書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

○意識。

2019年03月31日 14時04分46秒 | 意識論関連
ポーランドにあったナチスのユダヤ人絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは600万人のユダヤ人を効率的に殺害するための計画書を作成した

ナチス政権下においてはユダヤ人殺害は評価になった

他人からの評価を目的にしていれば 自律的/主体的には物事を判断することをしなくなる

他人の評価基準が本当に正しいのかどうかを判断するのは 結局は自分であって これを多数や権威(多数承認)に丸投げしているから人間性を喪失するのである

ヒトは哺乳類であるため 産まれてくれば初期的に「子」である

「子」とは何かというと 「親」に服従する存在という意味であり この服従性は哺乳類の先天的な本能習性であり 条件反射的な無意識行動バイアスとして働くため 結果的に封建的な統率協調性においても機能する

統率協調性に基づく役割分担を 生物学においては「社会性」と呼び これを短絡的に人間性の一部であるかのような解釈の仕方を長年してきたが 統率協調性というのは必ずしも人間性を伴うわけではなく ヤクザや特殊詐欺集団やテロリストにおいても発揮されるものである

軍隊とは ヒトの先天的な統率協調性を利用した集団組織であり 統率協調性を発揮させるためには階級順位序列への価値観を「学習」させることで盲目的に上官の命令に服従するよう「訓練」するのである

ここにおける「学習」とは AIの深層学習と同じものであり 論理的に物事を考えることなく 単なる区別分類として無意識下に刷り込み「学習」させているに過ぎず 主体的自律判断力を喪失させるものでもある

「ネコ」か「イヌ」かを分類するように 「服従対象」か「そうでないか」を分類するだけであって 服従対象と見なした相手の命令に人間性が伴っているかどうかの自律的判断力は後回しにすることで盲目的に服従するよう順位序列意識を植え付け「学習」するのである

「順位序列意識」とは言っても これは無意識であって意識ではない

一般に「○○意識」と呼ばれるもののほとんど全ては意識ではなく むしろ「○○」という特定の価値観に基づいた無意識のことを「○○意識」と形容しているに過ぎない

本当の意識の本質とは 特定の価値観に拠らない自発的論理検証性であって むしろ特定の「○○意識」に左右されることのない現在時点における選択可能性のことを指すのである

特定の服従対象に盲目的服従をする「序列意識」というものは 現在時点においては選択不可能性の原因となるものであって 疑問も持たなければ自発的に論理検証することもしなくなる思考停止しか促すことはない

「○○意識」と一般的に形容されているもののほとんど全ては 「○○感情」と形容すべきであって 既存の価値観を刷り込み学習することによって主体的な論理検証に基づく行動選択を阻害するものである



自己の脳に刷り込み「学習」されたあらゆる価値観は思考停止による錯覚を促す

観念的恐怖心を論理的危険性と錯覚し 観念的安心満足を論理的安全性と錯覚させるのは 自己の内部における既存のあらゆる価値観が作り出す無意識な行動バイアスである

既存のあらゆる価値観に執着(中毒)することなく自発的主体的に論理検証することによって 錯覚が促す無意識な行動バイアスに無為に流されるという頭の悪さ(愚痴)から脱することが出来るのである

執着とか愚痴などという仏教用語を用いてしまうと宗教的洗脳か何かと勘違い錯覚を促し 観念的拒絶反応を示す者もいるかも知れないが 釈迦の発想というのは科学分析的な要素が含まれているため利用価値が広いために用いている

特定の価値観への執着心というものは ドーパミンの持つ常習性によって作り出されるものであり 常習性とはすなはち中毒であり これが執着心としてヒトの行動に顕れるのである



国際的経済競争というチキンレースのために危険な原発稼働を正当化することは合理的とは言えず そもそも「経済(世を経て民を救済する)」としての主旨を逸脱している

ヒトの多くは合理性というと短絡的に金銭的価値観を絶対基準だと錯覚しがちであり 民事訴訟では金額を基準に争うことしか出来ず 社会制度上の問題については議論することすら出来ない 故に「要は金目でしょ」などという発想が出てくることにもなる

犯罪者に懲罰を与えて満足してしまうことにより 犯罪というものの構造原理に対する論理科学的分析を放棄して「解決」にしているからこそ 似たような犯罪が何度も繰り返すことになるのである



執着は分類を作り出す

「服従対象」か「そうでないか」の分類も 価値観序列意識という無意識が促す行動バイアスであり 錯覚の源でもある

イヌは訓練次第では非常に従順に服従するようにもなるが 逆に手順に従った訓練を怠りイヌの自主性や主体性のようなものを尊重すると イヌは先天的本能が求める服従対象を見失い欲求不満に陥り狂暴になる

イヌの脳に自主性や主体性はないのだが ヒトはどうしてもイヌを擬人化してしまい 自主性や主体的意識があるものだと錯覚することでイヌの訓練を怠ってしまう原因となる

では ヒトの場合も先天的に服従対象を求める習性があるのならば「訓練」によって盲目性を発揮させ 自律的には何も考えない従順さを発揮させておけば良いのかと言えば これは大間違いである

あらゆる「人災」とは ヒトが自律的に社会的責任を負わないことで生ずるものであり 人格や人間性や倫理は自発的論理検証性という本質的な意識によって発揮されるのである



現在時点における選択可能性が意識の機能であり 既に存在している自己の中にあるあらゆる価値観 特定可能な「○○意識」に惑わされることのない純粋な主体性に基づいた論理検証性こそが人間性として働くのである

主観的価値観としての趣味がペドフィリアでも構わない 妄想の中だけで幼女に何を求めても実害がなければ人間性には関係がないからだ

他人の迷惑を考えなくなることが犯罪などの「人災」の原因であって 他人の痛みや苦しみを認識出来なくなるのは 自分自身の痛みや苦しみを忘れてしまっているからである

自己自身で熱中出来る純粋行為が何なのかを知らないからこそ 自分の感覚が失われ 結果的に他人の感覚にも配慮が及ばなくなるのである

自律とは自発の中にあり他にはない

他律とは多数派迎合や同調性に過ぎず フロイトの言う「超自我」というのは無意識な多数派からの精神的抑圧のことを指しているだけであって これは人間性の源である自律とは全く別のものである

ヒトの多くは人間性というものがヒトという種の生物には先天的に組み込まれていると「思いたい」らしいのだが その「思いたい」という欲求は実証不能な妄想錯覚に基づく身勝手な願望に過ぎない

「神がいないのであれば 何をしても許される」という旧約聖書の幼稚な屁理屈が真であるならば 「神がいさえすれば 世の中からあらゆる人災は無くなる」はずである

社会安全性を求めているのは神ではなく ヒトである

神は関係がない

ヒトの多くが「理性や人知を超越した実証不能の謎の叡智」などという身勝手な妄想を鵜呑みに出来るのも ヒトの意識以外の何かによって自動的(自然)に人間性が発揮される優秀な生物種であるという身勝手な錯覚に基づいたものである

ヒトはバカでいた方が気分が良い

バカ同士で統率協調的に差別排除でもしていれば ヒトは満足するのである



ヒトは誰しも自らの意思でこの世に産まれてきた者はいない

自己の遺伝子は自己では選択不可能なものであり 自己の脳の構造もまた然りである

そして自己の成育環境である社会や時代も自己選択不可能なものであり 環境から刷り込み学習されたあらゆる価値観も自己選択が介在する余地はない

しかし ヒトには客観的論理検証性が存在し 客観的事実を見極める能力もある

それが意識の本質である



Ende;
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○へんないきもの。

2019年03月29日 22時07分10秒 | 意識論関連
NHK Eテレで「植物に学ぶ生存戦略」っていう若干おバカな番組があって

個人的にはシュールで嫌いじゃないんだけど

遺伝的進化に目的意図に基づいた「生存戦略」なんてものは存在しないけどね

一応言っておくけど 遺伝的進化に「特定の目的関数」のようなものは存在しないから

「○○のために進化した」何て概念はバカな生物学研究者の非科学的妄想錯覚でしかないからな

何せ今まで本気にしてたバカばっかりだったから

言わずにゃいられないわ

ジジイなのに老婆心が治まらないわ



「ざんねんないきもの」も嫌いじゃないのよ

ただ 早川いくをの「へんないきもの」のパクりではあるのよね



Ende;
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○人間性は自動化されていない。

2019年03月29日 11時29分12秒 | 意識論関連
AI研究者の松尾豊が「生物の遺伝的進化に特定の目的関数はありませんよね」という問いに対し

生物学者の遠藤秀紀は素直に認めている

「特定の目的関数」なんて言い回しをすると 一般人には内容が難解風味に聞こえるかも知れないが 要するに「遺伝的進化には目的なんぞない」という意味である

にも関わらず 相変わらず「生存のために進化した」という言い回しをするバカ生物学者が居なくならない



変異による形質変化が環境に適応した個体種だけが結果的に生き残る これが遺伝的進化であり 変異には目的がない

そもそもである 配偶交配というのは雌雄の遺伝子をランダムに混ぜ合わせることで変異を促すメカニズムであって

変異こそが生存にとって必要だった性質なのであり

それなら「種の保存」という概念は最初から成立していないのである

たとえクローンニングによって自己の遺伝子を複製した個体を製造したところで 遺伝子が同じというだけで複製個体は自己とは全く違うものである

一卵性双生児が時間的遅延をおいて成長したところで 個人の幸福や目的には意味を全く為さない

それなら配偶交配による子供を残したところで同じことである

「自己の遺伝子を残すことが目的だ」などという話は フランシス:ゴルトンの優生学レベルのオカルト観念に過ぎない



タレントの千秋が「優秀な遺伝子を選べた」などと言っていたが それはオカルト観念に過ぎない

自分の行動選択を事後正当化するための屁理屈を述べたところで むしろ頭の悪さを露呈しているだけなのである

言い訳 言い逃れ はぐらかし ごまかし 取り繕い の類いというのは 恥ずかしいという感情から反射的に出てくる無意識なものであり 寝言レベルのしょうもない話に過ぎない



私も中野ブロードウェイと中野サンプラザを間違えた時に やはり取り繕いみたいなことを呟いたことがあるが 全くもってバカ丸出しであった

ヒトは反射的無意識に行動や言動をしてしまうことがある

それは主観的な感覚が促す動物的なバイアスであって 客観的な論理的根拠があるわけではない

主観的感覚 動物的行動バイアスというのは 進化の過程で結果的に残された性質に過ぎず そこに「特定の目的関数」のようなものが介在する余地はない

遺伝的進化というのは あくまで「死ななかった」だけであって 必ずしも最適化に到達していることが論理的に証明されているわけではない

「個体の生存価」だけを目的にしてしまえば 環境を喰い尽くして結果的に自滅を招くことにもなるわけで あくまで環境適応なくして個体の生存も成立しないのである

狂暴な肉食動物だけが大量繁殖しても 食べられる草食動物も充分に存在していなければ環境ごと自滅することになる

食物連鎖のピラミッド全体のバランスが取れた場合にのみ 環境が維持されるのであって 個体の能力が生存にとって最適である必要性は むしろないのだ



自然環境下では生存競争というものが働くことで 非常に逃げ足の速い草食動物への進化などが生ずるが

ヒトの場合は工夫によって過酷な自然環境を改変するようになったことで 自然界の過酷な淘汰圧力から逃れることが出来たため 遺伝的進化が促されなくなったのである

ところが ヒトであっても所詮は元々野生動物であったため 先天的本能習性として生存競争への執着(中毒)から逃れることが出来ず 相変わらず他人を蹴落としてまで利己的行動選択をしたがるバカが後を絶たない

自然環境下においては利己的であろうが何だろうが 「死ななければ生存」ではあるのだが ヒトの社会においては利己的行動選択は環境を喰い尽くす暴走破綻にしかならない

つまり ヒトの先天的本能習性というのは あくまで「結果」であって そこに「特定の目的関数」のようなものは存在していない以上 人間としての目的である安全性や持続可能性の追求というものは本能習性から自動的に出てくるような都合の良いものではないのである



Ende;
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○カルト哲学。

2019年03月28日 12時13分08秒 | 意識論関連
小林康夫(東大名誉教授)は共感性を人間性だと錯覚しているが

多数派同調迎合性が人間性に反する行動を促す例はいくらでもある

振り込め詐欺集団が統率協調性を発揮するのも共感性によるものであり

ISILなどのテロリスト集団も同じである

感覚的な共感というのは気分的安心をも得られるため これを短絡的に「人間性」だと勝手に勘違いしているに過ぎない

何せ先天的な本能習性レベルに組み込まれた行動バイアスであるため 統率的協調性に快楽を感じるのは当然とも言えるものである

感覚的に共感していれば 気分的には安心満足感が得られるのだが それは論理客観的な安全性の論証にもならなければ付随する人間性の論証にもならない

気分的に安心満足して原発を暴走させたり 軽トラ転覆させたりして人間性もスッタクレもあったものではないからだ



大体において哲学者と呼ばれる奴らは 目先の気分感覚的な安心満足感を短絡的に人間性や安全性だと錯覚しており 全く持って論理客観的検証に基づく「考え」が成立していない

だからこそマルクス:ガブリエルのようなオカルト観念が哲学界で人気になるのであって もはや哲学としての社会的責任を一切果たしていないのである

「思って」いることの強度程度をどんなに主張しても それは大多数の大衆のご機嫌取りにはなっても 論理客観的な「考え」に基づく論証には一切ならない

「思い」だの「感覚」だのを優先しているから錯覚を錯覚だと認識出来ないのであって 現在の哲学界は養老孟司のオカルト性や生物進化万能論に迎合するだけで 何ら論理的検証を一切していないのである

マスコミ関係者の大半も同様であり 目先の気分的安心に溺れ 虜になり 責任意識が全く働いていないのである



大衆マスコミにとっては養老孟司はさぞかし「面白い」のであろう

だが そうした「感覚」に意識を奪われ 論理客観的な検証も一切せずに鵜呑みにしているのは ただのバカとしか言いようがない

養老は「感覚こそが人間性」の源であるかのように誘導するが それこそが養老の罠である

「ヒトを騙そうとする者にとって カモを見つけるのは簡単である」(マキアベリ)

気分の悪い話をすると 悪人だと感覚的には「思う」のであろうが

本当に嘘をつく奴というのは 騙している相手が気分良くなるようなことしか言わないのである

詐欺被害者は 電話の相手の言葉遣いが丁寧なだけで「本当に警察官だと思った まさか詐欺師だとは思わなかった」と言う

その「感覚」というのは 先天的なヒト由来の動物的意識レベルの主体性のない無意識なのである

「信じたくない」かどうかは私の知ったことではない

それこそが主観的好き嫌いの範疇であって 論理客観性を欠いてしまう原因だからである

カルト宗教の信者が 「お前の信じている教祖はキチガイだぞ」と言われて「信じたくない」と「感覚的」に「思う」ことに意味がないのと同じことである

ヒトのカルト性というのは ヒトという種の生物に先天的に組み込まれた錯覚によって促される欠陥が作り出すものであり

だからこそ哲学という論理客観性が必要なのだが小林康夫みたいなオカルトジジイが哲学者として扱われていること自体が異常なのである

科学や哲学は多数決ではない

あくまで論理客観的論証に拠るべき真理 「本当の事」に基づいているからこそ 社会安全性に寄与出来るのである



Ende;
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○写真。

2019年03月27日 14時22分27秒 | 写真
ユキヤナギ


3月25日の晴天にPLフィルター使ったら

効き過ぎで夜桜みたいになっちゃった

本当はこの色


北区豊島の団地にあるバスターミナル的なもの


豊島橋(隅田川)から王子方向


河津桜


EF81 139 EF65 1104 田端


構内踏切


何やらゴツい車輛が

バラスト(線路の敷砂利)交換する車輌かな?

北赤羽付近から 川口


足立区立図書館から 北千住


千住新橋


猫饅頭








Ende;
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○盲目性。

2019年03月27日 13時15分20秒 | 意識論関連
先天的な本能として封建的社会形成によって統率的な協調性を発揮する習性というものには倫理や人間性が伴わないと言い出したのも私のはずなのよ

私の知る限りでは 私以前に言い出した奴なんて聞いたことないもの

生物学者達は自分達がそこに気付かなかったもんだから 松沢哲郎みたいに「先天的本能習性から人間性を立証」などという構造原理的に不可能な「嘘」で取り繕ったわけよ

そして その嘘を鵜呑みにして垂れ流し「出来たら素晴らしいですね」などと形容したのがマスコミ

哲学界は「理性や人知を超越した実証不能の謎の英知」などという訳の解らぬオカルト話で満足している始末

バカ過ぎて「もうどうにもならん」ともらすしかないわ

何かこう 「チンパンジー相手にJava Script教えている」ような徒労感

「出来なさそう」感がハンパないわ

フリードリヒ:ニーチェが言うには「出来そうにないことは やらない方が良い」っつうんだけど

それじゃ東電社内で原発の津波に対する脆弱性を主張することも「やらない方が良い」って話になるんだよ

それはただの無責任です

ヒトは無責任になれる「名言」を好むのよ

無責任でいられれば 自主的自発的に精密論理検証判断なんぞしなくて済むと勝手に勘違い出来るからね

無責任な方が脳が楽をできる

だから「先天的に人間性が組み込まれている」だとか「自由意思など妄想だ」「感覚の方に人間性がある」なんて話を鵜呑みにしたがる



「錯覚によって真実を見失う」っていう話が定説になりはじめたら 養老孟司は「意識に主体性があるなどと思う方が錯覚」などと言い出し それをバカなマスコミは鵜呑みにする

あのね 錯覚ってのは感覚という無意識の産物であって 錯覚を錯覚だと認識するのは主体的意識である理性の方にあるのよ

何でこんなしょうもない説明せにゃアカンのか

理解してないんだろうな

だから「感覚の方に人間性がある」何て話を鵜呑みにし 「自分の感覚の方に人間性が存在しているから 何も考えなくても良いんだ」的な身勝手な解釈で満足し 思考を停止させる

考えが薄っぺらなのは 思考が「蒸留」されちゃってて ほとんど条件反射的「感覚」だけで物事を判断しているからだよ

機械制御でカルノー図を書いてシーケンス回路を組むと 一見複雑なように見える動作であっても簡単な回路だけで実現することが出来る

シーケンス回路の場合は計算で回路を単純化させるんだけど AIの場合回路の単純化は自動的に行われ これをAI界隈では「蒸留」って呼んでいるそうな

条件反射っていうのは機械的シーケンス動作と一緒で これが主体性のない無意識な判断選択を促すわけよ

「東京大学名誉教授」なんて肩書があって 著作が何百万部も売れたりして しかもマスコミ関係者や哲学者やバカな理工系研究者まで信じ込んでいれば 「普通の人」なら簡単に「養老孟司は嘘なんか言わない」と「思う」んだろうね

その「思う」っていう「感覚」が間違っているなんて 夢にも「思わ」ないんだろうね

その どこにも主体的論理検証性なんぞ存在してないんだけどね

それを「意識がない」って言っているのよ

カルト宗教で洗脳されている信者達の盲目性と構造的には同じもの



Ende;
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○面倒臭い。

2019年03月26日 15時44分53秒 | 意識論関連
Wikipediaで「任侠」を調べてみると

任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけ ず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。

と書いてありました

映画で描かれるヤクザは任侠精神に富んだ人物として描かれますが これは映画制作者や脚本家が 「ヤクザはカッコイイ存在なので 人格にも優れた人物として描きたい」という 主観的で勝手な妄想に基づいてでっちあげたお伽話でしかありません

夜の9時頃から2~3時間の枠で放送されるサスペンスドラマの類でも 殺人犯は復讐のために繁雑でややこしいトリックを用いてアリバイ工作をしていたりしますが

実際の殺人犯が巧妙で複雑なトリックなんぞ考えて殺人をやった例などほとんど皆無なんですね

巧妙で複雑なトリックを考えられるだけの理性があれば 殺人による復讐より もっと合理的で建設的な再発防止のための社会運動や取り組みをするものです

本当の殺人犯というのは 「ムシャクシャしたから」だとか「腹が立ったから」などといった非常に短絡的で「本当につまらない理由」しか出て来ません

でも ミステリーやサスペンスドラマに登場する殺人犯の動機が「ムシャクシャしたから殺した」では話がどうにもつまらないので 何か尊大風味な復讐劇を描いてエンターテイメント妄想をでっちあげているだけなんですね

それと同じで任侠ものの映画も 本物のバカなヤクザをリアルに描いても「かっこよく」もなければ人間として感情移入も出来ないので 大衆観念にとって都合よく感情移入しやすい「カッコイイ」人格をでっちあげたエンターテイメント妄想に過ぎないのです



ヒトという種の生物の脳には 様々な錯覚が生じることがあります

見た目がヤクザ風味の人物が 話をしたら意外と普通だった場合に必要以上に「良い人だ」と錯覚するゲイン効果や

異性と一緒に恐怖体験をすると恋愛時と似たような脳内物質が分泌されるために 異性を好きになってしまう吊橋効果など

感覚が促す錯覚によって行動を大きく左右されてしまうことも少なくありません

暴力的DV男に引っ掛かる女も 暴力性の恐怖が促す脳内物質が促す錯覚が DV男への異常執着へと促しているのかも知れません

ヒトは 主観的感覚が促す錯覚を 論理客観的に検証出来ないと 簡単に意味のない危険な行動でも採るようになってしまうことも少なくありません

学力成績偏差値の極端に高い子供が出てくると 多くのヒトは「とても頭が良いので 将来はノーベル賞も取れる優秀な研究者になれるはずだ」などと勝手に妄想しますが 残念ながら学力偏差値というのは認知科学的には無関係であることが言われており 実際学年を飛び級するような学力偏差値の極端に高い子供は大人になると意外と「普通の人」になっていることがほとんどであり 「学力成績=知能」という方程式は多数の大衆が勝手にでっちあげた妄想錯覚でしかないのです

知識の「量」さえ豊富であれば 大衆観念的には「頭が良い」という「感覚」を持ってしまいがちですが これもまた錯覚に過ぎません

ですからクイズの正解率を競うだけで「東大王」などと奉り上げたがるわけですが もちろんこれも科学的にも統計的にも認知科学的にも何の根拠もない ただの大衆観念上のフィクション妄想でしかありません

どんなに既存の知識の「量」があっても 知っている内容に論理的誤謬(ごびゅう)が存在していることに気付かなければ本質的には知能ではなく ノーベル賞になるような科学的業績にも原理的になりません

間違ったことを教えられて 何ら自発的論理客観的検証も出来ないのであれば 誰からも教えられていない新しい事実には全く気付かない事を意味します



養老は 「個性なんぞ精神病患者が糞で自分の名前を壁に書くのと一緒だ」などと称して 「個性の全ては意味がない」かのように言い張ります

ところがどっこい 養老の言っているトンチンカンな話に関しては 「個性的」などと鵜呑みにし 主観的に「面白い」と称してあたかも意味のある画期的な内容であるかのように錯覚したがります

要するに大衆やマスコミは誰一人として客観的論理検証なんぞしていないんですね

誰も理解なんぞしていない

その場限りに主観的に「面白い」かどうかだけを基準に取り上げたがる

そして それを無責任だとも「思って」いない

身体の個性 動物的な個性というのは危険で迷惑なものもあります しかし 危険で迷惑かどうかを客観的に検証するのは自律であり 主体性なくして働くことはありません

自己の個性を客観的に認識し どのように社会の中で発揮すれば安全性を保てるのか それを「考え」るのは主体性であり理性です

感情でもなければ主観でもなく あくまで論理的客観性によって統合的に検証することで人間性として機能するのであって 多数大衆にウケの良い話で人気取りをして金儲けに成功することが人間性の論証ではないのです

養老は言葉巧みに雑な屁理屈を持ちだして「主体性など錯覚だ」などと言い出し 大衆マスコミや バカな理工系研究者まで騙します



「主体性」と言うと あたかも感情の程度強度に起因する行動バイアスまで含まれると 一般人は「思う」でしょう

いやね その「思い」こそが錯覚であり 感覚が促すバイアスでしかないんですよ

本当の主体性 人間としての主体性というのは 論理客観的に自己の気分感情をも制御して初めて「自律」も発揮されるのであって 気分感情が行動と直結してたらイヌやネコやサルと一緒なんですよ

面倒臭いですか?

もっと簡単に人間性を発揮出来るようになっていたら良いと思いますか?

自分で自分の感情を客観視するなんていうややこしい事は スルーしたいですか?

それなら東京電力福島第一原発の津波に対する脆弱性放置についても 誰もとかやく言える立場にないんですよ



皆さんは 通り魔やテロは主体性だと「思って」いるのでしょうか?

通り魔やテロリストというのは 主観的感情論の短絡的暴走であり 自律的な自己制御が出来ないヒト達の典型的行動結果であって 彼らには本質的な人間としての主体性はありません

テロリストや通り魔の主張に良くみられるのが 「社会が悪い」という茫漠とした怨念です

具体的に社会のどこが どう悪いのかを論理的に説明することもなければ 当然実効性のある改善案も提案せずに 短絡的に暴力的破壊で「解決だ」と錯覚しているに過ぎないのです

こうした錯覚は 主観的感覚の産物であり 「懲罰で解決だ」という感覚が促す錯覚が根源にあるのです

ヒトの脳は「懲罰を解決だ」と錯覚する性質が普遍的に見られます

だから刑法罰という合理性のない制度が何百年も続いている

犯罪者が どのような構造によって社会的責任判断力を獲得出来なかったのかについての論理的原因分析を一切行わずに 罰を与えて気分的抑圧感だけを唯一最大の「抑止力」だと勘違いしている

女子中学生監禁事件の寺内樺風は 自分の行いを「美術品を盗むよりは悪いことではないと思っていた」などと言いました

もう この時点で 「犯罪は罰とのトレード関係であって 自己の欲望を満たすためには罰を甘んじて受けることも致し方ないものである」という発想に基づいているわけです

イカレてるんですよ

だから刑務所に9年くらいぶち込んでも治らない

治る合理的根拠が何もない

罰が更正治療になると「思って」いるのは 常人の発想であって イカレた奴には通用しない

だから再犯率が48%にも達する

死刑が抑止力になると「思う」のも 常人の発想であって 通り魔を死刑にしても 通り魔事件って何度も繰り返すんですよ だって自暴自棄なんですから彼らにとって死刑は「願ったり叶ったり」になってしまっている

本当に 本気で犯罪の再発防止をしたいのであれば なぜ脳がイカレちまったのかを論理的に分析して再発防止策に繋げなければならない

養育環境や交友関係 先天的行動バイアスの傾向 様々な要因を分析して犯罪者に共通する「脳がイカレちまう原因」について徹底的に分析する必要性がある

大衆観念上では 「犯罪者は親も悪い」と見なして犯罪者の家族に対してまでも私的な懲罰として社会的排除差別をすることが赦されると思っている

何たって国家権力が罰を解決と見なしている訳ですから 何も考えないバカならそういう発想になってもおかしくはない

そもそも 「どういう育て方をしたら犯罪者になってしまうのか」についての具体的知識教訓もないのに 犯罪者の親を悪者扱いすることには合理性もスッタクレもありません

親っていうのは全員初心者ですから 間違いが起きても仕方ないものであり そもそもヒトの全ては人生の初心者なのであって 過去の具体的知識教訓を知ることによって 同じ間違いに陥らないようにすることが重要なわけです

犯罪者を罰しようとした民衆をキリストが止めに入り 「もしこの者に罰を与えるというのであれば 産まれてこの方 一切の罪を犯したことのない者が罰すればよろしい」と言うと 誰も前に出てこなかったそうです

聖書の逸話ですから実話かどうかは知りませんけど 産まれてこの方一切の過失を経験していない奴なんかいるわけないんですね

「ヒトは間違える」ことを前提にすれば 論理的に罰は解決にはならないんですよ

ヒトは罪を犯すと悔やんだり落ち込んだり凹んだりしますけど それは気分的な後悔でしかなく 具体性のある論理的再発防止策にはなりません

犯罪者が気分的に後悔していないからといって 罰を用いて強制的に後悔させても同じことです

気分的な後悔とか反省が再発防止策になると「思って」いる感覚こそが錯覚なんですよ



ヒトの多くは間違えています

マスコミ関係者の多くは まさか「養老孟司が非科学的オカルト観念に基づいた嘘を言っている」ことなど夢にも「思って」いないのでしょう

言っておきますが マルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」なんて話がオカルトだとは 私以外誰も言ってないんですよ

それでも「自分は洗脳されていない」と言い張るおつもりか?

自分では気付かなかったことは「俺のせいじゃねぇ」と言い張るおつもりか?



マスコミはオカルトだろうが何だろうが とにかく多数から話題になっている内容なら垂れ流して構わないと思っている

もし間違っていたとしても 「メディアリテラシー」と称して判断は視聴者に丸投げしている



AI研究者の間で言われている「蒸留」という概念がありますが

要は効率的に高速化された無意識な条件反射性に落としこまれた状態だと言えます

無意識は感覚を生み出します

感覚っていうのは 要するに理論的に説明出来ないものを指しているわけですね

老練な将棋の棋士が感覚的に将棋を指すからといって 短絡的に「感覚こそが常に正しい」などという話にはどう考えたってなるわきゃない

将棋のド素人が感覚的に将棋指したって どうにもなりゃしないんですから

錯視というのは 視覚認識能力に生じた欠陥で これが原因で見通しの良い水田のど真ん中の交差点で衝突事故が起きたりすることもある

錯視による誤解というのは AIでも再現可能なものだそうで 視覚認識能力を獲得する過程で避けることが出来ないもののようです

「蒸留」によって高速化効率化された認識能力による「感覚」には 錯覚が含まれる危険性が避けられない

「だろう運転」が良くないのは 「大丈夫だろう」という「感覚」には論理的安全性の根拠がないからです

危険学や失敗学でも「感覚」を優先することはありません

徹底的に理論的分析を行って再発防止策を構築する それが一番安全だからです

厚生労働省の医薬品認可が非常に難しいのも 安全性を優先しているからです

「どうせ津波なんぞ来ないだろう」運転をしたからこそ あの重大事故に発展したんですよ

「まさか養老孟司は嘘なんかついてないだろう」で鵜呑みにしていれば 何が起きてもおかしくはありませんよ




あ あれ?

Twitterへのコメント機能がなくなっちゃったのかよ!

あ 文字数制限がなくなったから全文載るのかぁ

ちょっとビックリ



Ende;
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○赤ちゃんの靴の落とし物。

2019年03月25日 11時49分02秒 | 日記


マルエツ浮間舟渡店のフェンスにくっついていた



 ついでに追記:日清食品の「お椀で食べるカップヌードル」っての買ったんだけど



一食32gのちょうミニサイズだった






Ende;
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○破綻回避策。

2019年03月24日 14時20分50秒 | 意識論関連
養老孟司は「意識に意味はない」とか「意識に主体性があるのは錯覚」だと言います

ヒトの意識の大半は無意識であり 無意識に主体的選択可能性が存在しないことは確かですが

そもそも主体性がないから無意識って言うんですよ

意識の全てが無意識なわけではありませんし 主体的論理客観性が存在しないことの科学的論証にもなりません



ヒトの多くは 自分の頭の悪さを認識することを嫌いますから あたかも「自分は先天的に遺伝子レベルから優秀な存在なので 意識的に物事を考えたり主体的に選択しなくても 無意識な感覚だけで倫理や人間性を発揮出来るはずだ」という文科系大衆観念的妄想錯覚にとって都合の良い話ばかりを鵜呑みにし そういう話をする奴に対して盲目的に信頼するようになります

ヒトという種の生物には 嘘や暴力といった非人間性と 倫理的人間性の両面があります

決して「どちらか一方しかない」という話ではないのです

また 「ヒトには先天的に人間性や倫理が組み込まれている」と決め付けたところで 嘘や暴力性の論理的反証にもなりません

哲学者や生物学者達が先天的人間性を主張したがるのは それを主張しておくと論理科学的に検証することが苦手なバカな大衆から人気を得られて金が儲かるからです

なぜ人気が得られるのかは既に述べましたが 「自分で主体的に物事を考えなくても 無意識自動的条件反射的に人間性を発揮出来る優秀な遺伝子を持っているんだ」という 訳のわからぬ謎の能力が存在していると妄想錯覚出来るからです

ホセ:オルテガ:イ:ガセットなどの保守主義者達は 本気で「理性や人知を超越した謎の英知」などという実証不能の観念に基づいて 「手続き」だの「伝統」だの「経験則」だのを盲目的に信頼しており それは感覚的安心感を得られるからであって 論理客観的根拠に基づいた理論ではなく 単なる妄想錯覚お伽話お花畑でしかありません



ヒトという種の生物には二面性があると述べましたが

人間性が失われてしまう原因は主観的感覚の強度程度の方を意識の本質だと錯覚していることが原因です

ヒトの意識の大半は無意識で その無意識の正体が主観的感覚としての先天的な行動習性バイアスによる気分や感情であり

こうした無意識性によって 自律的な論理客観性を簡単に喪失することで 人間性も同時に喪失することになるのです



頭の悪い奴は 「理性には利己的利益追求の側面があります」などと平気で言いだし あたかも理性こそが非人間性の根源であるかのように言い張りますが

それなら皆さんに問います 理性以外の先天的本能習性が促す欲望には利己的利益追求の側面が存在しないとでも言うのでしょうか?

そもそも 利己的利益追求性というのは 動物的な先天的欲望に基づくものであり 欲望が理性を利用しているから利己的利益追求になるのであって

理性が欲望を客観視出来ていれば 目先の利己的利益追求などという一面的「生存価」に有利な行動選択にはならないのです



ヒトは理性を悪者扱いしておいた方が満足出来るのです

物事を精密に論理検証するなどという 面倒臭い事は拒絶して 「感覚的無意識のままに直感的に人間性が発揮されるはずだ」とでも勝手に妄想錯覚しておいた方が気分が良いからです

哲学者の大半は 「理性や人知を超越した謎の英知」だとか 「世界は存在しない」などといったオカルト妄想に対して何の疑問も持ちません

論理科学的真理という「本当の事」など 存在しない方が気分が楽だからです

「気分が楽」なのは主観であり感覚であり 感覚が促す錯覚によって ヒトは真理を見失うのです

養老孟司のような詐欺師達は こうしたヒトの先天的欠陥を利用して人々を騙すわけです

「ハーメルンの笛吹き男」は 実話であり 再現可能なものなのです



意識そのものが なぜ存在しているのか それは進化の結果ですから謎ではありますが 結果的であれ主体的選択可能性を持っていることが事実であることとは関係がありません

例えば「地球が存在している事実」は「地球がどのようにして出来上がったのか」とは関係がないのと同じことです

「意識という主体的選択可能性がどうして存在しているのか」を探ろうとする探究心はあっても構いませんが それがわかろうがわかるまいが主体的選択可能性が実在していることとは関係がないのです

「地球がどのようにして出来上がったのか」がわからないからといって「地球など存在しない」ことの論証には全くならないでしょ

説明していてバカらしくなるわ



寝ている間や 気絶している間は意識がありません だから居眠り運転は危険なんですよ

それとも何ですか 自動車運転中の人を後ろからハンマーで殴って気絶させても「同じ人だから 結果は同じだ」とでも言うんですか?

キチンと目を醒まして 主体的に論理客観的に物事を判断していれば 詐欺に騙されることはありません

騙されるのは 生物学/医学的なレベルの意識がありながらも 人間としての論理客観的検証性が働いていないからです

ヒトは誰でも間違えるものです 完璧じゃありませんからね

でも 間違えたら原因を論理客観的に検証し 再発防止策を構築して初めて「教訓」として機能するようになるのであって

「間違えたのは 自分がバカだったからだ」と気分的にいくら落ち込んでも 具体的再発防止策には一切ならないのです

刑罰というものの無効性は 国家権力による罰という暴力威圧によって 気分的に後悔させているだけであって それは無意識レベルの精神論にしかならず 論理客観的な意識レベルの改善治療にはならないからです

どんなに罰を重くしても 犯罪は無くなりません それは構造原理的に犯罪というものの分析による 具体性のある論理的再発防止策ではないからです



詐欺師ペテン師の類は後を絶ちません 別に養老だけが詐欺師なのではなく 生物学者も哲学者もマスコミも同罪です 意図しようがしまいが 論理的に理解可能な話を面倒臭さがって拒絶しているのは雑な手抜きであって 無責任さの自覚がないからです

マイケル:サンデル ジャレド:ダイアモンド リチャード:ドーキンス マルクス:ガブリエル 養老孟司 西部邁

こいつら全員言っている内容に論理整合性がない詐欺師なんですよ それを「話題になっている」だとか「販売部数が多い」といった多数決だけで あたかも論理科学的に正しいかのように錯覚して垂れ流すマスコミも同罪ですよ

それとも何ですか 多数派なら責任が薄まるとでも思っているんでしょうかね

まるでサブプライム金融じゃないですか

そりゃ破綻するに決まってるでしょ



Ende;
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○面白くない話。

2019年03月23日 13時29分47秒 | 意識論関連
ヒトには本来客観的論理検証性があります

ネコは鏡に映る自分の姿を自分だと認識出来ません 論理的客観性がないからです

ネコの感覚的には事実を認識出来ずに 鏡の中の自分の姿に対して威嚇したり 裏に回って覗き込んだりすることをやめません

感覚が促す錯覚を 錯覚として認識する能力がないんですね

で ヒトの場合どうなのかというと 紙に印刷された錯視図形が動いて見えてしまっても 「これは紙に印刷されているものなので 実際には動いてなんかいないはずだ」という論理的客観性が働くことで 錯覚を錯覚として認識することが出来る

しかし どんなに論理的に構造を理解したとしても 感覚が促してくる錯覚自体はなくならないんですね

そして 錯覚というのは紙に印刷された図像に限らず 様々な場面で生ずるものでもあります



カルト教団に洗脳されている人を 外部から見ていると 「何であんなもんに騙されるんだろう」と不思議で仕方ありませんが

そう「思って」いる人でも振り込め詐欺師の電話で簡単に騙されることは少なくありません

「何であんな話を信じたんだろう」と後になって「思う」ことはあっても どういうメカニズム構造によって自分が信じこんでしまったのかという論理的原因を理解することはないんですね

どんなに強く「思って」も 単なる「思い」という感覚的程度強度は客観的論理検証性にはならないからです

だから何度でも騙されるし 他人の経験も自分の教訓には役立たない



ヒトが騙される最も根源的原因とは 主観的感覚が促す感情の強度程度を意識の本質だと錯覚しているため 論理的客観性が働かなくなるためです

自分の主観的感覚というものを 客観的に検証する理性を放棄してしまうため 錯覚を錯覚だと認識出来なくなる

特に 振り込め詐欺師の手口のように「今日中にナントカならないか」と焦らされると 理性をすっ飛ばして感情が行動と直結してしまう先天的習性があるため ヒトは振り込め詐欺に引っ掛かるような欠陥が先天的に組み込まれているわけです

本来働くはずの論理的客観性というものが 様々な要因によって阻害され 動物的な主観的感覚が促す錯覚を錯覚と認識することが出来なくなって 無意味で危険な行動も平気で行えるようになるわけです

振り込め詐欺師のように焦らされなくても その場限りに気分が良くなるように誘導されると養老孟司のオカルト話も簡単に鵜呑みにしてしまう習性が ヒトという種の生物には普遍的に存在しているのです



「意識の9割は無意識である」と言われますが この「9割」という数字に論理的根拠はなく 「まあ 大体そんくらいだろう」という感覚的な数値でしかありません

それこそカルト宗教に心酔しちまっているバカなら100%無意識なので 地下鉄に毒ガス散布することも平気になっちゃう

ISILを「カッコイイ」と心酔しちまえば 簡単にISILに同調迎合するようにもなる

それはヤクザや暴力団も一緒です ヤクザを「カッコイイ」と思う人って結構多いために 都合の良い任侠映画が未だに制作されていたりします

ヤクザはそんなに都合良く社会的に役に立つような行動なんぞしませんが 主観的感覚としての「カッコイイ」対象としての身勝手な任侠妄想で脳が酔うのでしょう

フリードリヒ:ニーチェを読んで倫理だと勘違いしているバカ哲学者も多いんですが これもまた「カッコイイ」という主観的感覚が促す錯覚によって無意味な内容であるにも関わらず錯覚を錯覚だと認識出来ていないためです

ハイデガーもプラトンも意味がありません

哲学として意味があるのはカール:ライムンド:ポパーくらいしかないんですよ

そりゃ主観的感覚としては「面白く」はないでしょうよ でもね その「面白く」ないというのは国会原発事故調査委員会報告書読んだって一緒なんですよ

社会安全性に必要なのは 自律的な社会的責任判断力であって それが「面白く」ないかどうか「カッコイイ」かどうかという主観的感覚で無視して良い話にはならんでしょ

もうね 本当ね 説明していてバカらしくなってくるわ

「お前ら 死んだ方が良いんじゃねぇのか?」って 主観的感覚としては「思う」けどな





 >*:任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけ ず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。 現代的にはヤクザと重複する面もあるが 依拠する信念を違える。

-Wikipediaより


Ende;
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○精神論。

2019年03月23日 12時32分56秒 | 意識論関連
「感覚」とは主観です

でも 感覚が促す錯覚を 錯覚であると認識出来るのは 主観の中に論理客観的検証性(理性)があるためです

人間としての意識が働くためには感覚が促す錯覚に惑わされない理性が常に必要となるのです



目先の感情が促す行動バイアスに無意識に流されていれば「深夜の渋谷で軽トラ転覆させて笑う」などという意味のない行動を採るようにもなるわけです

「私はそんなことしない」と「思って」いるかもしれませんけど

「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」だとか「理性や人知を超越した英知」だとか「客観的事実は存在しない」などという実証不能の観念を鵜呑みにしていることも 程度の違いはあれ「無意味な話で満足している」ことに違いはありません

「五十歩 百歩」ってことです

養老孟司も含めて オカルトは枚挙にいとまがありません この世の全てのオカルトを私一人で解説することなんて出来ないんですよ わたしゃお釈迦様でもキリスト様でもムハンマド様でもないですから

養老って努力辛抱根性的な「精神論」主義者なんですよ 忘れたんですかね バカはすぐ忘れるので嫌いです

日大アメフト部による反則行為も 精神論に基づいた封建的統率が招いた暴走であって 自律的に物事を考えるという主体性を徹底排除した結果です

精神論が中心となる典型が軍隊です

軍隊というのは個々の兵隊が自律的に判断選択なんぞしていたら統率がとれませんから 上官の命令に一括して従うように精神論的に統率をするように厳しい訓練をするのです

厳しい訓練なんぞ 実際にはどんなに身体を鍛えたところで鉄砲玉一発でヒトなんか死ぬんですから 戦闘において意味なんかほとんどないんですね

それじゃ何で厳しい訓練をするのかというと それによって自主性とか自律的判断力を喪失させることによって 盲目的な統率服従性を発揮させるためなんです

ポーランド騎兵隊が勇敢にナチス機械化部隊に立ち向かったという武勇伝がありますが 実質的な結果は惨敗でした

日本軍によるインパール作戦も同じです 意味はない

それが精神論というものの正体です

広告代理の電通による「鬼十則」なんかも同じで 故に自殺者まで出すことになる

JR福知山線脱線事故の原因も 会社による高圧的な「教育」による恐怖心が招いたものであることが 被害者遺族達による検証によって明らかにされています

養老の言っていることを鵜呑みにするということが どれだけ社会的に無責任なのかを認識せず

目先の主観的感覚に頼り 「錯覚を錯覚だと認識する主体的理性の方が錯覚だ」などという訳の解らぬオカルト話に同調することで 社会安全性を蔑ろにしていることになるのです

私から見れば共犯者でしかありません



Ende;
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○洗脳されている当人は気分が良い。

2019年03月23日 10時28分40秒 | 意識論関連
自律的な社会安全性を求めるためには 自分だけではなく他人の事にも配慮が必要で「近所で子供が丸焦げにされていたら無間地獄だ」というのも「感覚」ではありますが 社会全体にも配慮が働くためには論理検証性による客観的視点が必要不可欠なものであって ただ漫然と「感覚」だけを頼りにしていても社会安全性への配慮は働かないんですよ

意識狭窄による目先の自己中心的な価値観というのが動物的「感覚」なのであって

人間性を伴う「感覚」が働くためには 目先の動物的「感覚」に左右されない理性 統合性や客観性が必要不可欠なんです

それを養老孟司は「感覚(身体性や動物性)こそが人間性だ」みたいなはぐらかし方をすることで あたかも今まで言ってきたことまでもが正しいかのようにごまかしているんですよ

論理検証の苦手な文科系の大衆やマスコミの大半は 養老の嘘に気付かない

なんつっても「理性や人知を超越した英知」だとか「世界は存在しない」だとか「時間は無限に分割すれば無くなる」などというオカルト話を鵜呑みにしているんですから

養老が言った「客観的事実などない」という非科学的オカルト観念も鵜呑みに出来るんでしょうよ

そういうのを「バカ」って言うんですよ



養老は著作の中で「安心して同じを求めれば良い」と述べました その結果 民族主義によるヘイトスピーチが増えたでしょ

ヒトの先天的な同調性とか迎合性によって 同質性ばかりを気分的安心を基準に求めた結果じゃないですか

何で養老みたいなオカルト爺の言うことを鵜呑みにするかと言えば

原因もわかってます

「気分が良い」からですよ

頭が良くなるためには 自分の頭のどこが どのように悪いのかを論理的に認識する必要があります

感覚が促してくる錯覚を 論理的に錯覚だと認識することで 本来ヒトが持っているはずの客観的論理検証性が働き 感覚が促す錯覚に惑わされなくなるのです

ところが 「ヒトには先天的に人間性を発揮出来る感覚が存在する」的なことを言われることで 自分の頭の悪さは「なかったこと」に出来るんですよ

だから「気分が良い」

洗脳っていうのは 洗脳されている本人は「気分が良い」から洗脳されるんですよ

バカ相手に「お前バカだろ」と言っても バカ当人はバカなので頭の悪さを認識しようとはしないもんだから 洗脳っていうのは解くのが難しいんですよ



Ende;
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○満月。

2019年03月22日 14時00分22秒 | 写真








川口って遠くから見ている分には綺麗

撮影した3月21日(春分の日)は暴風が吹き荒れて大変だった

荒川堤防の上を自転車で走るこたできなかったよ



 ◇追記:

3月21日の月の出が18:07 出た時の月齢は14.7

オイラてっきり満月なら日没と同時に出てくるもんだと思ってたんだけど

調べたらこの日の日没は17:53だった

その差14分



2019/02/19だと月の出が16:57 月齢14.2 日没が17:56 59分前に出てた

2019/01/20 の月の出は15:53 月齢14.1 日没が16時55分 62分前

過去の話しても仕方ないのでこれからの話をしましょう

2019/04/20 月の出が19:10 月齢15.1 日没18:18 52分も前に日没になるので 前日の方が狙い目かも
2019/04/19 月の出が18:02 月齢14.0 日没18:17 日没15分前に月が出る 1日で62分遅れて出る

2019/05/19 月の出が19:03 月齢14.5 日没18:42 日没から16分後に月が出る

2019/06/18 月の出が19:48 月齢15.0 日没18:59 日没から49分後に月の出 ちょっと深いので前日だと
2019/06/17 月の出が18:53 月齢14.0 日没18:59 日没6分前に月の出 あれ 前日より55分遅れだね

2019/07/17 月の出が19:20 月齢14.6 日没18:57 日没から23分後に月の出

2019/08/15 月の出が18:37 月齢14.3 日没18:31 日没から6分後に月の出

2019/09/14 月の出が18:13 月齢14.9 日没17:51 日没から22分後に月の出

2019/10/13 月の出が17:12 月齢14.6 日没17:09 日没から3分後

2019/11/11 月の出が16:11 月齢14.1 日没16:38 日没27分前

2019/12/11 月の出が15:52 月齢14.7 日没16:28 日没の36分前



月齢っていうのは月の出と日没の時間差には関係がないのね

月ってそんなに精度良く回っているわけではないらしいので その都度国立天文台 暦計算室で調べた方が良いみたい

あ それから数値についてはオイラの手作業調べなので 間違ってるかも知れないので悪しからず



Ende;
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○共犯者にならないために必要なこと。

2019年03月22日 12時08分51秒 | 意識論関連
ヒトという種の生物は「自分が先天的に優秀で何も考えなくとも自動的に倫理や人間性が発揮されるはずだ」という感覚が促す錯覚に溺れていた方が「幸福」なんですね

ヒトが洗脳されて盲目になるメカニズム構造の最も基本的な部分がこれです

松沢哲郎が言い出した「先天的本能習性から人間としての社会性が立証できるかもしれない」などという 論理的に立証不可能な話を大衆マスコミが鵜呑みにしたのも 正常性バイアスが促す錯覚を正当化出来るからです

養老孟司による「身体性万能論」も 松沢同様に「先天的に倫理が組み込まれている」という妄想錯覚に基づいた話であり 到底科学的客観性を伴う話ではありません



ヒトは何も考えずにバカでいた方が「幸福」なんです

カルト宗教に心酔してしまえば 地下鉄に毒ガスを散布してくることの方が安心で幸福になる

振り込め詐欺に焦らされれば 金を振り込むことこそが安心で幸福になる

「自分だけは絶対に大丈夫だ」というのは理性ではなく それこそが「感覚」が促す錯覚でしょ

ところが どんなに論理的に説明しても 多くの大衆は感覚的に拒絶し 理解しようとしないんですね

「自分だけは絶対に大丈夫だ」と盲目的に信じ込んで 安心して満足して幸福でいられる

養老による「身体万能論」というのは こうした正常性バイアスを利用した詐欺でしかありません

理性や主体性や意識というものを無効だと言い張り 身体性が促す「感覚」の方にこそ倫理や人間性が存在するとでも「思って」いた方が脳が楽なんでしょうな



振り込め詐欺に騙されて 銀行で振り込もうとしている人に対して「それは詐欺ではないんですか?」と忠告すると 感情的になって反射的に否定するそうです

主観的「感覚」が促す行動こそが正しいと「思って」いるからでしょう

主観的な「感覚」というのは 動物的なバイアスですから 進化の過程で非常時には優先される個体が結果的に生き残ったと言えます

恐怖心を煽られることで 論理的客観性を一時停止させ とにかく「これさえやれば解決だ」という短絡安易な解決策だけに意識を奪われることで 詐欺に騙されるようにもなる

「主観的感覚には先天的に欠陥がある」と言われると おそらくヒトの多くは恐怖心を抱いて観念的拒絶反応を示すことになるのでしょう

それは詐欺に騙されている最中の人が「それは詐欺ではないんですか?」と言われた時の拒絶反応と構造的に同じものです



洗脳というのは 洗脳されていない他人から見れば恐怖を感じるものですが 洗脳されている当人的にはむしろ安心であり幸福なんですね

よくよく冷静に「考え」れば 論理的に何が正しいのかは理解可能なはずなんですが

ヒトという種の生物は どうしても「思い」という感覚的な強度程度こそが意識の本質だと錯覚する



一つ前の記事でも言いましたけど 錯覚って感覚が促すものであって 錯覚を錯覚だと認識するのは理性です



脳には様々な錯覚があることが知られています

脳も含めて遺伝的進化の過程で 過酷な自然環境下では錯覚があった方が生存に有利だったため残されたものだと言えます



AI界隈で言う「蒸留」という概念があり 回路を単純化することで高速効率化が図れることを指すそうです

脳内で特定可能な領野としてマッピングされている機能は 非常に高速で効率的に働きます

歩行機能や発話言語機能といったものは 「どの筋肉をどのくらい動かせば良いのか」をいちいち意識的に考えなくても自動的無意識に出来るようにしているのです

歩行機能が無意識に出来るので「歩きスマホ」も出来るんですね

脚をどのように動かせば歩けるのかなんて一切考えずに 無意識条件反射的に歩くことが出来るので 歩きながらスマホに熱中することも出来る

そして 歩きスマホは感覚的に「怖くない」からみんなやらかす

かく言う私だって 「スマホ操作しながら歩いてはいけない」と意識的に考えなければ「うっかり」とか「無意識に」スマホ歩きをしてしまうことはあります

「お前スマホ持ってねぇじゃねぇか」というツッコミがありそうですが 逆に持ってないが故に慣れてなくて 他人から借りたりするとウッカリそのまま歩き出してしまって叱られたりする

ヒトって意識的に考えながら行動選択しないと 危険なことも平気でウッカリ無意識にやらかしてしまう

感覚的に怖くないからといっても 実際に事故が多数報告されていて危険だと「理解」していながら 寝起きでボーッとしていたりすると「ウッカリ」「無意識に」間違った行動をしてしまう

それがヒトなんですよ

ヒトの多くが無意識条件反射的 「感覚」的に行動している事実を多数抽出してきても それが短絡的に「正しい行動」であることの論証になんかなりません

そのための「意識」なんですよ

感覚的な無意識条件反射行動は「結果」です スマホ歩きで視覚障害者を駅のプラットホームから突き落としてしまうのは 意識的な「目的」ではないでしょ

「結果」を多数抽出したからといって それがどうして短絡的に「目的」であるかのように解釈するんですか?

おかしいでしょ

自覚ないですか?

もうちょっと深く「考え」て下さいよ

論理的に「考え」ていないから養老だの松沢だの西部だのといった奴らに丸め込まれて騙されてしまうんですから



Ende;
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○感覚。

2019年03月22日 11時05分36秒 | 意識論関連
「先天的本能習性から人間としての社会性が立証できるかもしれない」とか

「理性や人知を超越した叡智」などという どうにも訳のわからぬ話を多くの大衆や学術研究者は鵜呑みにしたがる



「叡智」でググると

【英知/叡智/叡知】とは。意味や解説、類語。

1 すぐれた知恵。深く物事の道理に通じる才知。

2 哲学 で、物事の真実在の理性的、悟性的認識。また、それを獲得しうる力。ソフィア。


-goo辞書より


というのが出てくる

本来哲学的には「物事の真実在の理性的認識」なはずなのに 「理性を超越した叡智」などという訳のわからぬ謎の能力が哲学界ではまかり通ってしまう

「頭おかしい」としか言いようがないんだけど そういう「理性を超越」したオカルト観念の方がヒトという種の生物の脳には親和性が高いらしい



ヒトという種の生物は 主観的「感覚」として安心満足できることを論理客観的安全性の論証か何かと錯覚する習性がある

哲学というのは本来妖怪悪霊の類を信じ込んでしまう危険性を回避するために 論理的真理を追求する分野のはずなのに

現状は実質的に妖怪悪霊レベルの妄想観念を鵜呑みにして 訳のわからぬ話を平気で展開する



例えば 東電社内で組織の利益を優先し「原発の津波に対する脆弱性を放置しなさい」と言われた場合 組織に迎合同調して原発の危険性を放置しておいた方が安定した生活が送れると判断選択することは「理性」なのか?

ヒトの多く 大衆の多くは「利己的利益追求の全ては理性」であるという解釈をしているが これがそもそも大間違いなのである

利己的利益追求というのは 動物的「感覚」に基づく欲望に基づいたものであり 個人的に「楽」を求めているのである

しかし 理性や悟性の本質というのは動物的な「感覚」に頼らず 単なる目先の主観的な「楽」に流されず 客観的な視点から判断選択をすることであり

目先の「生存にとって有利」な行動よりも 「自分がこれからも生き続けるに価する社会とはどのようなものであるのか」という統合的な視点から社会安全性を優先する行動選択をすることが 理性の本質である

社会を危険にさらしてまで自分が生き続けることに意味がわからない だから社会安全性を自発的 自律的に求めるようになる

こうした責任判断力というのは 自発性がなければ働くことはない

どんなに数学の成績が良くても 論理検証能力テストの点数が高くても 与えられた命題以外を自発的に検証するわけではなく

理性や悟性というものは その根本に自発性がないことには発揮されることはない



日本人に限らず ヒトというのは多数他者との同調迎合性があり 多数他者によって認証された「権威」という服従対象への盲目的信頼をすることが「感覚」的に安心であるため

ヒトの大多数は権威の言っている内容を精密に論理検証することをしなくなる



同時に 先天的な正常性バイアスによって 「自分には先天的に倫理性が組み込まれていて 自動的に常に人間性が発揮されるはずだ」という身勝手な妄想に溺れることによって 「理性や人知を超越した叡智」などという実証不能の謎の能力を鵜呑みにするようにもなるのである

それで「自分だけは絶対に大丈夫だ」と盲目的に信じ込むことで 気分「感覚」的に安心満足する

冒頭でググったように 叡智というのは本来理性に基づく真理追求性であり それによって妖怪悪霊といったオカルト観念に騙されないようにすることで 社会安全性において重要だから社会的存在価値があるわけで

なのに どうして「感覚」の方に倫理(人間性)が存在することになっちゃうんでしょうか



子供は妖怪悪霊の類を信じます

それは脳が幼稚だからです

感覚的に「怖い」ことを 短絡的に危険性か何かだという錯覚があるためです

多数派や 多数派によって承認された「権威」の言っていることの方を 誰も論理的に検証することなく鵜呑みにできるのは それが主観的「感覚」として「怖くない」からでしょう

「自分は先天的に優秀なので 感覚的に安心できることは常に正しい」と「思って」いるからでしょう

そもそも錯覚というのは 感覚が促すものであって 理性が促すものではありません

もう 説明するのがアホらしくなる程単純な話なんですけど どうして誰も気付かないんでしょうね



Ende;
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