世界の奴隷化か、それとも平和か...それは教皇にかかっている
第 VI 部(6)
1984年3月25日お告げ(すなわち、受肉)の祝日における
マリアの汚れなき御心への世界の[司教団の]共同的奉献
Hamish Fraser 著
教皇ヨハネ・パウロ二世の第三の奉献
教皇ヨハネ・パウロ二世は、彼の暗殺未遂の最初の記念日、1982年5月13日にファチマで世界を、そして「特別の仕方で、...このように委託され奉献されることが特に必要である諸個人および諸国家」を始めて奉献された。
その機会に、その説教において彼はこう述べられた:「御母のメッセージにおいて発せられた償いと回心への福音的な呼びかけはますます重要なものとなっている。それは65年前にそうであったよりもなおもっと重要である。それは今なおより緊急である。そしてそれゆえ、それはわれわれがすでにそのために準備をしている来年の司教会議の主題でなければならない。」
しかしながら、1983年の司教会議では、ただ一人の司教(ポーランド、オポールのノッソル司教)だけがファチマ・メッセージに(そして書かれた仲裁においてただ付随的にだけ)言及した。注1)その結果として、1983年10月15日の第17回一般集会の間に、ダヴァオの Mabutas y Lloren 司教(フィリピン)は控え目な表現の名人芸において、次のような非難文書を発する必要性を見出した。
「和解の使命を論じる際に...教会が罪人の逃れ場として嘆願する人物、祝せられたおとめマリアに関する実際的に普遍的な沈黙があったということはいささか奇妙に思われる。」
次の日に教皇が1982年5月13日になされた奉献を逐語的に繰り返すことによって司教会議の教父たちを暗黙のうちに非難する必要を認められたことは驚くにあたらない。
そして今教皇ヨハネ・パウロ二世は1984年のお告げの祝日にマリアの汚れなき御心に全世界を奉献する際に彼に参加するよう教会におけるすべての司教に呼びかけられた。
明らかに、教皇は教皇としてのイニシャティヴの紛れもないクレッシェンドによってロシアの回心と世界平和のための必要条件としてファチマの聖母によってあくまでも要求されてきたマリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献へと司教たちの精神を準備するために努力されているのである。
シスター・ルチアが言ったこと
しかしながら、教皇のやがて来る奉献についての誤った解釈に対して警告する必要がある。
まず第一に、すべての司教たちによって用いられる奉献のテキストは1982年5月13日および1983年10月16日の教皇の以前の二つの奉献のテキストと実質的に同一である。注2)
そのテキストに関して、シスター・ルチアは1983年3月19日に、ロシアの奉献は、ロシアが明白に奉献の対象ではなかったがゆえに、そして各司教が彼自身の司教座聖堂においてロシアの奉献の公的で荘厳な儀式を取り決めなかったがゆえに、1982年5月13日に達成されなかったと述べた。ポルトガル教皇大使、二人のポルトガル人専門家、ラセルダ博士とメシアス神父になされたシスター・ルチアの陳述はこのことをもっと早く言うことがなぜ出来なかったかを説明することによって結論づけた。「ロシアの奉献は聖母が要求なさったようにはなされませんでした。私は聖座からの許可を得ていませんでしたので、(そのとき)そう言うことができませんでした。」注3)
共同的
1984年3月25日に世界のすべての司教たちが奉献をするように求められていることは真である。しかしもし彼らが単にそうするように求められ、あるいは招かれているに過ぎないならば、その招待に100%の積極的応答があるならばそれは驚くべきことであろう。シスター・ルチアによれば、それは司教たちがなぜ、単に奉献の共同的行為に参加するよう求められ、あるいは招待されているだけではなくて、命令されていることを必要とするかを説明している。
しかしながら、たとえその行為が真に共同的であるように100%の応答があるとしても、用いられるテキストの中にそのものとしてロシアの特別の言及がなおないからして、1984年3月25日の奉献の行為はファチマの聖母の要求にまだ応じるものではないであろう。
避けられるべき混同
ほとんど1年間も、-- 実際カイヨン神父が1983年3月19日のルチアの陳述を公表するまで 注4)-- たいていのマリア雑誌が彼らの読者たちを、ファチマの聖母によって要求された奉献は事実行われたと主張することによって誤り導いたとき、1982年5月13日の奉献に引き続いた恥ずべき混同を特に考えるならば、このことをはっきりさせることは特に必要である。
1984年3月25日の奉献の後にはそれに比較されるいかなる混同もあってはならない。しかしながら、混同の危険は非常に大きい。なぜなら、1984年3月25日には奉献の行為は、どれだけ不完全であるとしても、それが少なくとも相当な割合の普遍的教会の司教たちを含むであろうということにおいて、最も確実に共同的であろうからである。この理由で、ある人々によって、聖母によって要求された奉献がついに達成されたとほとんど確実に主張されるであろう。
ところが、テキストがそのものしてロシアの言及を含んでいないからして、明らかにその主張は当たらないであろう。
幸いなことに、この機会にわれわれは出来事の以前にルチアの証言を持っている。それゆえにわれわれは聖母によって要求された奉献においてロシアは明らかに奉献の対象でなければならないということを知っているのである。
教皇の意図
シスター・ルチアがポルトガル教皇大使と二人のポルトガル人専門家によって質問されることが教皇の要求であったからして、教皇がそれ以降彼女が何を言ったかを知らされ、そしてそれゆえに彼が1984年3月25日の奉献のために提案したテキストがファチマの聖母の要求に合致しないということを知っていると推測されるであろう。ファチマからローマに帰った後1982年5月19日に教皇が言ったことは、彼がなぜ同じテキストを用いるようになお提案するかを説明しているということもまた推測されであろう。
なぜ同じテキストか?
1982年5月19日に、彼は1982年5月13日に彼が「具体的な諸状況の中で可能なあらゆることをなそうと努めた」と説明した。
特殊的に要求されたことではなくて、単に「具体的な諸状況の中で可能なあらゆること」にしか過ぎない!そしてそれは彼の意図に関して1982年5月13日の彼の説教の前であった。なぜなら、司教会議は単に無視されたばかりでなく、むしろ沈黙の司教団の横柄な態度によって鼻であしらわれたからである。それゆえに、彼は何が「具体的な諸状況の中で可能」であるを知るよりよい位置に今いるのである。換言すれば、彼は、もし彼が司教たちにロシアをマリアの汚れなき御心に奉献するように命令したならば、それが今のところ彼が恐れている公式的な分裂を求めることになるであろうということを知っているのである。なぜなら、このことはソビエト共産主義に対する公会議以前の教会の態度 -- 教会はソビエト共産主義を「本質的に悪しきもの」と定義していた -- に少なくとも暗黙のうちに戻るように彼らに要求することに等しいであろうから。そしてこのことはかなりの数の司教たちにとって完全に受け入れられないものであろうから。注5)
それゆえに、大きな善をもたらさざるを得ない1984年3月25日の奉献は明らかに、マリアの汚れなき御心へのロシアの共同的奉献に対するファチマの聖母の明白な要求を満たしていると言い張らないのである。それはむしろマリアの汚れなき御心へおロシアの共同的奉献が実際に可能となる日を早めるように計画された地球的次元の祈りに満ちた一つの訓練である。
1984年3月25日の奉献を別様に解釈することは、教皇の意図を完全に誤解し、また誤って伝えることであろう。
同時に、できるだけ多くの司教が1984年3月25日に教皇が彼らに求められたことをするように保証するために請願を受けることは必須のことである。
注
1.1985年11月に、ハーミッシュ・フレイザーはエルザレムのラテン総主教によって、彼の Beatitude が実際1983年の司教会議でファチマの聖母の要求に従ったロシアの奉献を求めたということを知らされた。しかし彼の介入は、バチカン・プレス・サービスのために英語、イタリア語、ラテン語で短い新聞社向け発表を書いたけれども、どの新聞においても決して報道されなかった。
2.1984年3月25日奉献のテキストはこの書物の p.185 にある。
3.ピエール・カイヨン神父による『ファチマ、1982年5月13日、実際に何が起こったか?』を参照せよ。Approches No. 82 附録。 The Fatima Crusader , Issue No.13-14, p.3 およびこの書物の p.159をも見よ。
4.上の注3を参照せよ。
5.The Rome-Moscow Agreement, Supplement to Approches No.84 を参照せよ。この書物の p.249 および p.269 にあるこれの報告を見よ。この書物の p.248 から始まる第7部におけるこの問題に関連した他の論考を見よ。