Issue No. 88 Supplement "Postscript To Rome-Moscow Agreement".

3.Russel P. Moroziuk, Politics of a Church Union, (Church Herald, Chicago) 1983, p. 112.