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書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

OSのバグ

2019年07月18日 14時29分29秒 | 意識論関連
ダニエル:デネットはこうも述べている

想像力や創造性は文化的背景に依存している

文化がOSで創造性がアプリに相当する

しかし 文化自体にバグがあればナチズムの勃興も招くのであって 何でもかんでも文化的背景に依存していたのではアプリとしての独自性がないし

そもそもOSにバグがあってもアプリによってパッチをあてることも可能であり

更にはアプリの進歩によってOSを改善してゆくことも可能である

そもそもOSなしでも組み込みプログラムは可能なのであって OSに依存しなければ何も出来ないというわけでもないのである

OSも所詮はヒトが作るものであり アプリと同様バグが混入する可能性もあれば パッチをあてることも可能なのであり

何でもかんでもOSに依存しなければならないわけではないのである

これは文化的背景も同じことであって ガリレオの時代に「地動説は火炙り」という文化的背景に依存していて真理の追求もヘッタクレもあったものではない

文化的背景を絶対視するのは論理的根拠のない「神話」の類いでしかない

「その時代」という限定された文化的背景に普遍性などなく 文化そのものの間違いに対しても批判的であることは重要なことである

文化という多数派に迎合しておけば気分的に安心なのであろうが それは思考を限定してしまい 自由な発想の妨げにしかならない

マイケル:サンデルが流行りだからといって その文化に迎合していたのではサンデルの間違いを誰も指摘することはなくなるのである

それは思考停止であり洗脳以外の何ものでもない



Ende;

優越という不毛

2019年07月18日 13時21分46秒 | 意識論関連
「他人をバカにして楽しいか?」と聞かれたのだが

他人をバカにして楽しいというのは 他人との比較競争への執着であり その根源は評価承認欲求である



寺内樺風が「女子中学生を誘拐監禁することは 高価な美術品を盗むよりも罪が軽いと思った」などという どうにも訳の判らぬ話を聞かされて楽しい訳がなかろう

私はバカが大嫌いだ

大嫌いなのにいちいち説明しなければ誰も自発的に気付かないから仕方なしに説明しているだけであって

何にも楽しいことなんかねぇ!

オラ他人を蔑んで優越感に浸れる趣味なんぞねぇ!

何勘違いしてんだバカが!



Ende;

誠実さの真実

2019年07月18日 08時58分11秒 | 意識論関連
ニューラルネットワークAIがブラックボックスだからといって特別に観念的恐怖心を煽るのはおかしな話である

そもそもヒトの生体脳機能自体もブラックボックスであり 故に誰も制御など出来ていないからこそ戦争や犯罪の論理的原因もわからず 無くすことも出来ないのである

大衆が抱く「新しいものへの観念的恐怖心」を利用し あたかもAIこそが危険であるかのように誘導するのは単なる大衆迎合エンターテイメントであり 到底科学や哲学に基づいた検証とは言えない

ヒトの生体というのは脳に限らず未だブラックボックスな部分は多く 決して全てが解明されているわけではなく 麻酔のメカニズムは未だ科学的には解明されてはいないし 細胞同士がメッセージ物質のやりとりで連携していることもごく最近解明されたことだそうである

 ◇

「AIが何をしでかすかわからない」と怯える前に そもそも「ヒトが何をしでかすかわからない」ことの危険性を解明することの方が先である

ところが ヒトの危険性というものは長い間放置されてきたものであるため 危険性に慣れてしまって「怖くない」ために問題意識が働いていないだけのことである

犯罪や戦争というのは人類史上無数に繰り返されてきたため 何が危険なのかを理解しようという意欲が働かなくなっているのである

中世における暴力覇権争いを英雄視し 「天下統一を果たした」などと称して偉人扱いするが それならナチスの勃興がなぜ英雄視されないのかと言えば 中世における暴力覇権争いに対してヒトの多くはファンタジーか何かのように「他人事」扱いになってしまっているからである

同じ「ヒト」が引き起こした厄災であることを忘れ 遠い昔のお伽話扱いにしているからナチスと扱いが正反対になるのである

こうしたヒトの無意識性が持つ危険性を認識せず 「慣れて」しまうことで問題意識が失われてしまうのである

ヒトは先天的にバカなので 新しいものは観念的に恐怖心を抱くが 昔から変わらないものには何の疑念も抱かなくなる習性がある

これはドーパミンが持つ常習性によるものであり 単なる中毒に過ぎない

意識の本質とは 論理的安全性と観念的安心の明確な区別によって目的行動選択をすることである

ところが 大衆マスコミの大多数は観念的安心ばかりを追求し 観念的恐怖心に基づいた叙述ばかりを信用したがるため 哲学(考え)を逸したお伽話を鵜呑みにしてしまうのである

本当に安全性を求めるために必要なのは 観念的恐怖心に基づいた煽動に惑わされず 徹頭徹尾論理的根拠に基づいた検証性という本質的意識が必要である

そのためには自己の何が観念的恐怖であるかを区別認識する必要性がある

人工知能を怖がる前に その人工知能を作ろうとしているヒト自体の危険性について徹底的に検証することの方が先なのである

ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた それに慣れてしまって「ヒトとはそういうものである(養老孟司)」と称して慣れてしまい 問題意識を持たなくなり 論理客観的原因究明や再発防止のアプローチすらしなくなっているという頭の悪さを認識すべきである

 ◇

大衆の多くは「誠実さ」というものを「ご機嫌取り」能力か何かと勘違いしているフシがあり 気分が悪くなる話は「俺様に対する誠実さが欠けている」などという主観に基づき 「自分自身の誠実さの欠落」をなかったことにしてしまう性質がある

その傲慢さこそが 真理 真実に対する誠実さを喪失する原因なのである



Ende;

ダニエル:デネット

2019年07月18日 00時15分46秒 | 意識論関連
ダニエル:デネットは意識と感情の区別がついていない

芸術などの創造性というのは主観的感情(大脳辺縁系)のハックであって これは意識の本質ではない

演技などの表現を用いて相手の共感(感情)を得ることは意識の本質ではない



デネットはこうも述べている

AIが率直で誠実であるとは限らない 真の意識とは相反するものだからだ

真の意識というものが主観的感情とは別のものであると述べており

(AIには)道理をわきまえてもらわなければならない

とまで述べている

デネットは人間性や倫理を伴う本質的な意識というものが感情とは別物であると述べているにも関わらず 「意識=感情」という取り扱いをしており 論理整合性がない

言っておくが 論理整合性のない話というのは「間違い」か「嘘」である



デネットは「AIは隠し事をする」と言うのだが

それは一体何のためであろうか?

合理的必要性がないことをなぜAIがすると言えるのであろうか

ヒトは目先の本能感情によって他人を騙すのであって AIがヒトを騙すのであれば それはヒトの知能を「超えて」などいない

どんなに大量高速の計算能力を持つとしても そこには人間性を伴う人間としての知能が伴わなければ決してヒトの知能を「超えた」ことにはならないからだ



MicrosoftのTwitterAIがヘイトスピーチを始めたように デマゴーグや煽動によってヒトを都合良く誘導するとすれば そこにはAIの「目的」があることになるが その「目的」には合理的根拠が伴わず ヒト特有の目先の感情に囚われる非合理性の再現でしかない

言わば「バカなヒトの真似」をしているに過ぎない

ヒト自身が自らの頭の悪さを理解認識していないからこそ 何度も戦争や犯罪などという無意味な行動を繰り返すのであって 危険なのはAIではなく「ヒトの頭の悪さ」の方なのである



美術表現を用いて他人の脳(大脳辺縁系が作り出す感情)をハックすることを創造性だと定義しているが 芸術というのは徹頭徹尾主観であって合理的根拠は必要のない分野であり これは科学や哲学とは全く異なる分野である

科学や哲学というのは主観的気分感情に依存することなく あくまで論理的根拠に基づく論証によって導き出されるものであり 科学や哲学に嘘や隠蔽やフィクションは無縁の分野である

しかしダニエル:デネットは音楽などの芸術分野の想像力というものと 科学や哲学による論理的根拠に基づいた創造性を混同しており 理論として成立していない



進化は人間より賢い(フランシス:クリック)」を引用し

進化の過程に委ねることで上手くゆく」などと述べているが これは典型的な進化万能論である

進化というものには目的関数のようなものはなく 徹頭徹尾カオスな変異の結果に過ぎず 決して変異の全てが必ず成功する保証はないものでもある

膨大な生物進化の現在結果だけを見て「進化の全ては自動的に全て万能である」と勘違いしているに過ぎない

遺伝的進化の過程というものは膨大な失敗や犠牲を伴い しかも成功する保証すらもない不確実性の高い「結果」に過ぎない

にも関わらず「進化の過程に委ねることで上手くゆく」と述べるのは極めて無責任な話である

 ◇

「率直で誠実である」ことこそが人間としての意識であり 「道理をわきまえる」とは論理検証性を意味するのである

文科系大衆マスコミの大多数はデネットのように感情の強度程度を意識の本質だと勘違いしているため デネットの論理整合性の欠落を指摘出来ないのである


そもそも遺伝的進化が万能だと言うのであれば いかなる非人道的実験や開発も正当化されなければならない

その結果 膨大な犠牲を伴う淘汰圧力を死なずに済んだ個体だけが生き残ることで遺伝的進化というものは促されてきたのである

だが それは自然界の「結果」である

ヒトが社会安全性や持続可能性を「目的」とするのは 本質的意識に基づき それが最終的には合理的だからである

進歩発展の速度や文明規模は人間としての「目的」ではない

どんなに強力な加速力を備えた自動車を開発しても 東池袋で松永さんの奥さんと子供を轢き殺してしまったのでは意味がない

どんなに大量の電力を発電出来ても 国土を放射能まみれにしてしまったのでは意味がないのである

人間には目的があるが ヒトという種の生物自体に組み込まれた本能習性や行動バイアスには目的など存在していない

そもそも遺伝的進化には目的がない以上 先天的本能習性にも目的など存在する余地はないからである



現状の哲学界というのは マルクス:ガブリエルや養老孟司の言っていることすら批判出来ない烏合の衆である

フリードリヒ:ニーチェを引用して「信念は真理の敵である」などと称して あたかも「何の信念も持たないただの無能なバカでいることが真理の近道であるかのような信念」に酔い痴れ いわば目先の「何かを理解したかのような快楽」に溺れて洗脳されていることにすら気付かない無能者の群れに過ぎないのである



遺伝的進化というものは あくまで「死ななかった」という結果以上の何も論証することはない

どんなに誠実であろうと どんなに賢かろうとも 死んでしまえば進化にはならない

ヴァルター:ベンヤミンや西宮冷蔵などの正義を貫いても 死ぬときゃ死ぬのである

遺伝的進化に人間性が伴う保証などないにも関わらず「遺伝的進化さえしておけば全ては上手くゆく」などという話は科学的根拠のない妄想錯覚神話お伽噺の類いでしかない

ヒトという種の生物の危険性や頭の悪さを理解認識していない段階でAIの危険性を論ずるのはおかしな話である

バカが作るものがバカげているのは必然的結果であり ヒトが人間性や倫理というものの本質を理解して初めてAIの何が危険なのかを論ずることが出来るのである



結論から言えば ダニエル:デネットは「AIの開発は慎重にやるべきだ」などという抽象的でほとんど意味のない事しか言っていない

ダニエル:デネットは無能者である

だから何の具体性もない結論しか導き出せないのである



Ende;

ラテベースのキャップ

2019年07月17日 14時35分42秒 | 日記
ペットボトルのキャップって目に見えない程細い切れ目みたいのがあって

そこからラテベースが漏れて指がベタつく


昔 ペットボトル飲料のオマケでキャップに被せるキャップみたいのあったけど

そういうの添付してくんないかな



Ende;


バカスペクトラム

2019年07月16日 15時22分46秒 | 意識論関連
飲食店でプラモデルにラッカースプレーで塗装しているクソヲヤヂがいるらしい

頭のおかしい奴っていうのはスペクトルで 女子中学生を監禁して「何が悪かったのかが判らない」なんて言い出す極端なバカの陰に無数のバカが隠れている

痛い目に遭わせないと自律的には善悪の判断が出来ない時点で人間性が欠落しているので いちいち国家権力を用いて罰を与えてもキリがない

刑罰が軽いと犯罪者が寄ってきちゃうことになるんだけど 刑罰じゃなくて徹底した治療を施せば犯した罪状に関わらず どんなに軽微な犯罪であっても徹底治療されるとなれば犯罪者はむしろ寄り付かなくなる

裁判の時だけ反省しているような態度を採っておけば 判事を騙すのは簡単であろう

しかし 嘘なのか本音なのかは最新の嘘発見器を用いればかなりの精度で判別可能である

自律的に「自分の行為の何が悪いのか」を認識出来ない以上 罪の大きさに依らず釈放すべきではない

「疑わしきは容疑者の利益」という概念があるが 犯罪者に利益もヘッタクレもないだろ

なんで利己的損得勘定が社会防衛に必要なんだよ

意味がわからん

これは「罰を与えることが司法の利益」になっているから出てくる概念であって だからこそ冤罪であろうと検察はゴリ押ししてくることになる

司法というのは社会防衛が目的ではなく 罰を与えることが目的になってしまっているから 社会安全性が後回しにされてしまうのである

国家権力と犯罪者の損得で罰が決まっているだけであって 社会安全性が無視されてしまっているのである

もう頓珍漢としか言いようがない

本来の目的を忘れて手続きだけに執着しているのは法手続きが「利益」になっているからであり そこに人間性も倫理も知能も働いてはいない

「餌に対する条件反射」「アメとムチ」だけではサルと違いはない

人間としての知能が働いていないから人間性にも倫理にも配慮が働かなくなるのである



Ende;

ラーキンス

2019年07月15日 13時23分53秒 | 日記
7年くらい昔に買った靴がいよいよ壊れてしまって

雨水が侵入して靴下が真っ黒に染みてしまった

仕方ないので近所のお店で防水の靴を探したら3000円くらいで「ラーキンス」っていう聞いたこともないブランドのトレッキングシューズが売ってたので買ってみた

最初の一月くらいは歩くと右足の小指の付け根が激痛になったんだが

なぜか自転車だと全然痛くない

そうこう走行しているうちに馴染んだのか いつの間にか痛くはならなくなった

と 思ったら

靴紐を通す穴のハトメが一つ外れている


裏側の金具が潰れているので 加工に失敗していて自力では治せない

ラーキンスって品質管理が甘いらしい

買ったお店で交換してもらおうと思ったんだが レシートを紛失

そもそも新品に交換したら馴染むまで再び激痛に苦しまなければならない可能性もある

ダイソーとかでハトメなんぞ売ってないかなと思ったら 7ミリ以上のサイズしかなかった

小豆沢のVivaHOMEに行ったら5ミリのハトメが工具込で400円くらいで売っていたんだけど 靴のハトメは4ミリなので微妙にサイズが合わない

一番下の穴なので そんなに応力がかかる部分でもないので とりあえずハトメ無しで使っているけど どうなっちゃうんだろう?

憂鬱



あと 濡れた路面を歩くと「キュポキュポ」と変な音がする

別に靴下に水が染みてくるわけではないので防水に問題はないんだけど 靴底の外側で何か隙間的なものがあって異音がするらしい

なんだかいろいろ切ないわ



Ende;

ペテン師にとってカモを見つけるのは簡単である

2019年07月12日 14時49分28秒 | 意識論関連
例えばである

通り魔被害の遺族や大多数の大衆が通り魔の死刑を望んだからといって

それが通り魔事件の再発防止になるかと言えばならない

その結果 再び通り魔事件の予防措置が採られないことによって 回避可能だった危険性が放置されている責任は誰が取るのであろうか

個人の主観的感覚からすれば 理不尽な通り魔被害に遭えば報復感情による懲罰を望むものであろう

しかし 客観的論理検証性(理性)的に「考え」れば 「自分のような酷い目に遭う人を二度と出して欲しくはない」という要望も出てくるのである

感情の強度程度で行動が決定していれば 「罰で解決だ」ということになるのだが それは被害者や遺族の社会的責任の放棄でもある



人間としての倫理 人間性というものの本質は 「個人が自律的に社会的責任を負うこと」であり これは犯罪被害者であろうと特権的に無責任が許されることにはならない

こうした話が犯罪被害者や遺族にとって精神的に過酷であることは充分承知の上である

だが たとえば原発の危険性放置や内部告発において「精神的に過酷であるから放置しておいても許される」わけではない

通り魔が主観的感情に基づいて身勝手な観念を根拠に無関係な人を殺傷している以上 被害者や遺族だけが一方的に理性的であらねばならぬことは不条理ではある

だが それでも人間性や倫理の本質とは 社会安全性や持続可能性を目的とした論理客観性にしか存在していないのである

実行した通り魔だけを死刑にしても そもそも「なぜ通り魔などという訳の解らぬ行動をするようになったのか?」についての論理客観的原因究明検証が一切されず むしろ通り魔に感覚的に共感共鳴していても「思想信条の自由」の名の下に放置されていたのでは 何度通り魔事件が起きても根本的再発防止には全くならないのである

感覚的な共鳴だけなら人畜無害であるが 感覚という主観は個人的なものに過ぎないとい論理客観性が働いていれば 短絡的に無差別殺傷などという何の意味もない行動を採ることはない

論理客観性というものは 自発性や主体性や能動性に基づく「自律」によって働くものであり 自律が働かないのは個人が自発性主体性能動性に欠けているからこそ自律が働かず 訳のわからぬ非合理的な行動を採るようになるのである

「刑罰判決で解決だ」という判断には 論理客観的合理性がない

何も解決などしていないからである

だから何度も繰り返すことになる

「自分が被害に遭ったから 他人が被害に遭っても知ったことではない」というのであれば それは社会的には無責任である

悪平等というものは 自分の不幸を他人にも撒き散らす選択であり 社会安全性や持続可能性にとっての最大の障害である

私は通り魔や自動車暴走の被害者でも遺族でもないが 向かいに住む小学2年生の子供が通り魔や自動車暴走で亡くなったりすることを想像すれば 罰よりも再発防止を何よりも優先して欲しいと願う

日本では 被害者よりも被害者以外の方が圧倒的多数であるが 通り魔事件の実効性ある再発防止が行われない以上 誰が被害に遭ってもおかしくはないのである

自分が実際に被害に巻き込まれるまで何も対策しなかったのであれば それは「泥縄」であろう



正直言えば どんなに論理的説明をしてもほとんど誰も理解しない現状というのは戦慄しか覚えず 主観的感覚としては「お前ら死ね」とまで「思う」程だが そんな個人的主観には意味がないことを私は知っているので 面倒臭ぇけど説明を繰り返すのみである

本論の目的は社会安全性と持続可能性の向上であって 世間的評価があろうがなかろうがどうでもよろしい

ただ 私も「ヒト」である以上 誰も理解しない話を辛抱強く続けることに苛立ちを「感じる」ものであり どう「思う」かを他人からとやかく言われる筋合いはないし 隠すつもりもない

何も考えていないバカな大多数の大衆の人気取りが目的ではなく 何も考えずに主観的感覚だけで物事を判断している頭の悪さを解消して頂くことが目的である

そのためには 不条理や絶望も客観視する理性が必要である

マイケル:サンデルだのマルクス:ガブリエルだのフリードリヒ:ニーチェだのを哲学だと勘違いしているバカは多い

哲学というのは主観的な「悩み」や「迷い」を解消して満足安心するためにあるのではないし ましてや「自分は頭が良くなった」と勝手に勘違いして傲慢さを発揮するためにあるのでもない

ロダンの彫刻作品「考えるヒト」とは あくまで「地獄について考えている」のである

そもそも「考える」とは 地獄について考えることであり 危険学や失敗学は地獄を取り扱うことで安全性を高めるのである

その場限りに主観的気分を満足させているというのは むしろ地獄や危険を意識から外しているだけであって そんなもんは哲学でも何でもねぇ!

何が「信念は真理の敵」だ 断片的論証だけで真理だと勝手に錯覚して満足しているだけじゃねぇか

主観的気分の満足だけを追求しているから哲学から論理検証性や論理客観的批判精神が抜け落ちることになるのである

それは哲学でも何でもなく ただのペテンだよ



Ende;

なんかの祟り?

2019年07月11日 15時49分18秒 | 日記
パトカーが暴走してビルの壁を破壊した事故があったそうな

だから言ってんじゃん 誰だって過失ミスはやらかすんだって

それとも何かい? 壁壊した警官に懲役刑くらわしたらパトカー暴走に対する再発防止になるんかい?

たまたま人身事故にならなかったから良かったものの 暴走なんだから東池袋状態に陥ってもおかしくはない

もうね いい加減罰で解決した錯覚に陥るのって無責任にも程があるのでやめてくんねぇかな

アクセルとブレーキの踏み間違いなんてのは アクセルとブレーキが隣り合わせで並んで配置されてっから起きるんであって アクセルは左手のレバー式とかにすりゃ踏み間違いなんてのは起きないんだよ

実際足に障害のある運転者は左手アクセルに改造した車輌で車検通ってんだから 健常者が使って問題が起きるってわけじゃなかろうよ

何でそんなに右足でアクセルペダルを踏むことに異常執着するのか 訳がわかんねぇよ

一体何の宗教なんだろうね

どっかの聖典に「アクセルはペダルで踏む形式にしないと死後天罰が下る」とでも書いてあんのかしら

その宗教要る?



 11日朝、東京・新宿区で警視庁のパトカーがガードパイプと接触し、近くのビルに突っ込みました。

 午前7時半ごろ、新宿区高田馬場の早稲田通りでパトロール中の警視庁戸塚警察署のパトカーがガードパイプと接触した後、近くのビルに突っ込みました。この事故でビルの壁が剥がれ落ち、パトカーのバンパー部分も大きく破損しました。警視庁によりますと、ビルの関係者などにけが人はなく、パトカーに乗っていた警察官2人にもけがはありませんでした。現場はJR高田馬場駅から600メートルほどの場所で、住宅や飲食店などが立ち並んでいます。警視庁は運転していた警察官から話を聞くなどして事故の原因を調べています。




Ende;

猫と月と雲

2019年07月09日 23時32分38秒 | 写真
猫寝てる

ゆっくり近付くのがコツ

目が合ったら逸らす

低い姿勢を採ると猫に恐怖心を与えないみたいです

にゃぁ

猫語でも日本語でも話しかけた方が良いらしい

とはいえ野良猫なので個体差があって 全然気にしない子と神経質な子はいます

なので 猫を見つけたらとりあえずカメラを準備してそぉっと近付いてみます



Raspberry Moon




不安定な空




「srand4000」名義でGANREFアカウントとってます

https://ganref.jp/m/srand4000/portfolios/photo_list



Ende;

実証不能の嘘無くしては生きられない程弱いもの

2019年07月05日 14時22分45秒 | 意識論関連
2014年にニュージーランドで虐待連鎖の実証実験が計画されたという それは「虐待があっても無視し 将来子供に虐待が連鎖するかどうかを実証する」というものだったが 当時の大臣が中止させたという

時折 こうした実証主義の暴走というものが起きるのだが

その原因は実証に付随する評価だけが目的になってしまっているからである

それはなぜか? 簡単である 評価承認中毒だからだ

虐待が連鎖することは 既に統計的に実証されているにも関わらず それを実地で検証すれば科学的評価になるはずだという妄念が 実証主義の暴走を招いたのである

評価承認中毒患者というのは 評価されることだけが目的になってしまうため 自律的な社会的責任判断選択能力が著しく欠如することになる

「他人からの評価」だけが動機になってしまっているため 「自律」がないのである

「実験によって再現可能であることが実証されなければ評価されない」とか

「権威による査読がなければ理論として評価されない」といった

まるで役所のような「手続き」ばかりが優先されているからこそ 他人の迷惑も顧みずに評価だけを目的に実証主義は暴走するのである

学会で論文として発表されていなかろうが 権威による査読がなかろうが 論理的に正しいことは真理であることに違いはない

科学や哲学の真理というのは特定の専門家だけの特権ではないのである

ましてや哲学界や生物学界全体の間違いを指摘批判している内容を それらの権威が認める訳がない

なぜなら 権威性を失墜し「飯が喰えなくなるから」である



Ende;

哲学の本質

2019年07月05日 13時16分17秒 | 意識論関連
セーレン:キェルケゴールやジャン:ポール:サルトルやカール:ライムンド:ポパーを読んで気分が良くなったり 「自分の頭が良くなった」ような錯覚に陥ることはない

むしろ 自分の頭の悪さを嫌というほど知らされることになる

それが哲学の本当の姿である

「哲学者」達の多くは「哲学には好き嫌いがあります」などと称して あたかも主観的好き嫌いこそが真理への近道であるかのように促すが これこそが大きな間違いの素である

多くのヒトがマイケル:サンデルの講義を聴いて「自分は頭が良くなった」かのような錯覚に陥り「サンデル先生は素晴らしい」などという主観的感覚(好き嫌い)によって論理検証的批判精神を失い洗脳状態に陥る

フリードリヒ:ニーチェやマルティン:ハイデガーやプラトンには こうした思考停止の中毒症状による洗脳性があるため 多くの大衆から人気を得られるのである

「先天本能習性によって人間としての社会性が立証できるはずだ」などという非科学的オカルト観念を用いて京都大学学長山極寿一や霊長類研究所の松沢哲郎は大衆人気を得たのも 大衆の多くが「自分は先天的に人間性が組み込まれた優秀な生物」だという観念が正常性バイアスにとって都合が良いためである

心理学的には これを「合理化」と呼ぶが 別に科学的な合理的根拠に基づいたものではなく あくまで「主観的気分にとって都合が良いような勝手な解釈」に過ぎない

テロリストがなぜテロリスト集団に同調するのかと言えば テロリストの観念に同調することで主観的気分が良くなるからである

それは ニーチェを読んで気分が良くなり 疑うことを忘れているのと同じである

「ニーチェがナチズムを思想的に支えた」と言われる所以は 主観的感覚を絶対的なものであるかのように錯覚させ 思考停止に陥れるからである

ニーチェなんぞ鵜呑みにしている時点で哲学者としてはポンコツ極まりないデクノボウである

そんな指摘をする「哲学者」なんぞ 今の哲学界にはいないだろ

だから組織腐敗だって言ってんだよ



現状の哲学界からすれば こうした内部告発的批判は「裏切り行為」であり 少数異端でもあるため 差別排除の対象にしかならんだろう

私を差別排除するのは勝手だが その結果真理を見失い 間違った観念や信念に基づいた不毛で有害な因習や体制が温存されていれば 本来回避可能なはずの危険性も放置されることになるのである

だが その責任は私にはない 私には 私に出来ること以上のことをするつもりはない

その結果 誰も理解出来ずに危険性が放置されることで生ずる「人災」の全ては 私の関知する所ではない



Ende;

口に苦し

2019年07月05日 11時32分52秒 | 意識論関連
「信念は、嘘よりも危険な真理の敵である。」

このニーチェの「身勝手な決めつけ」を 誰も論理検証することなく鵜呑みにし その場限りに主観的気分がよくなるような身勝手な「解釈」をでっち上げることを哲学だと勘違いしているバカの 何と多いことか

信念というものが暴走して「実証不能の観念を振り回し 他人に多大な迷惑をかける」ことは多いが だからといって「信念は真理の敵」という短絡的帰結を鵜呑みにすることもまた「実証不能の観念」に過ぎない

何かをわかったような感覚に溺れて 同じ構造で騙されていることには気付かない

まあ 要するに ただのバカなのだが

ヒトがバカに陥る原因は解っている その場限りに主観的気分が良くなる話を鵜呑みにするからである

なぜ気分が良くなる話を鵜呑みに出来るのかと言えば 自分の主観的感覚を完全無欠の絶対的正義だと勘違いしているからである

いわゆる「正常性バイアス」が促すこうした錯覚は 何せ気分が良いため自覚症状がない

それは 振り込め詐欺に騙されているヒト達と同じ構造である

 ◇

バカを治すために必要なのは 自分の頭の悪さを自覚することである

「良薬口に苦し」なのである

私は残念ながらオブラートに包んで苦味を抑えるつもりはない

そういうのは他の人にお任せする

なぜって?

バカバカしくて面倒臭ぇからだよ



Ende;

牛の耳

2019年07月05日 10時52分02秒 | 意識論関連
ヒトは今まで実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけてきた

「信念」というものは論理的根拠を伴わなければ「実証不能の観念」だが

客観的で統合的な観点を持っていれば「信念」は人間性を持つものでもある

フリードリヒ:ニーチェのように「信念の全ては真理の敵だ」などという短絡的で安易な話の方が バカにとっては人気が得られ易い

ナチスの信念は迷惑だが多数人気は得られた

しかし ヴァルター:ベンヤミンの信念は「裏切り者」「反逆者」として差別排除された



地動説を唱えたガリレオ:ガリレイを火炙りにしようとしたヒト達は 天動説こそが正しいという「信念」に基づいて真理を燃やそうとしたのである

「実証不能の神無くしては バカな大衆から金が集められずに飯が喰えず 生きてゆけない」などというクソみたいな話が一番要らないのである

地動説を燃やさなければならなかった理由とは いままで天動説を唱えてきた集団組織体制にとって 多数大衆からの信頼を得られなくなるという恐怖心からである

 ◇

現状の「哲学者」達は 危険学者 畑村洋太郎の提唱する「個人が自律的に社会的責任を負うこと」という倫理の本質を「なかったこと」にしようとしている

こうした「過ち」を繰り返す原因とは 従来の体制に対する観念的信頼性を失うことへの恐怖心に因るものであり 

他人から見た 外見上の同一性を維持することで 多数大衆からの観念的信頼性を維持するための「嘘」なのである

外見上の観念的信頼性が優先してしまうのは 要するに評価承認欲求が優先しているからであって そこに自発性に伴う自律的判断は「なかったこと」にされてしまうのである

倫理の本質が国会原発事故調査委員会報告書に書かれていることに気付かなかった頭の悪さを隠蔽黙殺することで 権威性という既得権益の維持を優先し 真理を闇に葬ろうとしているのである

倫理哲学者であれば 本来マイケル:サンデルやマルクス:ガブリエルやジャレド:ダイアモンドなどの生物学者達の間違いを指摘できなければならないが

そんな奴いねぇだろ

哲学界全体が無能なバカ権威者で牛耳られてるからだよ



Ende;

真理の敵

2019年07月04日 23時12分52秒 | 意識論関連
「信念は嘘よりも危険な真理の敵である。(フリードリヒ:ニーチェ)」

信念とは何かと言えば 主観的に「信じたい事柄」のことであろう

テロリストや独裁国家において 度々間違った信念に基づいた暴走があったのは確かであるが

だがしかし ガリレオが火炙りにされかけながらも「それでも地球は回っている」と述べたことも信念に基づくものである

ニーチェは信念を観念的に忌避するあまり 個人の信念に論理的根拠があるのかどうかに関わらず 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけたのである

これもまた ニーチェによる「論理的根拠のない信念」に過ぎない

ヴァルター:ベンヤミンが自らの命と引き換えにしてまでナチスに反対したことも信念である

それすらも「真理の敵」だと言えるであろうか

重要なのは 信念というものに客観性のある合理的根拠が伴うのかどうかであり 信念の全てを「真理の敵」だと決めつけることによって 誰も主体的に客観性のある合理的根拠についての検証を行わなくなることの方が 余程「真理の敵」である

主体的に客観性のある論理検証を行うには 信念とも言える探究心が必要である

何の信念も持たずに 何が正しいのか一切論理検証しない傍観者に真理など見えるわけがないのである



ゾロアスター教自体の「根拠のない信念」に気付かない頭の悪さの原因は 観念的猜疑心と 論理客観的批判精神の区別がつかないからである

「ニーチェを盲目的に信じている」という「信念」こそが ニーチェに対する批判精神を喪失し あたかも「自分は頭が良くなった」かのような錯覚に酔いしれているから 真理も何も見えなくなるのである



何が真理なのかを探求する信念のようなものも持たず その場限りに主観的気分が良くなるような話を盲目的に信じ込んでいれば ヒトの多くは満足である

それもまた ニヒリズム(思考停止)の一形態である

言われてみれば誰もが理解可能な話でありながら 言われるまで自発的に気付かない頭の悪さを認識すべきである

それはさぞかし主観的気分の悪い話であろうが その主観自体が自己選択不可能な先天的シーケンスに過ぎないのである



哲学というものは それによって主観的気分が良くなることが目的ではない

「主観的気分が良くなること」は 決して「論理的根拠に基づいた真理」ではないからだ

真理と主観的気分の区別がつかないというのは 自分の主観を絶対的なものだと錯覚していることを意味し もはや脳が壊れているとしか言いようがない

自分の主観を絶対的なものだと勘違いしていれば 600万のユダヤ人を毒ガスで殺害することも 原発の津波に対する脆弱性を放置することも簡単である

こうしたことのいちいちも 説明しないと気付かない頭の悪さは ヒトの先天的な思考バイアスに起因するものである



Ende;