トロッコ問題には倫理の本質がありません
一人殺すか 五人殺すか どちらかを選ぶことに倫理的正解はないからです
トロッコ問題っていうのは制限だらけで「誰かが死ぬ」以外に一切の選択肢がありませんから どちらを選んでも「人間として正しい選択」の論証にはなりません
ただ 気分的に「悩ましい」話なだけであって そもそも論理的には「考え」ようもない話なんですが ヒトの多くは答えのない話で気分的で「悩む」と「考えた」かのような錯覚に陥り 命題そのものに論理的答えが存在していないことには意識が働かなくなる性質があるのです
これ 一種の錯覚なんですよ
バスケットボールのパスをやっている映像で「黒いユニホームを着た人が 何回パスをしたのか数えて下さい」って言われた状態で見ていると 映像の中に黒い熊の着ぐるみを着た人が写っていても気が付かなくなるのと同じようなものです
予め何も言われない状態で映像を見ていれば 「あれ? 熊の着ぐるみが入ってきたぞ」って誰もが気づくんですが 「パスの回数を数えて下さい」って言われるとそれが見えなくなる
トロッコ問題のように「誰かが否応なく死ぬ」状況にまで至ってしまえば もはや選択に倫理や人間性が介在する余地はありません
「誰かが否応なく死ぬ」ような状況が予測可能であったのか
予測不能なら 経験的教訓として再発防止策を構築するべきであり
予測可能だった場合は「なぜ放置したのか」において人間性や倫理が問われることになるのであって
既に「誰かが死ぬ」状況にまで陥ってからの選択には人間性や倫理が介在する余地などないのです
何年も前から言っているんですけどね
未だに誰も耳を貸さないんですね
そういうデクノボウの集まりなんですよ 現状の哲学界ってのは
だからマルクス:ガブリエルみたいなオカルトも平気で人気になったりするし
「理性や人知を超越した叡智」なんてファンタジーが本気で論じられてしまう
「哲学権威の言うことなら正しいはずだ」という思い込みがあるから 誰も疑問を持たなくなる
権威に対する盲目性というのは ヒトという種の生物の先天的な社会形成習性が促すものであり 洗脳に利用することが可能なのです
唯々諾々と権威に服従する習性があるから ヒトは戦争なんていうバカみたいな事も延々と繰り返すんですよ
もう説明すんのもバカらしいんですけどね
Ende;
一人殺すか 五人殺すか どちらかを選ぶことに倫理的正解はないからです
トロッコ問題っていうのは制限だらけで「誰かが死ぬ」以外に一切の選択肢がありませんから どちらを選んでも「人間として正しい選択」の論証にはなりません
ただ 気分的に「悩ましい」話なだけであって そもそも論理的には「考え」ようもない話なんですが ヒトの多くは答えのない話で気分的で「悩む」と「考えた」かのような錯覚に陥り 命題そのものに論理的答えが存在していないことには意識が働かなくなる性質があるのです
これ 一種の錯覚なんですよ
バスケットボールのパスをやっている映像で「黒いユニホームを着た人が 何回パスをしたのか数えて下さい」って言われた状態で見ていると 映像の中に黒い熊の着ぐるみを着た人が写っていても気が付かなくなるのと同じようなものです
予め何も言われない状態で映像を見ていれば 「あれ? 熊の着ぐるみが入ってきたぞ」って誰もが気づくんですが 「パスの回数を数えて下さい」って言われるとそれが見えなくなる
トロッコ問題のように「誰かが否応なく死ぬ」状況にまで至ってしまえば もはや選択に倫理や人間性が介在する余地はありません
「誰かが否応なく死ぬ」ような状況が予測可能であったのか
予測不能なら 経験的教訓として再発防止策を構築するべきであり
予測可能だった場合は「なぜ放置したのか」において人間性や倫理が問われることになるのであって
既に「誰かが死ぬ」状況にまで陥ってからの選択には人間性や倫理が介在する余地などないのです
何年も前から言っているんですけどね
未だに誰も耳を貸さないんですね
そういうデクノボウの集まりなんですよ 現状の哲学界ってのは
だからマルクス:ガブリエルみたいなオカルトも平気で人気になったりするし
「理性や人知を超越した叡智」なんてファンタジーが本気で論じられてしまう
「哲学権威の言うことなら正しいはずだ」という思い込みがあるから 誰も疑問を持たなくなる
権威に対する盲目性というのは ヒトという種の生物の先天的な社会形成習性が促すものであり 洗脳に利用することが可能なのです
唯々諾々と権威に服従する習性があるから ヒトは戦争なんていうバカみたいな事も延々と繰り返すんですよ
もう説明すんのもバカらしいんですけどね
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